伶奈の海(9)

 三日目、伶奈の最終日。
 朝食を終わらせると、伶奈は母と共にその辺を散歩することになった。
 後続の凪歩、翼組を迎えに行かなきゃいけないから泳ぐには時間が足りない。かといって、こんな所にまで来てテレビの番って言うのもないだろう……と言う意見に反対する者は、アルトを含めた三人の中には居なかった。
 コースは伶奈が昨日絵を描いてた磯から向こうの遊歩道。昨日の伶奈はそこまで足を伸ばさなかったが、三十分も歩けば、ちょっとした岬に展望台があって、景色も良いらしい……と、磯の手前、遊歩道の入り口辺りに看板が掲げられていた。それを伶奈が昨日のうちに見ていたのだ。
 緩やかに続く坂道。両脇から伸びた木々の枝が作る木陰はすでにまぶしくなりかけている日差しを遮り、その木々の間を抜けてくる潮風もさわやかで、歩くに苦はなかった。
 そんな上り坂を伶奈が、頭にアルトを、隣に母を置いて、のんびりと歩く事四十五分……
「十五分の延長は由美子のせいね」
 頭の上から降ってくる言葉にクスッと頬を緩めて、伶奈は母の方へと視線を向けた。
 昨日と同じくゆったりとしたブラウスに七分丈の綿パン、それから少しつばの大きな帽子を被った母は、コテージを出た当初はちょっと決まってるって感じだったのだが、それも今や昔。ブラウスは汗だくだし、帽子はずれて落ちかけてる、何より、木製のベンチに座り込んで、背もたれにしがみついて「ゼーゼー」言ってる姿は親の威厳という物からは百万光年離れたところにあった。
 一方、トレーナーにオーバーオール、それから野球帽とナップザック……いつもの格好と言った感じの伶奈はまだまだ余裕。
「お母さん、運動不足じゃないの?」
 なんて、軽口を叩きながら展望台のフェンスにもたれかかっていた。
 そこでぐーっと大きく背伸びをしたら潮の香りが鼻腔を優しくくすぐり、新鮮な酸素で肺腑が一杯に満ちていく感じ。それだけで、うっすらとかいていた汗も引っ込んでいくようだ。
「……伶奈の方が、元気なのよ……」
 未だ息も絶え絶えな母の声、その母の顔を潮風に揺れるすだれ髪越しに見やり、伶奈はクスリと笑って答える。
「毎日あの坂、自転車を押して上がってるもん、歩くだけならまだ大丈夫だよ。お母さんは余り歩かないの? 病院とか……」
「そりゃ……歩くけど……」
 母が言葉を濁す一方、頭の上から降ってくる言葉は明確だった。
「同じ距離でも近場を何往復もしてるのと、だらだらとまっすぐ歩いてるのとは違うわよ」
 頭の上で答えたのは、相変わらず、Tシャツを着ている妖精さんだ。
 昨日もはしゃぎすぎたおかげで、日焼けは快癒にはほど遠い状況。多少マシにこそなっているが、まだまだ、普通の服が着られるほどには回復していないらしい。ちなみに玲奈の白い首輪も若干薄くなっているが、しっかり残っていたりするから、頭が痛い。
 そんなことを頭の片隅で思い出しながら、伶奈は視線を自身の頭上、声は聞こえど姿は見えずの死角へと向け、そして、尋ねた。
「そんな物?」
「そんな物よ。それに、病院だったら空調も良く効いてるんじゃないの?」
「ああ……屋内だもんね」
 話をしながら、伶奈は背負っていたナップザックを下ろした。
 雑貨屋で見つけたナップザックはデニム生地。色合いがお気に入りのオーバーオールとよく似ているので、思わず衝動買いしちゃった物だ。そこからペットボトルのスポーツドリンクを二本取り出すと、一本を母に手渡した。
 それを母は封を切ると一息に半分ほど飲み干し、そして、彼女は吐息混じりに言った。
「ふぅ……ありがとう。生き返ったわ……」
「お母さんもたまには自転車と電車で病院まで行ったら?」
 苦笑いで言いながら、彼女は母の隣に腰を下ろした。
「死んじゃうわよ」
 答えた母の顔は先ほどよりかは精気が戻ってきてはいるが、それでもまだまだお疲れ気味。額には大粒の汗、それがつーっと流れて頬から顎へと流れ落ちるのが見て取れた。
 その汗を目で追いながら、伶奈は言う。
「意外と大丈夫だよ。それにしんどいのは帰りだけだもん、行きは下り坂だし」
「仕事帰りにあの坂を歩いて上ってたら、本当に死んじゃうわよ、お母さん……」
「そんなこと言ってると、あっと言う間に老けちゃうわよ?」
「……――ってアルトが言ってるよ」
「……伶奈、親にひどいこと言ってると、罰が当たるわよ……」
「私じゃないもん、アルトだもん」
