プール開き(完)

 翌日、土曜日。月が七月に変わった最初の土曜日は蓮が言ってたとおりに良い天気すぎるほどの良い天気。じりじりと照りつける太陽はすでに真夏級。天気予報によると最高気温は三十三度に達するらしい。
 でっかい入道雲の下、ガタゴトと古びた単行列車がのんびりと走っていた。
 まだラッシュ時間は終わってないはずだが、土曜日とあって普段よりかは随分と少なめ。伶奈が座る長いすにはまだ三割ほどの空席があったし、車内には立ち客も数人しか居なかった。
 今日は授業こそ休みではあったが、登校時には制服と決まっているから、伶奈はいつも通りに夏服の制服姿。違うところと言えば……
「暑いわねぇ……こんな時にプール掃除とかしてると、死ぬわよ?」
 違うところと言えば、頭の上で妖精アルトがだらっとしていることくらい。
「……お店でだらだらしてたら良かったのに……」
「私もプールで泳ぎたいわよ、ここしばらく暑かったし」
「……気持ちはわかるけど……変な事したら、フェンスに縛り付けて一夜干しにしちゃうからね?」
「……止めてよ、それはガチで死ぬから……」
「じゃあ、変なことはしないでよ……」
 数回目のやりとりが終わり、ため息をつく頃、列車はいつもの交換駅へと滑り込む。
「おっはよ〜ん」
 列車を降りれば、向かいの列車から下りてくる美紅の声が気持ちよく伶奈を出迎えた。
「おはよう、北原さん……暑いね……」
「あっついよ〜あっ、塩飴持ってきたから、汗を掻いたら食べようね」
「……私、ココア持ってきたから……東雲さんチに行ったら、アイスココア、作るね」
「あっ、良いね〜たっぷり泳いで、空調の効いた部屋で、冷たいアイスココアって、最高だよね〜」
「うん」
 伶奈と美紅が小さく笑いあう。
「所で……伶奈って私としゃべるときと他の人としゃべるときとで、声色が違うわよね?」
 なんて声が頭の上から聞こえたけど、それはとりあえずスルー。頭に妖精を乗せた伶奈は美紅と共にもはや炎天下と呼んでも良い空の下をのんびり歩く。
 途中、さんさんと輝く太陽の下、その太陽以上にまぶしい笑顔の穂香と、その穂香の小脇に抱えられながら頭の上に雲を侍らしている蓮と、バス停の前で合流した。
「おっはよ〜」
「おはよう、東雲さん、南風野さん」
「おっはよ〜ん、穂香ちゃん、蓮ちゃん」
 小脇に蓮を抱えた穂香が言えば、伶奈と美紅もそれに応える。
 そして、一人、言葉を発しない蓮の顔をのぞき込み、美紅が言葉を続けた。
「……蓮ちゃんはいつも以上に顔が死んでるね……」
「低血圧に暑気あたり、それから家からバス停までの歩行による疲労と、これからやるプール掃除に思いをはせたらそれだけで発生した想像疲労で、もうすでに死にそうになってるらしいよ」
「想像疲労って?」
 穂香の答えに伶奈が小首をかしげ、それにまた穂香が答える。
「これからやることを考えただけで疲れてくるのを通り過ぎて、リアルに身体の節々が痛くなって来るんだって」
 楽しそうに答える穂香の脇の下、小脇に抱えられた蓮がコクコクと何度も首を上下に振る。
 そのふんわりとした栗色の頭が上下に数回揺れるのを見やり、伶奈はぽつり……と、誰に言うともなくつぶやいた。
「……病院、行った方が良いよ」
 その言葉にアルトが一言加える。
「……脳みそのね」

 水着に着替えてプールに出る。
 朝から強かった日差しは衰えることもなく、水着姿の女子生徒六十余名とその水着少女達が囲む五十メートルプールを照らしていた。
 一クラス四−五人で中一から高二まで、のはずだが六十人程度しかいないのは上の学年になると出席率が減るかららしい。どうしても中等部三年や高等部二年になると部活だのなんだので出たがる人間が減るそうだ。あと、男子は最初から不参加。男子全員がやる年と、女子の有志がやる年が交互にあるらしい。
 そんな話を耳の早い穂香から、伶奈は聞いた。
「それじゃ、これからプール掃除を始める訳なんだけど、十ヶ月もほったらかしにしてたせいで底も壁面も青粉だらけになってて、非常に滑りやすくなっています。ふざけたりしていると、滑って、転んで、怪我をするし、怪我をしなくても顔から青粉の中にダイブして、水着も身体も全部青粉だらけになって、異臭に包まれて泣きながら掃除をする羽目になる生徒が、一人か二人は出てくるので、気をつけてください」
