伶奈の海(2)

 今回の旅行、「これが最後だから……」と言うことで、前半三日を良夜と美月、タカミーズの四人が一緒に行き、後半に翼と凪歩の二人が行くことになった。
 この提案がなされた時、翼と凪歩が「えっ?」と顔色を変えたのは、ちょっとした余談。
 そして、旅行が終わった後――
「意外と大丈夫だった」
 と、異口同音に答えて、美月が机の上でのの字を書いたのは、さらなる余談である。

 さて、そんなこんなで、伶奈出発当日……その日、伶奈の目覚めは早かった。
 それは夜も明けきらぬ午前五時のこと……
「起きなさい、伶奈……伶奈……」
 ゆっさゆっさと身体が揺すられる。
 薄目を開ければ霞の向こう側には、すでにすっかりと身支度を調えた母の姿があった。
「ああ……もう……?」
 伶奈が母にこんな時間にたたき起こされてるのには、もちろん、訳がある。
 これから朝一番私鉄の始発とJRの急行を乗り継いで港まで行き、そこから高速船で皆が待つ島へと渡る。先日の話し合いで決められたとおり、伶奈は仕事のある母よりも半日先にアルト共に高速船で島へと、向かうことになっていた。
 で、その高速船、何時の物に乗ろうか? って話をしているときに、
「せっかくだから、早いのに乗りましょう。始発を乗り継いでいけば、お昼から泳げるわよ」
 と、言い出したのがアルトだった。
 その言葉に対して、旅行前の高揚した気分で
「そうだね」
 と弾む口調で答えてしまったのが伶奈である。
 そんでもって、それじゃ、母が早出なんだからそれに会わせて出掛けちゃえばいいや……って言い出したのは誰だったであろうか? 伶奈だったような気もするし、アルトだったような気もする。
 どちらにせよ、その提案にどちらも別に反対はしなかったわけだから、
「……眠い……」
 のも、自業自得である。
「……だから、母さんは言ったのよ……電車の中で寝過ごしても知らないわよ?」
 しょぼしょぼと目をこする伶奈に対して、母が呆れたような声を上げる。
 も、伶奈は慌てず騒がずに答えた。
「……アルトに起こして貰うもん」
 ベッドの上から下りると、パジャマに包まれた身体をぎゅーーーーーっと大きく伸ばし、夜の残り香を胸一杯に吸い込む。その未だ冷たい空気に息が目覚めていくのを感じるも、まだまだ、眠い。いくら目をこすったところで、ぱっちり開かない。
 一方の母はすでに制服姿に着替えてるし、髪もピッと整えてる。それに、職業柄派手ではないが要所を押さえたお化粧は実年齢よりも若く見えさせて、働く女、出来る女のオーラを背負っていた。
「……お母さん……いつ……起きたの?」
「三十分くらい前よ。ほら、顔を洗って……後、アルトさんも起こして」
「はーい……」
 つぶやくように答えると、伶奈は隣のキッチンへと足を向けた。
 今日、アルトは西部家に泊まっている。流石にこの時間からアルトには迎えに行けないからだ。
 普段からシンクの上だの食器棚の中だのと言った変なところを寝床にしている妖精さんは、西部家に泊まるに際してもシンクの上を自らの寝床に決めた。一番下には濡れた布巾を三つ折りにした物、その上にはビニールをかぶせ、一番上には乾いたタオル、掛け布団はレースのハンカチと念の入りよう。簡易ウォーターベッドのつもりらしい。安いパイプベッドと比べると、こちらの方が寝心地良さそうでちょっと悔しい。
 そんなベッドを玲奈に作らせた妖精さんは、グーグーと気持ちよさそうに眠っていた。
「アルト……朝だよ……」
 つぶやき、掛け布団代わりのハンカチを引っぺがしたら、そこには――
 ――マッパの幼女がいた。
 この妖精は真っ裸でないと落ち着いて眠れないという変わった性癖を持っている。それは一部では周知の事実ではあるが、伶奈にはまだ伝わっていない……と言うか、今伝わった。
