入学式(2)
 前回のラストから三時間後、仮住まいの二階元三島家夫妻のお部屋にて、伶奈はスマホを手にしていた。こっちに来てから買って貰った奴だ。離れて暮らす母親がいつ電話に出られるか解らない職業なので、メールなんかがやりやすいスマートフォンが良いだろうという事でこうなった。
 今日の場合、メールのやりとりは最初だけで途中からは電話になって、その電話で一時間以上も話し合ってたようだ。
 そこでどういう話し合いが行われていたのかを、アルトはよく知らない。ただ、何時間も帰ってこないから、ちょっと気になって覗きに来たら、ちょうど電話を切ろうとしていたところだったので――
「で、結局、来れそうなの? 来れなさそうなの?」
 と、尋ねてみた。
「たぶん……来られない」
 一人で寝るには広すぎるベッドの上、ぽんと飛び乗り伶奈はため息をついて答えた。
「三月いっぱいじゃなかったの? あっちの仕事」
 仰向けになって寝転がる伶奈の額に、ちょこんとアルトが着地を決める。顔をのぞき込んでみたら、目が若干赤くなっているようで、彼女が先ほどまで泣いていたのだろうと言うことが察することが出来た。もっとも、今はずいぶんと晴れ晴れとしているようなのだが……
「四月六日の日曜日まで……月曜日から新しい人が来られるから、それまでいて欲しいって頼まれたって」
「で、入学式がその月曜日ね……タイミング悪いったら……」
「夜行バスに乗ってこっちに向かうって言ってるけど、それこそ、救急車の一台も来れば乗れないし……」
 弄っていたスマホをヘッドパネルに置いて、伶奈はぐーっと大きく背伸びをした。
 先日まで大量の段ボールやら荷物やらが適当に放り込まれていた部屋は、伶奈が寝泊まりするようになった直後に片付けられた。おかげで、今ではずいぶんとすっきりしている。むしろ、すっきりしすぎて寂しいくらいだ。
 そのすっきりとした部屋の中、一番の大きな家具はセミダブルのベッドだ。
 夫婦二人で眠るためのベッドは一人で――それもまだまだ成長途上にある少女が一人で寝るにはずいぶんと広い。その広いベッドを独り占めせざるを得ない少女を、額の上から見下ろし、妖精は尋ねた。
「その割にはずいぶんとすっきりした顔をしてるわね?」
「思いっきり泣いたし、ごねたし、怒るだけ怒って……後ろで誰かお母さんを呼んでるのに、それでも、お母さんが全部黙って聞いててくれたら、ちょっとすっきりした」
「ふぅん……そんな物かしら?」
「うん……それにね……」
「それに?」
「やっぱり、死にそうな人をほったらかしに出来ないお母さん……格好いいと思う……」
 伶奈が少し恥ずかしそうにほほえむと、アルトは少女の少し広めの額を小さな手のひらでペチンと叩いた。
「痛いよ」
 少女がくすぐったそうに笑って、言った。
「アルト、来てくれる?」
「行かない」
 妖精が即答したら、少女はがばっと体を起こし、とんと額の上から飛び上がった妖精をひょいと捕まえた。そして、両手で彼女を包み込んだら、膝の上に置いて少女は尋ねる。
「なんで?」
「あー言うお偉いさんが出て喋ってるイベントは嫌いなの――痛いって! 首をねじらないで!!!」
 右手で胴体をつかんで、左手で頭をつまんで、ぎりぎりと音を立ててねじる。良夜でもやらなかった所業を彼女は行い、さらにちょっぴり冷ための声で言った。
「……来てくれる?」
「痛いって言ってるでしょ!」
 さすがのアルトも負けてなくて、膝を力一杯ストローで刺せば、少女は短い悲鳴を上げてアルトの体を離す。
「いたっ!?」
 そして、二人はほぼ同時に言った。
「「何するのよ!?」」
 そのまま、互いの顔を睨み付けて威嚇し合う不毛な時間が十数秒……
