伶奈の海(4)

『……――ご乗船ありがとうございました』
 高速艇の中、接舷を知らせるアナウンスが響く。
「やっと着いたね。ジェリドじゃないけど、お腹が空いたかも……」
「お昼は美月がピザを焼くとか言ってたわよ」
 椅子から立ち上がる伶奈が言うと、頭の上からアルトが答えた。
「ピザかぁ〜この間食べた、ジャガイモのピザ、美味しかったよ」
「ああ、ジャーマンピザね、あれも良いわね。私はマルゲリータが一番好きだわ」
「マルゲリータって……トマトソースとチーズの簡単な奴? あれも美味しいよね」
「バジリコを忘れちゃダメよ。バジリコがあるからこそ、イタリアの国旗に見立てられるんだから。知ってる? イタリアの国旗」
「えっと……赤と白と……青?」
「それ、フランス……」
「授業で習ってないもん……」
 アルトの突っ込みに顔を赤くしながら、他の乗客に混じって、伶奈は船を下りた。
 周りには定員百四十名の高速船を五割ほど埋めていた乗客達。家族連れだったり、一人きりだったりと、その顔ぶれは様々。
 短いタラップを渡ればそこは南の島。足下、桟橋の下から聞こえてくる波の音、真っ青に晴れ上がった空は自宅の窓から見たそれとは比べものにならないほど高いし、その空の中で存在を誇示する太陽は伶奈の白い肌と黒い瞳を容赦なく焼く。
 手のひらをひさしに、太陽を見上げて伶奈は感嘆の声を上げた。
「……わぁ……まぶしい……それに潮の匂いが凄い」
「まさに絶好の海日和って感じね」
 頭の上でも妖精が弾んだ声を上げる……も、それはその一言だけ。頭の上でもそもそもと動く気配があったかと思うと、
「まあ、あそこでドナドナされて行く牛みたいな面してる連中にとっては絶好の仕事日和って感じだけど……」
 と、冷たいお言葉。その言葉に、玲奈も思わず苦笑い。そして、その『ドナドナされていく牛みたいな面』をした連中がいるところへと視線を向けた。
 それは彼女の数歩後ろ、下り行く乗客達のほぼ最後尾。人混みの向こう側には、うなだれ、暗い顔をして立ってる男どもが三人いた。
「ああ……下りたくねぇ……」
「……このまま、クルージング行きてぇ……世界一周の」
「……俺、現場行かずに済むなら、南氷洋で下ろされても良いわ……」
 灯、俊一、そして、悠介の三人組。
 JRのターミナル駅で合流してからこっち、彼ら三人は常にこんな感じというか、近づけば近づくほど陰鬱な表情へと変わってきた感じ。高速船が接舷する頃にはまさに『ドナドナされてる牛』みたいな顔になっていたのだ。
「まあ……伶奈はこれからぱーっと海でバカンス、自分たちは大きなリゾートホテルの解体現場って言われたら、嫌な気分にはなるでしょうねぇ〜」
「……そこまでイヤなら、辞めれば良いのに……」
 ぽつりとこぼせば、妖精は伶奈の頭の上から右肩へと飛び降り、トンと着地を決めて、伶奈の顔を覗き込む。そして、ニマッと底意地悪そうな笑みを浮かべると、彼女は言った。
「実入りが良いから、辞められないのよ。スキルも資格も職歴もない学生短期アルバイトでこれ以上の収入なんてないわよ」
「ふぅん……」
 不思議そうな表情で相づちを打ち、伶奈は桟橋を出口へと向かう人の流れから身を引いた。
「待つの?」
 ってアルトが尋ねると、伶奈は
「うーん……別に……」
 と中途半端な返事をしつつも、立ち止まった。そして、首だけが後ろへと周り、彼らの様子に意識と視線を向ける。
 やる気のない三人ではあるが、いつまでも船内に留まるわけにも行かない。周りに人が少なくなれば、吸い込まれるかのようにとぼとぼとタラップを渡り、桟橋へと到着。
