さて、海である。
今日のお昼も海の家、昨日はカレーだったので今日は味噌カツラーメンとおにぎりのセット。
「……とんかつ、好きね……」
「美味しいじゃん……」
呆れ顔のアルトにはそのひと言だけで対応。後はずるずるとラーメンをすすってお昼は終了。なんだかんだ言いながらも、とんかつもきっちり食べてるアルトにとやかくは言われたくない。
「今日は荷物、全部、車ん中かロッカーに置いて、皆で泳ごうよ」
そう言ったのは凪歩だった。
昼から夕方には伶奈達が帰らなきゃ行けないので、時間はない。由美子が荷物番を立候補してくれたのは良いが、彼女は昨日もろくに泳いでなく、今日も荷物番をしてたら、泳がずじまいになってしまう。だったら、海の家に席を取り、貴重品は全部ロッカーに押し込んで、荷物番は置かなくてもいいんじゃないか? と言う話になった。
「せっかく来たのにろくに海に入らないとか、海への冒涜じゃん?」
「……それじゃ、そうしましょうか?」
凪歩に押し切られる感じで由美子もその提案を受け入れ、結局、今日は皆で海水浴。
海の家所有の更衣室は個室になってるおかげで、昨日みたいに周りで大人の女性(しかも結構綺麗)がおっぱい丸出しでうろうろなんてことにならないのは一安心。
「私は居るわよ」
「アルトは大人じゃないし、おっぱいもないから良いの」
「後で刺してやる」
「ねじってやる」
仲が良いのか、悪いのか、自分でも不安になるような会話をこなしつつ、お着替え。昨日一昨日も着ていた学校指定の水着に着替えて、伶奈は更衣室を後にした。
「……」
出てきた伶奈を出迎えたのは黒いワンピース水着に身を包んだ翼だった。
翼の真っ黒いワンピースはハイレグの上に、胸元のスリットがおへその下くらいまで刻まれていて、そのスリットをシルバーのチェーンだけが止めているという結構扇情的なデザイン。横から覗き込んだら胸が見えちゃうんじゃ……と思うくらい。
そんなセクシーな姿の翼が、所在なげにコンクリ製の海の家の壁にもたれかかっていた。
「あっ……あの……」
意を決して伶奈から声をかければ、翼はぼんやりと宙に投げ出していた視線を伶奈へと向けた。
「……なに?」
「えっと……あの……」
しどろもどろに言いよどむ伶奈を一瞥。その後、視線を逸らしたかと思うと、彼女は淡々とした口調で言った。
「……あなたのお母さんと……なぎぽんなら、今、更衣室に入ったところ……空きがなかった……から」
ぼそぼそと控えめな声で教えられると、伶奈は
「あっ……うん……」
と、こっちもこっちでぼそぼそと控えめな声で応えた。
「……はあ……お礼、言うんじゃなかったの?」
ため息交じりの声が頭の上から聞こえるけど……
「……」
ちらりと翼へと視線を向ければ、翼の冷たい(主観)視線と交わる……も、すぐに翼はぷいっとそっぽを向いてしまうのだから、声を掛けるきっかけがつかめないというか……
波の音やら、海を楽しむ海水浴客のざわめきがやけに遠くに聞こえる。
「怖いんでしょ?」
「……怖くないもん……」
アルトの声に言葉を返すも、アルトの声が聞こえない翼は自身に言われた物と受け取ったのだろうか?
控えめな声ではあるが決して聞き逃すことのない声でぽつり……
「何?」
「なっ! なんでも! なんでも……ない、です……」
ぴん! と背筋が伸びて思わず、大きめの声……が出るもそれは最初のひと言だけ。すぐに消えてく尻切れトンボ。
「……ちょっと、こっち来なさい!」
未だごにょごにょ言ってた伶奈の頭上、アルトがぐいぐいと引っ張る物だから、伶奈は翼に
「ちょっ、ちょっと、トイレ!」
とだけ言って、その場を離れた。
海の家が並ぶ一画から少し離れたところ、コンクリート製のトイレと共に足洗い場が整備されている一画があった。
結構な人が行き交う賑やかな場所、そこの比較的目立たないところにまで伶奈を引っ張ってきたら、彼女は、
「……私と話をするときに『トイレ』って言って場をごまかすのは良夜と一緒ね……」
と、頭の上で呆れ声を上げた。まあ、それでもちゃんとトイレに連れてくる辺り、彼女も付き合いがいい。
「良夜くんに教えて貰ったごまかしだし……」
「ああ……なるほどね……」
言いながらアルトはトンと頭の上から飛び立ち、伶奈の目の前に器用にホバリング。そして、彼女は言葉を繋いだ。
「……――って言うのは、ともかく、よ……貴女、翼にお礼を言うんじゃなかったの?」
目の前、吐息がほっぺたを撫でるほどの距離にアルトを置きながらも、その妖精の金色の瞳から、伶奈は顔ごと視線を逸らした。それでも頬、横顔に感じる妖精さんの視線。それが妙にくすぐったいというか、痛いというか……
居心地の悪さを感じつつ、伶奈はぽつりと呟いた。
「だって……なんか、怖いもん……」
「さっき、怖くないって言った癖に……」
