ゴールデンウィークも終わって、入学式からひと月以上が過ぎた。
このくらいの期間が経てば、誰もが新しい学校やクラスになじんでくるものだ。伶奈も入学する前はいろいろと不安に思うことがあったが、東雲穂香をはじめとした四方会の面々とは毎日楽しくやってるし、ほかのクラスメイトとも仲良くしてたり、折り合いを付けたりして、それなりに楽しく、平穏無事な中学生活を送っていた。
で、そういう時期になってくると、授業中にもいろいろとやり始める生徒というものが出来てくる。
「えー、そういう訳だから、整数のうち、ゼロよりも大きいのが正の数で、ゼロよりも小さいのが負の数というわけで……――」
中年男性の数学教師の説明に耳を傾けながら、板書された言葉をノートに書き写していく。数学には少々の苦手意識を持っているから、より熱心に板書をノートに写す。
と、そこへちょいちょいと背中を突く鉛筆の先っぽ……
こういうとき、バカ正直に後ろを向くのは良くない。伶奈の席は教室ほぼ中央部の前から二つ目。ここで後ろを向くほど、伶奈の神経は太くない。
ので、振り向きもせずに左手だけをちょいと後ろに差し出す。
その手の上にのせられる小さな紙片。それを机の上に回収すると、それが小さく折りたたまれたルーズリーフだと言うことに伶奈は気づいた。
開いてみれば中には見事な雲のスケッチ。A4一杯に書かれた雲は、鉛筆だけで描かれているはずなのに、陰影が綺麗な濃淡で描かれていて、写真以上の迫力に満ちていた。
そのスケッチの入道雲から顔を上げ、伶奈は視線を横に向ける。
静かにノートを取るクラスメイト達と、その向こうには大きな窓、さらにその向こう側には綺麗な五月晴れに見事な入道雲。五月というのが信じられないほどに大きな入道雲が、真っ青に晴れ渡った五月晴れの空にわき上がっていた。
どうやら、この雲をスケッチしたらしい。
スケッチの雲も凄いが現実の入道雲も立派なもの。ぼんやりと数秒見上げた後に、伶奈は、もう一度、視線をスケッチへと落とした。
スケッチの右隅には小さな丸の中にさらに小さな丸が七つか八つ……レンコンの輪切りをイメージしたサインは、書いたのが自身の名前を『南の風に野っパラの野、レンコンの蓮』と紹介する南風野蓮だと言うことを主張していた。
伶奈の一つ後ろの席に座っている友人だ。
それから、ひっくり返して裏側を見ると、そこには、
『暇だから』
の一言が添えられていた。
暇だからこの見事なスケッチを描いたらしい。呆れるやら、感心するやら……
『上手だけど授業中だよ?』
その下にこの一言と『07』のサインを書き加える。『れ・な』という語呂合わせだ。
先ほども述べたとおり、蓮は蓮根の輪切りをサインにしてるし、それを真似て穂香は『頭を垂れる稲穂』をサインにした。そうなると自分も決めなきゃ行けない空気感になってくるが、思いつかない……で、いたら美紅が『39』と書いて『み・く』と読ませるサインを考えついたので、伶奈も『07』と書いて『れ・な』と読ませるサインにしてみた。パクリみたいで格好悪いから、そのうち、もっとひねりのきいたサインを考えようと思っているところ……というのはちょっとした余談である。
そのサインを書き終えたら、元の通りに小さく折りたたみ、後ろ……ではなく隣、同じく四方会の東雲穂香へと回す。そういうのも、彼女が先ほどからじーっと楽しそうな表情でこちらを見ているから。
右手につまんでぽいと手首のスナップだけでお隣に紙片を投げる。ぽーんと綺麗な放物線を描いて紙片は穂香の机に見事ワンバウンド。こぼれ落ちそうになるのを、寸前で穂香がナイスキャッチ。
畳まれていた紙片を開いて、パッとその表情を明るくする穂香の横顔を伶奈はぼんやりと眺める。
かりかりとうつむいて何かを書いてたかと思うと、穂香も再び、その紙片を丁寧に畳み、顔を上げた。
「それから、自然数って言うのは、正の数の中でも整数、すなわち、1,2,3……と、続いていく数字のことを言うわけで……ゼロは含めないと、とりあえず、この場では覚えておいて下さい」
あげた視線の先には、相変わらず、さえない中年の数学教師が説明をしていた。
その教師がくるんと黒板の方へと体を向け、生徒達に背を向ける。
「ですから、それを数直線上に書きますと……直線は無限に小さな実数の集まり、ここがゼロで……――」
板書をし始めた、まさにその瞬間!