「お待たせ、行こうか?」
 すれ違いざま、灯が呟くような声で言った。
 その横を悠介と俊一が一歩先に進む。
 そして、伶奈は灯と並んでその場から足を踏み出した。
 同級生の中でも小柄な伶奈に対して、灯は大人の中でもかなりの長身、その差は実に四十センチ。まさに大人と子供と言う奴だ。
 その高い位置にある青年の顔を見上げ、伶奈は言った。
「大丈夫? 灯センセ」
「まあ……今夜からは夜はゆっくり眠れるからね、大丈夫だよ」
「なら良いけど……ジェリドは死んじゃっても良いけど」
 伶奈の言葉にジェリドこと悠介が足を止め、その隣の俊一も釣られて止まる。
 そして、その二人の間を灯と伶奈が割って入れば、四人は人の減った桟橋を横に広がって歩き始めた。
「ぜってぇ、生きて帰ってやる……」
 ぶすっとぶっきらぼうに悠介が答えると、俊一が伶奈の頭の上、灯の後ろから手を回し、悠介の頭を指さして、言った。
「大丈夫だよ、伶奈ちゃん。最終日はオフだから、その時、こいつは崖から落とすか、砂に埋めか、海に流しておくから」
「そうそう、こいつのせいで安全靴で荷物抱えて朝からダッシュだもんな、たまんないって」
 冗談めかした明るい口調と人なつっこい笑みで俊一が言えば、それに灯も格好を崩して尻馬に乗った。
「じゃあ、ジェリドともこれでお別れね。伶奈、さようならを言っておきなさい」
 楽しそうに笑う三人に釣られて、伶奈も頬を緩めて言葉を繋いだ。
「……――ってアルトも言ってる。バイバイ、ジェリド」
「手を振るな、糞ジャリ」
 手を振る伶奈に悠介本人は流石にむすっとした表情で歩を早めれば、周りの三人が「あはは」といっそう大きな声を上げて笑う。
 ほんの少しだけ一団の進む速度が上がった。
 と、そんな感じで青年三人に女子中学生一人に妖精さん一人という奇妙なグループが人もまばらな待合室に入った。
 見知らぬ他人が思い思いに時間を潰している中、見覚えある顔が並ぶ一団が一つ。女性二人に男性一人の集団、彼らは伶奈の顔を見つけると「あっ」と小さな声を上げ、一斉にこちらを向いた。
 美月、貴美、それに良夜の三名だ。
 どうやら、他の乗客はほとんどが出てきたと言うのに、伶奈が出てこないことにしびれを切らし、入り口すぐ傍から桟橋の様子をうかがっていたようだ。
 その三人が伶奈達四人、否、アルトを含めて五人を見つけると、一様に目をパチクリ。お互いの顔を見合わせた後、その場を代表するかのように貴美が尋ねた。
「ありゃ? なんであんたらがいるんよ?」
 その言葉に今度は三バカが軽く肩をすくめ合う番。互いに顔を見合わせたら、灯が代表でかくかくしかじかとここまでのあらましを簡単に説明し始めた。
 その説明を聞きながら一同は歩き始めた。もっとも、長い説明が必要な話ではないし、この一同が一緒に歩ける距離もたいした物ではない。余り広くない待合室を通り抜け、日差しまぶしい炎天下を駐車スペースまで歩く、わずか数分で終わり。モスグリーンの軽自動車が止まる一画にまでたどり着く頃には、話はあらかた終わっていた。
「そんな偶然もあるもんなんですねぇ〜」
「イヤ……たぶん、凪姉が明後日からこっちに来るから、それの様子を見に行かせるためにこの仕事を親父が段取りしたんですよ。あの人、凪姉が世界で一番大事だから。伶奈ちゃんに会ったのは偶然……かな? 名前しか知らない女の子のために仕事の段取りを付けるような人ではない……と言いきれないけど、エスコートさせるつもりならもうちょっと確実な段取りを付けそうだし……ああ、でも、凪姉にばれたら凪姉が怒るから……ばれないことを優先したらこういうやり方にもなるか……?」
