入学式(その後)
この都市の海っぺりの辺りは『再開発地区』と呼ばれている。バブルの頃に埋め立て事業をやってみたは良いが、バブル崩壊の煽りを食らって一旦開発全面ストップ。21世紀に入ってから、やおら、開発を『再開』したので、再開発地区と言うらしい。
その再開発地区では、シンボルタワーと呼ばれているビルが一番大きなビルだ。
この日、伶奈の入学式があったその日、このシンボルタワーではちょっとした催し物が開催されていた。
今年度卒業予定者向けの合同企業説明会だ。それは、午前中は様々な地元企業が出てくる説明会で、午後からは学生が個別にブースを回って個別に質問したり、話を聞いたりするシステムになっている。
その昼休み、シンボルタワーから着慣れぬスーツに身を包んだ浅間良夜が姿を現した。ダークブルーのリクルートスーツ、高校時代もダブルのスーツが制服だったから着慣れていないはずないのだが、三年のブランクの間に着方を忘れてしまったようだ。どうにも着られてる感がぬぐえない。
周りには同じくスーツ姿の学生達。ライバルと言えばライバル、戦友と言えば戦友。見知った顔もいくつか見える集団が思い思いの方向へと散らばっていく。それぞれに食事を取りに行くのだろう。この辺りは合同庁舎もあるし大きなオフィスビルなんかもあって、飲食店は激戦区。新しく出来たのもあれば老舗もある。それに海の見える公園もあるから、弁当なんかを食べるのも悪くない。
(今日は天気も良いからなぁ……)
ぼんやり呟き、青年はぽっかりと真っ白い雲が一つ二つ浮かんだ空を見上げた。
空は高くて、日差しは強め。うららかな陽気を超えて、初夏を思わせるくらい。潮風も暖かくて良い気持ち。キラキラと輝く波を見ながら、アルトのサンドイッチ弁当でも突くのも良いかなぁ……なんてことをぼんやりと考える。
先ほどまでわらわらと出て行った学生達も一段落がついたようだ。学生達が減って、代わりにシンボルタワーに入っている他のオフィスで働くサラリーマンやOLさん達が、ぱらぱらとエントランスから潮風心地よい海際の歩道へと歩き出していた。
もちろん、良夜がこんな所でぼーっと突っ立っているのには訳があった。
その訳がまぶしい春の陽気に照らされて、太くて真新しい車道をこっちに向いて走ってくる。
パステルカラーのスズキアルト、美月の妖精まみれ一号だ。
アルトがエントランスの前にきっと音を立てて止まるのが見えると、良夜は五段ほどの階段をトントンと一気に下って、車に駆け寄った。
そして、助手席の窓を軽く二回、ノックした。
ウィーンと小さなモーター音がしてパワーウィンドウが開く。
顔を出すのは――
「お待たせしました?」
珍しくおめかししている三島美月嬢、だ。
「そうでもないよ。天気も良いし、風も気持ちよかったし。そこの公園で弁当でも食べたいなぁ〜って思ってたら、あっという間だった」
「あはは、それも素敵ですけど、今日はダメですよ〜」
良夜の言葉に美月が笑って返事をすれば、良夜も「そうだね」と答えて、アルトの助手席に身を滑り込ませる。
そういうのも、今日はこれから行くところが決まっているし、決まっているから、良夜もシンボルタワーのエントランス前でぼーっと待っていたのだ。
「伶奈ちゃん、お母さん、来られたんだって?」
「はい。少々問題はありましたけど」
走り出した車の中で良夜が尋ねると、美月が答えた。
あらましは美月から届いていたメールで読んでは居たのだが、細かい話はまだ詳しく知らずに居た。だから、聞いてみたのだが……その内容はずいぶんと面白いものだったようだ。短い時間だったというのに、よくもまあといった感じ。特に伶奈の母、由美子が見事な艶姿で式に列席したことを聞けば、青年は失礼かもと思いながらも笑い声を上げずには居られなかった。
と、話をしている内にあっという間に目的地……の手前にあるコイン駐車場。目的地はここから徒歩二分。ついたのは、こぢんまりとした洋食レストラン『グラート』、正しくは『マリーナレストランテ・グラート』と言うらしい。
「ここのオーナー、美月さんの同級生なんだって?」
「はい。専門学校の同級生なんです。私はお祖父さんのお店を手伝ってるだけなのに、自分で自分の思うお店をもう建てちゃうなんて、凄いなぁ〜って思うんですよね」
で、その友人がこの店を開くに当たって、美月は必要な様々な業者――例えば、厨房機器の会社やら食器の店、食材の問屋等々を、アルトで昔から懇意にしているところを一式紹介したらしい。
それで、そのお礼と言うほどでもないが、一度食事に来て欲しいと言われていたので、今日、ちょうど良夜が店の近くでの説明会に出席しているのと併せて、ここを訪れてみることにしたというのが、今日のデートの真相だ。
「立派なお店ですよねぇ〜」
言葉をこぼす美月に誘われるように、良夜は改めて店に目をやった。
メインの大通りからは一本内側に入ってしまっていて居るが、建物自体は曲線でデザインされた外壁が真っ白な漆喰で塗られていてなかなかおしゃれだ。良くは解らないが、明るい外壁はイタリアと言うか、地中海を感じさせるような気がする。
