引っ越し(1)
中学の入学式があったわけだから、大学の入学式もそれとほぼ同じタイミングで執り行われるのが世の習いである。
具体的には前週の金曜日。
週が明けて月曜日には早速授業が始まる。授業が終わればサークル巡り。灯はひとまず誘われていた二研に顔を出してみたり、友人の俊一が行きたがっていたアニメのサークルに着いていったり……始まったばかりの大学生活をそれなりに楽しんでいた。
そんな、うららかな春のある日……
「結局、サークル、どうする?」
一日の授業も終わって、一人だけ経済学部の俊一と合流すると、灯は早速そう尋ねた。
「俺は二研。綺麗な人、多かったよな? 喫茶店のウェイトレスの人もいたし。温州ミカンだか、八朔だか知らないけど、そんな名前の人も可愛かったよなぁ〜」
答えたのはジェリド、もとい、悠介。灯と同じく工学部だ。
「……温州ミカンでも八朔でもなく、オマケにポンカンでもなければ伊予柑でもなく、アマナツだよ、天城夏瑞さん。二年生だっけ?」
俊一が呆れ口調で訂正すれば、悠介は軽く「そうだっけ?」などとすっとぼけた言葉を言った。
「だから、お前はジェリドなんだよ」
「……お前らのせいでしっかり、二研でまで『ジェリド』のあだ名が定着しちゃったんだぞ? どうしてくれるんだ?」
「どーもしねー」
俊一と悠介がじゃれる姿を見ながら、灯は校舎裏手から裏庭へと出た。
近くのアパートに住む学生は徒歩で正門から出入りするが、自転車やバイク、車で通う学生達はこちらから出て、駐車場へと向かうのが習わしみたいな物。この三馬鹿のうち、灯と俊一は電車と自転車を乗り継いで通学しているから、必然的にオマケの悠介もこちらから出るようになっていた。
校舎から駐車場を抜けて、駐輪場へと向かう道は、授業の終わった学生達で溢れて居て賑やかだ。その雑踏の中、三人は始まったばかりの大学生活やら、悠介の一人暮らしに着いてなんかの話をしながら、のんびりと歩いていた。
「で、これから、どうするんだ?」
そんな中、灯が尋ねる。
答えたのは俊一だった。
「アルトに行くなら、今日はパスだなぁ……金がない。なんだよ、灯のメニュー食い放題って立場。うらやましすぎるぞ?」
「労働の対価だよ。後、お前、毎日、パスしてるじゃないか……」
「その労働は? 授業じゃなかったか? それと、俺は毎日、金がない」
「明日に振り替え。あっちの都合だって。しかし、食い放題って言っても、食えなくなったよなぁ〜部活引退して」
「ああ、それは俺も同じだ……やっぱ、どこかの体育会系サークルにでも籍を置いておくか……? 三年ぶりの『一年生』って立場は激しく面倒くさいんだけど……」
と、話をしている灯と俊一との会話に悠介が割って入る。
「じゃあ、やっぱり二研で良いんじゃないか? バイクに乗るのも良い運動になるらしいぞ?」
「嘘くさいよ」
割って入った言葉に灯が冷たい一言だけを返すと、三人は「はは」と軽く笑い合った。
灯と俊一がそれぞれの自転車を回収すると、三人は並んで裏門から国道へと続く路地に出た。そして、国道に出ると、一人だけ徒歩の悠介にあわせるよう、自転車を押して、峠へと続く坂を上り始めた。
下るのではなく、上る理由は、ほぼ『何となく』以外にない。その『何となく』の流れのまま、悠介のアパートへと向かうのがここ数日の日課になっていた。強いて理由を述べるなら、近くて金が掛からないから。あと、奴の家にはプレステ4がある。
悠介のアパートは峠を登り切った頂上付近にある。読者諸兄にわかりやすい位置関係で言うならば良夜のアパートとアルトとのちょうど中間当たり。良夜のアパートや大学があるのと同じ車線側にあり、アルトから見れば国道の向こう側と言うことになる。
そのアパートも良夜のアパート同様、二輪車の置き場はゆったりと作られているが、駐車場は少なめの三台分。その駐車スペースの一つに、今日は珍しく、大きめのライトバンが止まっているのが見えた。
そのライトバンと二輪車置き場の間を抜けて、三人はアパートのエントランスへと向かう。
築年数は比較的古いようで、四階建てのくせにエレベーターもなく、階段を歩いて上がるしかない。
各フロアーには四つの部屋。階段が真ん中にあって、右に二つ、左に二つ。悠介の部屋は四階の階段を上がって左側、どん突きの角部屋だ。