 どちらが先というわけでもないが、少女はぽんとベッドの上に寝転がったし、アルトは少女の頭に着地を決めた。
 そして、また、少女はぽつりと呟いた。
「それにね……」
「それに、何?」
「お父さんがしご……――お母さんが忙しくなってから、こんなに沢山喋ったの、始めてかも、だし……」
 少し嬉しそうに頬を緩める少女を見下ろし、アルトはペチンとまた少女の額を叩いた。
「まあ、言いたいことがあったらいくらでも言いなさい。いくらでも聞いてあげるわよ」
「アルト……」
「何?」
「アルトが泣きそうな顔する必要、ないよ?」
「首が痛かっただけよ」
「ああ、そっちかぁ」
 少女が体を起こし、ベッドから降りた。
 アルトは座る位置を頭のてっぺんに変え、少女の顔をのぞき込む。
 そして、妖精は妹分に尋ねた。
「おやつでも食べましょうか?」
「お母さんがあまり食べちゃ駄目って言ってた……」
「私が良いって言ってるのよ。つべこべ言わなくて良いの!」
「……うん。じゃあ……タルトとココアが良いな……」
 トントンと二人は言葉を交わしながら、階段を下りていった。
 二人の出て行った部屋の窓からは、優しい春の日が差し込み、ほんの少しだけ乱れたベッドを暖かく照らしていた。
 窓の外にウグイスが飛んでいた。

 伶奈がキッチンに顔を出したのは、それから三十分ほどの時間が経った頃のことだった。彼女の手には食器の乗ったトレイ、ケーキ皿とカップが一つずつ、ちょこんと乗っていた。こういう風に、使った食器を自分で下ろすというのは、伶奈に与えられた義務だ。
 その伶奈の頭の上に、アルトがちょこんと腰を下ろしていたのは、一言で言えば見物、野次馬みたいものだった。
 放課後の忙しさは一段落。ディナーのせわしなさはまだ始まっていない。ローテーションの谷間みたいな時間帯。キッチンではゆったりとした時間が流れていた。
 使った食器をシンクに返したら、伶奈は作業をしていた美月を捕まえ、事のいきさつを説明した。
「……――なので、後でお母さんからも連絡があると思うけど、また、美月お姉ちゃんに……」
 伶奈が申し訳なさそうに頼めば、美月は二つ返事で答える。
「お母さんが来られなかったときは、ですよね? 良いですよ〜」
「うん……ありがとう」
「お礼なんて良いんですよ〜家族なんですから」
 満面の微笑みでそう言う美月に伶奈は少しだけ首をかしげ、その言葉をオウム返しで尋ねた。
「……家族?」
「そうですよ?」
 こくんと頷き、美月はしゃがんで視線を伶奈にあわせた。
 大きな黒目がちの瞳が伶奈のすだれ越しの瞳を見つめる。
 そして、彼女は満面の笑みで言う。
「同じ釜のご飯を食べてですね、お風呂一緒に入って、同じベッドで寝たら、もう、家族ですよ?」
 その言葉に伶奈は少々頬を赤くし、そして、消え入るような声で小さくも、はっきりと頷いた。
「……うんっ」
「あっ、でも、あっちにはお礼とお詫びしておいてくださいね?」
「えっ、あっち?」
 伶奈が不思議そうに尋ねると、美月が伶奈の肩に手をやりくるんと半周させる。向かされた先には大きな寸胴の前でスープの味を取ってる翼が居た。
 その翼がちらりとこちらを向き、伶奈と視線が交わる……も、彼女はすぐにふっと視線を外して、再び、寸胴の中に視線を落とした。
「あっ……」
 伶奈が小さな声を上げた。
 伶奈は翼があまり得意ではないようだ。
 伶奈がここで暮らすようになってからずいぶん経ち、キッチンに入ることも珍しくはない。しかし、キッチンに入っても用事があるのは主に美月で、翼に用事があることはあまりない。その上、翼は翼で自分から誰かに話しかけるようなキャラでもないし、伶奈は伶奈で仕事中の翼に声をかけるようなこともしない。それに、翼には人を寄せ付けない雰囲気もあるし、伶奈は伶奈で少々人見知りなところもある。
