伶奈の海(1)

 さて、伶奈達中学生が夏休みに心をはせる頃、大学生達は一足先に夏休みモードに突入していた。もっとも、落としてしまった単位の補講と再試験があったりで、100%夏休みと言えるかどうかは個々人次第と言ったところ。
 なお、時任灯、真鍋俊一、勝岡悠介の通称『三バカ』は『落とせない単位は落としていない』というなかなかの好成績を納め、すっかり夏休みモードに突入していた。
 この結果を伝え聞き、
「三バカがバカじゃない……」
 と、目を丸くしたのが悠介と同じアパートの同じ階に住んでるアマナツこと天城夏瑞。
 そして、その言葉を聞き、
「知識量があることとバカであることは両立するんよ」
 と、言ったのが全然勉強してるようには見えないのに恐ろしく成績が良く、それなのに周りから『バカ』と言われ続けている吉田貴美嬢。本人が言ってんだから説得力だけはある。
 そんな感じの夏休み開始直後、とある週末の深夜、灯は悠介の家に遊びに来ていた。
 三バカの中で一人暮らしをしているのは悠介だけだから、集まるとなるとごくごく自然と悠介の家、と言うことになっている。ここに集まり、酒を飲んだり、くだらない話をしていたり、ゲームをやってたりって感じで時間を潰すことが多い。特に灯は夏休みになっても伶奈への家庭教師は休みではないどころか、普段よりも長めの授業になっているから、こちらにいることが多い。
「お前ら、夏休みはどうするんだ?」
 尋ねたのは灯だ。下戸の彼の前には家主悠介お手製の麦茶が一つ。グラスの表面には涼しげな水滴、すーっと滑って落ちると黒い座卓の上に小さなシミを作った。その汗を掻いたグラスをつかんで一口。こくんと、喉を潤しながら、自身が持ってきたつまみ代わりのスモークチーズへと手を延ばす。
 両側を絞った包みを開いて、褐色のチーズをぽいと口に放り込む。
 そのチーズが咀嚼されるよりも早く、俊一が答えた。
「未定……寂しいもんだよ」
 答えて彼は発泡酒へとて伸ばす。灯のグラス同様にうっすらと汗を掻いている缶を手に取れば、彼はグビグビと無造作に飲み干していく。どうやら、こいつは結構酒に強いらしい。
 彼は空になった缶をテーブルの上へと戻すと、ふぅ……と大きな息を吐いた。
 その見事な飲みっぷりを見ながら、灯は一言、つぶやく。
「だと思った……」
 この幼なじみがそう答えるのは半ば想定の範囲内だった。毎日顔を合わせながら生きてきて十数年、行動パターンはだいたい解ってる。
「俺も未定」
 が、こちらが――この家の家主勝岡悠介がこう答えるのは少し想定外。
「「えっ?」」
 それは俊介も同様だったようで、ほぼ二人同時に顔を上げると、間の抜けた声を上げた。
「……彼女もいねーし、バイク買うために金は使いたくねーし……どんな予定を立てろって言うんだ?」
 二人の反応に心外だとでも言わんばかりの無造作さで、彼は発泡酒の缶をつかみあげ、口を付ける。あまり太くはないがしっかりと確認出来るのど仏が上下にごくごくと動く。
 それをじっと見つめ、止まるのを待って、灯は問うた。
「帰省は?」
「やんねー。金と時間の無駄」
 あっさりとした口調で悠介は答え、手にしていた発泡酒の缶を座卓の上に戻した。
 コト……っと、軽めの音がした。
「それで……灯は?」
 発泡酒の缶からポテチへと手を動かしつつ、悠介が問う。
 その問いに灯は麦茶のグラスを手に取りながら、灯は答えた。
「ああ……まあ、その話なんだけどなぁ……親父がバイトやんねえか? って……で、体力の有り余ってる男、二−三人、暇してるなら連れてこいって……」
「割は良いのか?」
「深夜のコンビニで弁当並べてるのに比べたら、驚くほどに」
 尋ねた俊一の顔を見ながら、灯が答えれば、俊一と悠介が互いの顔を見合わせる。
 そして、もう一度、俊一が尋ねる。