「うわぁっ!!??」
 の悲鳴と共に、めくったタオルごとアルトの布団を平手打ち! ぱちーん!! と良くしなる華奢な手が顔へと叩き付けられれば、
「ぎゃーーーーーーーーーーーーー!!!!」
 と、妖精さんは悲痛な悲鳴を上げるしかない。
 流石にまずいと思って手を引っ込める。
 それと同時に、ポン! とアルトはまるで打ち上げ台から打ち上げられたロケットのように飛び上がり、伶奈の目の前へと達した。
「なっ、なにするのよ!? このバカ!!!」
「そっ、そっちこそ、なんて格好で寝てるの!? 変態妖精!!」
 全裸のままに飛び上がった恥女妖精が大声を上げれば、少女も裸族妖精に向かって大声で応える。
「私は服を着てると眠れないの!」
「どこでそんな変な体質になったんだよ!? 変態! 変態妖精!」
「だからって、ひっぱたくことないでしょ!? 死ぬわよ!!」
「私だってびっくりしたの!」
「貴女はびっくりしたら人を殺すの!? じゃあ、お化け屋敷に入ったら、何人人を殺すのよ!」
「マッパの妖精がいるほど、びっくりしないもん!」
「恐がりのくせに!」
「恐がりじゃないもん!」
 主に鼻の周りを中心に真っ赤な顔の妖精さんと主にほっぺたを中心に真っ赤な顔の少女、二人がギャーギャーと大声を上げていると、飛んでくるのは母の怒鳴り声。
「朝っぱらの忙しいときに喧嘩しないで!! 冷静な顔をしてても眠いのよ!!!」
 殺気を孕んだ声に少女と妖精の背筋がピン! と伸びて、気持ちいい返事を一発。
「「はい!!」」
「さっさと顔を洗って! 着替えなさい! 駅まで車で送って欲しいんでしょ!? それとも歩いて行くの!?」
 母は強かった。
 意外と。

 さて、その頃……
 喫茶アルトから数駅離れたところにある郊外の住宅地。ここらの家はどれもこれも結構な大きさであるが、その中でも特に大きくて目を引くのが、言わずと知れた凪歩と灯の姉弟が住まう時任家である。
 通常は両親に姉弟二人の四人暮らしの家に現在は二人の若い男が泊まり込んでいた。
 灯の友人、真鍋俊一と勝岡悠介の二人だ。
 この話を聞いたとき、美月は
「大丈夫なんですか? いろいろと……」
 と、心配した物だが、された凪歩の方はあっけらかんと答えた。
「大丈夫だよ、私の部屋は内側から鍵が掛かるし、私が家にいる時はお母さんも家にいるし、何より、灯含めて三人とも――」
 軽い口調でそう言い、そして、最後に彼女は一言付け加えた。
「死んでるから」
 そう、三人は見事に死んでいた。
 ただでさえきつい肉体労働の上、彼らは普段やってるバイトを休んでいない。余り運動をしたことのない悠介は言うまでもなく、高校時代野球部でレギュラーを張っていた灯も俊介も死んでいるというのだから、彼らの現状がどれだけきついか、理解していただけるだろう。それは、うら若き同居人にちょっかいを出すどころか、風呂に入ったら湯船でおぼれかける事数回という体たらく。
「……おい、起きろ……」
 やけに遠くから声が聞こえた。その声の主を思い描くよりも先に訪れた一瞬の浮遊感と後頭部への衝撃。
 ゆっくりとまぶたを開く。
 霞む視野には、見慣れた幼なじみが枕を抱えて立っていた。
「……もう……朝か……寝た気分がしねぇ……」
 小さな声でつぶやき、目責めた青年――時任灯は軽く頭を振って、枕元のスマートフォンを引っ張る。
 タッチパネルを触れば薄暗い部屋の中、ぼーっと液晶の灯りが青年の顔を照らした。
 時間は五時五分……ちなみに寝たのは十二時を過ぎてたはずだから、都合五時間弱しか寝てない計算。そりゃ、眠くて当たり前。
「寝てないからな、実際」
