雨(完)

 雨が降っていた。
 伶奈は雨が嫌いだ。
 濡れるのが嫌、登校時に自転車を使えないのが困る、腕を置いた机がペタペタしてて気持ち悪い……と、まあ、ごく一般的な雨の日の嫌な事って奴は、伶奈も人並みに嫌いではあるが、それ以上に……

 六月中旬。六月頭の早々に入った梅雨はこの頃になるとすっかり盛り。ここ数日は毎日毎日、しとしと、じとじとと雨が降っていた。
「起きなさい、そろそろ、朝よ……」
 遠くから聞こえた声に伶奈はかすかに目を開いた。
 壁に掛けられた安いクォーツが教えてくれる時間は、いつもの起床時間よりも五分ほど遅め。
 窓の外は薄暗く、普段の朝ならついてないはずの明りがシーリングライトのアクリルカバーの内側で淡い光を放っていた。
 その光の下、伶奈は安いパイプベッドの上で身体を起こすと、ほぼ、無意識のうちにつぶやいていた。
「……おはよう……ヤな夢見た……」
「母さんも変な夢を見たわよ。大きなスズメバチ対大きなゴキブリの夢。細部までリアルで目覚めが最悪だったわよ」
「……朝からヤな話しないでよ……」
 隣、キッチンから聞こえる声に眉をひそめて、伶奈は立ち上がった。
 薄桃色のパジャマ、ボタンを外していけば幼い頃と変わらぬままの胸元があらわになる。
「それで、ヤな夢ってどんな夢?」
 隣の部屋、キッチンから母の声が聞こえた。その言葉にパジャマのズボンにかけた手が止まる。
 数秒の沈黙……
 濡れた国道をタイヤが刻む音と卵焼きがフライパンの上で焼かれる音だけが、部屋の中に静かに響く……
 そして、伶奈はぽつりと答えた。
「……お父さん……出てきた」
「……そう」
 再びの沈黙……タイヤの音が消えて、卵焼きの焼ける音だけが部屋の中に響く。
 そして、今度は母がつぶやくように言った。
「……あの人のことは、忘れなさい……」
 この日の朝ご飯は、炊きたてのご飯、味付けのり、昆布の佃煮、味噌汁、それから……――
 ――少し焦げた卵焼き。

 六月に入れば制服は冬服から夏服に替わる。大きめの襟が特徴的な半袖シャツに、デザイン自体は冬と同じだが若干生地の薄いスカート、それに冬服と同じリボン。第一ボタンは外して、リボンもゆるめに巻くのが瑠依子が現役だった頃からの定番のスタイル。
 そんな格好の伶奈が駅の前、コンビニの駐車場に停められたワンボックスカーからひょいと降りた。
「ここまでで良いの?」
「うん……お母さんもお昼までにいろいろしなきゃ行けない事、あるんでしょ?」
「そうだけど……」
「電車、下りたらすぐに学校だから……ありがとう」
 少し心配そうな表情の母に軽く手を振り、伶奈は助手席の扉を閉める。
 その日、伶奈は母に駅まで送ってもらった。母は学校まで……とも言っていたのだが、それは遠慮した。昼からの出勤までにいろいろとやらなきゃいけない事が母にはあるからって言うのが理由、の半分。
 残り半分は駅から電車に乗って、行った先にある。
 英明の最寄り駅は交換駅だ。
 二つの線路に挟まれるように作られた島形のプラットホームには屋根があって、しとしとと降る雨から、乗客を庇っていた。
 交換駅だから、二つの線路、上り下りの電車が同時に止まる。
 上りの車両から伶奈はプラットホームへと降りた。
 彼女の周りには十人かそれを少し越えるくらいの乗客、伶奈と同じく小雨の降りしきる中、混み合った列車からプラットホームの屋根の下へと降りた。その大半は伶奈と同じか似たような制服を着ていて、英明の生徒であることが見て取れた。
 残念なことに、こちら側の乗客に伶奈の顔見知りは居ない。
 しかし……
「おはよ〜、伶奈ちゃん!」
 プラットホームの向こう側、下りの空いた電車から降りてくる制服姿の一団、その一団の中に友人の顔。
「おはよう。北原さん」
 伶奈の顔を見つけて近づいてきたのは、伶奈と同じ四方会の一人、北原美紅だ。
 普段の美紅はソフトボール部の朝練があるから、伶奈よりも一時間ほど早く登校している。しかし、雨が降ると練習が出来なくて、伶奈と同じ電車に乗ることも多いのだ。
「体育館とかでしないの?」
 肩を並べて歩く伶奈が尋ねると、苦笑い気味の表情を浮かべ美紅は首を左右に振った。
「体育館は元々、バスケやバレー、バトミントンに剣道部……って、室内競技が占有してるんだよ。屋外競技もソフト以外にも陸上だのサッカーだのがあるから……なかなか、使えるスペースが空かなくて……交代なんだよ」
「大変だね」
「大変だよ。雨が降ってるから、ジョギングも出来ないしさ……朝とお昼のご飯が味気なくて……」
「……ご飯は関係ないと思うけど……」
 渋い顔の友人に苦笑いで答えながら、伶奈は美紅と共に生徒達の流れに乗って、駅舎へ……そして、少し太めの道に出れば、そこは色とりどりの傘の群れ。太めに取られた歩道、一杯に満ちて流れていた。
 その傘の群れの中、それぞれにパステルカラーの可愛い傘を差して、流れていく。
 と、一分足らず……
「おっはー!」
「………………だるい」
 左手に傘、右手に鞄、そして、右脇に死にかかった蓮、完全装備な穂香と装備されている蓮が居た。
「おはよう、二人とも……」
「おっはよ〜ん!」
 バス停の前、人波の中、流れに逆らい立ち止まり続けていた二人組に、伶奈と美紅が口々に声をかけた。
「……東雲さんは、雨の日には必ず居るね……遠回りじゃないの?」
「ちゃんと、ソフトボール部が体育館を使えるかどうかは調べてるけどね〜次の雨は体育館の二階で器具を使った筋トレでしょ?」
 伶奈が尋ねると、穂香は明るい口調で答える……のは良いのだが、その小脇には伸びた餅かこんにゃくのようにだらんと脱力した蓮が一人。その蓮を小脇に抱えてずるずると引きずっている辺り、自称『運動嫌い』の割に体力がある。
 ちなみに蓮は傘を差していないので、左半分が雨にしとしとと濡れているが、当人はあまり気にしていないようだ。
「……詳しいねぇ……」
 濡れてる蓮の左半身に傘を差し掛けながら、美紅が呆れたような表情と共につぶやいた。
 その言葉に穂香が美紅の方に顔を向けて答える。
「まぁねぇ〜三人で登校してる日に私だけ居ないとか、寂しいもん」
「それだけ?」
「うん。それだけ!」
 美紅の言葉に大きく屈託のない表情で、穂香は答える。その穂香の言葉に、美紅も、そして伶奈も苦笑いを浮かべる……も、伶奈自身、母に学校まで送ってもらわない理由の残り半分がそれだから、大きな事は言えないのだが……
 カラフルな傘の群れを小さな雨粒が静かに濡らしていた。
 今日は一日雨……そんな予報が外れることはなさそうだ。