「なんの仕事だ? お前んちの親父さんが話を持ってきたんなら、ゼネコン系か? ガテン系?」
「まあ、そんなところ。解体屋の下っ端。今、あの業界人手不足らしくて……使える手はネコの手でも欲しいんだとさ。少なくとも俺やシュンなら体力だけは間違いないし」
 と、灯が説明すれば、名前を挙げられなかった三人目の男が顔を上げて、尋ねた。
「俺も良いのか?」
「あるのか? 体力」
 そう言って、灯が問い返せば、再び、悠介が問い返す。
「あると思うか?」
「いいや。じゃあ、辞めとくか?」
「ないけど、いく。金、欲しいし」
「死して屍拾う者なし、って事でオーケー?」
「おーけー」
 灯と悠介の間を行ったり来たりしてた質問は、最終的には悠介の言葉で終止符が打たれた。

 さて、そんな感じで始まった三バカの夏休み及び特別アルバイトであったが、それを一言で言い表せば――
「……センセ、大丈夫?」
 と言う一言に集約されていた。
「えっ? あっ……」
「出来たよ、問題集……」
 パチクリと瞬きを数回、灯は辺りを見渡した。
 ここは喫茶アルト、窓際隅っこ、いつもの席。目の前には頭の上に人形のような“モノ”を乗っけた少女が一人。その背後に広がるのは、緑まぶしい盛夏の山と真っ青な空、上る入道雲。
「あれ?」
 つぶやき、もう一度瞬きをすれば、頭の上の人形は消え去り、同時にその少女が自身の教え子であることを青年は思い出した。
「ああ……ゴメン、ゴメン……ぼーっとしてた」
「……ぼーっとじゃなくて、完全に寝てたね……って、アルトが言ってる。大丈夫?」
 すだれの前髪の向こう側から少女が心配そうな表情で青年の顔を覗き込む。その大きな瞳に気恥ずかしい物を感じながら、青年は数学の問題集を受け取り、そして、ごまかすように視線を問題集へと落とした。
「うん……まあ……大丈夫……最近、肉体労働やってるから……」
「バイト? 大変だね……」
 伶奈はそう言いながら新しい問題集を開いた。
 今度は英語の問題集。
 英語は比較的伶奈の得意分野だから予習や復習よりも難しい問題や言い回しを教えることに注力している。今、彼女が開いたのも有名な学習塾等でも使われている問題集だ。これを悩みながらも的確に解いていくのは、見てて気持ちが良い。
 が、今日の灯にそれを見ている余裕はなくて、手元に押しつけられた数学の問題集の答え合わせをするのが精一杯。頭の動きもいまいち良くない。普段なら見ない解答集も、今日は見ないことには、答え合わせも出来ないという体たらく。
 問題集と解答集、左右の手に分け持ち、青年は答え合わせをしていく……
 と、少女がぽつり……と言った。
「アルトがやる気がないなら帰れば? って言ってる……後でひねっておくね……」
「…………イヤ、ひねらなくても良いけど……ここしばらく、朝早くから夕方までずっと肉体労働だから……夜のコンビニのバイトも休んでないし……ごめんね」
「別に……良いよ……それに来週は、私、こっちにいないから……次の家庭教師はお休みして貰うし……」
 英語の問題集に視線を落としたまま、少女がそう言う。シャーペンの動きによどみはなく、彼女がスムーズに問題集を解いて言ってることが見て取れた。
 そのシャーペンの動きが止まり、少女の顔が跳ね上がって、一言問う。
「……――なに?」
「ん?」
「ううん……アルトの方……急に髪を引っ張ったから……」
 灯の素っ頓狂な声に少々顔を赤くしながら、彼女は再び、視線を手元、開いたままだったノートへと視線を落とす。
 再び動き始めるシャーペン……
 そして、彼女は言葉を静かに紡ぐ。
「……家庭教師の授業、一回飛ばしちゃうから……宿題、貰っておけって、お母さんが……それ、アルトがいつ言うんだ? って……」
