夏の準備(完)

 ぼちぼち夏休みも見えてくる七月頭、喫茶アルト内で一つの問題が持ち上がっていた。
「今年の社員研修、どうしたら良いと思います?」
 最近すっかり経営者としての役割を押しつけられている美月が営業終了後のお茶会でその相談をテーブルの上に置くと、そのテーブルを囲んでいた二人の女性従業員達は互いの顔を見合わせた。
「どうするもこうするも……去年と同じで良いんじゃないの? 吉田さん、帰ってくるんでしょ? 夏休み」
 最初に答えたのはコーヒーゼリーをスプーンですくっていた凪歩だ。その凪歩の答えにブルーベリーのタルトを突っついていた翼も軽く頷く。
 ……も、ショートケーキを食べる手を止め美月はため息一つこぼした。そして、彼女は珍しく表情を曇らせ、言った。
「……伶奈ちゃんですよ」
 美月がそう言うと翼も凪歩も「ああ……」と半ば反射的に声を上げた。
 毎年、夏になると喫茶アルトにはとある大きな旅行会社からコテージの無料チケットが送られてくる。送り主はその会社のお偉いさん。大学時代、アルトでただ飯を食って命を長らえていたという卒業生だ。
 恩返しというか……
「出世払いで良いわよ、利息はたっぷり付けてね?」
 と言った真雪の言葉(冗談)を律儀に守っている、と言うのが正しいだろうか? ともかく、毎年毎年、和明宛に昔を懐かしみ、近況を報告する手紙にチケットが添えられて送られてくる。
 そのチケットは美月がアルトの従業員やらら親しい友人やらを連れて旅行に行くのが、ここ数年の恒例行事になっていた。
 その旅行はたいてい一週間ほどの行程になってて、凪歩達が入ってくる前までは美月と良夜、それからタカミーズにアルトの五人で一週間、凪歩達が居た去年は前半三日、後半三日の二グループに分かれて、その一週間を別荘で過ごした。
 のだが……
「中学生を三日も四日も預かるのは流石にどうかと思いますし、かといって、中学生だから留守番というのも……だったら、もう、いっそのこと、今回はなかったことにしちゃおうかとも思いますが……お二人は楽しみにしてるでしょうし、送って下さる方にも失礼かと……悩んでるわけなんですよ」
 美月が悩みの種をそう言うと、凪歩も翼も一様に押し黙った。
 沈黙の時が流れる。
 くしゃっ……と美月の手元、アイスコーヒーのグラスに敷き詰められたクラッシュアイスが崩れた。
「まあ……しょうがないんじゃないのかなぁ……うちの親なんてこの歳でも未だに外泊なんて、強制参加の研修旅行だーっとでも言わなきゃ許してくれないし……灯のヤローが週末はほぼ帰ってこないのを許してるくせに……」
「じゃあ……どうします? 大人だけで行っちゃいます?」
「旅行は大人だけで行って……後で伶奈ちゃんを海かプールにでも連れて行っちゃえば? 朝早くに出れば日帰りでも結構遠いところまで行けるしさ」
「うーん……」
 凪歩の提案に対して美月は腕組みをすると、目を閉じうなるような声を上げて沈思し……始めたところにぽつりと小さな声が静かなフロアに生まれた。
「……私は連れて行っても大丈夫……だと、思う」
「えっ?」
 閉じていた目を開いて、美月が翼の方へと視線を向ければ翼はぽつりぽつりと言葉を選ぶようにしゃべり始めた。
「……あの子は……バカな子じゃない……それに、あの海は……遠浅だし……溺れるような所でもないから……それに、アルトでも付けさせておけば……たぶん、大丈夫……」
 そこまで言うと、翼はフォークをタルトの取り皿の上に置き、アイスコーヒーのグラスへと手を伸ばした。
 コクン……と、少なめに一口飲む。
 白い喉がかすかに動くのを眺めていると、美月の指先にかすかな刺激が一回。一回の刺激は肯定の意味。この場合『面倒を見る』事への同意と取っても良いだろう。
