おかえり、ただいま(完)
 さて、四月末末日、世間はゴールデンウィークと騒がしいが、英明学園の休日はカレンダー通り。授業は普通にやってるし、放課後には部活もちゃんと活動している。
 英明学園一年西部伶奈もちゃんと、手芸部の活動に参加し作りかけの刺繍をちまちまとやっていた。
 だがしかし……
「私……今日、家庭教師だから……」
「おけおけ、みくみくには伝えておくから」
 つぶやくように伶奈が立ち上がると、隣の机でジグソーパズルを組み立てていた穂香が顔を上げて答えた。
「うん……北原さんに謝っておいて」
「はは、大学生のかっこいいお兄ちゃんとデートだって、言っておくよ」
「そんなんじゃないもん……」
 軽い口調で笑う友人にぷいっとそっぽを向いて、視線を反対側へ……
 そこでは何かのプラモデルを作っている蓮の姿があった。前に「がんだむ?」って聞いたら可愛い顔を珍しく曇らせていたので、たぶん違うのだろう……が、あいにく伶奈はロボットアニメには詳しくないので解らない。
「南風野さんも……また、明日ね」
「……うん。気をつけてね」
 仮止めのマスキングテープを貼る手を止めて、蓮は顔を上げた。そして、その友人が軽く手を振るので、伶奈もそれに会わせて小さく手を振る。
「それじゃ……みんな、お先に……」
 そう言って、少女は二人の友人と一人の他人、それ以外五−六人ほどの先輩たちが思い思いに何かを作っている家庭科実習室を後にした。
 一人だけ運動部の美紅を待ってる……と約束しては居るものの、毎日、誰か彼かがいなくなるのは、習い事や学習塾が一般化している現代っ子の宿命みたいな物だ。特に英明みたいな私立中高一貫校に通う中学生にとって学習塾はもはや必須。運動部所属の生徒ですら、学習塾のために早めに部活を切り上げる者も居るほど。
 経営が危ぶまれるようなガラガラの電車を降りるのはだいたい五時半過ぎ。それから、自転車で長い坂をえっちらおっちらこいで、上が……りきれないから、押して上がる。だいたい、二割くらいのところでギブアップするのが定番。残り八割を押して上がりきる頃には、五月もまだだというのに全身汗だくで、膝が笑う体たらく。
 しかも極悪なことに伶奈はここから階段を四階分上がる必要がある。
(駅前が良かったなぁ……)
 って思うけど、よく考えると、週に二回の家庭教師と土曜日のアルバイト、それから母の夜勤の日……伶奈はほとんど毎日アルトに通っている。帰り道は母が迎えに来たり、美月が送ってくれたりもするが、送って貰おうと思えば歩いて行くしかない……って考えたら、駅前からアルトの隣まで、どこに住もうが、運動量はあまり変らない。
(アルトが駅前に引っ越し……)
 なんて、あり得ない話を頭の片隅で考えつつ、ふらふらの足取りで部屋へと上がる階段を上がる。
 と……――
「よっ……ジャリ」
 伶奈の部屋のお隣、ドアの前でうんこ座りをしている青年が一人。
「あっ、ジェリド……」
 と、呼ばれてる青年、勝岡悠介だ。彼の手には煙管が一つ。そのすぐ傍には時代劇から出てきたようなたばこ盆まで置かれていて、割と本格的。どうも彼は、たばこを吸いたくなったら、このたばこ盆を持って通路まで出て来て、一服しているらしい。時々……特にこのゴールデンウィーク中はよく見かけた。
 煙管の火皿からはふんわりとたなびく紫煙、それを目で追いながら、一言、つぶやくように彼女は言う。
「……未成年のくせに……」
「良いんだよ、ばれないようにやってるから」
 眉をひそめる伶奈に対して、悠介は咥えていたキセルを口から離して、ぷか〜と気持ちよさそうに紫煙を吐き出す。
「……肺がんになって死んじゃえ」
「太く短くで良いんだよ、俺は」
 伶奈の捨て台詞に合いの手を打つかのように、悠介はたばこ盆の角にキセルを打ち付け、灰を落とす。その音がかんかんと二回、気持ちよく響いた。
 その音を聞きながら、部屋のドアを開いて
「ただいま……」
 と、無人の部屋に向かってつぶやけば、隣から――
「お帰り、ジャリ」
 の声。
 半歩ほど踏み込んだ玄関から首だけを出して隣を見ると、細面の青年がたばこ盆を片手に立ち上がるのが見えた。
 立ち上がった青年は伶奈に背を向け、振り返りもせずに自身の部屋へと入っていく。
 それを伶奈は目だけで追いかける。
 カチャリと小さな音とともに、隣の部屋のドアが開かれた。
 中から聞こえてくるゲームの効果音とBGM。爆発するような音や話し声らしき物が聞こえたから、誰か中にいるのかも知れない。三馬鹿の一人「シュンくん」こと真鍋俊一辺りか?
