伶奈の海(11)

 凪歩から借りたラッシュガードは無骨なデザインだけど、黒地にピンク色のジッパーが映える辺りは女性向けって感じがしてなかなか素敵。もっとも、凪歩が――
「小学生の時に着てた奴なんだよねぇ〜」
 って、楽しそうに言ってるのは聞こえないふり。
「まあ、凪歩は小さい頃から大きかったらしいわよ……誰かは小さい頃から小さかったらしいけど」
 って、頭の上から降ってくる声も聞こえないふり。
「……成長期だもん……」
 と、呟いた伶奈、彼女の三日目の海は二日目以上に本格的な『マリンスポーツの日』といった趣だった。
 ここの海は遠浅だから、結構沖まで行かないと泳げるほどの水深にはならない。なので、昨日は腰くらいの深さの辺りで妥協して水遊びをしたり、例の『浮き輪に捕まって引っ張って貰う』遊びをしたりしていた。しかし、今日はそこからさらに沖にまで足を伸ばして、本格的に泳ごうという話になった。
 その音頭を取ったのは、両親からして海が大好きという時任凪歩女史。
 伶奈が借りたのとよく似たデザインのラッシュガード、その下にはお尻までしっかり覆うボトムとカップの大きなトップ、ビキニと言うよりもセパレート型と呼んだ方が良さそうなスポーティな水着。水中眼鏡とシュノーケルをぶら下げた格好も板についていて、ちょっと格好いい。まあ、眼鏡を外したおかげでただでさえきつめのきつね目が、ほとんど睨んでるような感じになってるのは玉に瑕だが……
「うちの親、子供に水関係の名前をつけるくらい海が好きなんだよねぇ〜」
 凪歩が楽しそうな笑顔でそう言うと、伶奈は顔を上げて尋ねた。
「灯センセも?」
「灯はね、灯台の“灯”の字なんだってさ」
「ああ……なるほど……」
「四人目ともなると、大分、ネタ切れ感が出てくるわね」
「……――ってアルトが言ってる。後でひねっておくね」
「いいよ、付けた側も付けられた側もネタ切れって言うのは認めてるから」
 頭の上にアルトを乗せた凪歩と伶奈、それに翼と由美子を合わせた四人は波打ち際から沖合へと歩いていた。
 上から注ぐまぶしい太陽と波のきらきらとした照り返し。人混みと寄せては返す波をかき分けて、沖合まで進めば、波は伶奈の低い胸元辺りにまで達し始める。
 鼻先に掛かる波が匂い際立って、油断すると流されそう。
 そこまで来たら水中眼鏡とシュノーケルを装備。凪歩に教わったとおり、顔を付ければ、足下まではっきり見える澄んだ海水とその足下を埋める白い砂。所々に生えた海藻が気持ちよさそうに波に揺らぎ、その中を小魚が走って伶奈の足の間を抜けていくのが見えた。
 手を伸ばせば魚が捕まえられそう……
 思って手を出せばずぼっ! と顔がシュノーケルの長さよりも深いところに入って――
「げほっ! ごほっ!!」
 シュノーケルの中を逆流してくる冷たい海水、一気に気管にまで入って、そりゃもう大騒ぎ。
「あはは」
 と、気楽に笑う声が二つにじーっと無言のままで見つめる視線が一つ。
 ひとしきりむせてようやく一段落。赤くなった顔と垂れたよだれをごまかすようにザブザブと海水で顔を上げれば、覗き込んできたのはこれまた水も滴る良い女、な妖精さん。
 天地逆さまの顔から濡れた髪が垂れ落ちて、ぽたぽたと海水が滴っていた。
「……どうしたの?」
「……貴女の頭の上から水面を覗き込んでたら、逃げる間もなく海の中に引きずり込まれたのよ……」
 冷たい視線と硬い表情から発せられた答えは、半ば予想されていた物。
「…………」
 互いの顔を見合う数秒……
「謝りなさいよ……」
 妖精がぶすっとした顔で呟いた瞬間、それはまさに伶奈が
(謝った方が良いかな?)
 と思った瞬間でもあった。
 と、後に語っている。
 そして、彼女は
「解った……」
 そう呟いたら、鼻をつまんで、目を閉じて、「ごめんなさい」と鼻声で言ったら――
 ――力一杯頭を下げた。
 ざぶ〜ん!
