その日、夕方六時半、良夜は伶奈とアルトを伴って高速艇の船着き場にやってきていた。昼間に伶奈を迎えにやってきたのと同じ所だ。
目的は伶奈の母――西部由美子を迎えるため。
当初の予定ではこの日の最終便九時半の高速艇で島にやってくるはずだったのだが、予定よりも一つ早い便で彼女はやってくることになった。どうやら、院内での話し合いによって由美子に三十分の早引けが許されたらしい。その三十分がフェリーひと便、三時間分の余裕に結びついたようだ。
もっとも、それは病院側の優しさと言うよりも、彼女が上の空になってたのと、多少の急患が来ても大丈夫だろうと言うことでとっとと追い出されたって言うのが実情ではある。もちろん、それが赤の他人である良夜とアルトはもちろん、娘の伶奈にも伝えられるとはなかった。
待ち合わせの時間には少々早め、人気の少ない夕方の待合室。その固いベンチに座って、良夜と伶奈、それにアルトは由美子の乗っている高速艇をぼんやりと待っていた。
「お母さんが約束を守るどころか、早く来るなんて……明日は雪かも……」
不機嫌そうな口調ではあれども口元とは緩みっぱなしの少女へと視線を向ける。いつも着ているオーバーオールに半袖のTシャツ、それから、首に巻いた包帯。知らない人が見れば痛々しく見えるかも知れないが、ただの日焼け跡隠しであることを知ってる良夜の目には可愛らしく映っているのだから、本人としても少々不思議なものだ。
「残念ながら、明日も良い天気だよ。明日になったら、その包帯、外して日に焼き直した方が良いよ」
良夜がそう言うと、今度こそ、心の底から憮然とした表情になって、良夜から視線を逸らした。そして、やっぱり、心底不機嫌そうな口調で言う。
「……解ってるよ……」
「ったく……あんな所で寝るのが悪いんじゃない……私の背中なんて、もう、真っ赤でTシャツしか着れないのよ? 解ってるの?」
「……――って言ってる」
「……聞こえてるもん……」
「ああ、そうだったね」
相変わらず不機嫌そうな少女がぽつりと言えば、良夜は軽く苦笑いを浮かべて、視線を自身の頭上へと向けた。
直接は見えないが、頭の上にはぱたぱたと足を動かす妖精の気配。
いくらSPF値の高い日焼け止めクリームをたっぷり塗っていたとは言え、炎天下半日の甲羅干しだ。メラニン色素少なめの妖精さんにはきつかったらしい。背中は真っ赤、服がこすれるだけでちょっと痛いらしく、本日の妖精さんは、ゴスロリ姿ではなく、シンプルなTシャツとショートパンツ姿。随分扇情的……と言うわけでないのが残念なところ。貴美辺りがやればすさまじい破壊力を持つその格好も、アルトがやれば、夏休み中の小学生のよう。小銭を握って駄菓子屋にでも駆け出していった方がよく似合ってる感じだ。
なんてことを、先ほど見たアルトの姿を思い起こしながら、青年は考えていた。
「って、良夜、今、不穏当なこと、考えてたでしょ?」
「気のせいだよ」
「……絶対に私のことを夏休みの小学生見たいって思ってるんだわ、失礼しちゃう」
「…………お前は超能力者か?」
「やっぱり、思ってたか!!!」
と、良夜の頭の上に久しぶりにストローが立ち、そして、青年の悲鳴が人の少ない待合室にこだました。
そして、そのやりとりに少女は――
「ぷっ……」
と、小さく吹き出し、膨れていたほっぺたを引っ込めるのだった。
「もう、びっくりさせないで……何事があったのかと思ったわよ……」
とことこと走る良夜の愛車、狭い後部座席には母と娘。話題は当然、伶奈の包帯。怪我でもしたのかと母は大騒ぎするし、見せたくもなければ説明したくもない伶奈は隠すし……で、当然始まるのが、良夜に対する由美子の「教えて下さい」攻撃と伶奈の「言わないで」攻撃。その挟み撃ちに良夜は苦笑い。頭の上ではアルトは他人事な顔でごろごろと……と、大騒ぎ。
結局、良夜がこらえきれずに吹き出しながら、事情説明。伶奈が膨らみ、由美子が吹き出し、一件落着。
