入学式(3)
『ごめんなさい、案の定、救急が来てしまいました。夜行バスには乗れませんでしたが、新幹線でそちらに向かいます。間に合うかどうか解らないので、入学式は美月お姉さんと行ってください。ごめんなさい。母より。
追伸
入学おめでとう。今夜は何かおいしい物でも食べに行って、お祝いしましょう』
朝六時三十分、目覚めた伶奈がスマホを見るとこんなメールが母から届いていた。
半ば予想していたことではあったが、現実になるとやっぱりショックだ。
一人で寝るには広すぎるベッドの上、伶奈は体を起こした。
分厚い掛け布団から上半身を出すと、早春早朝の清浄で冷たい空気が薄いパジャマ越しに彼女の貧相な体を包み込んだ。唇からこぼれる吐息が少しだけ白い。
そんなうす暗く寒い部屋の中、カーテンの隙間から差し込む日の光だけが暖かく、まぶしかった。
伶奈はベッドから立ち上がると、東向きの窓辺へと足を向けた。
半間幅の腰窓、カーテンを開ければまぶしいばかりの日の光が、借宿を明るく照らし、冷たかった空気を暖める。
伶奈はその光に照らされた窓際の壁にもたれかかり、もう一度、スマホの液晶に視線を落とした。
液晶に早朝の日が映り込んで、少し見づらい。
見づらい液晶の上を伶奈の細い指がサッと撫でて、返信のメールを作る。
最初に作ったのは
『バカ!』
の、一言だった。
しかし、それはすぐに消して、暫く考える。
また、指が見えづらい液晶の上を撫でる。
『お寿司が良い。回らないところ』
って書いてみたけど、やっぱりそれも消す。
今度は暫く真面目に考えて……
『気をつけて来てください。制服を早く見せたいです』
作ったのは短いメール。他に書きたいことはいくつもあったけど、結局、その二つだけのメールを母に送信する。
小さな熊のマスコットキャラが右に左にうろちょろすること数往復、送信完了を示す文字が液晶の真ん中にふっと浮かび上がる。その下では熊さんが満面の笑みで万歳をしていた。
そのコミカルな絵面をぼんやりと眺める。
その画面を消してホーム画面を表示させたら、伶奈は視線を窓の外へと向けた。
アルトの隣には建物は建ってなくて、峠を下る国道とその左に田んぼ、右に深い渓谷と山がずっと先までよく見えた。
前に住んでた家の窓から見えていたのは、ご近所の家並みだけだった。伶奈はそのことを今更ながらに思い出していた。
通勤時間帯にはまだ少々早いのか、国道は空いていた。今も走っているのは、大きなトラックの一台きり。そのトラックが手前から、奥へと……緩やかなカーブを山の向こう側へと走って行くのを伶奈は見るともなしに眺める。
そのトラックもすぐに見えなくなった。
伶奈の視線が少し見えやすくなったスマホの液晶へと落ちる。
そして、新しいメールを一つ作った。
『お母さんのバカ! 晩ご飯はお寿司が良い! 回らないところ!!』
そのメールを熊のマスコットキャラが右往左往しながら、運んでいった。
春の空はどこまでも高く、そして、どこかでウグイスが鳴いていた。
英明の制服は黒地にダークグリーンのチェック柄が入ったスカートに、白いブラウスをあわせ、その上からネイビーブルーのダブルのジャケットを羽織る形になっていた。ジャケットの胸元を飾る大きなエンブレムと大きなスカーフが印象的だ。そのスカーフは入学年度ごとに色が違うようで、伶奈達は赤い色の物を付けることになっていた。
それから、『西部』と刻印されたネームプレートを胸元に着けると、一応、完成。
部屋に置かれた大きな姿見に自身の姿を写してみる。
制服は可愛いのだが、まだ、なんだか、服に着られているような印象が強い。この前まで、ランドセルを背負ってた少女には荷が重いようだ。特に伶奈は背も低く痩せているから余計だろう。
(似合うようになるのかな……?)