穂香は音もなく椅子から立ち上がると、身体ごと後ろを向いた。
隣の列、最後尾、そこには四方会最後の一人北原美紅の姿。
二人の視線が交わり、穂香の右手がブン! と振られる。
小さく折りたたまれた紙片が、美紅の方へと飛んでいく……も、それは少々高めへの暴投気味。すーっと一直線に美紅の頭の上を行き過ぎようとしている紙片を、スポーツ少年団時代からソフトボール一筋、小学校時代には『鉄壁の三遊間』と恐れられていた遊撃手(自称)北原美紅がひょいと腰を浮かせてナイスキャッチ。すっぽりとその手に収めた。
次の瞬間、
「……――それで、この丸を付けたところが整数と言うわけになります。質問のある人は居ませんか?」
そう言って、教師が顔をこちらに向けた。
その時には、すでに穂香も美紅もすでに椅子に座っていて、おかしな所はどこにもなし。静かな授業風景だけが、教師の目には映っていることだろう。
その見事な早業に英明学園中等部一年二組二十人、全員(投げた穂香も受けた美紅も)が心の中で拍手を送った……らしい。
さて、そんな授業が終わって休み時間。
いつものように伶奈と蓮の席の両側に穂香と美紅の二人がやってきて、四方会四人、勢揃いになっていた。
周りでは同じように集まって楽しげな会話に花を咲かせているグループが二つ三つ……おおむね、いつものグループがいつもの通りにだべっているいつもの休み時間風景が展開されていた。
自身の席から椅子を持ってきていた穂香が、手元に帰ってきたスケッチを改めて視線を落とした。そして、その唇から感嘆の言葉がこぼれる。
「しっかし、蓮ちのスケッチはいつ見ても見事なものだよね〜」
蓮のスケッチは四方会三人の手を経た後、クラス中を巡り巡って、最終的にはなぜか穂香の手元に帰ってきていた。その帰ってきたルーズリーフの裏には、蓮本人の『暇だから』の一言の下、他のクラスメイト全員の一言サインが几帳面に書き込まれている。それは良いのだが、クラスメイト、それぞれがそれぞれに変なというか特徴的な署名をしている辺り、このクラスの連中も油断ならない。
そのルーズリーフを穂香は、伶奈の後ろ、彼女自身の席に座ったままでぼんやりしている蓮の手元に返した。
返されたルーズリーフはバインダーの中へ……そこにはすでに様々なスケッチが残されているのだが、どれもこれも、授業中に書かれたもの。モチーフはクラスメイトの横顔だったり、窓から見える雲だったり、窓枠と空と中途半端に開いたカーテンだったり……伶奈の後ろ姿というか後頭部というのもあったりする。どれもこれもモチーフはどうでも良いものばっかりだが、そのどれもこれもが鉛筆画とは思えない見事な質感で表現されていた。
そのバインダーをひょいと取り上げ、蓮の席の左側、立ったままの美紅がぺらぺらとめくっていく。
全ページ……だいたい三十ページくらいだろうか? それを見終えると美紅はパタン閉じて、蓮の手元へと返す。返されたバインダーを大事そうに鞄の中へと返す蓮を見下ろしながら、スポーツ少女は少々眉を潜ませ、口を開いた。
「どれも凄い上手なんだけど……良いの? こんな事してて。もうすぐ、中間だよ? 中間テスト」
言った瞬間、頭を抱えたのは蓮……ではなくて、穂香と伶奈だった。
「……何でよ?」
そんな二人に美紅が呆れ声でつぶやいていた。
外は真っ青な空、嫌みなほどに五月晴れ……大きな入道雲はまだそこに居た。
「伶奈ならそれなりに良い成績が出せると思うけど?」
そう言ったのは、机の隅、缶ペンの上にちょこんと座っているアルトだった。
その夜は灯の家庭教師はなく、そして、母は夜勤で帰ってこない。だから、伶奈はアルトの二階でかりかりとノートにシャーペンを走らせていた。内容は灯が置いていった家庭教師の宿題に、学校で出された宿題。それから、自習的な物もちょっとはする予定だ。特に数学は苦手なので重点的にやらなければならない。
その手を止めずに伶奈は静かにアルトの言葉に応えた。
「……順番付けされるから……英明は上位を張り出すとか言うし……みんな、頭良いから……」
「入る前提?」
「各クラス上位十名だから……入りたいよ……」
「二十人くらいよね? 一クラス。半分が張り出されるって言うのも、どうかと思うけど……」
「大昔、一クラス四十人くらい居た頃からの伝統……」
「……それ、真雪が現役だった頃の話じゃないの?」
その声にシャーペンの動きを止め、伶奈は顔を缶ペンの方へと向けて尋ねた。
「そうなの?」
「たぶんね……その頃は知り合ってなかったから、詳しくは知らないわよ」
「ふぅん……」
気のない返事を発すると、伶奈は再びシャーペンをノートの上に走らせ始めた。
アルトもそれ以上何も言わなかった。
窓の外ではカエルがやけに賑やかに鳴いている。
春先には随分と気になったものだが、今では時折鳴いていることすら忘れるくらい。