 一人、競泳用の水着に薄いTシャツを合わせた女性教師がそう言うと、いよいよ掃除の開始……なのは良いのだが――
 すてーん! とまるでドラマの効果音のような音が聞こえたのは、伶奈達四方会の四人がプールの中へと下りた直後のこと。その音に四方会の“三人”が振り向くと、最後の一人がひっくり返っていた。
「……ふざけてもいないのに、見事に転んだね?」
 そう言ったのは穂香だった。
「……最初の一歩からして滑ってたよね」
 次に言ったのが美紅だった。
「……大丈夫?」
伶奈は自信の頬も緩むのを感じた。  そして、一人だけ心配してるのが伶奈だった。
 ちなみにアルトは見学者用に作られたひさしの下でベンチに座ってくつろいでる。掃除が終わって水が張られるまでそうしてるつもりらしい……許せないので、帰ったら、ひねっておこうと思うって話は余談である。
 で、ここまで来ると誰が転んだかは予想できると思うが……
「……………………………………」
 スカイブルーの底に緑色の青粉、その中に栗色の頭が転がっていた。青系統の色の中に明るい茶色というのは補色の関係になってて、なかなか綺麗……と、他人事のように思ってたことは黙っておく。
 まわりでは中学一年生から高校二年生までの女子生徒達。蓮のことを見ながら笑っている者も居れば、無関係を決め込んでる者も居るし、気づかず掃除を始めちゃってる者も居た。
 もちろん、一番近くにいるのは四方会の残り三名だ。彼女らがプールの底に突っ伏したままの蓮を見守ること、数秒……静かに時は過ぎた。
 頭でも打ったのかな? と今更ながら心配になってくる友人をよそに、がばっ! と音を立てて両手を突いて蓮が顔を上げた。
 おでここそ赤くなっているが血が出た様子もなく、一安心。まあ、顔やら腕やら水着の胸元(意外と大きい)が青粉だらけになってるのは、致し方ないところだが……
「大丈夫?」
 穂香が尋ねると、青粉だらけの顔を無表情のままにこくんと頷いてみせた。そして、蓮がぐいっと身体に力を入れて立ち上がろう……とした、ら、また、こけた。
 すてん。
 今度はお尻から、見事な尻餅という奴だ。中腰になった辺りで体重を少し後ろにかけたのがまずかったようだ。
 それからはもはやドツボと言って良いだろう。
 前に体重をかければ顔からダイブ、後ろに体重をかければ尻餅。ステンステンと転び続けて、いっこうに立ち上がれやしない。
(わざとやってるのだろうか?)
 見てる方が疑問になるような感じでじたばたあがくことしばし。
 ようやく立ち上がったときには全身青粉だらけ……青粉だらけになった彼女は、三人の顔を順番に見て回すと、静かな声で言った。
「…………だっこ」
「えっ?」
 素っ頓狂な声を上げたのは伶奈だ。なぜなら、蓮が「だっこ」と言ったとき、彼女の大きな瞳はまっすぐに伶奈を見つめていたから。
 蓮(青粉まみれ)はゆっくりと伶奈に近づきながら、もう一度言う。
「…………だっこ」
「なっ、なんで、私?! 北原さんとか東雲さんとか、いるじゃん!!」
「おーい、玲奈ち、そこで速攻、友達を売るとか、最低だよー」
 背後、穂香の声が聞こえるけどそれは無視して、脱兎のごとくに逃げ出す……つもりではあるが、足下は滑るし、運動神経は良くないし、プールの中は水着女子であふれてて下手に走ったら誰かにぶつかりそうだしで、思ってるほどウサギになりきれてるわけではない。
 どちらかというとカメ。
 そのカメに追いすがる青粉女子。さっきまであんなにステンステン転んでた癖にやけに早い。
 ぴとり。
 蓮が伶奈の腰にしがみつく。
「青粉臭っ! なんかもう、腐った泥の匂いがする! 抱きつかないで! 水着と太ももに青粉をなすりつけ――きゃっ!」
 悲鳴を上げても青粉女子は放してくれず、それどころか二人仲良く青粉の溜まったプール底に綺麗にダイブ。蓮と一緒にごろごろと青粉の中であがくこと数秒……
 ひとしきり青粉だらけになった頃、ようやく、蓮は伶奈を解放した。
 そして、蓮と伶奈は青粉の中から立ち上がると、視線が残る四方会二人の方へと向いた。
「……行こう、にしちゃん……」
「……うん……」
 青粉ゾンビと化した南西コンビが北東コンビの顔を見ながらゆっくりと近づく。