 心地よい音がしたかと思えば、伶奈の顔はアルトもろとも海水の中。
「あががが!!」
 悲痛な悲鳴と頭の上で暴れる感覚が気持ちいい。
 息が切れるまでその格好でいたら、勢いよく顔を上げる。すると、血相を変えたアルトが大声で伶奈を怒鳴りつけてきた。
「何するのよ!?」
「謝れって言ったから、謝っただけだもん」
 キレ方もおおむね想定の範囲内。つーんとそっぽを向いて知らん顔。
 そんな伶奈の頭の上でアルトがぽつり……
「……ジャリ」
「ジャリじゃないもん!」
 言って頭の上へと手をやれば、そこはすでにもぬけのから。
 ふわりと宙へと舞い上がった妖精は、真っ青な空に金色の髪と半透明な羽をきらきら輝かせながら、伶奈を見下ろしていた。その勝ち誇ったような嘲笑の笑みがむかつくったらありゃしない。
 そのむかつく妖精が伶奈を見下ろして言う。
「人としての器が小さいから、それにあわせて背も小さいのよ!」
 あっかんべーをする妖精に手を伸ばしてみても、胸元ちょい上まで水に浸かった少女ではとてもではないが届かない。その小さな手はむなしく宙をかき、水面を叩くばかり。
「言ったね!? ちょっと下りて――いたっ!?」
 ぱん!
 小気味いい音が伶奈の後頭部で弾けた。
 振り向き見れば、母が伶奈の頭に張り手を一発。
「……こんな所で体裁の悪い喧嘩しないで……端から見ると、本当に痛々しいんだから……」
「だっ、だってぇ……聞いてよ」
 と、かくかくしかじかと事の成り行きを語って聞かせれば、聞いていた母を含めて三人共が、苦笑いと共に声をそろえて言った。
「伶奈が悪い」
 と……

 そんな感じで始まった三日目後半。
 若干ふくれっ面ではあったが、遊んでいればそれもすぐに忘却の彼方。
「根が単純なんだから……」
 とは、事の顛末に溜飲を下げてる妖精さん。むかつくがせっかく良い気分で泳いでるんだから、ひとまず無視。後で、ひねる。
「ふん!」
 そんな言葉だけを残して、ザブン! 水中眼鏡とシュノーケルを付けての潜水は結構深いところにまで行って、母を驚かせたり、足下を泳ぐ魚を追いかけてみたりと、楽しいひととき。
 凪歩にあれやこれやとアドバイスして貰ったおかげで、まだまだ、足のつかないところは怖いが、それでも息が切れるまでのひとときを優雅に海中で楽しむ事くらいは出来るようになっていた。
 そんな時間が一時間半ほど……
 数回目の潜水を終えて顔を水面に顔を出す。
 額に張り付くすだれの前髪を整えて、辺りをきょろり。
 すぐ近くには御付き代わりの凪歩の姿。長いポニーテールを鬱陶しそうに束ね直しているのが見えた。
 それから、少し離れたところには、浮き輪にお尻を突っ込んで優雅に浮かんでる我が母とその母の傍でこれまた浮き輪に捕まってぼんやりしている翼の二人。
 二人の方へと近づくと、最初に気づいた母がひらひらと軽く手を振って二人を出迎えた。
「お帰りなさい。子守させちゃって、ごめんなさいね、時任さん」
「ああ、気にしないでよ〜私、上も下も男だから、こう言う妹が欲しかったんですよ」
「そうですか? おかげで私ものんびり出来て……」
「お母さん……休みの日はいつものんびりじゃん……」
 凪歩と由美子との会話に伶奈が茶々を入れると、母が浮き輪の上から体を起こして少しだけ頬を膨らませる。
「ちゃんと家事はしてるわよ! 最近、口が立つようになってきたんだから……」
 そして、「あはは」と明るい笑い声が真っ青な空へと消えていく。
 ……と
「あっ……」
 小さな声を伶奈が上げた。
 下腹部に感じる小さな焦燥……有り体に言えば尿意。
「……おトイレ……」
「さっき、行ったんじゃないの?」
 母にそう聞かれる物の、真相のほどは
「トイレまでは行ったけどしてないものね?」
 頭の上でアルトがうそぶくとおり。
「その辺でしちゃえば?」
 なんて言うアルトの提案はもちろん却下。恥ずかしい。
「冷やしたかな? 付き合うよ」