 されど、美月の言葉は煮え切らなかった。
「……アルトがそれで良いのは良いんですけど……ねぇ……」
 ぼんやりと煮え切らない口調でつぶやけば、隣に座った凪歩が美月の顔を覗き込むような仕草をして、尋ねる。
「何か問題?」
 少し下側、覗き込んでる凪歩の顔を見ろし、美月が答える。
「ですから、凪歩さんが先ほどおっしゃったとおりの事ですよ……」
「あっ……ああ……親?」
「そうですよ……中学生で三日とか四日の外泊、許してもらえますかねぇ……?」
 ぽんと手を打つ凪歩に美月がこくんと頷く。
 そして、流れるしばしの沈黙……静寂。
 国道、遠くからトラックが近づき、そして、離れていくのが聞こえた。
 その音の残響さえ、消えてしまった頃、ぽつり……と、翼が言った。
「…………親も、呼べば?」

 さて、翌日。美月は早速その話を由美子と伶奈にすることにした……ら――
「……私だけ親同伴……私だけ別棟……私だけ一泊二日……」
 と、伶奈が速効で拗ねた。
 そもそも、この話が始まった時点で、伶奈の機嫌はすでに悪かった。
 そういうのも、美月は伶奈に話をする前に、昼間、アルトにお昼を食べに来ていた由美子に話をしてしまったのだ。ここがボタンのかけ間違えた場所。
 この日の由美子は公休日。この三連勤は妙に急患が多く、その中には「ダメかも……」と覚悟を決めるようなシリアスな急患もいた。しかし、そのシリアスな急患を含め、由美子が関わった患者はすべて快方に向かっている。忙しさに疲労が蓄積しては居るものの、その疲労はER勤務の看護師としてはどこか誇らしい物であった。
 そこで「自分へのご褒美」とばかりにアルトで少し豪勢なランチタイムを取ることにした。
 そしたら、仕事に一段落をつけた美月が「ちょっとお話が……」と、カウンター席、叔父の前でランチを突いていた由美子の隣に座って、説明と説得、そして、計画立案会議の開始。
 結果、由美子が同伴すること、由美子が一緒に居たのでは若いアルトのスタッフ達は気を遣うだろうから西部家は別の棟を借りること、それと由美子の休みがそんなに長く取れないだろうから、伶奈と由美子は一泊二日程度にするって事、その辺りの大事な話が、あれよあれよという間に決まってしまった。
 それで、伶奈が学校から帰ってきた時には自宅に母はいなくて、買い物にでも行ったのかと思ってアルトの方へと来てみれば、楽しそうな雰囲気で美月とおしゃべり。
「……どうしたの?」
 と、尋ねてみれば、伶奈のいないところですべてが決まっているという体たらく。
「それが伶奈には面白くないのねぇ〜」
 頭の上でアルトがうそぶく。顔を覗かせていないから、彼女がどんな表情をしているのかは解らない。でも、寝転がってるようだし、足で軽くリズムを取っているようだし、小馬鹿にしていることに疑いを持つことは出来なかった。
 とりあえず、出来るだけ頭の直上に近い虚空を一瞥……視線を戻したタイミングで、美月が伶奈に言った。
「いくら相手が良夜さんや直樹君でも伶奈ちゃんと同じ所で寝起きして貰うわけにも行きませんし……」
「…………それは……そうかも、だけど……」
 美月に言われ、伶奈は言葉に詰まった。
 正直の所、男性と一つ屋根の下、というのは若干不安だ。アルトを介して「迷惑かけてない?」「大丈夫、うるさかったらひねるから」ってやりとりをちょくちょくしている良夜はともかく、名前くらいしか知らない直樹という青年と一緒……って言うのは、不安……否、はっきり言ってちょっと怖い。
「まあ、良夜と直樹の場合、他の女にちょっかいを出すくらいの気概って物も必要かと思うけど…………良夜が浮気をして、美月を泣かしたら、百パー殺すけど」