 灯の頭の下から引っこ抜いた枕を投げ返し、俊一がそう言い、そして、言葉を続けた。
「バイト掛け持ちはきついよな……」
「そーだよなぁ……きついよなぁ…………そう考えると、今日からの出張は息抜きになるのかぁ……?」
 流石に去年の夏まで毎朝朝練前のジョギングをやってただけのことはある。いくら寝不足でも寝起きは良い。ベッドから下りてグーーーーーーーーーーっと身体を伸ばせば、頭の中に張り付いていた眠気も霧散し、霞んでいた視野も晴れていく。
 そして、青年は窓へと近づき、カーテンに手をかけた。
 窓は東向き。勢いよく開けば、住宅街を照らす朝日が青年の八畳ほどの部屋へと差し込んできた。
 その光が照らす二組の布団。
 一つはすでに空っぽ。もう一つにはグーグーと眠る悠介の姿と、中腰になって悠介の枕をつかんでいる幼なじみの姿。
 俊一は悠介の頭を押さえつつ、そーっと枕を抜いたら、頭を押さえている手を放す。
 すとん! と、落ちる頭。
「……んっ……んんっ……すぅ……ふぅ……」
 されど、奴はうなり声と共に寝返りを打つだけで、起きることはない。
 そこで青年は立ち上がり、そして、奴の顔面を踏みつける。
「うおっ!?」
「おっす、ジェリド、良い朝だな」
 跳ね起きる悠介に軽い言葉を返す俊一。
「おっ……おう、おはよ……なんか、凄い夢見た」
「そうか? 夢日記でも付けてろ」
 ペタペタと自身の顔を撫でてる悠介と素知らぬ顔の俊一を見やり、
(こいつら、本当に友達なんだろうか?)
 と、一抹の不安を抱えつつ、青年は寝汗に濡れたTシャツを脱いだ。余分な肉のついてない、引き締まった身体が朝日に照らし出される。
「いよいよ、今日から島か……」
 その鍛え抜かれた身体の上に真新しいトレーナーとバイト先の解体屋から支給された作業着を身にまといながら、青年はつぶやいた。
「……私鉄にJRに高速船か……せめて、JRまで車で送れよな……糞社長とお前の糞親父……」
 灯のつぶやきに答えるように、俊一もつぶやいた。そして、彼も大きなボストンバッグから灯同様にトレーナーと作業着を取り出し、着替え始めるのを灯は視線の片隅にとらえた。
 その広背筋から線を逸らす。
 そして、青年はぽつりと言った。
「……旅費に色がついてんだから、文句言うなよ……」
「まあ、そうだけど……朝飯、どうする?」
「…………ジェリド次第だろう?」
 互いに背を向けたままの会話が止まり、二人が振り向き、一点へと視線を向ける。
 そこにはぼんやりと座り込んだままの悠介がいた。
 慣れない肉体労働に梅雨明け直後からの狂ったような日差し。この二つにやられて、夏もまだ始まりきってないというのに、悠介は重度の夏ばて中。昼や夜はともかく、寝不足の朝はほとんど飯を食えないような状態になっていた。
「……しかし、今日は朝が早いから、食わないと昼まで保たないぜ?」
 灯が言うと俊一は悠介の前にしゃがみ込み、青年の顔を覗き込むような仕草で尋ねる。
「……そうだよなぁ……ジェリド、飯、食えそうか?」
 悠介はぽつりと答えた。
「…………そうめん…………」
「朝の五時からそうめん茹でてくれる彼女を見つけてこい」
 俊一が突っ込むと悠介は「そうか……」とまるで幽鬼のような表情のまま、ふらふらと立ち上がった。おぼつかない足取りで向かったのは部屋の一画、彼の荷物が置かれたところ。そこに置かれた大きなボストンバッグを漁り始めた。
 ゼンマイの切れかかったおもちゃみたいな感じの友人を横目で見やる。大丈夫か? と不安な気持ちをいったん棚上げにし、灯は幼なじみへと視線を向けた。
 すでに作業着に着替え終えている幼なじみは灯の体温が残るベッドへと腰を降ろし、ふぅ……と力ないため息を吐いていた。