「そして、私は由美子の娘じゃないわ」
「……――ってアルトも言ってるよ」
「……はぁ、もう、良いわよ……どうせ、私はすぐに老けておばあちゃんになっちゃうわよ……」
 と、ため息をつけば、伶奈は「あはは」と軽く笑ってみせる。そして、母もその笑い声に苦笑い。お互いにペットボトルのスポーツドリンクを飲み干して、展望台のベンチが和やかな空気に包まれた。
「あっ……そうだ……」
 そんな空気の中、小さな声を上げたのは母の方だった。
「なに?」
 伶奈が尋ねると、母は軽く首を振り「たいしたことじゃないんだけど……」との前置きの後に言葉を続けた。
「寺谷さんってどんな人? お母さん、時任先生のお姉さんとはアルトでよく会うし、お話もしたことがあるんだけど、寺谷さんとは、お店の隅でまかないを突いてるのを二−三回見たことがあるくらいで、話もしたことがないのよ」
 言われて伶奈は頭上へと視線を向けた。
 見えるのはすだれの前髪、青い空、そして、愛らしい顔の上でくりくりと動く金色の瞳。
 上から覗き込んでる妖精さんと、見つめ合うこと三秒。
 伶奈は言った。
「……聞いてるよ」
 アルトはトンと頭の上から飛び降り、そして、三回転。しゅたっ! と膝の上に着地を決めたら、ストローをピッ! と伶奈の方へと向けて、彼女は言った。
「なんで、私に聞くのよ?」
 美しい宙返りと見事な着地、上手な物だと思った反面、空が飛べるんだから当たり前だよね……と思い直しながら、伶奈は膝の上に立つ妖精の疑問に答える。
「私も寺谷さんのことは良く知らないもん……」
「……未だに翼のこと、怖がってるものね、貴女」
「だっ、だって……なんか、いちいち、睨むし……」
「睨んでないわよ、見てるだけ。目つきが悪いのよ。それに、貴女が大きなトレイとか大きな水差しとかを持ってるとそれだけで見る者を不安にさせるの」
「……話しかけてもくれないし……」
「そっちが話しかけないからよ、後、話題が思いつかないだけ」
「……フレンチトーストを作ってくれたのは良いけど、不機嫌そうな顔と『んっ』のひと言で突き出されたし……」
「それは相手が客でも同じよ」
 と、伶奈がアルトと言葉を交わしていれば、ほったらかしになるのがお母さん。
「……総論としてはどうなのよ?」
 伶奈の一方的な言葉しか聞こえてなかったからだろうか? 母が伶奈に向けた表情は少々怪訝な物。若干の警戒心とでも言うべき物が母のひそめられた眉からひっそりと漂ってくるみたい。
「あっ……うん……えっと……」
 言い過ぎた……と思っても後の祭り。フォローしなきゃ……と思いつつもなんて言ったら良いのかが出てこない。
「総論としては面白い子よ」
 しどろもどろになった伶奈の膝で、アルトが言えば、少女は視線を下げて反射的に言った。
「そうなの?」
「予想外のことが起こると、頭がフリーズしちゃって無表情のまま立ち尽くしてたり、家では裸<ら>族だって噂があったり……面白い所が結構あるんだから……ああ、それと、最初に、貴女をここに連れてきても大丈夫だって言ったのは、翼よ。親も呼べって言ったのも翼だし、居なかったら、お留守番よ? 貴女」
「えっ? そうなの? そっか……うん……言っておく……」
「そうそう、顔が怖いとか、仏頂面だとか、言葉数が少ないとか、若干、コミュ障の気があるんじゃないんだろうか? とか、言っちゃダメよ?」
「……最後の一つは私が言ったわけじゃないし……」
「似たようなこと、考えてたでしょ?」
「……そんなこと……ないけどぉ……」
 言い訳のように呟きながら、伶奈は数秒沈思し、そして、彼女はぽつりと呟いた。
「……じゃあ、会ったら……話しかけて、見る……」
「そうね、それが良いわねっと……――で、貴女のお母さんが苦笑いで待ってるわよ」
「あっ……」
 と思って顔を上げれば、空のペットボトルを握った母の顔、その顔は何とも言えない苦笑いが張り付いていた。
「あっ……あの……」
 ばつの悪さに顔を下げれば、苦笑いの母はため息交じりに応える。
「良いわよ、好きなだけ、続けなさいな……もうすぐ、会えるだろうから……」
「いや……あの、その……」
 と、しどろもどろ……アルトが言ってた話や伶奈自身が知る限りの事を織り交ぜて説明して見るも、それは余り要領を得ないというか、抽象的というか……
 結局、
「まあ、よく解らない人……って事ね……」
 と、母が呟く感じで終わった。

