伶奈の海(6)

 海に到着である。
 遠浅の海には色とりどりの水着達。波打ち際のちょうど良いところはおおむね誰かの陣地として占領されているようだし、海の家は数こそ少ないがどの店も盛況そう。
 流石にお昼からの出勤とあって、波打ち際の特等席というわけにはいかないが、それでもさほど遠くない一画にレジャーシート一枚分の陣地を確保することが出来た。そこに、各自が手分けして持ってきたクーラーボックスやお菓子やらをレジャーシートの上に置いて、それからビーチパラソルをセットしたら準備は万態。
 綺麗な海と空、その間で遊ぶ見知らぬ人々、ぼんやりと眺めながら、一息ついていたら、
「んじゃ、また、じゃんけんで決めようか?」
 なんて言う貴美の声が聞こえた。
「なに?」
 伶奈が振り向き尋ねると、答えたのは美月だった。
「荷物の番ですよ」
「えっ?」
 と、未だぴんとこない伶奈に美月が「ですから……」と説明を始めた。
 流石にカードの類いが入った本命の財布はおのおのコテージの貴重品入れに置いてきているが、海の家で飲み食いしたり、自販機でジュースを買ったりする程度の小銭は必要だ。それに、携帯電話やスマホ、デジカメ、車の鍵なんかもある。誰か一人は荷物の番に置いておかなければ不用心。その誰かを決めるためのじゃんけんをしようって話だ。
「ああ……なるほど……」
 説明されて、伶奈はぽつりと呟いた。
 言われてみれば、どうって事のない話。むしろ、そこに思い至らなかったことが恥ずかしい。自分もスマホと財布は持ってきているのに……
「交代はするけどね」
 美月の説明に良夜が補足説明すれば、伶奈は「うん」と小さな声で返事。
「最初はグー! じゃんけん! ポン!」
 と、貴美が大声で宣言をすると、全員がパーを出す中、一人でグーを出したのは――
「あっ……」
 ――伶奈だった。
 ちなみにアルトまで伶奈の頭の上で開いた手のひらを突き出してたのだが、仮に彼女が独り負けだった場合、どうしたのだろう? と言う当然の疑問はひとまず、棚に置くことにした。
「……という感じで三回勝負ですね」
 笑みが凍り付く一同の中、最初に我に返ったのが、直樹だった。
 おそらくは一発勝負だったんだろうな……とは思うが、ここでそれを言い出すほど伶奈はプライドが高いわけではないし、泳ぎたくないわけでもない。
 そして、今度は直樹が音頭を取る。
「じゃあ、二回目! 最初はグー!」
 …………
 細かい成り行きは省くとして、結果は伶奈の見事な三連敗。しかも、“あいこ”すらなく、ストレート負けという、なんかもう、他の四人が示し合わせてんじゃないか? って疑惑も沸いちゃう負け方。まあ、四人とも、二回目の敗北の時には絶句してたし、三度目の今は無言のまま、天を仰ぎ見てるから、彼らにも想定外だったのだろう。
 もちろん、伶奈にしても想定外、突き出した二本の指をまじまじと見つめて呆然としていた。
「……想定外なのは貴女の弱さよ……」
 頭の上でアルトが呆れていたが、そのつぶやきは聞こえないふりをすることにした。
 ここで素直に留守番をしていられるほど伶奈は大人じゃない……が、逆にごねるほど子供でもない。正確に言うなら素直にごねられるほど、プライドを捨てきることが出来ない程度に子供でもあるとも言える。
「…………良いよ、私、番してるから……皆、泳いできて」
 なので、プーッとほっぺたを膨らませて、ぺたんとレジャーシートとまぶしすぎる太陽の間に腰を下ろす事が、伶奈に出来る精一杯であった。
 そんな感じで膨れる玲奈の隣、ビーチパラソルが作る影の下に良夜が腰を下ろした。
「えっ?」
