話は少し巻き戻ってゴールデンウィーク中のこと。
前にも軽く触れたが、灯は伶奈の家庭教師を週に二回行っているほかに、毎日、夜の九時から翌日の一時過ぎまで、コンビニでのアルバイトもやっている。帰ったら風呂に入って寝るしかないような生活だが、下手に変なことを初めて夜更かしと言うことがないから、逆に生活リズムは悪くない。
場所は時任家から自転車で十五分ほど、駅からもほど近い国道っぺりにある。
この国道は、ずーーーーーーーーーーーーーーっとまっすぐに行けば、大学の前、良夜のアパート、伶奈とジェリドこと勝岡悠介のアパート、そして、喫茶アルトへと続くおなじみの道だ。
ド田舎であるアルトの前であっても、夜通し走るトラックのおかけで国道は深夜になっても結構賑やかだ。それがアルトよりも少し街寄りの立地条件となれば、日付変更線を越えた辺りでも結構な車通りが維持されている。その分、来店客もそれ相応。忙しいとまでは言わないが、給料を貰うことがはばかれるほど暇でもない。
で、その時間帯、だいたい、灯は一人でこなすことも多い。
もう一人、中年の太めで薄毛というかわいそうな店長さんがいるのだが、こちらは灯が帰った後の深夜営業のために仮眠をとるのが日課になっている。
この間入ったばかりの学生バイトに一人で営業を任せて大丈夫なんだろうか? と他人事のように思うが、一人でやり始めて以来二週間ほどが経っても、大きな問題も発生してないから大丈夫なのだろう、たぶん。
そんな感じのアルバイト。
先ほどまで雑誌コーナーで雑誌を立ち読みしていた女性客……派手ななりときつい香水の香りから、お水の女性だろうと思う。その彼女がパンとレジ前のセルフコーヒーを買って出ちゃえば、店内には灯一人きりになった。
「ふぅ……」
と、一息。
入学祝いで貰ったごついダイバーズウォッチへと青年は視線を落とす。
時は十二時少し前。
「あと一時間ちょっとかぁ……」
正直、この時間帯が一番辛い。
半年前まで早寝早起きの健康的な生活が信条だった灯には、このくらいの時間は立派な深夜だ。
「ふわぁ……」
大きなあくびをかみ殺したその瞬間、自動ドアが音もなく開いた。
「いらっしゃいま……」
言いかけた言葉が固まり、ため息に代わる。
「何だ……シュンじゃないか……」
「よぉ〜お疲れ」
入ってきたのは、色黒で彫りの深い……一目でスポーツマンだなと言うことを感じさせるイケメン友人、真鍋俊一だった。
彼の家がここのすぐ近くって事は、幼い頃からの友人である灯はよく知っている。バイトはここから少し行ったところにあるディスカウントストアーのはず。二十四時間営業の、まあ、ぶっちゃけ、このコンビニの商売敵だ。
で……
「バイト帰り? また、立ち読み?」
「今日もきつかったよ。サンマガ、読ませて貰うぞ?」
悪びれることなく彼は雑誌売り場へと足を向けると、先ほど、灯が出したばかりの雑誌を手に取り、立ち読みを始めた。
コミック本体は買うのだが、雑誌の方は買わずに立ち読みをする主義らしい。金がない……ってのもあるが、雑誌を毎週買ってるとあっという間に部屋が雑誌で埋まってしまうからだ。
その主義もどーかと思うが、売り上げが下がろうが上がろうが、灯の時給が変るわけではないのでほっとく。
店内放送をBGMにレジの伝票を片付けたり、商品を出したり……こんな遅い時間でも店番以外にやることはそこそこ。それらを手際よく片付けていると、どこかで聞いたことのあるアニメソング。
『♪たとえば、俺が俺じゃないとして、お前はお前だと言い切れるのか?♪』
顔を上げれば、雑誌売り場であたふたとポケットからスマートフォンを取り出そうとしている友人の姿。この期に及んでも読みかけの雑誌を棚に戻さず、開いたままって言うのは、ある意味立派。
「……いい加減、それ、変えろよ……そろそろ、古いぞ?」
「気に入ってるから良いの……――はい、俺。どこの俺? って、真鍋のシュン君だよ……そういう貴様は――」
