伶奈の海(8)

 さて、二日目。
 この日、伶奈が目覚めた朝六時半は、普段の起床時間だ。もうちょっとゆっくり寝てても良いのだろうが、なんとなく目が覚めちゃったのでそのまま起きることにした。
「……焼き肉の匂いがする……ような気がする……」
 二つあるベッドのうち、窓際側で身体を起こし、自身の腕なんかにスンスンと鼻を寄せて呟く。寝る前に風呂は入ったから本当にそんな匂いがするわけではないと思うのだが、しているような気がした。
 その幻の香が昨夜のらんちき騒ぎを伶奈に思い起こさせる。
 美月が着ていた白いワンピースを脱ぎそうになったことと、貴美と良夜と直樹の三人が飲み比べを始めて良夜と直樹が轟沈しちゃったこと、後は昼に引き続き、夜も大量に焼かれた肉と焼きおにぎりのおかげで伶奈は食べ過ぎちゃったことくらいが問題で、おおむね――
「……問題だらけ……」
 ではあったが、それ以上に楽しいひとときを伶奈は過ごした。
 ぐーっとベッドの上で背伸びを一発。新しい空気をたっぷりと取り入れると体中の細胞一つ一つが目覚めていく。
「おはよぉ……伶奈……」
 隣のベッドから聞こえる声は、妙に間延びした声。その声の方へと視線を向ければ、白いトレーナーと短パンを寝間着代わりにしていた母由美子が眠そうに身体を起こしている姿が見えた。
「あっ……起こした?」
「ううん……ちょっと前から起きてたわ」
 伶奈が尋ねると母が答える。
「珍しいね、休みのお母さんが自分で起きるのって」
「久しぶりにベッドで寝たから、逆に寝付けなくて……」
「私も……かな?」
 床にマットレスと布団を引いて眠る母と安いパイプベッドで眠る娘は、そう言って笑い合い、ベッドから下りた。
 そんな感じで始まった二日目、朝食は昨夜作りすぎて余ったおにぎりに美月特製の味噌だれを塗ってトースターで軽く焼いた物。これにインスタントの味噌汁と白菜の漬け物。こちらも昨夜の余り物だ。余り物だらけの朝食、お隣さんも似たような物が朝食になっているはず。
 食事が終わったら、パジャマからいつものオーバーオールに着替えて、お隣さんへ……と、玄関を出た伶奈は足を止め、空を見上げた。
 真っ青に晴れ上がった空には雲一つない。抜けるような青空を大きな海鳥が伶奈の頭の上でくるんと大きな円を描き、どこかへと飛んでいくだけ。
 今日も朝から暑苦しいが、良い天気だ。
「おはよう。今日も嫌味なほど良い天気ね?」
 チャイムを鳴らして玄関ドアを開くと、昨日と同じくTシャツに短パン姿の妖精がフヨフヨとそこに浮いていた。ワシャワシャしてる変なドレスよりこっちの方が似合う気がするのだが、それを言ったら、怒られたので、もう、言わない。
「おはよう……服、着られないの? まだ」
「うるさいわね。背中が痛いのよ……今、皆食事してる所よ」
「どうしようか?」
 と、一緒に来ている母に尋ねてみたら、答えたのは早速伶奈の頭を椅子代わりにし始めた妖精さん。
「上がって待ったら良いわよ」
「……――って、アルトが言ってるけど……」
 伶奈がアルトの言葉を伝えれば、母は数秒の逡巡……されど、それは
「さっさと上がりなさいな、暑いのよ」
 とのアルトのお言葉を伶奈が通訳するまでのほんの数秒で終りを告げる。
「……じゃあ、そうさせて貰いましょうか?」
 苦笑い気味の母と言葉を交わして、伶奈は部屋へと上がった。
 そして、キッチンに入ると、伶奈が声を掛けるよりも先に
「おはようさん、良い天気やね」
 軽い口調で貴美が言ったのを皮切りに、他の三人も口々に伶奈とその母に声をかけた。
「おはようございます、朝早くからお招きいただいて……」
「おっ、おはよう……」
 ぺこりと頭を下げる母の隣で、伶奈も慌てて頭を下げる。
 伶奈達と同じような朝食はすでに後半戦にさしかかっているようだ。おのおのの前に置かれた器はそのほとんどが空っぽかそれに近い状況。
 そんなテーブルの様子を横目で見ながら、伶奈は母と共に二人はリビングのソファに腰を落ち着けた。