「それは……その……売り言葉に買い言葉って奴で……」
「その言葉、このタイミングで使う言葉じゃないわよ……それで、何が怖いのよ……」
「顔、後、沈黙」
「表情筋がサボりがちなのよ」
「それに……」
「それに?」
ぽつりぽつりとではあったがそれでも紡がれ続けていた伶奈の言葉が止まった。
遠くで潮騒の音と賑やかな子供の声が聞こえていた。
「…………追い出そうって、初対面の時、言われた……」
ひときわ小さな声、それでも目の前、ほっぺのすぐ横に浮かんでいるアルトには伝わっていたのだろう……
彼女は軽いため息を一つ吐くと、しばしの沈黙の後に言った。
「……まだ、覚えてたの?」
「…………忘れられるわけないじゃん……」
伶奈がそう言うと、アルトは一度伶奈の肩口に着地を決め、そこを踏み台にぽーんと頭の上へと飛び乗った。
頭の上にアルトが着地したのがかすかな振動として伶奈に伝わる。その振動に促されるかのように、伶奈はこくんとうつむいた。
ビーチサンダルのつま先が見えた。
「…………開店前の忙しい時間帯にあんな子が店にいたら、追い出したくなるのは当たり前だし……事情を知らなきゃ、ただの変な子供だし……かといって、事情、知られたくないし……」
ぼそぼそと伶奈が呟く。
その言葉をアルトは頭の上で無言のまま、聞いていた。
「でも、やっぱり、あんな事を言われると構えちゃうって言うか……なんて言うか…………」
言い終わり、そして、伶奈が口を噤む……
数秒の沈黙……伶奈は体の前に組んだ手をもじもじと動かすだけ……
そんな時間がしばらく続き、そして、妖精はペチンと伶奈の頭を平手で叩いた。
「まあ、気になるのは仕方ないと思うけど……少しずつ、慣れていきなさいな。少なくとも、もう、追い出されないって言うのは解ってるでしょ?」
「……うっ、うん……」
「話しかけるところから始める事ね」
「……うん」
応えて伶奈が顔を上げれば、目の前には大きく切れ込まれたスリットと少し地黒なお腹におへそ……セクシーな姿の翼がそこに立っていた。
「あっ……」
人混みの中、彼女はつかつかと伶奈の方へと近づいてきたかと思うと、伶奈の顔を見下ろし、一言言った。
「……終わった?」
「うっ、うん……」
「……遅いから……見に、来た」
地黒の鉄仮面から発せられる淡々とした口調は、怒っているようには聞こえないが、逆に心配していたといった風にも見えない。
それでも伶奈は
「……ごめんなさい」
と、わびの言葉を素直に言い、妖精を乗せた頭も素直に下げた。
「……別に、良い……」
応えて翼は伶奈の顔を一瞥し、そして、視線を正面、少し離れた母と凪歩達が待つ、海の家へと向けた。
伶奈も釣られて視線をそちらへ……
人が……――楽しそうな家族連れが多くて、背の低い伶奈には、その人垣の向こう側にあるはずの海の家を視認することは出来ないくらい。
「……人、多いから……」
小さな声でそう言うと、翼は伶奈の右手に自身の左手を伸ばした。
差し出された手を素直に握る。
思っていたとおりに長い指、だけど、思っていたよりも少し太くて力強そうな指が伶奈の細い華奢な指を優しく包む。
少し、暖かい。
「……ありがとう……寺谷さんが……呼ぶように言ったって……アルトが……」
「……別に……あなたは、もう……店の隅で……開店の邪魔してる変な子じゃ、ないから……」
「えっ?」
伶奈は反射的に顔を上げた。
そこには相変わらず、地黒の鉄仮面と青く澄み渡る空だけ……
その鉄仮面はまっすぐに前を向いたまま、ぽつりとひと言だけ言った。
「……ウェイトレス……でしょ?」
「……うん」
軽く頷く。
人垣が切れ、なにやら話しているショートヘアとポニーテールの二人の女性が見えた。
凪歩の方が先にこちらを向けば、次いで由美子も伶奈を見つけて、手を振る。
その手に伶奈も手を降って応える。
「もう……お手洗いくらい早めにすませておきなさい。皆さん、待ってたのよ?」
「出物腫れ物って奴よ、大目に見なさい」
母の言葉に応えたのは頭の上の妖精だった。
まさかその言葉を直接伝えるのは恥ずかしすぎ。
「うっ、うん……」
火照った顔でそう言って、伶奈は小さく控えめに頷く。
「まあ、良いじゃん、それより、速く泳ごう!」
そう言った凪歩が伶奈の空いた左手をつかんで、海へと向けて引っ張る。
「あっ……」
そして、左手が凪歩に引っ張られれば、右手は翼の手を引っ張ってしまう。
「……なぎぽん……テンション、上げすぎ……」
いつもの調子で翼が言えば、凪歩は真っ青なお空へと突き抜けるほどに大きな声で応える。
「翼さんがいつも通りすぎるんだって! 私はこの半月、この日のためだけに働いてきたんだから!」
そして、三日目の……最終日の海が始まった……
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