少しの不安を覚えながら、伶奈はぴかぴかの学生鞄をつかんで、トントンと階段を下りる。そして、脱衣所と一緒になってる洗面台で顔を洗い、歯を磨いたら、彼女はフロアの方へと出向いた。
七時少し過ぎのフロアはすでに動き始めているようだ。学生はあまり居ないが、大学の教授や事務員なんかがモーニングをつついている姿が散見出来た。
「おはよ〜」
「おはよ……凪歩さん」
声をかけてくれた女性――時任凪歩にぺこりと頭を下げる。
凪歩は何かと伶奈を気にかけてくれているようだし、彼女の弟が伶奈の家庭教師をしていている兼ね合いもあって、アルトでは美月に次いで話しやすい相手になっていた。
「おっ、それ英明の制服? やっぱ、そこの制服可愛いよねぇ〜」
胸元に空のトレイをだいて、凪歩は伶奈の顔や服をじろじろ……頭のてっぺんからつま先まで三回視線を往復させたかと思うと、彼女は高い背を少し屈めて、二カッと人好きのする笑みを伶奈に投げかけた。
「うん、似合ってる、似合ってる」
「そうかな?」
「うんうん。可愛いよ。あっ、いつもの席、美月さんが吉田さんにお化粧して貰ってるから、隣の席にでも座っておいて? 後でモーニング、持っていくよ」
「お化粧?」
「そうそう。美月さん、いつもすっぴんだから。晴れの日くらいはって吉田さんが」
「……別に良いのに……」
「お祭り騒ぎ、好きなんだよ、吉田さん」
「ふぅん……」
気のない返事をして、伶奈はトコトコといつもの窓際隅っこの席へと足を向けた。
日当たりと景色は良いけど、隅っこ過ぎて店員にも時々忘れられる変な席。伶奈の指定席……そこに顔を出すと凪歩が言ったとおり、貴美が大量の化粧品をテーブルに並べて、美月の前に座っていた……のは良いのだが、そこにはなぜか――
「よっ、おはようさん」
なぜか不機嫌そうな顔でコーヒーを飲んでる浅間良夜が居た。
「……なんで? 良夜くんまで?」
二人がけの所に三人座って、少々狭そうないつもの指定席を横目に見ながら、伶奈は隣の席に腰を下ろした。
その伶奈を見ながら答えたのは、良夜の方ではなく、貴美の方だった。
「そりゃ、彼女がおめかししてるんだから、見に来ないとダメっしょ? ってわけで、おはよ。伶奈ちゃん、似合ってんじゃん? 制服」
答えた貴美の手には細い筆、それで美月の形の良い唇にちょいちょいと紅を差していた。
どうやら、貴美が隣に住んでる良夜をたたき起こして、連れてきた……のではなく、良夜が起こして貴美をこっちに連れてきたらしい。
「……直樹が就活でこっちに居ないから、誰かが起こさないとこの人、昼まで寝続けちまうんだよ……」
「なんで?」
良夜の説明に伶奈は小首を捻る。まあ、この美人でスタイルの良い女性はそう言う人なのだろう……と思う。それよりも――
「おはようございます〜」
そう言ってこちらを向いた美月の顔に伶奈は目を奪われた。ファンデーションとチークカラーのおかげで、普段から白く明るい色の肌がよりいっそう白く、だけど、健康的に見えた。その上に塗られた口紅とアイシャドーは派手すぎない程度で白い肌に良く映える。もしかしたら、眉も少し整えられているのかも? ほんの少しだけど細めに整えられてると、ずいぶんと印象が違う。簡単に言うなら、普段は「可愛い」で、今日は「綺麗」と言うのが一番しっくりくる。
「いつもそうしてたら良いのに……」
「お化粧の匂いが料理に着いちゃいますよ。それに、コンロの前は真冬でも結構熱くて、崩れちゃいますしねぇ〜」
呟く伶奈に美月は少し苦笑いを浮かべて答える。
「誰も仕事中にしろとか言ってないよ……――っと、出来上がり。顔、あまり弄っちゃ駄目だかんね」
「はいはい」
貴美の注意に美月は軽い言葉で返事をしながら、立ち上がる。すると、それまでよく見えてなかったタイトスカートのダークスーツが、窓から差し込む逆光の中に見えた。
落ち着いた感じが実に『保護者』らしい服装だ。ちなみに服を選んだのも貴美だと、後で聞いた。
「そういうのも似合うんだなぁ……」
良夜が美月を見上げてぽつりと呟く。それはアルトの制服姿が、シンプルなラインのワンピース姿くらいしか見たことのない伶奈にとっても同じ感想だった。
「動きづらいですよ。じゃあ、私、少し用意がありますから……」
言って美月がその場を離れる。階段へと続くドアの方へと消えていった。手ぶらだから、携帯やハンドバッグでも取りに自室に戻るのだろう。
そうこうしているうちに、モーニングが届けられる。
「あれ?」
伶奈はつぶやき、顔を上げた。それを持ってきたのが、凪歩ではなく、普段ならキッチンから出てこない翼だったからだ。
「……入学……おめでと」
テーブルの上にトレイをとんと置いて翼は小さな声で囁く。
「えっ……あっ、うん……ありがとう」
「……制服、すぐに似合うように、なる……」
「……うっ、うん」
褒めてるのか、けなしてるのか解らない言葉をモーニングのトレイと一緒に置いて、翼はとっととその場を後にする。
「見に来たんじゃないの? 伶奈ちゃんのせーふく」
ぽかーんと翼を見送る伶奈に、貴美が軽く笑いながらそう言った。
「……そうかな?」
小首をかしげる伶奈に貴美は笑みで言葉をつなぐ。