 と、穂香はむんずと美紅の手を握り、そして、言った。
「どうか、この生け贄を……」
「――って、さっき、友達を売るなとかどうとか言ってたじゃんか!?」
「それとこれとは話は別!」
「別じゃないし! 完璧同系列の話だし!! それじゃ、私は穂香ちゃんを生け贄に捧げるし!!!」
「ちょっ! 売らないでってば!!」
 と、もめる二人を差し置き、とりあえず、伶奈と蓮の二人は、それぞれ、美紅と穂香の背中に、思いっきり、抱きついた。
「ものすごく臭い! ものすごく泥臭い!!」
「くさっ! あと! 蓮ち! おっぱい! 意外と大きい!」
 青粉ゾンビが生き残りを青粉の海に引きずり込み、その青粉の中でじたばたとあがく。
「どろんこプロレスみたい……」
 と表したのは、涼しいシェードの下で、一人他人事を装っている妖精さん。
 そんな四人組の姿に、巨乳の体育教師が叫んだ。
「四方会! 遊んでんなら帰れ!!!」
 その怒鳴り声に、びくんっ! と四人は動きを止めた。
 そして、四方会は『四方会』の呼び名が担任以外の教師にも浸透していることに戦慄した。

 と、言う感じで始まったお掃除は大きな問題も発生することなく、あっさりと終わった。まあ、小さな問題と言えば、案の定、蓮が何回も転んでは、そのたびに四方会の誰かに抱きついて道連れにしたと言うことくらいか? なお、伶奈が最初に狙われたのは伶奈が一番とろそうだったから、だそうだ。
 掃除が終われば、余禄というかほぼ本番とも言うべきプールの時間。洗ったばかりのプールに水が流し込まれ、その水が溜まるまでの時間を、掃除をしていた女子生徒達は消毒槽に浸かったり、シャワーを浴びたり、準備体操をしたりと、思い思いに待ち時間を潰していた。
 青粉だらけになった四方会も一足先にシャワーを浴びて、心身共にすっきり。プールサイドの一角を確保すると、穂香持参の十リットル入り麦茶タンクから麦茶を飲みつつ、塩飴をなめてだらだらしていた。
「で、蓮ちは予想通り、泳げないんだね?」
 穂香に問われ、蓮はこくんと控えめにうなずいた。
「玲奈ちは?」
「二十五メートル……は、泳げるよ。小学校の頃、みんなで泳げるようになろうって目標があったから」
「へぇ〜立派立派。みくみくは?」
「マックス遠泳二キロ! スポーツ少年団の夏合宿で海に行ってて、五年生六年生は遠泳をやるのが恒例だったんだよ。穂香ちゃんは?」
「さっすがスポーツ万能ってところだねー。私? まっすぐには結構泳ぎ続けられるんだけど、ターン、出来ないんだよねぇ……」
「ああ、私も、三回に一回は失敗しちゃう。難しいよね、ターン」
「うんうん」
 楽しそうに話してる穂香と美紅から視線をそらし、自身の紙コップの端っこにちょこんと座っている妖精へと視線を向けた。
 今日のアルトは白いフリル付きの水着。偶然なのだろうが、伶奈の水着とは色違いではあるが、形はよく似ていた。良夜が大学に入学した頃に一緒に買いに行ったとかどうとか言ってたから、かれこれ三年くらい前から着ているらしい。そー言えば、今度、暇なときに買いに行こうとか連れて行けとか言われているのを、玲奈は思いだした。
「私? 泳げるわよ。遠泳は苦手だけど」
 見ていたのに気づいたのだろう。崩して座った膝の上、紙コップの縁に座っていた妖精が顔を上げて答えた。
「ふぅん……」
 小さな声で返事をすると、伶奈は美紅が用意してくれていた塩飴を手に取った。
 レモン味の塩飴だそうで、今、ソフトボール部で地味に流行ってるらしい。
「あっ、私も欲しいわ。割って」
 アルトがそう言うから、伶奈は小袋に小分けされた飴玉を手に取り、手の中で力を込める。
 パキンと心地よい音がして飴玉は簡単に割れた。
 そして、伶奈は小袋を開け、小さなかけらを一つ、カップの縁に座っているアルトへと手渡した。飴のかけらは小さな物だが受け取った方も小さな者なので比率としては良い感じか、むしろ、飴の方が大きく見えた。
「ありがと。飴って割るとエッジが鋭くなって怖いわよね」
 黄色い透明感のある飴玉をそろそろ天頂へとさしかかり始める太陽にかざし、下からのぞき込む。ひとしきりきらきらと輝く飴のかけらを愛でたかと思うと、やおら口の中にぽい。
「あっ、思ってたよりも美味しいわ」