「それじゃ……少し、休む? 私も、少し……体が冷えた、と、思う……」
 凪歩の言葉に翼も捕まっていた浮き輪から下りて提案すれば、特に異論が出ることもなく、そのまま、休憩。
 人混みの波打ち際へと戻り、その中を通り過ぎれば、やっと砂浜。灼熱の太陽に熱せられた砂浜が冷えた足の裏に心地いい……を通り過ごしてかなり熱い。
「あっつ〜マリンシューズ持って来たら良かった〜」
 凪歩は悔やんでるようだが時すでにおそし。熱い砂浜の上をペタペタと早足で歩いて、母と翼はそのまま、海の家へ……凪歩と伶奈、それからついでに妖精さんはお手洗い。
「アルトもするの?」
「しないわよ」
 入り口傍にアルトを待たせて、トイレの中へ……全裸になってのお手洗いという幼稚園の頃にもした記憶のないような真似に居心地の悪さを感じつつも、出す物出してすっきりさわやか。
 ほぼ同時に出てきた凪歩と合流すれば、頭の上にもどこからともなく妖精が帰ってくる。
「海の家で熱いコーヒーでも飲みたいところね。ホットをブラックのままでぎゅーっと」
「……――ってアルトは言ってるけど、私はココアがいい……」
「じゃあ、私がホットコーヒーにしようかなぁ……」
 アルトが伶奈の頭の上で楽しそうにしゃべり、その言葉を伶奈が通訳、それに凪歩がぼんやりと答える……平和そうな三人組が人混みの中を縫うように歩いていた。
 そんな中、残り二人が待ってる海の家まで後百メートルと言った地点。
「ん?」
 不意に凪歩が立ち止まり、首を後ろへとひねる。
 それに釣られて伶奈も足を止めて、後ろを振り向けば――
「まま!」
 と言って、ジッパーを下ろした凪歩のラッシュガード、その裾を強く握りしめる少女が一人。
「いつ生んだのかしら? 隅に置けないわねぇ〜」
 思考の固まる二人を置いてけぼりにアルトが脳天気な声でうそぶく。
 喧噪の向こう側、遠くから聞こえる潮騒の音がやけにクリアーに聞こえた。
 寄せては返す波の音……それがだいたい五回分くらい。
 花柄模様の可愛いワンピース、学校指定の地味なフリルワンピースを着ている身からするとちょっぴり負けた気分。くりくりお目々と少し赤いけどさらさらストレートな髪が愛らしい少女(たぶん、小学校前半)がぽつりと言った。
「……じゃない」
「うん……違うよ」
 凪歩が素直に応えた。
 再び訪れる沈黙。
 波の音がまた聞こえた。
 そして、少女は叫んだ。
「まま、どこーーーーーーーーーーーーーーーーー!!?? ままーーーーーーーーーーー!!!!!」
 涙声混じりの大絶叫、わらわらと集まる野次馬達。ぐるっと三人を取り囲むほどの野次馬なら、中に少女の両親がいても不思議じゃなさそうなのに、どうも、名乗り出る人はいない様子。
 その中、ぼそぼそと聞こえてくるささやき声には――
「警察……呼ぶ?」
 なんていう剣呑な声もあったりするから、のんきにしていられない。なお、少女がラッシュガードを握りしめて放そうとしないので、この場を立ち去ることも出来ないのが辛い。
 凪歩は長い脚を折り曲げて高いところにある視線を少女のそれへと合わせる。
「ちょっと待って! 泣かないで! ねっ? ねっ? お母さんって、どんな人? お姉ちゃんと似てる?」
 少し早口、強めの口調。その勢いに気圧されたのか、それとも凪歩の人柄を察したのか……未だスンスンと鼻をすすり上げては居る物の、少女は大声で泣くのを止めた。
 そして、ラッシュガードの裾を握りしめる右手はそのままに左手をすっと挙げる。
 向かう先を目で追えばそこには凪歩の頭。そこから伶奈が少女の方へと視線を戻すと、少女は少々涙声ではあるがはっきりとした口調で言った。
「お馬さんの尻尾……」
「ポニーテール?」
「お馬さんの尻尾……」
 伶奈が尋ねると少女は左右に軽く首を振って答えた。しかし、少女の指はどう見ても凪歩の頭、濡れて揺れるポニーテールを指し示している……
 その指の先を軽く一瞥、再び、少女の顔を見つめて伶奈は言う。