「……お母さんは大げさなんだよ……」
「大げさなのは、日焼け跡を隠すのに包帯を巻いてる伶奈じゃないの……他の所ならともかく、首に包帯なんて心臓に悪いこと、やめて……」
「だって……首輪みたいで恥ずかしいもん……」
少女はぶすっと膨れて視線を窓の外へと向けた。
その隣で母は苦笑い。
そんな様子がルームミラーに映るのを、良夜は視野の上部隅っこでとらえながら、車を運転する。
車が県道へと出る
県道は緩やかなカーブを描きながら上っていく。
昼、伶奈を迎えに来た時も通った道。されど、真っ青に晴れ渡っていた空は夕日でオレンジ色に染まり、そのオレンジ色の夕日を受けて海と波がきらきらと複雑な色模様を生み出していた。
「あっ……綺麗……」
膨れていたことも忘れて少女が呟く。
そして、妖精も母も、車を運転する青年すらもその夕日と空と海が織りなす美しき共演に目を奪われていた。
しばしの沈黙……心地よい女性ボーカルの声だけが車内を支配するひととき、それは良夜の
「あっ」
と言う小さなつぶやきが生まれるまで続いた。
「どうしたの?」
頭の上からアルトが尋ねた。
その言葉を半ば無視するように、青年は視線をルームミラーの中、窓の外をぼんやりと眺めている由美子へと向けた。
「西部さん、夕飯、まだでしょう?」
「えっ?」
問われると、由美子はきょとんとした視線をルームミラー越しに良夜へと向けた。
「あっ、はい……」
「美月さんがご一緒にって」
「でも……」
と、口ごもった由美子は、どうやら、良夜達の方でやる食事会には参加するつもりがなかったらしい。伶奈だけは参加させて、自分は自分のコテージで何か適当に食べれば良いと思っていた、ようなのだが……西部家が借りてるコテージの冷蔵庫は当然空っぽだし、コテージの近所に食事をするような場所もない。すなわち、『食べられる適当な物』なんてないって事のだが、その事に思い至ってない辺り、『若干、天然でドジ』と娘に言われる母らしい。
「ピザの宅配くらいはあるけど、せっかくこんな所まで来てピザって言うのもないですしね。来て下さいって、美月さんが」
「はあ……そうですか? でも……」
それでも未だに少々及び腰なのは、年の差を気にしているらしい。流石に四十に手が届こうかって女性が二十代前半の大学生達に混じって食事というのは気が引けるようだ。
「アルトがぶっちぎりで年長者ですよ」
「そうそう、貴女が生まれる以前からアルトにいるわよって、うるさいわよ、良夜、殺されたいなら殺して下さいって言いなさい」
「ナイスノリ突っ込み」
「うるさいわね、さっさと通訳しなさい」
「……――って言ってるよ、アルト……」
由美子に向かって通訳したのは良夜ではなく、笑いをこらえずにいた伶奈だ。彼女が吹き出すのを我慢しながらにアルトの言葉を母に伝えれば、母もクスッと小さく笑って、結局は――
「それじゃ、遠慮せずに……」
と言う結論に達した。
その結論に一安心。良夜は美しい夕日に映える大海原を目の端にとらえながら、車をゆっくり目に走らせる。
「それと、お酒、飲みます? 飲むなら少し買い足さないと……」
良夜の言葉に、明るくなっていた車内の空気に素直に反応したのか、由美子は
「ああ、自分で飲む分くらい買いますから、その辺の――」
そう言いかけた母の言葉を娘の声が遮る。
「……私、お酒、嫌い……」
伶奈がぽつりと小さな声で呟くと同時に、母と妖精は「あっ」と小さな声を上げた。
車は緩やかなカーブを曲がりきり、夕焼けまぶしい西の空に背を向け、一番星が輝く群青色の空へとその鼻先を向ける。
良夜は『伶奈の事情』という物を詳しくは聞いていない。聞いても胸くそが悪くなるだけの話なのは間違いないだろうし、それを聞いたからと言って伶奈に対して出来ることが増えるわけでもないだろうと思ったからだ。
でも……
(まずかったか?)