そのカエルの声をBGMに問題集を進める。数学の問題集……物持ちの良い時任家の物置から発掘された物で、灯の兄が使っていた物だと聞いた。妹か弟が使うだろうと思って取っておいたら、最初から勉強に関しては投げていた妹は手を付けず、勉強よりも野球だった弟も見て見ぬふりをしていたという逸品だ。
その参考書やら問題集やらには所々に変な落書きとかあったりする。それは可愛い女の子だったり、ロボットだったり……
「……これなんか、凄い……」
思わずつぶやいたのは、こちらに向けてどーんと鉄砲を構えてるロボットがページの一画にいたから。ロボットアニメはあまり見たことはないのだが、それでもロボットに描き込まれた細かいディテールを見れば思わず感嘆の声を上げてしまう。
その感嘆の声にアルトも缶ペンの上からぽーんと飛び上がり、伶奈の手元に着地をして、問題集をのぞき込む。
そして、彼女はしみじみと言った。
「書いた当時は十年先で見知らぬ女子中学生の目にさらされるとか、全く、思ってなかったんでしょうね……」
「そうだね」
軽く笑ってロボットの向こう側で居心地悪そうにしている問題達を解いていく。
かりかり……シャーペンがノートをひっかく音がカエルの声と合唱を続ける。
見づらい問題を一通り解き終わる頃、伶奈はぽつりとつぶやいた。
「……会ってみたくなるよね……この絵、書いた人……」
「今年、東大、卒業したとか、するとか言ってたわね……あそこの家、上二人は天才らしいから……」
アルトの声を聞きながら、ページをめくる。
数字の特性について解説したページをめくれば、そこには例題がびっしり。時々、答えが直接書き込まれていたりするから、そこは注意しないと行けないのだが、それと同時に――
「……天才って………………問題集の隅にこんな物、書く人のことを言うんだ……」
「……たゆんたゆん、あはーん……って……しかも、無駄に上手なのがむかつくわよね……」
アルトがつぶやいたとおり、むっちりとした肉感的な女性がおっぱいを両側から持ち上げる落書きなんかが入っているから、注意しなければならない。随分と媚びた目つきでこちらを見ているのが、ものすごく腹が立つ。
「……撤回、絶対に会いたくない……」
その妙に上手な落書きを消しゴムでごしごし……十年越しの落書きを親の敵を見るような目で睨みながら、消し去る。
「……東大って、こー言う気持ち悪い落書きしてても合格するものなの?」
吐き捨てるように伶奈が言えば、アルトはため息交じりに答えた。
「……額に縦線刻んで努力してなくても、勉強できる奴らが行くところ……って、前に拓也が言ってたわよ。まあ、東大生の全員が参考書の隅におっぱい書いてるような連中だったら、この国も終わりよね……」
「……サイテー……きもい……」
母子家庭で生活に余裕があるわけでもないから、参考書なんかを譲ってくれることには感謝はしているのだが、こういう落書きとかされてると、さすがにむっとする。
と、綺麗に消し終えてほっと一安心。中断していた勉強を再開。
「後で、灯に言っておきなさいよ……ぷっ……」
「それも悪いし……――って、なに? 急に吹き出して……」
シャーペンの動きを止め、顔を上げれば、缶ペンの上、定位置に戻りながらアルトが言った。
「いや、自分が十年前に書いたおっぱいを見知らぬ女子中学生に見られたあげく、気持ち悪いとか最低とか言われた東大卒エリートの気分って、どんなものかと思ったら、ちょっとね?」
楽しげ……と言うよりも、底意地悪いと言った方が良さそうな笑み。
そんな妖精の表情を見やり、伶奈は眉をひそめる。
「……悪趣味」
小さな声で一言つぶやき、彼女は三度、シャーペンを進め始める。
そんな感じで喫茶アルト二階、伶奈の別宅の夜は更けて行く……
さて、それから十日ほどが経ち伶奈の中間試験の結果が出た。それは前にも少しだけ触れたことがあるが、一年全体、八十三人中十五番、クラスで言うと五番。なかなかというか――
「……まぐれ、だと思う」
と、伶奈本人望外の好成績だった。
のは、良いのだが……
「………………クラスで二番、学年九番、いぇい……」
ピースサインを二つ作って、すまし顔の横でふらふら動かしているのは、南風野蓮だった。彼女の手元にはどれもこれもほぼ満点の解答用紙……その裏にはやっぱり、どれもこれも見事なスケッチが描かれていた。
「……頭いい人って……みんな、落書きするの?」
伶奈は思わずつぶやき、その真意を尋ねる穂香に、伶奈は例の落書きの話を語って聞かせた……のをきっかけに英明学園中等部一年二組で授業中に落書きをするのが流行した。
が、もちろん、そんなことをしてる奴らの成績が伸びることはなかったというか、有り体に言うと、下がった。下がった成績に、瑠依子が頭を抱えたのはもうちょっと先のこと。
だが、ただ一人、蓮だけは落書きをしながらも好成績を収めていた。
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