「だから、髪型だよね? それ、ポニーテールって言うんだよ?」
 伶奈が改めそう言えば、凪歩のラッシュガードを握りしめた少女はビクン! と身体を振るわせ、凪歩の背後へと回った。しゃがんでも高い凪歩の背後に小柄な少女はすっぽり。
「…………」
「……伶奈、顔が貴女と初めて会った時の翼みたいになってるわよ……」
 頭の上、顔を覗き込んだ妖精にそう言われると、伶奈はぷいっとそっぽを向いて少女から視線を切った。
「まあまあ……――それで……お母さんとはぐれちゃったかな? それじゃ、お姉ちゃん達が迷子センターに連れて行ってあげるから……ね?」
 背後で凪歩の優しげな声が聞こえる。
「……ジャリ」
「……ふんっ!」
 頭の上から降ってくる言葉は黙殺、反応したらジャリであることを認めるような物。
「それじゃ、伶奈ちゃん、私、この子、センターに連れて行くから……」
 頭の後ろに凪歩の声を聞けば、プーッとほっぺが膨れ……――
「あれ?」
 伶奈が小さな声で呟くと、口にたまっていた空気も抜けて、膨らんでいたほっぺもすっきり元通り。
「どうしたの?」
 尋ねたのは凪歩。
「あのポニーテールの女の人……」
 伶奈の視線の先にはそれぞに海を楽しむ人混み……と、そんな中、辺りをきょろきょろ、不安げに見渡す一人の女性。人混みを隔てた向こうがだというのに、はっきりとした焦燥感が感じ取れるほど。
「まま!」
「ホントに? また、ポニテで見分けてるだけじゃないのかしら?」
 呆れ口調のアルトをよそに、少女がもう一度、ひときわ大きな声で呼ぶ。
「まま!!!」
 その声が女性に届いたのだろう、彼女は伶奈達の方へと向き直ると、遠目でも解るほどにパッとその表情を明るくした。ぱたぱたと駆け出すポニーテールの女性、慌てたせいだろうか? 砂地にビーチサンダルを取られて数歩よろめき、危うく転びそうになりながらも、彼女はこちらへと駆けつけてきた。
「春菜! あんたって子は!」
「ごっ……ごめんなさい……」
 母が一声怒鳴れば、少女はギュッと身を縮こまらせる。そして、母はため息交じりに
「こっち、いらっしゃい……もう、怒らないから……」
 言って、手を差し出した。
「……うん」
 答えて少女が母の元へと駆け寄れば、少女の小柄な体が年若い母の腕へと抱かれた。
 そして、ビキニの女性が凪歩の顔を見れば、どうやらすべてを察したらしい。もう一度、大きめのため息をついたら、ぺこりと深々頭を下げる。
 どうやら、この少女――春菜ちゃんは母を見失うとポニーテールだったりロングヘアーだったりする女性を追いかけて行ってしまうらしい。
「本当に、そのうち、怖い目に遭うわよ……」
「うん……」
「ほら、お礼を……」
「ありがとう! 優しいお姉ちゃん! 怖いお姉ちゃん!」
「春菜! ホント、ごめんなさい! ごめんなさい!」
 ぺこぺこと頭を下げる母の胸元、少々バツが悪そうにしているがそれでも楽しげに、少女は手を振る。そんな娘を傍にいさせるのは不味いと思ったのだろう、母は足早にその場を離れた。
 そして、少し離れたところで同じく少女を探していたのであろう、父と息子らしい少年の二人組と合流する姿が見えた。
「……で、どう? 怖いお姉ちゃんって言われた感想は?」
 頭の上から声が降ってきた。
「……もう、二度と、寺谷さんのこと、怖いって言わない……――」
 いったん言葉を切る。
 しばしの沈黙……
 波の音……
 そして、彼女は付け加えた。
「――……様に心がける」
「そこは言い切りなさいよ……」
 波の音に紛れて妖精のため息が聞こえた……のは、聞こえないふりをすることに決めた。

 さて……
 帰ってきた二人、特に伶奈を出迎えたのは――
「……伶奈は……便秘、なの?」
 テーブルの前、すっかり溶けたかき氷と共に待っていた翼の言葉だった……
 

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