「……まじめだね……今日は持ってきてないから、来週までにジェリドにでも届けさせるよ」
 灯が答えると再び伶奈のシャーペンが止まり、顔が上がった。
「あれ……ジェリド、いるの? てっきり、帰ったんだと思ってた……」
 伶奈が目を丸くして尋ねた。
 伶奈が言うには、ここ数日、アパートでも見かけないし、部屋に人の気配はしない。アルトの方にも来ている様子がないから、てっきり、実家に里帰りしたのだと勝手に思い込んでいたようだ。
「いいや……あいつ、今、うちで寝泊まりしてるんだよ……もう、現場仕事に完全にやられちゃって……家に帰ったら、一人で起きられないって……今、うちに下宿状態なんだよ……シュンと一緒に……」
「ふぅん……セーセーしてたのに……帰省はしないの?」
 つぶやきながら、伶奈は三度問題集へと視線を落とす。
「帰省はしないってさ……金がないとか……バイトがしたいとか……」
「ふぅん…………」
 つぶやき、伶奈は意識を問題集の方へと集中させるし、灯も答え合わせへと意識を向ける。
 静かな時がしばし、流れた。
 から〜ん……と、遠くで喫茶アルトのドアベルの音が鳴った。
 そして、伶奈がぽつりとつぶやいた……
「……帰れるなら、帰れば良いのに……」

 その翌々日。その日は伶奈の終業式。部活もないから久しぶりのお早いお帰り。
 とんとんと小気味良く階段を駆け上がり、自宅へと続く角を曲がる。すると、そこでは、悠介がドアの前でうんこ座りをしていた。
 その手元には古びた煙管、先っぽから立ち上る紫煙が独特の香りを放っていた。
 ここで伶奈が悠介に会うのは十日ぶりくらいだろうか? 具体的にいつが最後だったのか? ってことは覚えてないが、たぶん、それくらいだったような気がする。
 その悠介が顔を上げた。
「……よぉ、ジャリ。お帰り……」
「ただいま、ジャリって呼ぶな……――って……」
 上げた悠介の顔に伶奈の足が止まった。
 まじまじと悠介の顔を見てみる。
 この間までの悠介は、色白で細面の整った顔をしていた。ちょっと中性的でいわゆるイケメンって奴だ。それがどうしたことだろうか? なんというか、一言で言って――
「……汚い顔……」
 そう、悠介の顔は汚かった。
 真っ黒に日焼けしているし、頬やあごでは不精髭が伸び放題。髪も手入れされてないようで、ぼっさぼさ。目の周りには真っ黒い隈が浮かび上がってるし、目にも生気がない。しかも、着ているのは浅黄色の汚れた作業着だ。デザインもなんだかパッとしないし、細面のイケメンが台無しだ。
 伶奈の顔を一瞥し、青年は吹かしていたキセルを口から離した。紫煙たなびく雁首を、灰皿の縁にコーンと叩き付ける。青年が良くやる仕草ではあるが、その音もどこか間延びしているというか、力強さがないというか……
「……汚い顔って言うなよ……くそジャリ……解体業の下手間が思ったよりきついんだよ……灯達みたく、身体を鍛えてるわけでもねーし……」
 不機嫌そうというか、疲れ切っているというか、覇気のない表情でつぶやく言葉に力強さは皆無。ゆるゆるとした仕草で煙管を弄びながら、青年はぼんやりとした視線で中空を眺めていた。
 その喧嘩相手の疲れ切った姿に調子が崩れるというか、なんというか……
 ぷいっと伶奈は踵を返すと玄関ドアを開けて、室内へ……靴を脱いだらつかつかとキッチンに上がって、目指すは冷蔵庫。その前に立ったら、無造作にドアを開く。
 ひんやりとした空気が冷蔵庫から漏れ、伶奈の頬を優しく撫でる。
 ほんのりと汗の浮かぶ頬にその風が心地良い。
 その心地よい冷風を感じながら、中の物を一つ、握りしめる。
 そして、外へ……今度はスニーカーではなく、サンダルを引っかけて飛び出す。
 自宅のテリトリーから一歩、お隣のテリトリーへ……足を踏み入れたら、無造作に右手を突き出した。