その部屋は独立したダイニングキッチンを持つ1DKという奴だ。ちなみに良夜の部屋はワンルームであるから、良夜の部屋よりかは少し豪華ではある。しかし、築年数が古い分、値段はあまり変わらない。まあ、お得と言えばお得。
意外と片付いてた悠介の部屋を思い出しながら、灯はアパートのエントランスに入った。
そして、隣を歩く友人に声を掛ける。
「一人だと広いよな? あの部屋」
「まぁ、若干なぁ〜空き部屋で一番大学から近いのがここだったんだよ」
その問いに、悠介が答え、それを俊一が「へぇ〜」と適当な相づちを打つ。
そして、三人は四階へと上がる階段をトントンと上がっていく。
階段を四つ上がって、曲がる。
と、外開きのドアが開け放たれ、閉まらないように何か段ボール箱のような物で押さえられていた。
「誰か、越してきた?」
ぽつりと悠介が呟いた。
そういえば、その部屋は昨日遊びに来た時点では空き家だったことを灯は思い出した。
「珍しいタイミングだなぁ? 授業も始まってるのに」
誰に問うともなく俊一がぽつりとこぼすと、周りの二人も「そうだな」と異口同音な返事を呟く。
そして数歩……
別に覗く気があったわけでもないのだが、部屋の前を通りかかったとき、灯は何気なく、部屋の中に目をやった。
玄関先から見える室内は、悠介の部屋と大して変わらない感じ。幾分がらんとしていると言ったところ。その玄関先、入ったところで大きな段ボールの梱包を開いている女性がいた。細身ではあるが、顔の皺なんかを見るに年の頃は三十代後半か、四十代くらい。一言で言うと『母親よりか少し若い』といった風体の女性だ。
「あっ……」
人の気配に気づいたのか、その女性が顔を上げた。
「こんにちは……」
控えめな声でそう言って、彼女が頭を下げると、三人もほぼ反射的にぺこりと頭を下げた。
そのまま、歩き始めようとする悠介の脇腹を軽く俊一が肘でつつけば、彼は慌てて口を開いた。
「あっ! 俺、隣に住んでる者です。よろしく」
「ああ、そうですか〜私、西部って言います。先ほど、ご挨拶にうかがったのですが、お留守だったみたいで……」
「俺は勝岡って言います……授業があったから……」
と、のんきにお隣同士が挨拶している横、「えっ?」と灯りは目を丸くした。
「あれ、西部って、もしかして、アルトの伶奈ちゃんのお母さん?」
そう呟いた瞬間、パタパタパタパタ!!!! と、ことさらに賑やかな足音がしたかと思えば、通路に響く元気な声。
「ただいま! おかあさ――ジェリド!?」
制服姿の少女――西部伶奈の元気な声は即座に悲鳴に変わった。
「後、灯センセと知らない人!?」
そして、知らない人扱いされた俊一が少し拗ねた。
悠介と伶奈は出会いからして悪かったし、未だにその溝は埋まってない。
二月に喫茶店で家庭教師とマンツーマンで個人授業を受けてれば『不登校』を思い浮かべるのは仕方ないことだが、それをずばっと言っちまう悠介の神経ってのは問題だろう。さらにそれに切れた伶奈が『伶奈にしか見えない妖精さん』に攻撃をさせたもんだから、悠介も伶奈に対して思うところがあるのも仕方がない。
なお、この『伶奈にしか見えない妖精さん』について、刺された悠介は当然として――
「まあ、凪姉もいるって言ってんだから、いるんだろう……二研の部室に狐巫女様もいたし……」
で、灯と俊一は受け入れている。
それはともかく、そういう関係であるから、悠介も伶奈がアルトで勉強してるのを見かけたからって声を掛けたりもしないし、伶奈の方からも話しかけたりはしない。だから、溝は深まっては居ないが、埋まりもしてないという状況だった。
それが……
「……なんで、隣……ううん……隣に住んでるのは百歩譲って我慢する……けど――」
ぶっすーとした顔、制服のままでの伶奈は壁に向かって体育座りをしていた。その体育座りの少女の背後、灯、俊一、悠介の三人は――
「なんで、うちに上がって家具を組み立ててるの!?」
と、伶奈が叫ぶ通り、三人は新西部家に上がり込んで、組み立て式の食器棚を作っていた。
「だって、君のお母さん、あの調子」
答えて俊一がピッと指を指す。
その先には足に湿布と包帯を巻いてる伶奈の母、由美子がいた。