 雨が降っているからと言って、英明学園での中学生生活の何かが変わるというわけでもない。英明は私立中学だけあってか、全教室冷暖房完備。朝からかけられたエアコンのおかげで、教室の中はひんやりとしている。湿気と汗で机がペタペタしないのは良いのだが、伶奈には少し肌寒く感じるくらいだ。
「寒かったらカーディガンなりなんなり持ってくるように」
 と言ったのは、ダークブルーのダブルスーツにタイトスカート、きっちりネクタイまで締めておきながら、エアコンの設定温度を二十度にしてしまう瑠依子だ。世の中、節電だのなんだの言ってるようだが、全く意に介さない辺り、さすがは英明学園高等部で数少ない『姫』の称号を得た生徒会長と言ったところか?
 一時限目の授業はそんな瑠依子が受け持ちの英語だった。内職の摘発率が恐ろしく高い瑠依子の授業ではさすがの蓮もスケッチなんてしないし、ほかの生徒達もまじめに授業を受けていた。
 その授業が淡々と終わって、二時間目は体育。
「……今日、何するんだろう?」
 伶奈が誰に問うともなしにつぶやくと、速攻で背後から返事が聞こえた。
「自習」
 その声が聞こえた方へと視線を向ける。伶奈のすぐ後ろの席だ。そこでは両のほっぺに両手で支えて……座ったままの蓮がぼんやりとした視線で伶奈を見上げていた。
「……だと、良いね……」
 苦笑いで答えながらも、伶奈は自身のリボンの首元を緩めた。
「体操服に着替えて体育館だって」
 その情報が美紅より伝えられれば、コトンと音を立てて蓮の顔がテーブルの上に落っこちた。
 一方、伝えた美紅は――
「バスケかな? バレーかな? お昼前に身体を動かせる〜!」
 と、机に額をひっつけて落胆している蓮をよそに無邪気に喜んでいた。
 英明の体操服は黒いハーフパンツに白いポロシャツだ。ハーフパンツはともかく、ポロシャツは下着が透けるので生徒達の評判が若干悪い。まあ……肉体的成長の観点から下着はTシャツ一枚の伶奈にはあまり関係ないけど……
 その体操服に着替えて体育館に向かう。
 校舎から体育館へと続く渡り廊下には屋根がありはしたのだが、風に乗って運ばれてくる雨粒が頬を叩いて、少し気持ち悪い。
 体育館での体育の授業はバスケでもなければバレーでもなく、二階に置いてあるトレーニングマシーンを使っての筋トレ……と言う名のお遊びだった。
「ふざけてると怪我するからね。使い方の解らない器具は私か、運動部の子に聞いて使うように!」
 そう言ったのは、赤いジャージ姿の女性教諭だ。年齢は三十を少し過ぎてるとか言う話を聞いたことがある。背が高く、ショートヘアー、すっぴんとボーイッシュではあるが、大きな胸と長い手足が妙に女性を感じさせる教師だった。
 トレーニング機器はクラスメイト全員が一度に使えるほどの数はそろえられていないから、交代で使い、あぶれた者はベンチに座って見学していたり、使い方をレクチャーしたり、茶々を入れたりしていた。
 伶奈もあぶれ者の一人……と言うか、あまりやる気にもならないので率先してあぶれ者の地位に甘んじ、休憩用のベンチを一人で占領して座っていた。
 同じベンチに先ほどまでは蓮も座っていたのだが、今は一台のトレーニングマシンの上でじたばたとあがいている。美紅の誘いを断り切れなかったのだ。
 彼女があがいてるトレーニングマシンは、ラットプルマシンと言うらしい。ハンドルバーを上下に動かせば、それにワイヤーで繋がった重りが上下に動いて、腕や肩周りの筋肉を鍛えてくれる道具らしい。重りを変えれば負荷を強くしたり弱くしたりも出来るのだが、蓮は一番弱くしてもあげられなくて、それがおかしいやら心配やらで、美紅をはじめとしたクラスメイト達が器具と蓮を囲んでわいわい騒いでいるようだ。
