夜更かし(完)

「……それで、今日の凪歩お姉ちゃん、灯センセにきついんだ?」
 伶奈に言われ、ココアのカップを手にした灯が微苦笑を浮かべて軽く頷いた。
 一時間少々の授業が終わって、休憩時間。灯と伶奈が囲むテーブルには小さめのカップケーキとココアのカップが二つずつ。コーヒーの方が良いんだけどなぁ……と灯は思うのだが、伶奈に、最近ココアを煎れる練習をしているので、飲んでみて欲しいと言われると、無碍に出来ない。このココアが伶奈の自費購入だって言うんだから、なおさらだ。
 甘いココアのカップをテーブルに戻す。
 かちんと澄んだ音がカップとソーサーの間に響く。
「口もききやしないんだもんなぁ……凪姉……」
 ため息をついて灯はカップケーキのスポンジをスプーンですくって口に運ぶ。
 少し堅めに焼かれた表面の下側には、濃密なチョコレートムースがトロッとカップの中に鎮座していた。そのとろとろの部分をスプーンですくって口に入れれば、ビターチョコのほろ苦さが口いっぱいに広がる。これが甘めのココアによく合う。コーヒーよりもココアで良かったかもしれないと思うほど。
 伶奈のチョイスで決めたおやつを突きながら、灯は今朝あった話を伶奈に聞かせていた。
 聞かせたくはなかったのだが、今日の凪歩は灯が来店しても無視するし、持ってきたお冷やには氷が入っていないという地味な嫌がらせをするし、その生ぬるいお冷やを置くときもなんか仕草がぞんざいだし……と、伶奈の目から見ても不機嫌だって事がありありと解るほど。
 そんな様子に「どうしたの?」って話になるのは当然だ。
 で、その「どうしたの?」に答えたら、さすがの伶奈もあきれ顔。
「……朝七時に帰って来て……今日も帰らないって……凄いね」
「……大人には大人の付き合いがあるんだよ」
「ふぅん……」
 気恥ずかしさにそっぽを向いて灯が答えると、伶奈は興味がなさそうな口調で相づちだけを打った。そして、カップケーキをひとすくい……ぱくりと食べたら、ふと、彼女は視線をテーブルの片隅、何もない空間へと運んだ。
 そのまま、数秒……経ったら、彼女は灯の方へと視線を戻す。
 視線を横顔、頬に感じる。
 そして、少女は言った。
「大人が言う『大人の付き合い』って言うのはたいていろくでもない付き合いだから、そういう言葉を使う大人は軽蔑すれば良いわよ……って、アルトが言ってる」
「伶奈ちゃん、とりあえず、その妖怪の首、ねじっておいて……」
「口で負けたら暴力って言うのは男らしくないわよ……って、アルトが言ってる」
「…………もう、いいや……勉強、再開しよう」
「ちょっと待って……アルトのせいで休憩時間が短くなったから、ちょっと、首をねじっておく」
 直後、伶奈はぞうきんを絞るような仕草をし始め、そして、灯は妖精の悲痛な悲鳴を聞いた……ような、気がした。