 美月が不思議そうに問いかけると、灯は口元に手を当て、考え込むような仕草を見せながら、そう言った。
 その独り言が終わるか終わらないかというタイミング、貴美は整った顔を苦笑いに変えて言う。
「変わったパパやね?」
「考えてることは単純なことですよ」
 灯が貴美にそう答えるとほぼ同時、ぱーんと一台の車がホーンを鳴らした。それは大きな白いワンボックスカー、薄汚れた車体には『石川工務店』の文字があるところを見れば、彼らを『ドナドナ』するためにそこにいるのであろうことは、伶奈にも察することが出来た。
「ああ……見つかったか……じゃあ、俺ら、行くんで……」
 灯がそう言って踵を返すと他の二人も口々に別れの言葉を告げ、それに従った。
「……センセも、真鍋さんも……後、一応、ジェリドも……えっと……一緒にいてくれて、退屈せずにすんだから……ありがとう……仕事、がんばってね」
 去りゆく背中に伶奈が気恥ずかしさを覚えながらにそう言って、軽く手を振る。
 すると、三人は一瞬足を止め、顔をこちらに向けた。
 真っ青な空と真っ白な雲と真っ赤な太陽……トリコロールの世界でこちらに向いて手を振る青年達がほんの少しだけ格好いいと思ったことを伶奈は心の戸棚に片付け、二度と引っ張り出さないで置くことに決めた。

 駐車スペースのほぼ対岸、随分と遠くに止まってるワンボックスカーへと向かう三バカを見送った後、伶奈はモスグリーンの軽自動車――良夜のジムニーに乗り込んだ。
「後部座席狭くてごめんね」
 運転席に乗り込んだ良夜が、バックミラー越しに伶奈の顔とその頭の上にちょこんと乗っかっているアルトの顔を一瞥してそう言った。
 確かにかなり狭い。小柄な伶奈であるというのに、膝が運転席の座席にこすれてしまうくらい。伶奈は車のことには詳しくないが、軽貨物車であるジムニーにとって後部座席はオマケのような物で、シートのクッションは固く、シートベルトすら付いていない。
 もっとも、隣で小さくなって座っている貴美に比べたらマシと言わざるをえないか? 背が高い分、脚も長い。少し斜めに向いて座る姿はかわいそうなほどに窮屈そうだ。
 シートと車体が作る小さな隅っこに女性らしい身体を押し込み、彼女は不満げな表情と口調を隠さずに言った。
「だから、アルトの方で来ようって言ったのに……」
「あっちには荷物が積みっぱだろう?」
「じゃあ、こっちに荷物詰んでりゃ良かったじゃんかぁ〜」
「今更言っても仕方ないって。起きたの、遅かったし」
「だってしょうがないじゃん? ちょー久しぶりの飲み会なんよ? 飲まないのはアルコールへ冒涜じゃんか?」
「どんな宗教にかぶれてるんだよ、吉田さん……」
 運転席の良夜と助手席後ろの貴美がぽんぽんと言い合っていれば、助手席に座っている美月が「あはは」と明るい口調で笑ってみせる。
 狭くも車中は楽しげな雰囲気。
 その車が港を出て、海沿いを走る県道へと出た。
 対向車も後続車も余りいないガラガラの道を良夜の運転する車がのんびりと走る。まずはこのまま、近くのスーパーに行くそうだ。そこでお昼の材料を買うのだという。
 車が峠の上り坂にさしかかる頃、トーンとアルトが伶奈の右肩から飛び上がり、運転席に座る良夜の頭に着地を決めた。
「あっ、所で、直樹は?」