と、内心思ったし、頭の上で
「……地雷探知機……」
と、嘆息する妖精に返す言葉がなかった。
しばしの沈黙。
カーステレオから流れるお気楽な女性ボーカルが妙に忌々しく、誰もが気まずい。
その娘が作った沈黙を母が破る。
「ああ、今夜は遠慮します。ご飯は炊くのですか?」
「美月さんがおにぎりを作るとか言ってましたよ。バーベキューコンロで醤油や味噌をつけて焼くとか……」
「良いですね、それ」
「……別に、お母さんに飲むなって言ってるわけじゃないもん……飲めば良いじゃん……」
良夜と由美子の会話に窓の外、そっぽを向いていた伶奈が言葉を挟めば、二人の会話が途切れる。
再び、女性ボーカルの脳天気なラブソングが場を支配する。好きだと連呼するだけのつまらない曲……
「……別にあなたに気を遣って飲まないわけじゃないから……」
母の言葉に伶奈は相変わらず、窓の外を向いたままで答える。
「……さっき、買うとか言ってたじゃん……飲めばいいじゃん……私の事なんてほっといて……」
「ほっとくとかほっとかないとか……そう言う問題じゃ……」
「……お酒、私が嫌いなの、お母さんは解ってると思ってた……」
「もう、飲まないわよ……」
「……飲んだら良いじゃん、お酒が嫌いなのは私で、お母さんは好きなんでしょ……」
と、当初は比較的冷静に言葉が行き来していた物の、それは次第に――
「だから、あなたは私にどうしろって言うの!?」
「だから、好きにしたら良いじゃんか! 飲むなり浴びるなりなんでもしたら!?」
「飲まないって言ってるでしょ!?」
「さっきは飲むって言ってたじゃんか!!」
と、由美子は伶奈の拗ねた口の利き方に神経を逆なでされてるようだし、伶奈は伶奈でしゃべってるうちにますます不機嫌になって行ってる様子。
ジムニーの狭い後部座席は親子げんかのリングと化していた。
その様子をルームミラー越しに眺めれば、良夜の唇からこぼれるのはため息だけ。
「……伶奈ちゃんって……切れると大声出すんだな……」
「しゃべってるうちにテンションが上がって、切れちゃうタイプよ」
良夜の頭の上、後ろを向いて寝っ転がってるアルトもため息交じりに答える。
良夜の存在を忘れて親子げんかに一生懸命な二人をルームミラー越しに見ながら、青年は「どうしたもんだろう……」と軽く頭を抱えながら、車を走らせていた。
その考えてごとをしている頭にするりと飛び込んできた小さな言葉。
「お父さんがあんな――」
無人の助手席の後ろ、視線を手元へと落とした少女のつぶやきが良夜の耳へと達するよりも先に、二つの声が叫ぶ。
「伶奈!」
と言ったのは由美子。
そして――
「由美子! 手!!」
アルトの聞いたこともないような鋭い声とルームミラーの中で手を振り上げる由美子の姿に、良夜は思わず、ブレーキを踏んだ。
足が動きブレーキがきき始めるまでの刹那、由美子の顔が跳ね上がり、ルームミラー越しに良夜と視線が交わる。
その瞬間、きっ! とタイヤが悲鳴を上げた。
結構な急ブレーキだ。
シートベルトが良夜の胸に食い込む。
そのシートベルトがない後部座席の二人が椅子から転げ落ちそうになって、助手席と運転席に体当たりしてくるし、挙句の果てには、良夜の頭の上に陣取っていたアルトが吹っ飛び、ペチン! と由美子の顔に張り付くほど。
「もう! 気をつけなさいよ! って、まあ、ちょうど良いわ、その辺に車突っ込んで!」
由美子の顔から身体を引きはがすと、彼女はトンと伶奈の頭の上へと飛び乗り、ポン! と、小さな手のひらで彼女の頭を叩いた。
「とりあえず、これと二人だけで話がしたいから……後、由美子も下りるのよって、伶奈、貴女が伝えるの」
「……――って……アルトが……」
伶奈が囁くような口調で母に妖精の言葉を伝えた。
「……解りました……って、言って……」
その言葉に由美子が答えた。彼女の振り上げた右手は、急ブレーキのおかげで自然と下りて、今は良夜の座る運転席のヘッドレストをつかんでいた。
「……お母さんの声は聞こえてるから……」
「そう……」
互いに互いから視線を外して、二人はぼそぼそと言葉を交わす。