入り口に置かれたウェルカムボードには女性の愛らしい文字で今日のランチメニューが書かれている。今日のメインはサーモンのカルパッチョらしい。それを横目で見ながら、青年は恋人とともに『グラート』のドアを開いた。
からんから〜ん
小さめの鈴が二つ、頭の上で澄んだ高い音で鳴った。
ゆったりとした音楽が控えめな音量で流れる店内も、外壁と同じ白い漆喰で塗られていて、大きく取られた窓から差し込む光を受けてまぶしく輝いていた。
席は四人がゆっくりと座れる席が四つ。それから、オープンテラスもあるようで、そちらに二つ。それらの席はほとんどが埋まっていて、ほとんどの席が埋まっていて、この店が十分に流行っていることを見て取れた。
「いらっしゃいませ」
良夜と同じか少し年若いウェイトレスがぺこりと頭を下げる。
白いブラウスの上にダークブルーのワンピーススカート……概ねありがちなウェイトレスさんと言った風体の女性に美月が答えた。
「予約して置いた三島です」
「はい、承っています」
答えて彼女は良夜と美月をオープンテラスの方へと案内した。
オーニング(可動式のひさし)は開放されてて、少し強めの日差しが存分にダークブラウンの落ち着いたウッドデッキを照らしていた。
その上を潮騒とともに吹いてくる穏やかな潮風が耳と肌に心地良い。
ウェイトレスは良夜と美月を『予約席』の札が置かれた席に案内すると、その札をひょいと取り上げ、その場を辞した。
ダークブラウンの落ち着いたウッドデッキの上にはライトブラウンのテーブルと椅子、木製の椅子ではあるが上質な作りのおかげか座り心地は良い。
深く座る青年に正面に座った恋人が声を掛けた。
「良いロケーションですねぇ〜」
「今日は天気が良いから余計だね」
ウッドデッキの向こう側は細めの路地を一本挟んですぐに海。遠くには突堤とその先っぽに小降りの可愛い灯台が見えた。
穏やかな海だった。ほとんど波もないようだ。頭上をテラス日の光だけをキラキラとまばゆく反射させていた。
「やっぱり、これからは山じゃなくて、海だと思いません?」
「美月さんって、海、好きだよね?」
「生まれたときから、山を見て過ごしてましたからねぇ〜」
心地よい潮風に吹かれながら、ぼんやりときらめく海を二人は眺める。眺めながら、愚にもつかない話題がふわっと浮かんでは消えていく。
綺麗な海を眺めながら、今日、これから食べる普段よりもずいぶんと豪華な昼食を思って良夜は呟く。
「アルトも来れば良かったのにな……」
「まあ、伶奈ちゃんの入学式にしても、良夜さんの説明会にしても、アルトには退屈な物でしょうしね……――」
そこまで言って美月は言葉を切ると、改めて良夜の顔をのぞき込み、にこっと笑っていった。
「寂しいんですか?」
「…………最近、それ、よく言われる」
美月の言葉に青年は軽く肩をすくめてみせる。
「誰にです?」
「吉田さんに直樹に……後、店長にも言われたかな……?」
「あはは。皆さんに言われてますね?」
「いろいろ忙しくて、それどころじゃないんだけど……アルトが伶奈ちゃんと話してるのを見ると、なんか、変な感じではあるかなぁ……」
「そう言うの、寂しいって言うんですよ、きっと」
「……清々してるよ」
美月の少し意地悪にも見える笑みからぷいっとそっぽを向いて、視線を再び、突堤の先にある灯台へと向ける。あまり大きくなくて実用よりも観光名所としての役割の方が大きそうな灯台だ。その向こうを大きな白いフェリーがゆっくりと右から左に進んでいるのが見えた。
その横で美月が頬杖をついて良夜の顔を眺めているのを青年は感じていた。同時に彼女がどこか嬉しそうな表情で笑っていることも……
「……何、笑ってんの?」
「少し、嬉しくて……」
「何が?」
尋ねて、良夜は美月へと視線を戻した。
視線が交わる。
美月の大きな瞳がにこりと細くなった。
「だって、生まれたときからずっと傍に居る私はアルトのことも見えないし、お話も出来ないし、それなのに、後からひょっこり来た良夜さんとか伶奈ちゃんとか……子供の頃にももう一人居て……そう言う人だけがずーっとお話ししてるのを見てると、やっぱり、寂しかったんですよねぇ〜で、良夜さんもそう言うのが解ってくれると、少しは溜飲が下がるというか、なんというか?」
嬉しそうに語る美月を頭上の太陽がまぶしく照らす。
一羽のカモメがテーブルの上に影を落として、どこかへと飛んでいた。
その影の下、良夜はぽつりと漏らした。
「だから、別に寂しくないって……清々してるって……」
「はいはい」
やっぱり、美月は嬉しそうに笑っている。
潮騒が優しく響く。
そして、青年が、また、ぽつりと言った……
「……少し、落ち着いたら、アルトのアホも連れてこようか……」
「はいはい」
言ってそっぽを向く精年の横顔を眺め、美月はやっぱり嬉しそうに笑っていた。
その予定はもうちょっと先のこと……
そのとき、その場には、伶奈もちょこんと座っていて、彼女の頭の上にはアルトが居て……そして、良夜の隣では美月が――
「やっぱり、寂しいですか?」
なんて、どこか嬉しそうに尋ねていた。
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