「そうだよ。あれで意外と面白いところもあるんよねぇ〜つばさんって」
「へぇ……そうなんだ?」
「まあ、りょーやん、そういう機微がいまいち良く解らん人だかんねぇ〜」
「大きなお世話だよ」
一緒のテーブルに座った良夜と話し始めた貴美から視線を外して、伶奈は朝食を食べ始めた。厚めに切られたパンにマーガリンをたっぷりと塗って、口に運ぶ。柔らかいトースト、芳ばしい小麦の香りが溜まらない。
と、その食事が半分ほどに減った頃、ふと……
「……ねえ、アルトは?」
「あっ? まだ、寝てるんじゃないか?」
つぶやきに答えたのは、もう、貴美と話をしていた良夜だった。。
「この辺じゃ、見かけなかったよ」
「……そっか……」
良夜の答えに伶奈が小さな声で答えると、彼は少しだけ頬を緩めた。
「アイツはマイペースな奴だから、他人のイベントのために早起きするほどマメじゃないけど、だからってほったらかしにするほど薄情でもないよ」
「そのうち、コーヒーに釣られて起きてる来るんじゃないん?」
良夜の言葉を受けて、大量の砂糖とミルクを入れたコーヒーを飲みながら、貴美も軽い調子で言う。
二人に言われて、そんな物なのかも? と思いながら、伶奈も分厚く切られたトーストを手でちぎり、口に運ぶ。アルトに来る前は朝は食べないことも多かったのだが、長い休みのうちにすっかり朝食をしっかりと取る癖がついた。
「……学校、久し振り……」
誰かに言いたいわけでもなかったが、ぽつりと伶奈は呟いた。
「まあ、どうにかなるよ」
そのつぶやきに答えたのは良夜と――
「ならなきゃ、この辺の連中を頼れば良いのよ」
ふらふらと眠そうに宙を漂っているアルトだった。
その妖精が伶奈の前、カップの上にちょこんと着地を決めたら、伶奈の顔を見上げて言う。
「おはよ、馬子にも衣装ね」
「……うるさい、バカ妖精」
「バカって言う方がバカなのよ……っと、まあ、それはともかく……貴女のためにいい大人が何人も動いてくれるのよ? 頼りない連中ばっかだけど、中学生の困りごとくらいはどうにかしてくれるわよ」
「……うん」
伶奈が気恥ずかしさを感じながらこくんと頷く。すると、良夜からアルトの言葉を聞いた貴美が、大きく膨らんだ化粧ポーチをハンドバッグに押し込みながら、答えた。
「そやね。子供は大人に頼れば良いんよ……っと、それじゃ、私、先に行っから」
「早いじゃん?」
席を立つ貴美に良夜が尋ねると、貴美は格好を崩して答える。
「折角早起きしたから、ゼミの方にね……意外とやること多いんよ」
そう言うと、彼女はひらひらと軽く手を振りその場を後にした。
右肩にハンドバッグ、左肩に大きなザックを引っかけて、貴美は立ち去る。ショートパンツ姿で少々露出が多いけど、スタイルの良さも相まって、その後ろ姿が颯爽としていた。
その颯爽とした後ろ姿を見送り、伶奈はぽつりと呟く。
「……格好いいよね……」
「……本性を知らないからよ」
アルトの言葉に伶奈はまた小首をかしげた。
「まあ……見た目だけは良いんだよな……あの人……」
その隣で指定席を久し振りに占有している青年も少々苦笑い。やっぱり、伶奈は言ってる意味がわからなくて、もう一度、首をかしげた。
そして、彼女はトレイの上に残っていた朝食を口に運ぶ。分厚いトーストの他には、ベーコンエッグ、サラダが少々、それからフルーツのヨーグルト添え。飲み物は他の人はコーヒーなのだが、伶奈は――
「中学にも入ってコーヒーじゃなくて、ココアなの? お子様ね」
「……ここのココア、好きだもん……」
「練って作ってるのよ。地味に手間が掛かってるのよ、それ」
「ふぅん……」
アルトのうんちくは軽く流して伶奈は残っていたココアを一息に飲み干した。甘く温かいココアが喉へと流れ落ちていくのが、心地良い。
そして、カップをテーブルに戻したら、
「ごちそうさま……」
小さく呟き、彼女はテーブル横のナプキンで軽く唇を拭く。これもここに来てから覚えた習慣だ。そして、彼女は使い終えた食器をキッチンへ運ぶ。そこに野菜を刻んでる翼が居たから「おいしかった」と短く伝えると、翼も「んっ」とだけ小さく答えた。
そして、さっきの席に帰ってくると、美月も用事が終わったのか、窓際隅っこでアルトや良夜となにやら話をしていた。
「どうなんですか? 忙しいんですか?」
「結構かなぁ……今週末は時間が取れると思うよっと……――あっ、伶奈ちゃん、お帰り」
「あっ、用意、出来ました? それじゃ、少し早いですけど……渋滞してるかも知れませんし」
言って美月は立ち上がる。
窓際隅っこの席には良夜と彼のコーヒーカップにちょこんと座っている妖精が残っていた。
そして、良夜がカップを手に取りながら、伶奈に笑みを向けて言った。
「中学、楽しんでおいでね」
「……うん、解った……」
伶奈はすだれの前髪の向こうから良夜に笑みを浮かべて、ぺこりと頭を下げた。
おめかしした美月に連れられ、アルトのドアベルを鳴らす。
思っていたよりもずっと暖かな日の光、真っ青で高い空。
トンビが一羽、伶奈の頭の上で円を描いて飛んでいった。
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