「はい、これ……お母さんが夜勤明けに飲んでる栄養ドリンク……元気、出るんだって……」
「サンキュー……ありがたくいただくわ……あっ、これ……灯が宿題だってさ」
 受け取られるスタミナドリンクと引き替えに小さな紙袋が差し出された。
 どこかのデパートのロゴが入った紙袋、それを開いてみれば、中には問題集が三冊か四冊。一冊一冊が分厚いというわけでもないが、それでも、
「……多い……」
「やれる範囲で好きなだけやったら良いってさ……夏休み全部か……二学期に入ってからでも良いし……ともかく、あげるから、好きにしろってさ」
 そう言いながら、悠介はキセルをたばこ盆の片隅に戻すと、早速、栄養ドリンクの封を切った。
 パキパキ……
 アルミの封が切れる音が音が通路に響く。
 そして、青年は一息に栄養ドリンクを飲み干すと、一言言った。
「……まずぅ」
「返せ」
「もう遅い」
 伶奈の言葉に少しだけ先ほどよりも少しだけ気力ありげな笑みを浮かべてみせる。
 そして、青年の手がたばこ盆のキセルをつまみ、新しい刻み煙草を丸めて突っ込んだら、雁首が灰皿の中へ……小さな火種に押しつけられる。
「ふぅ〜」
 紫煙が青年の口から吐き出され、初夏の高い空へと消えていく……そういえば、もう、梅雨は明けたとか、今朝のニュースで言ってただろうか?
 その様子を見ながら、悠介を真似るように自宅のドアにもたれかかり、中腰……になるとなんか、下着が見えそうだから、結局、スカートのままで体育座り。太ももに手を回してスカートを押さえて……
 ようやく、お尻が落ち着いたら、改めて悠介へと視線を向ける。
 青年は、中空、初夏の熱気をほどよく帯びた空気に紫煙が混じって解けゆくのを眺めていた。
「そー言えば、帰省、しないの?」
「まぁな……面倒くさい……金もない……」
「ふぅん……帰れば良いのに……」
「心配しなくても、少ししたらいなくなるって……出張バイトなんだよ……」
 悠介は伶奈の言葉の意味を取り違えたようだ……が、それをいちいち訂正はせず、青年が見ている空へと視線を向けた。
 空が高い。
 大きな入道雲が黙々と立ち上がっていた。
 その高い空と大きな入道雲に向かって、一筋の紫煙がすーっと流れ、そして、消えていく。
「……臭い」
「この匂いが良いんだよ」
 伶奈のつぶやきに青年は匂いの元を生み出しながら答えた。
 そんな時間が数分……
「んじゃ、行くか……着替え取ってシャワー浴びたら、また、灯んちにもどんねーと…………まずかったけど、元気になったような気はするよ」
 そう言うと悠介はコーンと灰皿の縁にキセルの雁首をたたきつける。
 先ほどよりかは、心なしか、甲高く、澄んだ音……だったような気がした。
「これで出張バイトもがんばれそうだ……」
 軽く笑う。日焼けと不精髭、目元の隈、それから顔に付いた油汚れは元のままだけど、どこかさっきよりも精気のある顔。そして、彼はたばこ盆を手に取ると、立ち上がった。
 立ち上がった青年を座ったままの少女は見上げる。
 見上げる青年の汚れた顔、その後ろには雲一つない快晴が広がっていた。
「私も明後日から海だよ。お母さんやアルトの人たちと一緒に行く奴……」
「そー言えば、灯の姉ちゃんもそんなこと言ってたな……溺れるなよ? くそジャリ」
「ジェリドこそ、仕事のやり過ぎで過労死しちゃえ!」
「栄養ドリンク分は長生き出来そうだよ……じゃあな、くそジャリ」
「べー!」
 立ち去る背中にあかんべーを見せる。
 また、しばらく顔を合わせることもないか……と思えば、セーセーするような……なんて思っていたのだが、彼と彼女は思わぬ所で再会を果たすことになる。
 それは、これからちょっと先のお話……

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