 コロコロと口の中で動かし、右に左にとほっぺを飴玉の形に膨らませて、アルトは頬を緩ませていた。
 その仕草が少し可愛くて、伶奈は自身の頬も緩むのを感じた。
 そして、自身の手元に残った飴はさらさらと口の中に流し込む。粉々に割れちゃってるから、飴と言うよりもなんかただの甘塩っぱい粉。この一つはとっとと食べ終えて二つ目を貰おう……なんて思いながら、ばりばりと噛んで、ゴックン。それから、麦茶で口内を洗い流したら、それで終わり。
「……ダイナミックな食べ方するね……」
 あっけにとられている美紅に「そう?」とだけ返して、ゴミを飴玉の袋へと返す。
「私もやってみよ」
 言って穂香も新しい飴玉を手に取ったら、パキンと手の中で砕く。砕いたそれをさらさらと口に流し込んだら、ばりばりと噛んで、麦茶でゴックン。
「ふぅ〜」
 気持ちよさそうに吐息をこぼして、彼女は言う。
「これは新しい」
「……イヤ、新しくないよ。割と、子供とか良くやるし」
 穂香のひと個に美紅が的確に突っ込み。その隣では蓮が飴の袋に手を伸ばし、そして、伶奈や穂香同様にパキンと小袋に入ったままの飴玉を割って、口に運んでいた。
 ゆっくりと、されどばりばりという音はしっかり立ててかみ砕き、飲み干し、麦茶を飲む。
 しばしの沈黙に続いて、彼女は静かに言った。
「………………新しい」
「……ホント?」
 蓮のつぶやきに美紅が問いかけると、蓮は小さくうなずいて見せる。
「……新しい味……」
 もう一度つぶやき、蓮はレモン塩飴の小袋をつまんで、美紅に手渡す。
 美紅の視線が手渡されたレモン塩飴へと落ちる。
 パキン……
 真っ青に晴れ上がった空の下、飴玉が割れる音がした。
 さらさらっと美紅はそれを口に流し込み、麦茶と共に飲み干す。
 考え込むように味わった後、彼女はつぶやく。
「……新しい?」
 穂香のつぶやきに美紅と蓮が即座に答える。
「んなわけないじゃん」
「麦茶とレモン塩飴の味……」
 二人の言葉に、美紅が絶句し、伶奈とアルトがぷっと小さく吹き出した。
 ぱくぱくと口を納戸も開けたり閉めたり、言葉にならない言葉を美紅が発するのを尻目に二人は立ち上がる。
「泳いで良いってさ」
「……足の立つところに……」
「もう! からかったね?! いつも私のこと、おもちゃにするんだから!!」
 穂香と蓮に次いで、顔を真っ赤にした美紅が立ち上がる。
 そんな三人を、なんとなく立ち上がり損ねた伶奈は座ったままで見上げていた。
 三人の背後に真っ青に晴れ上がった空と、ぎらつく太陽が見えた。
 その太陽を背負って、美紅が伶奈の顔をのぞき見、そして、彼女は言う。
「ほら、いこ! もう、穂香ちゃんと蓮ちゃんはアレだから、私の友達は伶奈ちゃんだけだよ! これからは北西会として生きていこうよ!!」
 差し出される手をつかんで、伶奈は立ち上がり、苦笑いで言う。
「北西会はイヤかも……」
「そうだよ、ほら、四方会は『会を脱するを許さず』だし」
 伶奈の言葉に穂香が茶々を入れれば、あっという間に美紅の顔は真っ赤っか。穂香の方へと向き直ったかと思うと、大きな声を上げた。
「もう! そのルール、『出来るだけ仲良くする』に変わったじゃんか!!」
「えぇ〜? 第一が『会を脱するを許さず』で第二が『突っ込みの声は控えめに』で、第三が『出来るだけ仲良くする』じゃん?」
「違うってば! 勝手に変えないでよ!! あと、私、狙い撃ちの第二は止めてよ!!」
「まあ、良いじゃん、どっちでも〜あっ、『四神の話はもうしない』は何番目だっけ?」
「良くないよ! あと、それはさらにどうでも良いから!!」
 真っ青に晴れ上がった空の下、少女達の歓声が賑やかに響き渡る。
 どぼーん!
 その背後で水しぶきの音が響いた。
 振り向き見れば、見知らぬ女子生徒がプールに飛び込み、歓声を上げているのが見えた。
 その周りに無数の波紋が広がり、消えていっていた。
「……泳ご? もう、暑いよ……」
 広いプールに多くの女生徒達が飛び込むのを見ながら、伶奈が控えめな声で言えば、四方会の三人と頭の上の妖精が一斉に答える。
「「「「うん!」」」」
 少し早めの夏、プール開き……
 

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