なんでそんな事をしているかと言えば、彼女が組み立てようとしていた食器棚の天板を足の上に落としてしまったからだ。ちょうど、灯達が通りかかったときに梱包を開いていたのがその食器棚。その梱包から天板を引っ張り出したかと思ったら、それがつるんと滑って足の甲に真っ逆さま。角が刺さったらしく、悲鳴すら出ないほどの痛みに彼女は悶絶した。
で、仕方ないから、手伝いましょうか? と灯が言い出した所、伶奈の母はそれを受け入れたという顛末だ。
若干の逡巡はあったようだが、なんと言っても、食器棚の後ろには二段ベッドと本棚、それからテレビラックとテレビが控えている。背に腹は代えられないし、灯が伶奈の家庭教師をしていると言うも頼みやすかったのだろう。家庭教師を始めて二ヶ月少々、直接顔を合わせたことはなかったが、青年のことは伶奈や美月達を通して、由美子にも伝わっていたようだ。
そんなやりとりを思い出してか、伶奈は我が母の方をしばし見つめた後に、ぽつりと漏らした。
「だって、お母さん……どじっ子だから……」
「伶奈、余計な事は言わなくて良いの……」
「……私、時々、お母さんが看護婦やってるのが凄く怖くなることもあるし……」
「ほら、日常、気の抜けない仕事をしているから……ね? オフの時は抜こうかなぁ〜って……」
「……抜きすぎだよ……」
母娘のやりとりを横目に見ながら、灯はクスッと小さく笑って言った。
「でも、伶奈ちゃん、この間、お母さんが看護婦してるって自慢してたよね……っと、ジェリド、シュン、上の段、持ち上げるぞ?」
そう言って灯は他の二人とともに大きな上段をどっこいしょと持ち上げる。重さ自体はたいしたことないが、大きいからバランスを取るのが結構難しい。
「あら、ありがとう。伶奈」
「だって……」
からかうような口調で母が笑えば、少女は体育座りの膝の間に押し込んだ顔を真っ赤に染める。
そんなやりとりに灯がクスッと頬を緩ませる傍、バカがバカなことを言った。
「なんだ、ジャリも結構、可愛いところがあるじゃねーか? お母さんが自慢なんて」
軽く笑って悠介が言えば、真っ赤な顔をした少女が顔を上げて、きっ! 掘りの浅い二枚目顔へと目を向けた。そして、その細い指がぴっ! とジェリドの方へと向く。
「うるさい! バカジェリド!!! ヤっちゃえ!! アルト!!」
「って、今は危ない!」
伶奈の叫び声と灯の悲鳴はほぼ同時。
大きな棚を支える三人に思わず緊張が走る!
そして、沈黙の三秒……
が、過ぎても、何も起こらずじまい。
「てか、あの妖精ってアルトに住んでるんだろう? ここにはいないんじゃないか?」
気を抜き、俊一が言うと、棚の向こう側に居た悠介がひょっこりと顔を出して、伶奈に言った。
「ビックリさせんな、糞ジャリ」
その言葉に、伶奈はぷいっとそっぽを向いて、また、壁に向かって体育座りをした。
「もう、良いから、とっとと置こうぜ……重いんだからさ」
二人のやりとりを見やり、灯はため息交じりに言った。
そして、「せーの!」と大きな声でかけ声を掛けて、腰の高さくらいはある下段の上に上段を乗せる。あらかじめ木製の細い杭のような物が下段側に打ち付けられてるので、その杭に上段の穴をあわせて落とし込まなくてはならない。これは三人がかりでもちょっとした一手間。はっきり言って、棚の天板を足の上に落としたことよりも、このサイズの食器棚を大人一人と中学生の娘一人で組み立てられると判断したのが最大のドジだと、灯は思った。
下段の上に乗った棚がぐらつかないことを確認したら、ホッと一息。
「ほんとに助かりました。良かったら、お茶でも煎れましょうか?」
母親が痛む足を引きずり立ち上がった、その瞬間だった――
「いたっ!!? 痛い! 痛い! 痛い! 痛い! 痛いって!!!」
悠介の悲鳴が荷物に溢れた部屋の中にこだまし、そして、伶奈がぽつりと壁に向いたままで言った。
「……今は危ないから後でって、アルトは言っただけだもん……」
なお、アルトは「引っ越しの後にお蕎麦を食べに行きましょう、引っ越し蕎麦」と言い出し、そして、その蕎麦が食べたいがためだけに、朝から母親の方について、ずーっとこの片付け中で、伶奈が帰ってくるのを待っていた、らしい。
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