 そして、彼らの食事が終わるまで、適当にテレビでも見て時間を潰す……とは言っても、ろくな番組はやってなくて、昨日の出来事なんかを流し見している感じで時間を潰していれば、彼らもすぐに食事を終えた。
 昨日同様、コテージで水着に着替えて、その上からパーカーを羽織っていくのだが、伶奈が持ってない物を母由美子が持っているはずもなく、借りるあてもない。結局、彼女は水着そのまま。なお、由美子の水着はタンキニという奴。短パンにタンクトップを合わせたような代物は、良夜達男性陣が着ている物とよく似ている感じ。もっとも、パンツの方はトランクスよりもホットパンツに近い形だし、タンクトップの方も水に濡れても透けない水着仕様。カーキー色の地に大きくメーカーの名前が入っているのはなかなかおしゃれだ、と伶奈は思う。
 のに……
「……崩れ始めたスタイルを気に病んでるのねぇ〜」
 なんて、アルトが芝居がかった仕草で泣き崩れたから、とりあえず、頭を一発はたけば、目の色を変えて怒るが、それはもちろん、スルーだ。
 今日は、良夜の車を由美子が運転し、伶奈本人は助手席。後部座席は美月と良夜で、タカミーズの二人はアルトに荷物を満載していくことになった。
 海は昨日同様の人混みではあるが、今日は朝からのご出勤のおかげでレジャーシートは波打ち際最前列。砂被りならぬ、波かぶり。そこにビーチパラソルを立てたら、留守番は日に余り焼けたくない由美子にお任せ。おかげでアルトを含めた六人は思う存分に海水浴だ。
 透明度の高い遠浅の海。海水はどこまでも澄んでいて、火照った身体を心地よく冷やしてくれる。
 もっとも、遠浅すぎて遠くまで行かないと泳げるほどの水深にならないのが玉に瑕。チャプチャプと遠くにまで駆けだし、水深が少し深くなった辺りで、思いっきり水遊び。かけたりかけられたり、溺れてる美月が泳いでると言い張るのを苦笑いで受け止めたり……それから、例の『浮き輪にぶら下がって紐で引っ張って貰う』というわがままな遊びを良夜や直樹、貴美、美月にまでして貰って、伶奈も大満足。
 お昼は海水浴場傍の海の家でがっつりとカツカレー。こういう所のカレーって具が少なかったり、粉っぽかったりする物だと思ってたけど、意外と具だくさんで美味しい。そこに乗せられたとんかつも揚げたてで衣もさくさく。そのさくさくの衣に良い具合にしみこんだカレールーがたまらない感じ。
 そのカレーライスを食べたら今日はおしまい。コテージの方へと戻り、美月達は着替えて帰宅準備だ。
「もう帰っちゃうの?」
 帰り支度をする美月と貴美に尋ねると、二人は少しだけ困ったような表情でほほえんだ後、互いの顔を見合わせた。そして、貴美の方が代表して、伶奈の癖っ毛をわしゃっとかき混ぜるように撫でて答えた。
「明日からつばさんとなぎぽんがこっちにくっから、私と美月さんが帰んないと、店、店長だけになっちゃうかんね。それに、男どもは卒論の進捗が全然だし」
「帰ってきたら、また、プールにでも行きましょうか? 良夜さんや直樹君にその余裕がなかったら、女の子だけ三人で」
 貴美の隣で洗濯物を片付けていた楽しそうにそう言えば、
「四人よ」
 と、アルトが伶奈の頭の上から訂正。
 その言葉を美月と貴美に伝えると、美月も貴美も明るい笑顔で首肯した。
 荷物を良夜のジムニーに詰め込んだら、狭い後部座席に直樹と貴美がひっつくように乗り込み、帰り支度は完了。
「こっちの車は置いて帰ってくれるんですか?」
「その代わり、明日来る二人に足がないので、迎えに行ってあげて下さいね」
 助手席を覗き込む母とそこに座った美月が二言三言言葉を交わし、他の面々が伶奈に軽く手を振って別れを告げる。
 そして、良夜のジムニーは甲高いターボノイズを響かせ、貸別荘の駐車場を後にした。
 モスグリーンの軽自動車が県道へと消えていくのを見送ると、母が伶奈の方へと視線を向けた。
「さてと……伶奈、これからどうするの? もう一回泳ぎに行くなら、行っても良いわよ」
 ゆったりとした白いブラウスに七分丈の綿パンを合わせた母が尋ねると、相変わらず、オーバーオール一択の伶奈は軽く首を振って答えた。