 同じく浅黄色の薄汚れた作業に着替え終えると、灯も幼なじみの隣に腰を下ろし、言った。
「……そー言えば、コンビニにそうめん、売ってるぜ?」
「マジで? うどんや蕎麦なら見たことあったと思うが……うまいのか?」
「意外と、これが」
「試食済みか……」
「コンビニでバイトしてるから……あと、最近、コンビニの変な新製品を押さえるのがマイブームで……」
「……そう言う不健康な趣味は止めろ……お前んちのおばさん、飯がうまいんだから、家で食えよな。アルトでも食い放題のくせに」
「バイトの後に腹が減るんだよ……エアコン、効いてるし、コンビニは」
「現場にもエアコン、欲しいよなぁ……って、ジェリド、まだ、用意出来ねえのか? コンビニにそうめん、食いに行くぞ?」
 と、俊一が灯との会話に区切りを付けたとき、ジェリドこと悠介は――
「スー……スー……」
 寝ていた。
 自身のボストンバッグを抱き枕に寝ている姿は、随分と幸せそう……
 その姿を見つめたまま、数秒の沈黙……灯も俊一も事態が把握出来ずに呆然とその気持ちよさそうな姿を眺めてしまう……と言うか、二人ともちょっとうらやましいと思ったのは、隠しようのない事実。
 されど、そのままでいることも出来ず、二人は互いの顔を見合った後、小さく頷き、そして、叫んだ。
「「起きろ! バカ!!」」

 てなことがあった十五分後……
 ガラガラなくせに二両編成の電車が、コトコトとのんきに走っていた。その車内は、座るどころか寝っ転がることすら誰の迷惑にもなりそうにないほど。
 そんな始発電車の片隅、長いすの一番前の席にちょこんと座る伶奈の姿があった。
 その頭の上から、滑らかな金色の髪がふんわりと落ちてくれば、小さな顔に穿たれた大きな金色の瞳が伶奈の目の前で左右に揺れる。
「それで……朝ご飯はどうするの?」
「……駅を下りた所にマックがあるから……朝マックしよ」
 伶奈がそう答えると、アルトは露骨に嫌そうな顔をして言った。
「えー? まっくぅ?」
「……エッグマフィン、食べたいもん」
「貴女、曲がりなりにも喫茶店のウェイトレスでしょ? マクドナルドのマフィンで喜ばないで……マフィンサンドならアルトにもあるわよ」
「……アルトにいるなら、サンドイッチよりもパスタかピザが食べたいもん」
「……ややこしいわね……」
 呆れたアルトがひょいと顔を上げて、伶奈の頭の上へと帰って行く。そのアルトの姿を見送り、頭の上でもぞもぞ動いてる気配を感じながら、伶奈は視線を窓の外、プラットフォームへと視線を向けた。
 ちょうど、電車が動き出す。
 ゆっくりと流れていくプラットフォーム……駅名標が向こうから近づき、遠ざかっていく……
「……そういえば、凪歩の家、この駅が最寄り駅だったわね……知ってた?」
「前に……聞いたかも……」
 つぶやき、伶奈は窓枠に頬杖をついて流れる景色を眺める。
 プラットフォームが途切れて景色は住宅地へ……線路とごくごくありふれた住宅地の間には、細い路地、その上には真っ青に晴れ上がった空と生まれたばかりの太陽。
「気持ちいい天気だね……暑くなりそう……」
 伶奈がぽつりとこぼした。
「そうね……早く泳ぎたいわね」
 アルトが答えた。
 車内には静かな時が流れていた。

 その線路と住宅の間には……
「高速船……間に合うか?」
「……きわどいから、一本早くしたんだろう……?」
「……死ぬ……もう、ダメだ……」
 行き過ぎる電車を呆然と見送る三つの影があったのだが、残念ながらそれを灯、俊一、そして、悠介であることを、伶奈が気づくことはなかった。

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