 カチャリと今度は内側から鍵がかかる音を聞いたら、伶奈は自身も部屋の中へと入り、鍵をかけた。
 部屋に入ると、伶奈はメタルラックのテレビ台の向こう側、アイボリーの壁紙が貼られた壁へと視線を向ける。
 古いアパートではあるが防音は割としっかりしているようで、閉め切った部屋の中に隣の部屋からゲームの音は聞こえてこない。
 伶奈は軽くため息をついたら、ぱっぱっと着ていた制服を脱ぎ捨て、私服に着替える。最近、お気に入りの青いトレーナーとジーンズ生地のオーバーオール。
 着替え終わったら、学生鞄の代わりに、ナップザックを手に取る。中には灯が用意してくれた参考書や問題集なんかが入っている。
 それをひょいと右肩に引っかけたら、伶奈は通路へと出た。
 ジェリドはもういないけど、まだ、たばこの香だけは残っているような気がした。
 その臭いにちょっと眉をひそめて、彼女は階段をとんとんと下る。
 太陽はずいぶんと西の空へと傾き始めていて、足下には長い影。
 追いかけてくる影から逃げるように、伶奈は峠の頂点にあるアパートから、アルトへ……今度は歩いて向かう。
 から〜んとドアベルをいつもの調子で鳴らせば、出迎えてくれる気持ちの良い声。
「お帰り。灯、もう、待ってるよ」
「あっ……うん、ただいま」
 凪歩に言われて、伶奈は窓際隅っこ、いつもの席へと足を向ける。
 窓の外は深い谷川を挟んで大きな山、美しい新緑が夕日に照らされ始める窓の傍、灯はコーヒーを片手に自身の教科書とノートを眺めていた。
「お待たせしました……」
 夕焼けに染まる窓際隅っこの席、ぽんとノートと教科書をテーブルの隅っこにおいて、青年は伶奈の方へと視線を向ける。
 人好きのする笑みを浮かべて彼は言った。
「いや、時間通りだよ。それじゃ、始めようか?」
「うん」
 軽く頷き、伶奈が灯の正面に腰を下ろす。
 そして、青年は、伶奈の家庭教師はふと思い出したかのように言った。
「あっ、お帰り」
「……ただいま」
 改めて言われるとちょっと恥ずかしい……

 伶奈の家庭教師の授業は六時からで、一時間やったら、小休止。灯が一人じゃ食べづらいと言うので、二人に小さめのケーキと飲み物が供される休憩時間を少し挟んで、さらに一時間ほど。ざっと二時間少々、八時過ぎまでが家庭教師の時間になっていた。
 灯の兄二人はずいぶんと勉強がよく出来たらしい。結果、多くの問題集や参考書なんかが時任家には残されていて、それを利用した授業は学校で解らなかったことや、間違えて覚えていたことなんかをしっかりと補ってくれる。
 何より、学校の教師よりも灯の方が話しやすいのがうれしい。
 今日の授業は前半が英語で後半が数学。
 小学校の頃はあまり意識したことがなかったのだが、伶奈はどうやら理数系よりも文系が得意のようだ。特に暗記系のものが得意なようで、英単語だろうが漢字だろうが年表だろうが大概のことは一回やればサッと覚えてしまえる人間らしい。
 逆に数学が少し苦手なよう。公式や公理なんかはちゃんと覚えているのだが、それをどこで使えば良いかの思いつきがなかなか出てこない。言われるとわかるタイプだ。
 で、それが灯にもバレているから、文系は短めで理数系、特に計算問題が多め。特に灯は工学部に進学しているってことからも明らかなように理数系が得意だって言うんだから、油断ならない。自身がやってた問題集やら二人の兄が残していった参考書なんかからどっさりと数学の問題を提出してくれる。
 ちょっと、大変。
「元々頭が良くて、ほっといても勉強するタイプなら、好きな事はほっといて、嫌いなことやらせろってさ」
「誰が言ってたの?」
「兄貴二人」
「……二人のせいなんだ……? この数学地獄……」