またもや、始まる気まずい沈黙……
それから一分足らず、車は峠を少し越えたところにある小さな展望台に滑り込んだ。
良夜は車を展望台の駐車場へと止めると、助手席を倒した。
後部座席に座っていた由美子が助手席のヘッドレストを支えに、車を降りる。
その由美子と入れ替わりに良夜が後部座席へと顔を突っ込み、クシュンとうなだれる少女とその頭の上でふんぞり返ってる妖精に声をかけた。
「アルト……変なこと、言うなよ? あと、伶奈ちゃんも……そのバカ妖精の言うことは話半分で聞いてれば良いから」
その言葉に、伶奈は
「……うん」
小さく答え、アルトは
「うるさいわね、ちょっと話をするくらいよ。その辺でぶらぶらしてなさい」
今にもしっしっとばかりに手で追い払いそうな勢い。
若干……と言わずに不安にはなったが、良夜に出来ることもないし、かといってこの母娘を話し合わせてたら、また、喧嘩になってしまいそうだし……適当に間を置くのも悪くないのかも? と思いながら、青年は助手席のドアを閉めた。
バタン……と、随分と安っぽい音がした。
良夜の鼻腔を潮風がくすぐり、ようやく、彼はここが海っぺり、崖の上にある展望台であることに気づいた。
振り向けば、チノパンに開襟シャツ姿の由美子が東屋の軒の下に立ちすくんでいた。
少し、居心地が悪そうだ。
青年は数歩ほど離れた東屋の方へと近づき、手持ちぶさたな様子の由美子に声をかけた。
「不安なのは解りますけど、少し、間を開けた方が良いでしょうし……」
「……いいえ、私も少し頭に血が上ってしまって……危うく……」
そう言ってうなだれる女性を見やり、青年は思う。
(もしかして、あの瞬間、アルトの声が聞こえてたのかな?)
それを問いたい気持ちをぐっと飲み込み、青年は東屋の中に入った。
東屋の中には大きめの木製テーブルとそれを囲むように置かれた四つのベンチ。そのひとつに陣取れば、由美子もその向かいに腰を下ろした。
外へと目をやれば、太陽の最下部が水平線に掛かる頃だった。
心地よい潮風が良夜の頬を撫で、向かいに座った由美子の綺麗に切りそろえられた髪がその風になびく。
また、沈黙が始まった。
潮騒が遠くから聞こえる。
「浅間さんは……ご両親は……?」
ぽつりと由美子が尋ねた。
「親父は商社マンで海外あっちゃこっちゃを行ったり来たり……お袋もそれに付いていったり、時々帰ってきたり……お互い、『便りがないのは良い便り』を決め込んで、好き放題ですよ。就職のことも聞きやしないし、こっちも結果だけメールしてそれで終わりです」
軽く肩をすくめて青年は答える。努めて軽い口調、努めて平生を装った言葉。それが上手くいったかどうかは、青年には解らない。
そんな良夜に由美子も少しだけ格好を崩して笑みを浮かべる。
どこか人を安心させるほほえみだ。白衣の天使らしいと言えるかも知れない。
「それでも、ご両親は心配してますよ……」
「そんな物ですかね……?」
「そんな物です……親って……」
その由美子の言葉に対して、肯定することも、否定することもせず、青年は視線を海へと逸らした。
遙か下、遙か向こうを一隻の船が長い軌跡を穏やかな水面に刻んで走る。
「上手く伝わらなかったり、空回りしたり……大事な物を見落としてたり……」
「……伶奈ちゃんには伝わってると思いますよ、賢い子だって、皆言ってますし」
「そうですか?」
「ええ、アルトも前に褒めてましたよ」
良夜がそう言うと彼女はもう一度、目元を緩めてほほえんだ。
そして、彼女は言う。
「そうだと良いんですけど……上手く伝えられなくて……」
自信なさげに母はつぶやき、視線を海へと向けた。
彼女に釣られて青年も視線を海へと向けた。
先ほどよりも日は西の空に傾き、半分ほどが水平線の向こう側へと隠れていた。
静かに二人は夕日が落ちるのを見つめていた。
会話は特にない。
潮騒だけがやけに良く聞こえた。
日が沈む。
そろそろ帰らないと、美月達が待っているだろうか? とは思うが、あいにくスマホは車の中に置き去り。取りに戻るわけにも行かないだろう。