 結果、この二人、伶奈がここに来てずいぶん経つが、挨拶以上の会話を交わしてない。
「いい人ですよ? 翼さんも。ちょっと、表情堅いし、口数少ないし、喋ったかと思うと、強烈な嫌味をおっしゃるくらい……――もしかして、私、嫌われてます? 翼さんに」
「知らないわよ」
「……――ってアルトも言ってる」
「ともかく、私が仕事を休むと翼さんのお仕事が増えるので、その分はちゃんとお礼とお詫び、しておいてくださいね。後で私からも言っておきますけど」
 そう言って美月は伶奈の背中をぐいっと翼の方へと向けて押し出す。
「……うっ、うん……」
 頷いては見るものの、足取りはやっぱり重たい。嫌々というか、出来れば行きたくないといったような足取りだ。
 そんな足取りでもあっという間に着いてしまう程度の距離。
 あっという間に歩みきってしまった伶奈を翼の相変わらずな鉄仮面と、
「……なに?」
 の冷たい一言で出迎えた。
 上から見下ろし気味の視線に抑揚もなければボリューム小さいのに、しっかりと耳にまで届く声。その声にビクン! と少女は肩をふるわせた。
「あっ……あの……」
 しどろもどろな伶奈に翼はため息一つ……
「……普通に……言えば、良い……取って食ったり……しない」
「うっ、うん……あの……美月お姉ちゃん……午前中、仕事休むから……」
「いつ?」
「しっ、四月の……七日……」
 そこまで言うと、翼は壁に貼られた、なぜかバッテン印だらけになっているカレンダーへと視線を向けた。三月分のカレンダーをぺろっとめくったら、四月だ。こちらにはまだバッテン印はついてなく、いくつかの予約が小さく書き込まれているだけだった。
 その四月のカレンダーを見ながら、翼がぽつり。
「……月曜日……」
 つぶやき、彼女はペンを取ると『美月AM休』の文字を書き込み、書き終えた文字をくるんと丸で囲む。そして、手を離せば持ち上げられていたカレンダーがぺらっと落ちて、元のバッテンだらけの三月分のカレンダーに戻った。
「うっ、うん……忙しくなる、と思うけど……」
 少々怖じ気づきながら伶奈が言えば、その声を聞きながら、翼は再び、寸胴の方へと視線を下ろした。その寸胴の中にはコトコトと煮詰められていくスープ、彼女はそこに浮かんだ灰汁を丁寧に取り除く作業を再開した。
 その作業をしながら、翼は少女の顔も見ないで呟く。
「……そうね……貸しにしておいて、あげる……」
「えっ? 貸し?」
「……んっ、貸し……いつか、返してくれれば、良い……催促はしない……」
「いつかって……?」
「返せるとき……大人になってから……でも、良い」
 そこまで言うと翼は灰汁を取る手を止めて、伶奈に視線を落とした。
 相変わらずの鉄面皮が伶奈の顔を見下ろし、その顔を伶奈も見上げる。
 そして、数秒が流れる……
 不意に翼が伶奈の頭をとんと軽く叩き、口を開いた。
「借りられるときは……借りていれば良い……出来るだけ、沢山……」
「うっ……うん……」
「…………それじゃ……覚えておく……」
「うん、ありがとう……」
 ぺこりと頭を下げて伶奈は逃げるようにその場を後にした。
 その逃げる伶奈の後ろ姿を見て、翼は改めてぽつりと言った。
「……チーフ」
「はい?」
「……私、怖い?」
 尋ねる翼に美月は珍しくしれっとした顔で、一言だけを持って答えた。
「……何を今更……」

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