スマートフォンを肩と首の間に挟み込んでシュンが電話しているのを、視野の片隅に納めて、青年は仕事の続きを行う。一応とはいえ、客がいるからレジの中の仕事がメイン。まあ、奴だからほっといてても良いんだけど……そんなことを考えながら、細々とした雑事を片付ける。
「香川か? ああ、どうした? うん。ああ……ちょっと待って、今、傍に灯もいるから」
と、そこに聞いた覚えのある名前が呼ばれれば、灯の手が止まり、顔が上がった。
そして、俊一がようやく雑誌を本棚へと返したと思ったら、携帯を耳から離して、こちら、レジの方へと近づいてきた。
「香川? どうした?」
「暇だから、遊ぼうぜってさ」
「……今、何時だと思ってんだ? 馬鹿だろう?」
「親父のプリウス、パクってくるから、どっか行こうって」
「あいつ、免許あるのか?」
「今日、取ったって」
「……大丈夫か?」
「だれでも初体験ってのはあるんだよ」
「……まあ、安全運転で頼むって言っといて」
ため息交じりに答えれば、俊一は彫りの深い二枚目をクスリと笑みに変えてスマホを耳たぶに押しつける。そんな友人の様子から視線を手首、腕に巻かれたダイバーズウォッチへと、明かりは落とした。
先ほどから十五分ほど流れて、今は十二時十分。
「後……五十分か……」
つぶやきは少しだけ弾んでいた。
さて……と、それから灯が帰ってきたのは翌日の朝、すでに太陽が朝日を卒業してただのお日様に成り下がる頃だった。
当初は灯と俊一ともう一人の友人だけだったのだが、それがなぜか、あっちゃこっちゃに電話をかけまくって野球部の同級生五ー六人呼び寄せたあげく、その中の一人の家が所有する休耕田に集まって、季節外れの花火をやり始めてしまった。まあ、花火と言っても打ち上げ花火だのロケット花火だのではなく、地味な手持ち花火ばっかり。農機具なんかを片付けてる物置に、忘れ去られて取り残された花火が一袋あったのだ。一番派手なのが一個だけ入ってたドラゴン花火(据え置き型で火花が噴水みたいに出てくるアレ)だって言うんだから、その地味さ加減も理解してもらえるだろう。
それが終わったら、近況報告をしながら、灯がバイトしてたコンビニでジュースや軽食を買って食べたりしてるうちに、この時間。
さすがに寝不足で頭がグラングランになりながら、灯は自転車を押して自宅に帰ってきた。
嫌みなほどに晴れ上がった五月晴れの空。だけど、にじむ汗は陽気のせいでって言うよりも、ほとんど冷や汗。ふらつく足で自転車を庭の隅っこ、花壇と壁の間に押し込んだら、玄関のドアを開く。
「ただいまぁ……」
覇気も糞もない声で言えば、出迎えてくれる元気……
「灯!!」
過ぎる怒鳴り声。
顔を上げれば、長い廊下の奥から姉がばたばたと凄い勢いで走り込んでくるのが見えた。
その姉が、きっ! とブレーキ音を立てて、目の前に止まる。
ピッとノリの良く効いた喫茶アルトの制服に高い位置に作ったポニーテール、大きな眼鏡。見慣れた仕事姿の姉がその大きな眼鏡の奥で、きつめの狐目をさらに強く細くして、灯を見下ろしていた。
「……何? 凪姉……」
「今! 何時だと思ってるの!?」
「……七時過ぎ……姉ちゃん、今日、仕事何時からだよ……」
「もう出るよ! そんなことより、何をしてたの! こんな時間まで!!」
烈火のごとくに怒っている姉を、玄関の土間、一段低くなったところから見上げて、答える。
「何って……花火、井上んちの田んぼで」
その答えに姉がぽかん……大きく口を開いて、彼女は灯の顔を上から見下ろす。
そして、絞り出すように彼女はつぶやいた。
「……バカ?」
「……まあ、否定はしないけど……久しぶりに会った連中ばっかりで、盛り上がったんだ……ともかく、寝かせて……眠くて、眠くて……」
スニーカーを脱いで上りかまちをまたいで上がる。疲れと寝不足でこの程度の段差もちょっときつい。ふらっと足下がふらついて、姉の肩に手を置く。体重こそかけずに済んでいるが、それでも姉の肩を借りているとずいぶんと楽になる。