「朝、結構、泳いだし、それに宿題しなきゃ……昨日、結局、何にもしてないから、少しくらいはしないと……」
「まじめなんだから……宿題なんて、二学期が始まってからすれば良いのよ」
「……――ってアルトが言ってるけど、私はそう言うこと、しないもん」
「したら、怒るわよ。いくらなんでも」
 アルトと伶奈の会話に母が苦笑い。
 母と娘が肩を並べて歩き、その娘の上で妖精はころんと寝転がり、高い空を見上げていた。
 その頭の上で、また、大きな海鳥がくるんと円を描いていた。

 せっかく、海辺のコテージに居るんだから……って事で、美術の宿題を先に片付けることにした。美術の宿題は水彩画を一枚描いてこいという物。ありがちと言えばありがち。
「じゃあ、お母さんは買い出しに行ってくるわね。余り遠くに行っちゃダメよ」
 そう言って、近くのスーパーへと買い出しに行く母と別れる。夕飯はちょっと豪華に、とか言ってたから、少し楽しみ。
 いつものオーバーオールにトレーナー、その上に野球帽を被ったら――
「……男の子みたいね」
 って、アルトが言うので軽くひねって仕返し。
 それから、辺りをうろちょろして探すこと十五分ほど……結局、コテージから歩いて五分ほどの所にある磯をスケッチの場所にした。
 そこには釣り人が数人に、磯遊びをしている家族連れがひと組居るくらいで、海水浴場に比べると随分と静かな物だった。
 こういうこともあろうか……と言うか、こういうことをするつもりで画用紙も絵の具もしっかり準備済み。レジャーシートの上にそれらを広げたら、ぺたんと腰を下ろして、スケッチの準備は万端だ。
 ざぶ〜ん……と波が寄せる度に岩に当たり波が壊れる度に白い波飛沫が気持ちよく弾けて飛び、伶奈の鼻先をかすめる。
 濃厚な潮の香りは磯独特で、海水浴場とは随分違うように感じた。
「魚介類を食べたくなるわね」
「……アルトって、情緒がないね」
「ここしばらく情緒のない理工学系男子大学生と一緒に居ることが多かったからだわ」
「……そこまでのウルトラCで人のせいにしないでも良いのに……」
 くだらないことを言う妖精に呆れ声で返して、伶奈は体育座りの膝に画用紙の束を置いた。
 その画用紙の束から一枚取り出して、残りの画用紙は画板代わり。
 鉛筆を握って、消しゴムを片隅において、ぼんやりと白い紙と青い海、それから青い空を眺める。
「書かないの?」
 頭の上から妖精が尋ねた。
「構図を考えてる」
 視線も動かさず、視野の外にいる妖精に、少女は答える。
「簡単な構図を教えてあげるわ」
「簡単な? 構図?」
「全面真っ青に塗って、それから白で横一文字に線を引っ張ったら『水平線』よ」
「……何? それ……」
「拓也が中学生の時、美術の宿題をそれで出したわよ」
「……拓也って……美月お姉ちゃんのお父さん? ちょっと……厳めつい顔してた人」
「そう、それ……って、厳めつい顔をしてたのは、機嫌が悪かっただけよ。機嫌の良い時はもうちょっとマシな顔してるわよ」
「…………そっか」
 機嫌が悪くなってた理由はすぐに思い当たり、伶奈は口を閉じた。
 波の音が聞こえる。
 幼い娘が父親を呼ぶ声が聞こえた。
 それに応える父親の声が聞こえた。
 胸が痛かった。
「……悪かったわね」
 アルトが消え入るような声で呟いた。
「……何が?」
 わざとらしい言葉だと、自分でも思う。
「…………何でも無いわ」
 そのわざとらしい言葉に、数瞬の沈黙の後、わざとらしい言葉が返ってくる。
 少女は視線を潮だまりを囲んで楽しそうにはしゃいでいる家族へと視線を向けた。
 彼我の距離は二十メートルくらいの物。居るのは……両親に兄と妹だろうか? 兄の方も伶奈よりかは少し年下で小学校の高学年くらい。妹の方は当然もっと幼くて、小学校に入ってるか入ってないかくらいに見えた。何を言ってるのかはよく解らないが、その二人がはしゃいでいる雰囲気は感じられた。
 数分、その風景をぼんやりと眺めた後、少女は鉛筆を走らせ始めた。
 まずはアルトが言ったとおり、水平線を一本引いて、それから磯の雰囲気をなんとなくフンワリした感じで書いていき……そして、ひとかたまりになって潮だまりを覗き込んでいる家族……