 その日、灯は伶奈への授業が終わると、とっとと喫茶アルトを後にした。
 そもそも、灯は家庭教師の授業が終わったあと、アルトに長居することは少ない。
 授業の後にもコンビニのバイトが入ってる事が多いと言う事情もあるが、それ以上に姉が働いてる横でボサーっとしているのも居心地が悪いからだ。このへんは我ながら小市民だと思う。
 ただ、今日はこの後、バイトではなく、悠介の家で麻雀という予定が入っていた。
 そして、悠介が居酒屋のバイトから帰ってくるのは夜の十一時を大幅に過ぎる。
 俊一もそれくらいまで何処かで遊んでるとか言ってた。たぶん、パチンコか何かだろう。
 予定としては、アルトで閉店まで時間を潰させてもらって、それから店員たちが閉店作業をしている店の隅にいさせてもらえば、悠介か俊一も帰ってくるだろうという目論見だった。掃除の手伝いくらい代金代わりでやってもいいとかも思ってた。
 だがしかし、不機嫌な姉ごと喫茶アルトから逃げ出したせいで、灯にはこれからたっぷり二時間弱、やることが見事にない。
「しまったなぁ……」
 と、つぶやいてみてももう遅い。
 近くに悠介以外の友達でも住んでれば良かったのかもしれないが、あいにく、灯の友達にそんな便利な奴はいない。
「しょうがない……シュンの真似でもするか……」
 ひとりごちると灯は自転車にまたがり、国道の急な坂道を一気に下る。
 そろそろ昼は暑くなってきたが、夜風は涼しい。風を切って走っていると寒いくらい。
 灯の愛車は凄く高い……と言うわけでもないが、ママチャリよりも若干スポーティーで若干高めの自転車だ。細めのタイヤがアスファルトの車道を噛む音が心地よく響く。
 さすがに駅まで行けば、このド田舎も多少は賑やかになる。コンビニもあるし、百均もある……って、まあ、駅前にもコンビニと百均くらいしかない田舎って言い方もできるが……
(あとはパチンコ屋くらいか……ゲーセンなら良かったのに……)
 長くて急な坂道を降りきったあたりにある派手なネオンサインを横目で眺めて、国道を走る。
 最初に入ったのは百均の方。何か欲しいって物があるわけでもないが、商品棚を眺めて歩くだけでも暇つぶしにはなる。
 ぷらぷらと店内を眺めて歩き、時間を潰す。
 結局買ったのは、シャーペンの芯一つ。なくなったわけでもないが、そろそろ、心許ない感じだったのを思い出したから。
 それから、すぐ隣、同じ敷地の中にあるコンビニへと入った。
 店内には女子大生風のバイト店員が一人と雑誌の立ち読みをしている男性客が一人、夜も浅い時間だというのに、店内は閑散としていた。
 店内に入ると灯は自身が夕飯もろくに食べていないことを思い出した。休憩時間につついたカップケーキとココアだけ。普段なら帰る前にまかないでも食べさせてもらうのだが、今日は不機嫌な姉経由でまかないを頼むのも億劫だったから、そのまま出てきてしまった。
 誘蛾灯に誘われる虫のように、青年は弁当やらパンやらが並ぶ一画へと足を向けた。
 そこに並ぶ弁当やパンなんかを眺めて歩く。
 目に付いたのは、パスタ。
「……アルトで食えばただだったのにな……」
 つぶやき、灯はパスタの並びから『大盛りナポリタン』を手に取った。どうせ味はどれもたいして変らないのだから、せめて量が多くて安い物を……と言う小市民な判断。それでも少し足りないかも……と思うので、ハニートーストを一つ。飲み物は意外と美味しいレジ前のセルフコーヒー。
 それから立ち読みするつもりだった雑誌を二冊。
「九百七十五円です」
 アニメ声なお姉さんに千円札を一枚渡して、お釣りは募金箱、レシートは備え付けのゴミ箱へと放り込んで、灯は店外へ……
 このコンビニ、出たところになぜかベンチと灰皿が置いてある。たばこは吸わないが座って飯を食べるには良い環境だ。
 と言うわけで、そこに腰を下ろして、食事しながらの読書タイム。
 店内の光が大きな窓から漏れ出して、灯の背後から雑誌を照らす。
 灯は、水曜日発売なのに日曜日な雑誌にしても、弾倉な雑誌にしても、熱心な読者というわけでない。単行本を買っている連載作品も何本かはあるが、雑誌に関しては手元にあれば読むといったところ。
 なので、久しぶりに読むと……
(……話のつながりがわかんねぇ……)
 ってことがあるので要注意である。まあ、暇つぶしだから話のつながりがわからなくても、大して困らないけど……
 そんな感じで、パスタをすすって、コーヒーを飲んで、漫画読んで、漫画読んで、漫画読んで、漫画読んで、また、パスタをすすって、コーヒー飲んで、ハニートーストをかじって、また、パスタをすすって……
 そんな感じの食事もあらかた終わり、後は雑誌を読んで暇つぶし、って辺り、ふと――
「そっち……貸して?」
 って声が聞こえたので、素直に読んでない方の雑誌を手渡す。
 そしたら、渡したはずの雑誌が降ってきた。
 しかも、縦方向で。
「いたっ!?」
 声とともに顔を上げれば、無表情のまま、日曜日な雑誌を縦にして持ってる翼と、呆れ顔の我が姉凪歩。
「……あんたは何してんのよ……?」
「……食事と暇つぶし……」
「もう! こんなところに座り込んで、漫画の本とか読むのやめてよ! 体裁悪い!!」
 凪歩が大声を上げた次の瞬間、すっと、一歩を踏み出したのは翼の方だった。
 彼女は灯と凪歩の間に体を入れると
「……なぎぽんは黙ってて……」
 と、いつもの抑揚のない口調で言った。
「って、ちょっと……家族の問題だし」
「……その家族の問題は……」
 切れ気味の凪歩に一歩も引かず、静かに切り出すと、翼は灯の顔をちらりと一瞥。そして、凪歩の顔をまっすぐに見つめて口を開いた。
「……ただ食いできる店に……一時間前までいた、くせに……コンビニのお弁当を食べる……だけでも許せないのに、それが、一応、得意料理だと、自認してる上に……そいつにも何回も、食べさせた……ナポリタンだった、イタ飯屋の、キッチンスタッフの、怒りよりも……大きくて、正当な、もの?」
「…………」
 いつもの淡々とした口調……ではあるが、灯の知ってる範囲ではほぼ始めてな翼の長台詞に、凪歩はしばらくの間、言葉を失った。
 そして、やおらに言った言葉は――
「あっ、アルトってイタ飯屋じゃないし……ナポリタンはイタ飯じゃ――」
 そしたら、今度は凪歩の頭の上に日曜日な雑誌が降ってきた。
 もちろん、縦に……てか、角で。
「ぎゃっ!」
「そー言う……へりくつ、嫌い」
 相手の背が高いので、力一杯背伸びしてたのがちょっとだけ可愛かった……と、灯は思った。
 で……
 灯が翼に何か言われたか? と言うと、そうでもなかった。
 ベンチに座ったままの灯は、立ったままの鉄仮面にジーーーーーッと無言のままに見つめられ続けてるだけだった。
 だいたい、一分くらい。
 結構、長い。
(悪口雑言でののしられた方がまだマシだな……)
 と思ったものだ。
 その間、目の前をちょろちょろ飛んでるヤブ蚊がうっとうしかった。
 ちなみに翼は『むかついてるが、言葉が思いつかなかった』らしい。
 んでもって、やおら言った言葉は――
「……明日は……来るの?」
 だったので、
「……こっちに泊まるから、行く……と、思う」
 と、翼の無表情な鉄仮面を見上げて、灯は答えた。
 そして、その隣では凪歩がベンチの背もたれに両手を突いてうなだれていた。
 そのうなだれた凪歩の肩を翼がつかむ。つかんでぐいっと、灯の方へと押し出したかと思うと、彼女は静かな口調で言った。
「……好きなだけ……家族の問題で、怒って……良い」
「……イヤ、もう、良いよ……疲れたし、精神的に。ともかく、とっとと、帰って来なよ」
 がっくりうなだれた凪歩はそう言ったかと思うと、翼がつかんだままだった雑誌を奪って、灯の頭の上にとんと置いた。縦ではなく、横というか、平面の方向。勢いもたいしたことなくて、置いたというか、乗せたと言った趣。
「へいへい……凪姉こそ、とっとと行かないと、電車、乗り遅れるぜ?」
 答えて灯は頭の上に置かれた雑誌を回収して、立ち上がった。そして、雑誌は二冊まとめて自転車のかご、ゴミはゴミ箱に放り込む。かごには自身の教科書やら伶奈のための参考書やらが入った大きめのデイパックが入っているせいで、結構きつめ。放り込むというか、押し込む感じだ。
 そして、自転車にまたがれば、背後かかけられる一つの声。
「気をつけて行きなよ……真っ暗なんだし……トラックは飛ばしてるし……」
 振り向き見ると、長身の姉がばつが悪そうに頬を掻いてる姿があった。
「ああ……うん……」
「……また、明日……」
 答える灯に翼が控えめな声で言い、そして、灯がその言葉に応える。
「うん、明日は食べに行くよ」
 そう答えるのが灯には少し気恥ずかしかった。