 なんて、言って、すだれ髪越しに灯を見上げてみても、灯はぷいっとそっぽを向いて、一言、
「話してないで、続き……」
 意外と厳しいというか、容赦がないというか……
 八時を過ぎて一段落がついたらようやく終わり。
「あら、帰ってたのね、お帰り。勉強は進んだ?」
 終わる頃になると妖精がどこからともなく飛んできて、伶奈の頭にちょこんと着地。天地逆さまになって伶奈の顔をのぞき込むのがパターンだ。
「ただいま……って、ずっと前に帰ってたもん……どこかで遊んでだらだらしてただけのくせに……」
 金色の髪と金色の瞳、底意地悪そうな笑みが顔の前で揺れる。その向こうで灯が席を立つのを、伶奈は見上げた。
「お疲れさん。それじゃ、宿題、ちゃんとやるんだよ」
「……うん」
 そう言って灯がその場を後にするのを伶奈は見送る。
「この後、コンビニで日付が変るくらいまでバイトとか言ってたわねぇ……よくやるわね、あの子も」
 感心しているともあきれているとも着かない言葉でアルトが言うのを聞きながら、伶奈は軽くため息を一つ。
「疲れたの?」
「……少し。中学に入ってから、灯センセ、厳しいから……」
「飲み込みが良いから、教えるのが面白くなってきたって……凪歩に言ってたらしいわよ?」
「そう? 難しいよ……」
「ところで、手芸部の方は? ぶきっちょなのに手芸部なんてチャレンジャーな事してるみた――いたたたた!!!!」
 余計なことを聞いてくる妖精を軽く絞っておく。
 ちなみに、瑠依子から『とりあえず、針を刺すときに額に縦線が出てくる癖を改めよう』と言われたって言うエピソードから、彼女の刺繍の腕前を察して欲しい。
「絞らないで! もう! 私を絞っても貴女の刺繍の腕前は上がったりしないわよ!!」
「フン! だ!」
 ぽいとアルトを投げ捨てて、一人きりになった席から、伶奈は窓の外へと視線を向けた。
 先ほどまでは綺麗な夕日が見えていたかと思っていたのだが、勉強をしている内に外はすっかり夜のとばり。山側には街灯がないことも相まって、山の稜線すら解らないほどに真っ暗になっていた。
 そんな真っ暗な風景から、灯が置いていった宿題のノートへと視線を落とした。
「まだやるの?」
 とことこ……とテーブルの上、ノートの端っこまで歩いてきた妖精が、伶奈の顔を見上げて尋ねる。
「……うん、お母さん、今日は九時をすぎるとか……メールが来てたから……」
「大変ねぇ」
「……うん」
「……貴女よ。ご飯、帰ってから、作るのを待つんでしょ?」
「さっき、ケーキを食べたから、お腹は空いてないよ」
「……なら良いけど」
 手元から聞こえる声に、「うん」と小さな声で言葉を返して、伶奈はかりかりとシャーペンをノートの上に走らせる。学校で出された宿題のうち、急ぐ分は家庭教師の時間中に灯に見て貰いながら仕上げてしまった。今やっているのは、家庭教師の宿題の分。こちらは英語が多め。授業で習った部分の復習って感じの問題集をやらされていた。
 集中してやっちゃえば、時間はあっという間……
「待った?」
 って声が聞こえたから、顔を上げれば、そこには通勤着にしているスーツ姿の母が立っていた。
「ううん……全然。お帰り」
「あっ、ただいま」
 少し頬を緩めて母が答えたから、伶奈も片付けの手を止め、ほほえみ返す。
「お疲れ様、おばさん」
 帰る準備が出来て立ち上がろうとした、まさにそのとき、美月がとひょっこりとその場に顔を出した。
「あっ、美月さん……いつも伶奈がお世話に……」
「いいえ〜全然ですよ〜伶奈ちゃん、良い子ですから」
 愛嬌のある笑顔でそう言われると、何となく、居心地が悪いというか、お尻の辺りがむずむずする感じがするというか……一言で言うと――
「お母さん……早く、帰ろう?」
 って感じだろうか?