「……哀れなほど、へたくそね」
「……アルト、ひねるよ?」
 頭の上、ひさしの向こう側から茶化す妖精に言葉だけを投げ返し、改めて下書きの画用紙へと視線を向けた。
 まあ、へたくそなのは自分でも解っている。
 磯を描いてたつもりだけど、気づけば、ゴミの山みたいな感じ。しばらくがんばって方向転換を試みてみたが、描けば描くだけひどくなっていくもんだから、諦めて消しゴムで消す。消して書き直す……けど、やっぱり、五十歩百歩。仕方ないから、また、消して……の繰り返し。画用紙があっと言う間に毛羽立っていくのが解るほど。
 アルトも邪魔はせず、伶奈もしゃべらず……時折、強い波が岩肌を叩く音と家族の声だけが聞こえる静かな時間……
 そんな時間が小一時間ほど続いた。
「……あー言うの、なんか良いよね……」
 鉛筆を走らせながら、ふと、少女は呟いた。
「……そうね」
 鉛筆の走る音と消しゴムが画用紙を毛羽立たせる音、そして、潮騒に……子供らの賑やかな声。
 その声に耳を傾けながら、伶奈はまた呟く。
「あのさ……」
「なに?」
 頭の上でアルトが答えた。
「……さっき、凄いひどいこと、考えた……」
「……どんなの? 今、津波でも来て、あいつら、飲み込まれないか? とか?」
「……どう考えても、私も逝っちゃうよね? その津波で……って、まあ、似たような感じだけど……」
「自分だけは不思議な力で助かるって、中二的なことを考えてたんでしょう? 中一のくせに!」
「……アルト」
「何?」
 小さな声で名を呼べば、頭の上で動く妖精の気配。そこにめがけて――
「えいっ」
「――って、危ないわね?! 鉛筆、突き出さないで」
「……ちっ」
 からぶった手応えに小さく舌打ちをして、振り上げた手を下ろす。
 そして、再び、鉛筆画が画用紙の上を走り始める。
 いくら書いても磯っぽくならない磯は諦めて、潮だまりにしゃがみ込む家族から手をつけることにする。特にしゃがみ込む兄と妹を中心に……
「で、ひどいことを考えて……どうしたの? 反省でもした? それとも自己嫌悪?」
「両方……自己嫌悪して、反省した……」
「……まっ、勝手に考えて、勝手に反省した挙げ句に、勝手に納得してるんなら良いんじゃないの?」
「あはは……そうだね」
 少女は少しだけ自嘲的に笑った。
 鉛筆の動きは止まらない。
「ねえ……アルト」
 そして、少女は小さな声で頭の上の妖精に呼びかけた。
「なに?」
「……私、幸せだよ」
「朝っぱらから、あれだけ良夜や直樹、挙げ句に貴美や美月にまで、散々引っ張って貰っておいて、『私は不幸です』とか言ったら、許さないわよ」
「あっ、あれは……私はやだって言ったもん、恥ずかしいって……」
「その割には喜んでたわよね?」
「まあ……楽しかったけど……」
 アルトに指摘され、伶奈は赤くなった顔をクシュンとうつむけた。
 客観視すれば、楽しそうに引っ張って貰ってる伶奈を微笑ましく見ていただけなのだろうが、周りで見てる海水浴客達が一様に笑っていたのを思い出すと恥ずかしくてたまらない。やってる最中も恥ずかしかったのだが、終わってからの方がいっそう恥ずかしいし、思い出すとさらに恥ずかしさが増してる気がする。
 その時のことを思い出して、赤くなってる顔の上でアルトが言う。
「楽しかったんなら、幸せなんじゃないの? 夜は良い物食べさせて貰えるんでしょ?」
「うん。お母さんも料理は美味しいから……」
「何かしらね?」
「たぶん、お肉。お母さんが『ごちそう』って言ったら、大抵、分厚いお肉だから」
「昨日、焼き肉だったのよ? 飽きたわよ……」
 頭の上から聞こえてくる妖精の声には、うんざりといった感情がたっぷりと込められていた。
 その声に、屈託のない笑みを浮かべて、少女は言う。
「お母さん、お肉大好きだから。私も好きだよ、お肉、豚も鳥も牛も……後、羊も!」
 そして、もう一度、潮だまりの家族へと視線を向けた。