 きょとんとした表情で座り込んだ良夜を見やれば、良夜は軽く笑みを浮かべて答える。
「俺も残るわ」
「あら、紳士」
「こんな所に女の子一人置いていけるわけねーだろう?」
「まあ、それもそうね」
 頭の上のアルトと隣の良夜が話してるのを聞きながら、伶奈は体育座りでぽつりと漏らす。
「……大丈夫だもん……アルトだっていてくれるし……」
 喧噪の中、消えてしまいそうなほどにかすかな声。その声が空へと消えていくのとほぼ同時、アルトがフンワリと伶奈の顔の前に頭と髪を垂らして、言う。
「……私が残る前提なの?」
 水平線の手前でアルトの顔と長く美しい金髪が揺れる。
 その小生意気な顔を見ながら、伶奈が尋ねる。
「残らないの?」
「まあ……残っても良いけど……」
 揺れる顔がどこはどこか不服そうと言うか、仕方ないと諦めてるといった感じというか……
「……嫌なら、いなくっても良いけど……」
「じゃあ、そうしましょ――って、速攻でわしづかみはやめなさいよ、冗談だから……」
「ふんっ……」
 金髪危機一髪を膝の上に置いて伶奈はぷいっとそっぽを向いた。
 逸らした視線の先、見えているのは賑やかな海の家と嫌味なほどに晴れ渡る空。そして、真っ白にそびえ立つ入道雲とその向こう側、天頂、太陽へとまっすぐに伸びていく飛行機雲。
 膨れてる自分がちっぽけすぎて泣きたくなるような空に、海鳥が気持ちよさそうに飛んでいく。
 その海鳥をぼんやりと見上げていると、伶奈の隣で女性の声がした。
「それじゃ、私も残りますから、お二人で適当に楽しんできて下さい」
「なんよ? 美月さんまで残んの?」
 美月と貴美の声だ。
 その声に釣られて伶奈が視線を戻せば、良夜と伶奈の間、ちょうど、パラソルが作る日陰ぎりぎり辺りに腰を下ろす美月の姿が見えた。
「昨日、たらふく遊びましたから」
 お尻をレジャーシートの上に落ち着け、美月が言った。
 その美月に対して、立ったまま、直樹のエメラルドグリーンのパーカーを脱ぎながら、貴美が応える。
「……散々、引っ張らせたもんね……美月さん……」
 そう言う貴美の顔は苦笑いというか、呆れ顔というか……何とも言えない感じだし、その隣、トランクス型の海パンの上にTシャツを羽織っている直樹も同じく苦笑い。
「えへへ……」
 と、笑ってごまかす美月の方も少々ばつが悪そうだ。
「また、やらされたの?」
「また、やらされたの。大変だったよ」
 そして、伶奈の手の中でアルトが美月の向こう側で貴美と美月のやりとり聞いていた青年に言えば、その青年も苦笑いで応える。
 解らないのはただ一人、伶奈だけ。
「なんの話?」
 膨れていたことも忘れて、伶奈は不思議そうな顔で尋ねる。
 その言葉に反応したのは直樹だった。恋人の隣に立っていた青年は、伶奈の前にしゃがみ込むと、視線の高さをレジャーマットの上に座っている少女に合わせて、口を開いた。
「自分がぶら下がってる浮き輪を他人に引っ張らせるって言う、わがままな遊びですよ。偉そうなことを言ってますが、吉田さんも僕に引っ張らせました」
 サムアップされた親指が背後、大きな胸を偉そうにふんぞり返している貴美へと向く。
「まぁねぇ〜楽しませてもらったんよ。後で伶奈ちゃんも、なおかりょーやんにやって貰えば?」
 直樹の頭の上、伶奈の顔を見下ろして貴美が言った。
「いいの?」
 尋ねてみれば、良夜と直樹は互いの顔を見合わせ、そして、軽くほほえんだ。
「良いよ」
「良いですよ」
 二人がほぼ同時に答える。
 膨れていた頬が収まり、ちょっとだけ笑みに変わった。
「うん……ありがとう」
 顔を赤くし、うつむく少女の手元で――