 その日のお昼少し前、伶奈と母由美子、それからアルトの三人は予定通りに高速艇の船着き場に凪歩と翼の二人を迎えに来ていた。
 彼女らが乗ってくる予定の高速艇は伶奈とアルトの二人が乗ってきたのと同じ便。
 随分と早くに起きたんだなぁ……と思った物だが、どうやら、凪歩の母親が運転する車で船着き場まで送って貰ったって話を後で聞いた。
 安っぽい樹脂製のベンチに座って待つこと数分……高速艇が全くの遅延なく入港することが、余り広くない待合室の中、余り新しくないスピーカーによって伝えられた。
 程なく出てくる大勢の乗客達。その中で目立つのは女性としては高身長なくせに、頭のてっぺん、高い位置でポニーテールを作ってる時任凪歩女史。
「お待たせ〜伶奈ちゃん」
 軽く手を振ってこちらに駆け寄ってきたのは、伶奈が彼女を見つけて「あっ」と呟いたのとほぼ同時。
 少し短めのデニムジーパンにTシャツ、その上から薄手のジャケットを羽織って居る姿は、長身とも相まってちょっと格好いい感じ。それはアルトの制服姿とは随分違って見える。私服姿はこれが初めてというわけでもないが、やっぱり、新鮮だ。
 彼女は伶奈の方へと近づいたかと思うと、肩からぶら下げていた大きなボストンバッグを伶奈に開いて見せた。
「シュノーケルと水中眼鏡、それからラッシュガード、持ってきたから、沖に出てシュノーケリングね。もうさ、今日一日、後半日しかないんだから、海をたっぷり堪能させてあげるよ」
 開いたボストンバッグの中身は、彼女が言うとおり、いろいろなマリンレジャーのグッズ達。シュノーケルや水中眼鏡、それから、ウェットスーツのような上着がラッシュガードという奴だろうか? そういうのが、ごっそり、一つずつではなく、三セットほど入っていた。
 そのボストンバッグの中を覗き込みながら、伶奈は控えめな声で尋ねる。
「貸してくれるの?」
「うんうん、灯のだけど、ちゃんとアルコール消毒してるから」
「……そっ、そこまでしなくても……」
 灯と間接キスはどうかなぁ……なんて思いつつもアルコール『消毒』と言われると言い過ぎな気がする微妙なお年頃。苦笑いで応える伶奈に凪歩は軽い調子で「あはは」と笑ってみせる。大きな眼鏡の奥、少しきつめの目元も笑うと年頃の女性らしく柔和な物に変わった。
 と、楽しそうに盛り上がってる伶奈の背後で、母が辺りをきょろりと見渡して呟いた。
「ねえ、ねえ……伶奈……もう一人の……寺谷さんは?」
 答えたのはもちろん伶奈ではなく、伶奈にボストンバッグの中身を見せていた凪歩の方。
「ああ、翼さんなら、今、ちょっとお手洗いです」
 伶奈に見せていたボストンバッグを閉じながらに答えると、伶奈の頭の上、一緒にボストンバッグを覗き込んでいた妖精さんがいかにも不服そうと言った感じのな声を上げた。
「船の中でしておきなさいよ……全く……」
「……アルト、うるさい……後、頭の上でぱたぱたしないで……」
「うるさいわね、もう飽きたのよ、待つのは……全く、さっさと海の家で焼きそばでも食べたいのよ!」
 頭の上で騒ぐ妖精に軽く嘆息……辺りをきょろりと見渡してみれば、WCと書かれた案内板の下に見覚えのある女性の姿。もちろん、寺谷翼だ。
 今日の翼は凪歩同様に制服ではなく私服姿。それは膝丈のスカートにシースルーのサマーニットを合わせた物。ヘソ出しの黒いキャミソールが透けて見えてるのが少しセクシーな感じ……と、翼の私服姿を見るのはこれが初めてだが、こう言う私服を着るというのは、少し意外だ。
 思わず、翼の透けたおへそを凝視していた伶奈の元、その透けたおへそがつかつかと近づき、そして、ぺこりとその上に乗っかってる頭を下げた。
 下げる相手は伶奈ではなく、玲奈の母親――由美子だ。
「……娘さんには……いつも、お世話に……」
 深々とたれられる頭<こうべ>に、由美子は慌てて首を振り、そして、彼女もまた頭を下げた。
「あっ、いえいえ、こちらこそ! いつも娘がお世話になって……」
「……良く働いてる……から……助かってる、と思う……」
「そうですか? なんだか、いつまでも子供のような気がして……」
「……そんなこと、ない……と、思う……」
「ありがとうございます……ほら、伶奈もご挨拶なさい……同僚でしょう?」
「あっ!?」
 母と同僚とのやりとりをぼんやりと眺めていた伶奈におはちが回ってくれば、少女の小柄な背筋がピン! と伸びる。
 そして、ぎくしゃくとした仕草で頭を下げて、彼女は言った。
「こっ、こんにちは……」
「……んっ、こんにちは……」
「…………」
「…………」
 そして、止まる会話……

「「「はぁ……」」」
 そして、こぼれるため息三つ……

 前途多難な空気を醸しつつ、三日目、後半が始まった。

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