「……どっちだよ……」
「気概だけ持ってろって事よ」
「……ああ、なるほど……」
「直樹は別に浮気しても良いけど……直樹が浮気して貴美が鉈を持って暴れるって絵面は、ちょっと見てみたいわね」
「……悪趣味だよ」
 頭の上のアルトと顔を合わさず、言葉だけを二つ三つ、かわしてるうちに気分も少しは晴れては来るものの、だからと言って『子供だから』の扱いに納得出来る物ではない。
 確かに良夜や直樹と一つ屋根の下で眠るというのには不安がある。だから――
「……良夜くんと、後……えっと、なおき、さん? その二人が別棟で寝たら良いじゃん……」
「伶奈!!!」
 ぽつりと漏らした言葉に母が大声を上げるも、怒っている伶奈の琴線には触れない。
 が、
「そっ、そういう訳にも……」
 と、美月のまゆが情けなく下がれば若干心が痛む。
 その気持ちをごまかすように伶奈は美月とその向こう側に座る母から視線を逸らす。
 頬を膨らませ、その膨れた頬を両手で押さえて頬杖をつく。視線は真正面、大きな食器棚へ。そのほぼ中央、四人組が並んだ古びた写真立てが大事そうに置かれていた。
「困らせて罪悪感を感じるなら、余計なわがまま、言うんじゃないわよ……」
 アルトの言葉にばつの悪さはますます加速。そのばつの悪さが、伶奈のほっぺたを大きく膨らませる。
 そんな少女の姿に母も又従姉妹も言葉なく黙り込む。
 静まりかえる喫茶アルトカウンター席。客少なめのフロア自体静かなもんだから、余計にその静けさというか、寂しさが心に響く。
 そして、数秒の時が過ぎ、母はため息交じりに言った。
「……はぁ……それじゃ、二泊三日にする?」
「えっ?」
 母の声に伶奈が顔を上げれば、母は半分ため息交じりに言葉を続けた。
「お母さん、ちょうど早出だから、二時上がりなの。だから、仕事が終わってからでも、急げば向こうで皆と一緒に夕飯くらいは食べられるし、翌日は朝から泳げるわよ。少し、お金は余分に掛かるけど、おじさんのつてだから、安くして貰えるって話だから……これ以上の譲歩は母さんも無理よ」
「……じゃあ、私だけ、先に行って良い? 美月お姉ちゃん達と一緒に……お母さんは後から来てくれたら良いし……良いでしょ?」
「ああ……それがですね、私たちが先に行っちゃうので……そのタイミングでいらっしゃるんでしたら、一人で電車と高速艇を乗り継ぐことになるかと……」
 伶奈の言葉にやっぱり眉をへの字に曲げて答えたのは美月だった。
 彼女が言うには大学四年生組がゼミの予定があったり、卒論があったり、地元に帰らなきゃ行けない用事があったりで、夏休みとは言え、余裕がある生活というわけにはいかないらしい。それで、全員の都合を考慮した結果、七月最終週、二十八日から八月二日までと言う日程。そして、母が休みを取れそうなのは七月三十日三十一の二連休くらい。前日から行くにしても二十九日で、一緒に出発も出来なければ、帰ってくるのも別という何とも言えないスケジュール。
「電車くらい一人で……」
 伶奈がぽつりと漏らせば母は真顔で答える。
「一人なんて止めて。もう、お母さん、心配で仕事が手につかなくなっちゃうわよ……お母さんの仕事は人の命が掛かってるのよ? ミスしたら、人が死ぬのよ?」
「……見知らぬ人の命を人質に取るのは止めようよ……」
 どこまで冗談なのか、果たしてガチなのか……と言うか、ガチの方が良いのか、冗談としても許されるのか、釈然としない気分でため息一つ。これ以上にごねるのも子供っぽいかと思うし、早出で五時前に起き、三時過ぎに帰ってから出掛けてくれるというのを受け入れるべきではないか?