 そして、翌日……
 アルトに顔を出したのはジェリドこと悠介及び影が薄いと噂の俊一の二人きり。お昼少し過ぎにひょっこりと顔を出した。
「アレ……? うちの弟は?」
 出迎えた凪歩が尋ねると、悠介と俊一が互いに顔を見合わせ、悠介が代表で答えた。
「朝、直樹さんが顔を出して……差し入れてくれたビールを飲んだら、ひっくり返って……今、寝てる……」
「はあ? どんだけ飲んだの? 二リットル? 三リットル?」
「…………いやいや、凪さん、いったい、どんだけ飲むんだよ……半分くらいだよ」
 自身の質問に俊一の方が答えると、凪歩はそちらに顔を向けて尋ねる。
「ピッチャーの?」
「グラスの」
 答えたのは悠介の方。そして、凪歩は本当に不思議そうに小首をかしげた。
「えっ? 何で? ビールなんて、苦いジュースじゃん、あんなのビア樽で飲んでも酔えないよ?」
 全く理解できないと言った風体で小首をかしげる凪歩に男達二人は戦慄した。
 で……
「ふぅ〜ん……」
 その日の食器洗い中、凪歩からその話を聞いた翼は、そんな風に取り立てて興味も抱いてないかの様子ではあった。
 が、
 さらに翌日。
「イヤ……あれから夕方までグーグー寝てて……バイトに遅刻しそうになって、慌てて、帰ったんだよな……飯はジェリドが雑炊作ってくれたし……『ちょっと雑炊』だけど」
 と、申し訳なさそうに言う灯の頭に、翼が握ったトレイが振ってきた。
 ――もちろん、縦で。

前の話   書庫   次の話

ご意見ご感想、お待ちしてます。