「痛い!いたい!!イタイ!!! 照れ隠しで私の身体を締め付けないで!!!」
 と、妖精が叫んでいた。

 と、言うわけで、伶奈の海はまずは荷物の番から始まることとなったのだが、伶奈にはもう一つ、大きな仕事があった。
「ねえ、伶奈、背中に日焼け止めクリームを塗ってくれるかしら?」
「えっ?」
「日焼け止めよ、日焼け止め」
 ごくごく普通の日焼け止めクリームのチューブもアルトが持てば抱き枕か何かかと思うようなサイズ。それをどこからともなく引っ張り出してきた妖精さんは、伶奈の膝の上にポテっとそのチューブを放り出したら、有無を言わせずに、伶奈の膝の上にちょこんと腰を下ろした。
 背中を向けて座る妖精、その長い金髪がたくし上げられると白い背中が目に入った。色違いではあるが同じフリル付きのワンピースと思っていたのだが、この背中の開き具合は伶奈の学校指定のそれとは随分違う。
「……私が?」
「良夜には頼めないでしょ? 私は淑女よ?」
「……じゃあ、去年まではどうやってたの? 良夜くんだけでしょ? 見えてたの」
「自分で塗ってたわよ」
 って言うから、どうやって? と、軽い気分で実演させてみたら 思わず吹き出し、伶奈は呟く。
「ぷっ……ふしぎなおどり……」
 腕を背中に、上から回したり、下から回したり、右手でやったり、左手でやったり、じたばたとあがいている姿はまさに『不思議な踊り』としか言いようがない。
「……何かが召還されそうだよな……クトゥルフ的な」
 と、良夜が呟くの聞けば、確かに何かが喚び出されてきそうな気がする。悪魔みたいなの……と言っても、伶奈は『クトゥルフ』って言う物をよく知らないのだけど。
「いあ! いあ! はすたあ!」
「……お前もノリが良いな」
 良夜が呆れ顔で言えば、アルトは正座した伶奈の膝の上、置いてあったストローをわざわざ拾い上げたかと思うと、ペチン! と勢いよく投げ捨て、彼女は大声を上げた。
「うるさいわよ! アホな事させてないで! 伶奈はさっさと背中に塗りなさいよ! それから、良夜は美月が怒ってるわよ!」
 との言葉に思わず視線を動かしてみれば、取り残される形の美月がパラソルの下でぽつーんと座っていた。その顔、口元は笑っているのだけど、目が笑っていないというか……有り体に言うと、ちょっと怖い。
「あはは、ゴメンゴメン」
 軽く笑いながら、良夜が美月の元へと戻っていくも、美月はつーんとそっぽを向き、その不機嫌さをあらわにした。
 そんな二人の様子を身ながら、膝の上でアルトが若干の呆れ口調で伶奈に言った。
「言わんこっちゃない。まっ、切れ美月の対応は良夜に任せて置いて良いわよ」
「切れ美月?」
「美月は余り怒らないけど、変なところで変な怒り方をするのよ。それを切れ美月って呼ぶの。それより、早く、塗ってよ」
 言ってアルトは伶奈の膝の上にぺたんと腰を下ろした。長く美しい金髪が再び両手で持ち上げられると、真っ白く細い首筋と白い背中があらわになる。
「あっ、うん」
 そう答えて、伶奈はペタペタとアルトの背中にペタペタと日焼け止めクリームを塗り始めた。
 その背後では――
「どーせ、どーせ、私なんて……」
「伶奈ちゃんとアルトと三人で遊んで私はほったらかしですか?」
「アルトの実況中継は良夜さんのお仕事なんですよ?」
 と、美月が良夜相手にねちねちと文句を言っているようだが、アルトによるとじゃれてるだけなのでほっとくと良いらしい。確かに当初『口元が笑って目が笑ってなかった』美月ではあるが、文句を言ってるうちに『口元は怒っているが目は笑っている』感じになってるし、良夜も困ってはいるけど、どこか楽しそう。
「仲、良いんだね……」