 と、伶奈が思っていた……ら――
「まあ、貴女は後からゆっくり来なさい。私は良夜に連れて行って貰うから」
 頭の上から降ってくる言葉に伶奈の表情がぴきりと固まる。
 ひょい……と、伶奈の手が一閃。頭の上で振られたかと思えば、彼女の手には金髪危機一髪。
「なっ、何するのよ!?」
「おかーさん! アルトがついてきてくれるから、私だけ先に行って良いよね!?」
「ちょっと!!!」
 金髪危機一髪が出した大声は、伶奈の耳にこそ届いたが、その言葉が通訳されることはなかった。
 母は娘の言い分を認めはしたものの、その日の仕事は書類整理を中心にさせて貰うことにし、そして――
 ――その書類仕事には結構な数のミスがあったらしい。

 そんなやりとりがあった数週間後、うっとうしかった梅雨も明けて、学生にとっては頭の痛い期末考査も終了。晴れ晴れとした気分で伶奈達四方会はハマ屋のたこ判を突いていた。
「……――じゃあ、伶奈ちは夏休み入ったらすぐに旅行かぁ……良いなぁ……」
 いつもの古びたベンチ、夏本番の高い空には大きな入道雲とまぶしすぎるほどにまぶしい太陽。そして、手元にはお好み焼きソースとマヨネーズたっぷりのたこ判焼きが一つずつ。それを突っつき、突っつきしながら、伶奈は穂香へと視線を向け、口を開いた。
「お土産……買ってくるね?」
「ありがと〜他の皆は?」
 頬を緩めて穂香は応え、そして、左右、両端に座った二人へと声をかければ、まずは美紅が箸の動きを止めた。
「私はずーっとソフトボールの練習だよ。朝の涼しいうちに始めて、気温が上がって来たら、視聴覚室でビデオ見ながら座学か体育館で筋トレだって。休みは週末とお盆くらいの、部活漬けだよ」
「あはは、お疲れ様。たまに冷やかしに行くね、皆で」
「来ないでよ……」
「良いじゃん、応援、応援」
 膨れる美紅に穂香が軽い言葉を与えれば、美紅は諦めたと言わんばかりに伶奈の方へと視線を向け、頬を緩めた。
 その美紅に伶奈はほほえみ返す。
 そして、そのやりとりに挟まれて、穂香は言葉を続けた。
「それで、蓮ちは?」
「………………………………………………………………決めてないよ」
 期末考査において学年一桁を取ったとは思えないほどの長考の後、ぽつりと漏らした言葉はどうって事のない一言。
「そう言う穂香ちゃんは?」
「たぶん、近所の海に行くことくらいはあるかな……後はお盆におばあちゃんちに――ああ、お母さんの方ね、この間、そうめんを作ってくれたのはお父さんの方。後はお墓参りとか……退屈だよ。授業はいらないけど、学校はあった方が良いよ、八月も」
 手の中でたこ判焼きが冷えていくのを感じながらも、手を付けることを忘れて、伶奈はぱちくり……瞬きを繰り返して、彼女は穂香の顔を見やる。その顔は心底残念そうで、呆れるというか、変な意味で尊敬するというか……なんて言ったものだろうって考えても答えは出なくて、彼女の口はぽかんと開くだけ。
「伶奈ちゃんが帰ってきたら、どこか行こうか? 私の部活のない隙に」
「でも、帰ってからしばらくはアルトでバイトだよ」
 穂香の向こう側から伶奈の顔を覗き込むように美紅が言い、それに伶奈が答える。
 そして、打てば響くタイミングで蓮が言う。
「じゃあ、最初にアルト」
「南風野さん、なんで、そういう時だけ反応が良いの?」
「いぇい……」
 呆れる伶奈に蓮は顔を向け、ゆるっとした表情の横にピースサインを二つ。
「……はぁ……」
 大きなため息が宙へと消えていく。
 だけど……――
「…………たのし……――賑やかな夏休みになりそう……」
 最初に思い出した言葉は言ってやらず、ほんの少しだけ違う言葉を伶奈はあえて選んだ。
 その言葉が、放課後だというのに未だ真っ青に晴れ上がったままの空へと消えていった……

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