「ああ……はいはい。それじゃ、今日も預かっていただいて……」
「いえいえ……っと、見送りじゃなくて……これ」
 言って、美月は茶封筒を一つ、伶奈の前に差し出した。
 喫茶アルトの、妖精の横顔が意匠化されたマークとともに電話番号や住所なんかが印刷されたごくごく普通の茶封筒だ。とっさに受け取ってしまうと、伶奈は小首をかしげて尋ねた。
「なに?」
「いらないなら、返してくれても良いんですけど……お給料ですよ?」
 パチンと軽くウィンクをし美月が言うと、伶奈はほとんど反射的に封筒の封を切っていた。
「……はしたないったら……」
 隣で母が苦笑いしているのも気づかないほど。
 開いた中には折り目一つない綺麗な五千円札が一枚。四月は一回しか働いてないから、この金額……なのは解っているけど、やっぱりうれしくて、伶奈はしばらくの間、その封筒の中を眺めていた。
 綺麗な五千円札をしばし眺め、そして、彼女は尋ねるともなしに言葉を漏らした。
「どっ……どうしよう?」
「何か好きな物を買ったら良いんじゃないんですか?」
 と、答えたのが美月。
「貯金しておきなさい」
 と、言ったのが母親。
「私に服を買ってくれれば良いわよ」
 と、ぬかしたのがアルト。
「……――ってアルトが言ってる……みんな、ばらばら……」
 当てにならない大人三名にぽつりと漏らせば、今度は三人の言葉が一つに重なった。
「「「好きにしたら?」」」
「…………参考にならない……」
 プーッとほっぺを膨らませて、そっぽを向けば、頭の上からふんわりとアルトの頭が落ちてくる。
 そして、彼女はクスリと笑って、こう言った。
「こういうのも定番よ?」
 ぼそぼそ……小さな声で妖精はささやく。
 そして、伶奈は妖精のささやきに従うことにした。

 さて……伶奈が家に帰ってきたのは、それから一時間半ほどが過ぎた時のことだった。
「ごちそうさま、伶奈」
「……ただの回転寿司だし……安かったし……」
「まさか、中学生の娘にお寿司をごちそうになるとはね……お母さんもびっくり」
「今度はお母さんに廻らないお寿司をおごって貰うもん」
 そんな話をしながら、コンクリート製の階段をとんとん上がっていく。
 四月……数十分で五月というタイミングではあるが、この時間はまだまだ冷える。
 冷たい風に少し首をすくめながら伶奈は、母親とともに最上階の四階まで上がった。
 そして、角を曲がれば、自室の隣、ドアに体を預けるような形でうんこ座りをしている悠介の姿があった。その手には紫煙たなびく煙管、隣には大きなたばこ盆。
「よっ、ジャリ……と、西部さん、こんばんは」
 煙管をつまんだ右手を軽く挙げて、軽い調子で青年は言った。
「……また、未成年がたばこ吸ってる……」
「だから、俺は太く短くで良いの」
 あきれる伶奈を尻目に悠介はかんかんと二度、たばこ盆の縁に先端をたたきつけ、火皿の灰を中へと落とす。そして、新しい刻みたばこを器用に丸めたら――
「肺がんは辛いですよ? 先日も、うちの病院で一人、ずいぶんと苦しんで……」
 と言う由美子の声にそのまま、固まる。
 三秒の沈黙の後、彼はつぶやく。
「まっ……良いか……」
 言い訳のような言葉を残し、彼は丸めたたばこを小さなパウチに戻した。
 そんなお隣さんの様子に母親は伶奈の顔を見下ろし、クスッとほほえみかける。
 その笑みを見上げて、伶奈も少しだけ肩をすくめて笑ってみせた。
 その様子を見ながら、悠介は少々ばつが悪そうに手の中で煙管を弄びながら、苦笑いを浮かべていた。
「おやすみなさい」
 由美子は、そう言って軽く頭を下げたら、カチャリと玄関の扉を開いて部屋の中へ……
「あっ、おやすみなさい」
 その背後に投げかけられる言葉、それを聞きながら、未だ母が押さえてくれている扉の中へ……母の脇の下を通るようにすり抜けると、伶奈は首だけをひょっこりと外に出して、言った。
「ただいま、ジェリド」
「えっ? ああ……お帰り、糞ジャリ」
 答える青年がたばこ盆の隅に置かれた竹筒の中へ煙管を放り込む音が、こーんと夜の通路に響き渡った。
 伶奈の一日はおおむね……こんな感じ……
 

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