「……もう、ちゃんと寝なよ……――って、ちがーう! 何時までほっつき歩いてるの!? って話!!!」
一瞬だけ優しい言葉をかけるも、すぐに顔を紅潮させ、彼女は大きな声を上げた。
その言葉にもう一度、弟は答える。
「七時過ぎだよ……」
「もっと早く帰って来いって言ってるの!!!」
「おかんにはちゃんと電話したんだから、良いだろう……」
「そういう問題じゃない!!」
「じゃあ、どういう問題だよ?」
姉の肩から手を放し、振り向いた灯が尋ねると、姉は言葉に詰まり、絶句。
代わりに答える声が姉の背後から聞こえた。
「自分の門限が十二時なのが気にくわないだけよ」
振り向けば姉とよく似た面立ちながらも、少々老けてて、ついでに髪もばっさりと短めの女性――灯と凪歩の母親があきれ顔で立っていた。
「そうなの?」
振り向き、姉に尋ねれば、姉はぷいっとそっぽを向いて、明後日の方向を見ながらに言った。
「違う! 私は成人で社会人なのに門限が十二時なのに、未成年で学生ですねをかじってる灯に門限がないって事が納得できないだけ!」
「俺が男で凪姉が女だからだろう?」
「後、すねをかじってないって言うなら、朝は一人で起きなさいよ……灯は自分で起きてるわよ」
弟と母、二人にぽんぽんと言われてそっぽを向いてた凪歩の首がくるん! 灯と母の方へと勢いよく向く。そして、彼女はさらにその顔を赤く、目元もきつくして言った。
「せめて灯にも門限を作ってよ!!」
目を剥く姉に母はため息一つ……改めて灯の方へと顔を向けると、軽く肩をすくめて彼女は言った。
「はあ……灯、あんたももうちょっと早く帰ってきなさい。今日も夕方から家庭教師のバイトでしょ?」
「あっ……うん……」
母の言葉に素直に首肯すれば、母はやっぱりため息交じりに姉の方へと顔を向けた。
「これで良い? 気が済んだら、さっさと出なさい。電車に乗り遅れるわよ」
母にそう言われると凪歩は不承不承と言った感じではあるが、上りかまちからタイル張りの土間へと降りて、革のパンプスにつま先をねじ込んだ。
「今日の所はこれで良いけど……遅くまでたらたら遊んでんじゃないわよ!!」
「……ああ……」
ぷいっとまたそっぽを向いて、凪歩が玄関から出て行く。
それを灯は頭をばりばりとかきながらに見送り、そして、ぽつりと漏らした……
「はあ……参ったな……」
「ほどほどにしなさいよ、灯も……ゴールデンウィーク中だからって、大学生が朝帰りしてるんじゃないわよ」
「……でもなぁ……」
「どうしたの?」
「今夜……コンビニのバイト休みだから、じぇり――勝岡の家で麻雀やるんだよな……」
「あんたね……」
母があきれ声を上げたまさにその瞬間――
ばたん!!
「連続で夜遊びするの!!!???」
扉が開き、激怒している姉が帰ってきた。
「って、立ち聞きかよ!?」
灯が目を剥いて怒鳴れば、凪歩もそれに負けず劣らずの声で怒鳴り返す。
「ケータイと財布と定期入れが入ってるハンドバッグを忘れただけ!!! ともかく、早く帰ってくるのよ!!!!」
捨て台詞を吐くと、凪歩はパンプスも脱がずに上りかまちを駆け上がり、見事な足跡を廊下に刻んでかけだしていく。
そして、手ぶらだった手にダークブラウンのハンドバッグを握って帰ってきたかと思えば、今度は灯の前を素通りして、玄関ドアの向こう側へと飛び出していく。
開いた扉の向こう側には見事に高い五月晴れ。まぶしい日の光に一瞬、目がくらんだ。
「行ってきます!!!!」
凪歩の怒鳴り声だけがそのドアの向こう側から聞こえた。
「…………アルトで凪姉と会うの……イヤだな……」
「…………生徒さん、家に呼んだら?」
五月晴れの空とドアで区切られた玄関の中、弟と母の声が小さく響いていた……
もちろん、伶奈が時任家に呼ばれることはなく、灯は素直にアルトへと出勤したことは言うまでもない。
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