恋人への言い訳を考えながら、良夜はぼんやりと海を眺めていた。
そんなとき、随分と遠くから聞こえてくる脳天気なサウンド。聞き覚えのあるインストルメンタルは良夜がスマホの着信音にしているゲームソングだ。
「あれ?」
と、振り向き見れば、ジムニーの中から出てくる伶奈の姿。その右手には良夜の真新しいスマホ。
「あっ、あの……鳴ってる」
赤らめた顔の少女がそう言って、彼のスマホを青年に手渡す――
「……じゃなくて、鳴って、た……」
――も、直後に着信音が切れ、代わりに液晶画面に着信ありの表示が浮かぶ。
相手は美月。
かけ直そうとスマホのパネルを軽く撫でれば、その一歩早く伶奈のオーバーオールの胸元、大きなポケットの中から女性グループのボーカルが付いた音楽が流れ始める。
「わっ! わっ! わっ!」
慌てて伶奈が胸元からスマホを取り出すのを見ながら、青年は見守るような笑みを浮かべ、そして、言った。
「美月さんかな? 美月さんだったら、俺が出ても良いよ」
「じゃあ……こっ、これ」
手渡されたスマホを撫でて、耳元にあてれば、聞こえてくるのは恋人の声。
『あの、良夜さん、います? 何かあったんですか?』
「もしもし? 俺。ゴメンゴメン、何かってほどのことでもないんだけど……」
『えっ? 良夜さん?』
「ゴメン……ちょっと……今、景色見てた」
『はぁ……景色、ですか?』
素っ頓狂な声を出す恋人と電話越しにしゃべりながら、良夜は一端、車の方へと足を向けた。
東屋に取り残される母と娘。
二人が何かをしゃべっているのは見て取れたが、それが何を言ってるのかは、潮騒と美月の声に遮られて聞こえることはない。
「すぐに帰れるから、先にやってても良いよ」
電話口の向こう側では貴美がなにやら大声を上げ、それに直樹が応えているのが聞こえる。どうやら、準備は万端のようだ。
『良夜さん達、もうすぐ、帰ってくるそうですよ〜! って……解りました。それでおばさんはお酒、飲むんですか?』
「どうかな……? まだ、解んないけど……飲むんじゃないのかなぁ……」
『そうですか? じゃあ、帰りに少し買い足してきて下さいね』
「りょーかい。ああ、酒代は自分で出すってさ」
『はーい!』
話しているうちに良夜の足はジムニーの元へ……その愛車、ボンネットの上にはちょこんと隅っこに腰を下ろした妖精の姿。通話を切ると、妖精は良夜の顔を見上げて尋ねる。
「美月から?」
「そうだよ……で、伶奈ちゃんにはなんて?」
「別に。格好悪い事したって自覚のある子に、『格好悪い事したわね。気分はどう?』って聞いただけよ」
「……悪趣味だな」
すまし顔で応える妖精に、苦笑いで返して、青年は助手席のドアを開いた。
無人の助手席に伶奈と自身のスマホを並べておくと、パタンとドアを閉じた。
その閉じた助手席のドアに、青年はもたれかかる。
気づけば、もう、太陽の大半は水平線の向こう側。残照だけが空を赤く燃やしていた。
ボンネットの上からトンと飛び上がり、妖精は良夜の頭にちょこんと着地を決めた。
上から降ってくる金色の髪と小さな顔、そして、大きな瞳が青年を見つめて言った。
「まっ、これでもう一回喧嘩したら……」
妖精が言葉を句切る。
「喧嘩したら?」
その区切りに誘われて、青年が鸚鵡返しに尋ねれば、妖精は大きな瞳をニマッと緩めて応える。
「二人ともあそこに置いて帰りましょ? お腹が空いたわ」
「……鬼か? お前は……」
「タクシーを使えばすぐよ……由美子のハンドバッグ、ここにあるけど」
「外道だな……」
「でも、まあ、大丈夫よ。格好悪いこと、二回するほど、バカな子じゃないわよ」
頭の上で妖精は自信たっぷりにそう言った。
青年はその言葉に軽い頷きだけで応えた。
そして、母と娘が良夜とアルトの待つ車へと帰ってくる。
「お帰り。親子げんかは終わったの?」
頭の上からアルトが尋ねれば、伶奈はカッと顔を真っ赤にして応える。
「けっ、喧嘩なんてしないもん!」
「さっきまでしてたじゃない?」
「してない! ひねるよ!?」
「ここまで手が届くなら、やってみたら?」