「コテージで留守番だよ、軽だから、もう、乗れないし。吉田さんと美月さんは買い物があるし、この車、ミッションだから皆運転したがらないし……」
「そして、美月のアルトは荷物満載っと……まあ、しょうがないかしらね?」
「そういうことだよ……っと、アルトが直樹はどうした? ってさ」
 良夜の頭の上に寝転がり、アルトが青年と話し始める。
 長い脚がぱたぱたと膝で折れたり伸びたり……木靴に包まれたつま先が小気味良く良夜の頭を蹴っ飛ばす。
 そんな姿をぼんやりと眺めていると、ふと、隣に座っていた貴美が伶奈に声をかけた。
「どったの? ぼーっとして……早起きして眠い?」
「えっ? あっ……ううん……ただ、アルトが他の人と話をしてるのが……ちょっと、新鮮って言うか……不思議な感じがして……」
 慌てて首を左右に振り、伶奈は貴美の方へと顔を向けた。
 大きな鳶色の瞳がまじまじと伶奈の顔を見つめていた。
「それ、良夜さんも言ってましたよね?」
 良夜の方へと美月が向いて言えば、良夜は真っ正面、峠を登る急な坂道を見つめながらに答えた。
「えっ? ああ……まあねぇ……変な感じはするよなぁ……そー言えば、アルトの奴が迷惑かけてない?」
「うん……大丈夫。それに今日は……アルトのおかげでお母さんが先に来るのを許してくれたわけだし……」
 青年の言葉に伶奈は少しだけまじめな顔で応えれば、アルトはぽんと伶奈の頭の上へ飛び乗り、彼女の頭の上から彼女の顔を覗き込んで言った。
「あら、珍しいわね?」
 目の前で揺れるアルトの小さな頭と長い金髪、そして、生意気そうな金色の瞳。
「ふんっ……後で、ひねるから……」
 気恥ずかしさにそっぽを向けば、対向車線の向こう側にはコンクリートで補強された山肌。道はその山肌を沿うように大きくゆったりとカーブしていき、そして……
「わぁ……」
 山肌が途切れれば、そこは峠の頂点、その向こう側は水平線。地球の丸さを実感出来るほどに何もない水平線が峠のてっぺんから遙か彼方、遠くに見えた。
 運良く対向車線に車は見えず、彼女が水平線を独り占めすることを防ぐ物は何も居ない。
「……さっきまで海の上にいたくせに……」
「……だって、ここ、凄く高いから、凄く遠くまで見えるし……」
 頭の上でそう言って茶化すアルトも半ば無視して、伶奈はぺたりと額を窓に押しつけ、遠くにまで広がる海を見つめた。
 そのはるか下を先ほど伶奈が下りたばかりの高速艇が、波のない穏やかな海に細く長い軌跡を刻みつけて、走っていた。
「帰ったら、すぐにピザ焼いて、食べてちょっと休んだら一泳ぎやね、伶奈ちゃん、何ピザが良い?」
 貴美に聞かれると、伶奈が答える。
「ジャーマンピザ!」
「りょーかいです」
 その言葉に応えたのは美月の方だった。
 車は峠を下り、その先にあるスーパーへ向かう。
「食べたら、泳いで……楽しみね?」
 弾むアルトの言葉に伶奈は
「うん」
 と力一杯答えた。

 と、その一方……伶奈達のジムニーと反対方向へと走り出した社用車は海に背を向け、一路、山へと駆け上がって行ってた。
「……海が……」
 呟く悠介の言葉に運転席に座った中年太りのおっさんが言った。
「心配すんな! 現場からは海がよく見えるから!」
 その言葉に三人の心は一つになる。
(むしろ、見たくねーよ……)
 なお、彼らの食事は現場すぐ傍にある小汚い定食屋だった……のだが、そこの鯖味噌煮込み定食が泣けてくるくらい美味しかったのが、逆に悔しかったらしい。

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