 そんな友人達から視線をそらし、伶奈は窓の外、しとしとと小雨の降りしきる空へと視線を受けた。
 真っ白にかすむ空。すぐ傍にある校舎すらぼんやりと霧が隅の中に埋もれていた。
 伶奈は雨が嫌いだ。
 濡れるのが嫌、登校時に自転車を使えないのが困る、腕を置いた机がペタペタしてて気持ち悪い……と、まあ、ごく一般的な雨の日の嫌な事って奴は、伶奈も人並みに嫌いではあるが、それ以上に……
(……嬉しいことも……嫌なことも……雨が降ったら、傍にお父さんが居た……)
 事を思い出すから、嫌い。
 そして、未だに『あの人』のことを父親として慕っている自分が嫌いだった。
「どうしたの? しけた顔してるね?」
 ぼんやりしていた背後から声が聞こえた。
 振り向けばそこには穂香が伶奈の顔をのぞき込むような感じで立っていた。
「……そうかな?」
 隣に座る穂香の顔を視線で追いながら、伶奈はペタペタと自身のほっぺや顔を触ってみる。
 そこには触り慣れた(?)いつもの顔があるだけ。
「あはは、触っても解んないよ〜ねえ、やんないの? 結構面白いよ。蓮ちのやってる奴とか、あっちの腹筋する奴とか」
「今日は……なんだか、やる気にならなくて……」
 つぶやくように答えて、伶奈は視線を窓の外へと向けた。
 霧のような小さな雨粒がしとしとと窓を濡らしていた。
「雨、降ってるとやる気になんないよねぇ〜」
 穂香がそう言うと、伶奈は視線を穂香に戻して、応えた。
「……雨の日にわざわざ、学校の前を通り過ぎてバス停まで私たち迎えに来てるじゃん……」
「やる気になんないから、無理矢理、朝からテンション上げるようなまねしてるんだよ」
「…………少し、呆れる」
「あはは」
 屈託なく笑って、穂香はベンチから立ち上がる。
「帰り、たこ判食べて帰ろ! やる気になんない時は、テンションが上がる事しないと! 今日は餅チーが良いな! 餅チー!」
「……えっ? あっ……うん……」
「ベンチプレス、空いた? やるやる!」
 駆け出す穂香をあっけにとられたまま伶奈は見送る。
 餅チーとはたこ判の中にお餅とチーズが入った逸品、確かに美味しいけど、その分、ちょっぴり割高……まあ、それでも百五十円くらいの物だけど……
(私は……ウズラの卵入りが良いかな……)
 そんなことを考えながら、伶奈は立ち上がる。そして、蓮がじたばたとあがいていたトレーニングマシンへと近づくと、友人の華奢な肩をぽんと一つ叩いて、言った。
「敵、討ってあげるね」
「………………うん」
 つぶやき、蓮が器具から立ち上がる。
 代わりに伶奈が座って、美紅から使い方のレクチャーを受けて……
 一番軽いのは楽に持ち上がったし、その次のも上がったから、調子に乗ってさらに重いのを持ち上げようとしたら――
 ――肩の筋を違えた。
「少しは運動しなよ……」
 のたうつ伶奈の傍、美紅が苦笑いで言えば、クラスメイト達は――蓮までもが自身のことを棚において笑っていた。
 そして、笑われながらも、のたうちながらも、伶奈は少しだけ笑っていた。

 外では霧のような雨が静かに降りしきっていた。

 その日、放課後に食べたたこ判は妙に美味しかった。
 外のベンチが使えなくて、狭い店内に中等部から高等部まで沢山の常連客が集まったおかげで、随分と窮屈だったけど……

 英明学園の頭上には未だ分厚い梅雨の雲……されど、西の空、稜線に沈む夕日がかすかに見えていた。
 きっと、明日は晴れ……
 

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