「割れ鍋に綴じ蓋か、蓼食う虫もって奴よ」
 背中を向けたままでそう言うアルトの頭をペチン! とデコピンの要領で弾けば、彼女の身体がぐるん! と勢いよく回ってこちらを向いた。
「ちょっと!」
「終わったよ」
「……ありがとう……もう、全く……」
 不服げな表情を見せながらも、持ち上げていた髪を下ろして立ち上がった。
「なんなら貴女の背中にも塗ってあげましょうか?」
「私は焼けても良いよ」
 答えると伶奈はグーーーーーーーっと大きく身体を伸ばした。
「ふわぁ……ちょっと、眠い……かも……」
 大きく開いた口からあふれ出る眠気、それがアルトにも移ったのか、彼女もグーーーーーっと大きく背伸びをして、言った。
 伶奈は羽織っていた白いパーカーを脱ぎ、そして、丁寧に畳み、レジャーシートの片隅に置いた。そして、アルトが
「朝、早かったものね……私も眠いわ」
 と、呟くの聞きながら、レジャーシート、日当たりの良いところにころんと寝転がった。
 うつぶせ……腕を枕に頬を手のひらの上に置く。
「暑くないの?」
「暑いけど気持ちいい……」
 頭の上から落ちる言葉に応えて、伶奈は目を閉じる。
 楽しげな海水浴客の喧噪と潮騒が耳に心地良い。それに、肌をじりじりと焼く太陽とその肌を優しく撫でる潮風のコンビネーションも伶奈を心地よい世界へと誘う。
「泳がないで寝るの?」
「……後で泳ぐよぉ……アルト、うるさい……」
「……私も寝ようかしら……」
 もそもそと背中の上でアルトが動いているのを感じる。少しくすぐったい。文句を言ってやろうかとも思ったけど、すでに伶奈の意識はそれすらかなわないほどに拡散していた。

 そして……
「あれ……伶奈さん、寝てるんですか?」
「早起きしてたみたいだからな……しょうがないさ」
 一時間ほど経って貴美と共に帰ってきた直樹が微笑を浮かべて呟けば、良夜が答える。
「どうする? 寝かしておく?」
「もう少し寝かしておきましょうか? 明日も泳げますし」
 尋ねた貴美に美月が答えた。
「そだね。じゃあ、美月さんとりょーやん、泳いで来なよ。私となおでここは見てるから」
 そして、貴美がそう言えば、直樹と良夜もそれに頷き、良夜は美月と共に波打ち際へと向かった。
 それを見送り、直樹と貴美は、良夜と美月の二人が座っていたビーチパラソルの日陰に腰を下ろした。
「幸せそうに寝てんね?」
「三時か……四時くらいに起こしましょうか? そのくらいならまだ少しくらいは泳げますし」
「そだね」
 貴美と直樹がそう言ったのだが、朝早くから電車に揺られていていた二人が起きたのは夕方の五時。すっかり海水は冷たくて、泳ぐどころの話ではなかった……

「……――のは、まあ、良いんだけど……」
 コテージのお風呂場、素っ裸の少女がアゴをあげ、自身の首回りを一生懸命鏡に映してみていた。
 小麦色に焼けた肌に、白い水着の跡。
 そして……
「アルト……これ、どー言うこと?」
 伶奈の怒気を孕んだ声に真っ裸の妖精は慌てて首を振った。
「しっ、知らないわよ、こんなの!」
 そして、首にくるんと巻き付けられた白いわっか。まるで首輪のよう。
「なんで見えない癖に日焼けの跡だけ残るんだよ!?」
「知らないわよ! 紫外線的な何かだけ遮ったんじゃないの!?」
 どうやらアルトは伶奈の首に手を回して寝ていたららしく、それが日焼け跡で残ってしまったらしい……

 なお、貴美がその首回りを見て……
「……ああ……『背中にバカ』事件を思い出すやね……」
 と、若干、機嫌が悪くなった。

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