「ずるい!」
「お前……俺を安全地帯にするのはやめろ……――」
膨れる少女と頭の上で挑発的に手を振る妖精、その二人に挟まれながら、青年は苦笑い。頭の上の妖精にひと言だけ言うと、視線を気恥ずかしそうにしている母へと向けて、尋ねた。
「それでどうします?」
「……少しだけ、ちょっとだけ、飲むって」
答えたのはふくれっ面でアルトをにらみつけていた少女の方だった。
彼女は良夜の頭の上から視線を下、良夜の目線に合わせると、彼女はすだれの前髪越しに、はにかむような笑みを浮かべた。髪質も雰囲気も随分と似てない母娘だと思っていたが、こうやって恥ずかしがるところはよく似ているように思えた。
そして、彼女は言った。
「酔っ払わないくらいだけ……って、約束してくれたから……」
「娘の前で酔っ払ったりはしないって……」
娘の言葉にまた母は照れ笑いを浮かべる。
東の空には月が顔を出し始めていた。
そして……
「脱いじゃダメだって!!! 今日は、伶奈ちゃんもいるんよ!?」
貴美の叫び声がコテージの庭先にこだまする。
始まったバーベキュー。
酔っ払って痴態を見せたのは、娘と共にここに参加している由美子でなければ、他の男達でもなく、脱ぎ魔の三島美月嬢。まあ、彼女の痴態は良夜達に取ってみれば『日常茶飯事』ではあるが、伶奈にしてみれば初体験。
「あの……その……えっと……」
服を脱ごうとする美月とそれを止めようとする貴美とのバトルに目を白黒。その周りでは良夜も直樹も苦笑いでビールを飲みつつ、肉を突いてるし、アルトはアルトでケラケラと楽しそうに笑いながら……
「って、アルト! Tシャツ、ぱたぱたするのやめてよ!! おへそが見えてる!!」
って、テーブルの片隅、足を投げ出すように座って自分のTシャツでぱたぱたと仰いでるし、それを指摘したって
「大丈夫だわ、良夜が見たら、目んタマ、えぐるから」
って感じで馬耳東風。
ため息一つ付いたら、テーブルの上、美月が開いてそのままだった缶チューハイをひょいと取り上げ、ぽかんと事の成り行きを見守っている母の元へ……
「……どーぞ……」
「良いの?」
ため息交じりにコトンと置いたら、母はきょとんとした表情で飲みかけの缶酎ハイを手に取った。
「……美月お姉ちゃんにこれ以上飲ませるわけに行かないじゃん……」
向こうでは、美月が着ていたワンピースのジッパーに手をかけてるし、貴美がその手を押さえようとしているし……良夜と直樹は見ない振りをしているし……と、ちょっとしたお祭り風景。
「まあ……それもそうね……ねえ、伶奈……」
グラスに缶チューハイを注ぎながら、母が呟く。
「何?」
「飲んでみる?」
「……お酒、嫌い……それに、私、まだ、中学生だよ?」
「そのコーラのグラスに缶酎ハイを混ぜた程度なら、たかがしてるわよ」
「……お母さんも酔ってるの?」
「少しね……」
赤い頬で母が笑った。
そういえば、母がこんなに力を抜いて笑うのを見るのはいつぶりくらいだろう……と、伶奈はふと思った。
こっちに来て以来か……もっと前……父が仕事をクビになった頃から見ることがなくなったような気がする……
それが伶奈には嬉しくて、少女は憮然とした表情を維持したままではあるが、小さめの声で答えた。
「……ちょっとだけだよ……」
「解ってるわよ」
飲みかけのコーラのグラスに桃色の缶チューハイが注ぎ込まれる。
ほんの少しだけ黒い液体の色が薄くなったような気がする。
それをぺろり……舐めるように飲んだら、母がやっぱり赤い顔で尋ねる。
「どう?」
「……解んないけど……ちょっと苦い?」
「その一杯で終わりよ」
「解ってるよ……」
ちびりちびり……コーラの缶チューハイ割という珍妙な味の液体を伶奈はぺろぺろとなめるように飲み続ける。
ぱちぱちと爆ぜる木炭の音、肉の焼ける芳ばしい香りと、美月と貴美を中心に騒ぐ学生達と、半裸の妖精。それから、ほろ酔い加減の母……賑やかな酒宴に伶奈は小さく呟いた。
「……少しだけ……お酒、好きになれそう……」
その声は誰の耳にも届かなかった。
ご意見ご感想、お待ちしてます。