 どうやら、潮だまりで遊ぶのは終わりにして、帰るようなのだが……妹の方がごねてるようだ。甲高い泣き声が伶奈の所にまで届いてくる。しかし、兄が一足先に帰りはじめ、母親と父親に両手を握られれば、もはや、時間の問題。引きはがされるようにその場から立たされると、名残惜しそうに顔だけをいつまでも潮だまりへと向けながら、どこか別の場所へと立ち去っていった。
 彼らが遠ざかり、見えなくなくなるまでぼんやりと見守る……
 そして、少女の声が聞こえなくなってしまった頃に、アルトが言った。
「居なくなったわね……下書き、まだだったんじゃないの?」
「……覚えてるよ……ちゃんと」
 答えて少女は止まっていた鉛筆を浮かし始める。
 潮だまりの前にしゃがみ込んでいる兄と妹……立ったままで二人のことを見守る父と母……幸せそうな家族……見ながら描いていた時よりもスムーズに彼らの様子が画用紙の上に再現されていく。
「……まあ、下手なのは相変わらずだけど……」
「本当にひねるよ?」
「でも、味があるわよ」
「……ふんっ! とってつけたような褒め言葉なんていらないもん」
 頭の上から画用紙を覗き込む妖精にぷいっ! とそっぽを向いて、伶奈は下書きの上に色を置いていく。
 賑やかな家族連れが居なくなった磯が、いっそう静かになった。
 波の音が耳に心地良い。
「そういえば、あの釣りをしている人は何か釣れたのかしら?」
「さあ……? 知らない」
 アルトに問われても、伶奈は顔も上げずにペタペタと水彩絵具で下書きの上に色を置いていく作業を続けていた。
 頭の上から覗き込んでくる妖精の気配、ぱたぱたと足を上下に動かしているようだが、特に邪魔することもなければ、茶々を入れることもない。
 静かで穏やかなひととき……
 筆を動かし、画用紙の上に先ほどの幸せな光景を描きあげていく。
 も、それは……
「……下手だね」
 と、自分で思うほど。
「味はあるわよ」
「……ありがとう」
 描けば描くほど、イメージと違う方向に行っているようで、なんだか、もどかしいけど……それでも、なんとか形になった。
「こんな物……かな?」
「のーこめんと」
「……うるさい。帰ったら、数学の宿題もしなきゃ……」
 つぶやき、少女は顔を上げた。
 真っ青な空と真っ白な入道雲……額と背中が汗だくになっていることを思い出し、絵の具達のそばに置いてあった缶ジュースのプルタブを開け、伶奈はグビグビと一息に中のスポーツドリンクを飲み干していく。
 ふと、見上げた空……
 一羽の大きな海鳥がゆったりと頭の上を飛んでいた。
 伶奈はほとんど空っぽになったスポーツドリンクの缶をレジャーシートの上に置いたら、先ほど置いたばかりの筆を取り上げた。その筆先に白い絵の具を少しつけて、海鳥を家族達の上に小さく書き込んだ。
「そんなの、居た?」
「さあ……? 知らない」
 伶奈の飲み残しのジュースにストローを突き刺し、チューチューと吸っていたアルトが尋ねた。
 その言葉につぶやきで応えて、少女はグーーーーっと大きく身体を伸ばした。結構、長く座って、絵なんかを描いてたせいだろうか? 身体を伸ばすとパキパキといい音で間接がなった。
 そして、空を見上げる。
 太陽は少し西の空へと傾き始めるもまだまだ明るくて、その明るい太陽の手前を海鳥がゆったりと飛んでいた……
 伶奈その空を見上げながら、もう一度、呟いた。
「ああ……楽しい海に二泊三日しか居られないなんて、私はなんて不幸な女の子なのかなぁ?」
 棒読み……自分でも解るほどの棒読み台詞で少女が言えば、頭の上の妖精も同じくらいに棒読み口調の台詞で言う。
「その不幸な少女に付き合って、二泊三日で帰っちゃう私も十分不幸な妖精さんだわ」
 言って、妖精はくるんと少女のすだれ髪の向こう側に顔を落とした。
 ニマッと屈託なく妖精の笑い顔に変わる。
 それを見て伶奈もニマッと笑い顔を作る。
 そして、二人は声を合わせて笑い合った。
「あははは」
 そんな二人の頭の上を大きな海鳥はゆっくりと飛んでいた。
 

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