学習(完)
 さて、アルトは大学で習うことなら大概のことは解る。小難しい微積分からユークリッド幾何学だとかもばっちりだし、プログラム言語で言えば、CとかCOBOLとかPascalとかJAVAとかはリファレンス代わりに使えるくらい知識がある。論理演算も得意だし、英文は英字新聞を鼻歌交じりに読んでることもあるし、古文も漢文あたりは原文を読み解ける。経済学はマルクスからケインジアンにポストケインジアン、経済工学がどうたらこうたらとか……もはや、作者がついて行けないのでこの辺りは軽く流して欲しい。
 が。
 久し振りの喫茶アルト、ぼんやりとカウンター席で飯を食ってたら、良夜は不意にアルトに尋ねられた。
「……良夜、丸を書いて周りにチョンチョンがついてるマークって何?」
「……タモリの安産マークか?」
「……馬鹿じゃないの? てか、今時、それを知ってる大学生っていないわよ?」
「ネットで見たの……てか、なんのマークだ? それ?」
「地図記号よ、小学校で習う」
 と、言われて数秒考えてみる。
「ああ……だったら……たぶん、工場じゃないかなぁ……?」
 そう言ったら、アルトは「なるほど……」と納得してどこかに飛んでいった。
 最近、アルトは新しくで来た妹分の方にべったりで、まあ、面倒くさくないと言えば面倒くさくなくてちょうど良い……訳だが、ほんの少しだけ寂しいな、と思うのは彼女と長くつきあいすぎているからなのかもしれない……
 と思ってたら、また、その噂の妖精が飛んできた。
 彼女は良夜の頭の上にちょこんと着地を決めたら、天地逆さまになって青年の顔をのぞき込んで尋ねた。
「ねえ、ブンって書いてるのは?」
「ブン? …………もしかして、文章の文か? それは学校のマークだよ……」
「ああ……学校ね……それと、鳥居みたいなマークは?」
「……鳥居って自分で言ってんじゃねーか? 神社だよ、神社」
「じゃあ、ナチスのマークみたいなのは?」
「……それは寺……逆巻のはずだぞ」
 アルトは大学で習うことなら大概のことは解る。小難しい微積分からユークリッド幾何学だとかもばっちりだし、プログラム言語で言えば、CとかCOBOLとかPascalとかJAVAとかはリファレンス代わりに使えるくらい知識がある。論理演算も得意だし、英文は英字新聞を鼻歌交じりに読んでることもあるし、古文も漢文も原文を読み解ける。経済学はマルクスからケインジアンにポストケインジアン、経済工学がどうたらこうたらとか……
 が――
「大学じゃ、地図記号とか習わないじゃないのよ!」
 大学で習わない物、大学の試験に出題されない物はさっぱり解らなかった。
 なお、歴史の年表とかも良く知らないとの事、それから漢字も読めるけど、書き順とかは全く知らない事が判明した。

 と、言うわけで、家庭教師を探したところ、白羽の矢が立ったのが時任凪歩の弟、時任灯だった。
 私立大学に合格して行く末は決まったし、公立大学の二次試験は受けないし、高校は自宅学習になってもはや学校なんて卒業するまであるかないか解らない状態だし、何より――
「金が欲しい」
 使ってる携帯電話の料金くらいは支払ってくれるらしいが、小遣いは大学入学と同時に打ち止めが決まっている。だから、何かバイトをしなきゃなぁ〜と思ってた所に、この話。渡りに船とはまさにこのことだ。
「時給はたいしたことないよ?」
「家でバット振ってるよりかは金になるだろう?」
「……そろそろ、素振りと昼寝以外の趣味、見つけなよ……」
「疲れ果てるまで素振りした後にシャワーを浴びて昼寝するのが良いんだよ」
「……その趣味だけは理解できないんだよね、私」
 と、呆れ顔の姉と会話を交わしたのが、三月の声もそろそろ聞こえてきそうな二月下旬。灯は翌日から、早速喫茶アルトに出向いて家庭教師を行うことになった。
「……西部伶奈です。よろしくお願いします」
 三回目の来店となる喫茶アルト、その窓際隅っこ、こんな所に席があったのか? と思わせるような場所で、少女――西部伶奈が折り目正しくぺこりと頭を下げた。
 白いトレーナーの上からデニムのオーバーオール、やせた体つきに低い身長、六年生と聞いたがそれよりも少し年少に思える。それから、癖っ毛なのは良いのだが、それが中途半端に伸びてて前髪はすだれのようだ。そのすだれの向こう側から、こちらを伺うような視線を投げかけているのが、妙に気になる。
 正直、「可愛げのない子だなぁ……」というのが第一印象だった。
 で、その『可愛げのない子』は別の意味で可愛げがなかった。
「……教えることがない……」
 勉強を教え始めて、三十分、青年はぽつりと呟いた。
 彼女は非常に頭が良い。
 話によると英明の中等部の編入試験を受けるらしい。英明学園の高等部は地元では進学校の滑り止め的な扱いだが、中等部はそこそこ以上に優秀な生徒達がやってくることで有名な学校だ。そこを受けるというのだから、当然と言えば当然なのだろう。
 暗記物は少々苦手なのか、いろいろと忘れていることも多いようだが、忘れてると言えば灯の方ももっと忘れてる。年表はこの間まで日本史をセンター入試で受けるから勉強していたが、他のは結構忘れてる。地図記号くらいならともかく、漢字の書き順とかはかなり怪しい。慌ててスマホで調べることも多々あった。
 しかし、基本的に教えることと言えば、その程度。
 算数の計算は上手にやる。四則計算が複雑に入り交じったアクロバティックな計算とか、むしろ、灯の方が引っかかったりするくらい。これは、まあ、間違わせるために作ってるような問題だから、灯が悪いと言うよりも少女を褒めた方が良いだろう。
 国語の読み取りも人並み以上で、長らく体育会系で読書なんて強制されないとやらない灯よりも早いくらい。
 そんなわけだから、基本的には彼女に問題集をやらせる。終わるのを待って、終わったら、答え合わせをする。間違えてる部分はあまりないので、続きをやらせて、終わるのを待つ。そして、終わったら、また、答え合わせをする。
 その繰り返しは、教師としては甚だしく退屈だし、可愛げもない。
 そして、彼女にはもう一つ可愛げのないところがあった。
 この家庭教師のお仕事、時給はすごく安い。具体的に言うと、コンビニ辺りにでも行った方がまだ稼げる位。座りっぱなしの楽なバイトではあるが、普通ならちょっとやってられない金額だ。
 が、このバイトには安い時給を埋めて余りある余録があった。
「メニューにある商品、全部、食い放題」
 これである。
 食いしん坊と言うほどではないが、スポーツをやってる分、よく食べる。それにお菓子やケーキの類いも、人並みに好きだ。コーヒーも嫌いじゃない。その上、仕事の方は『勉強を教える』と言うよりも『勉強しているのを監視してる』という方が良いような有様で、すごく暇。
 そうなると口寂しいから何か食べようか? って気になるのも、ごくごく自然なことだろう。
 って訳で、テーブルの片隅に立てられていたメニューを開く……なんでコーヒーのページがこんなに多いんだろう? と、軽く疑問に思うが、とりあえず、それはスルー。
 何が良いか……お昼も近いし、軽い物が良いだろうか……と思いながら、青年はそのメニュー越しに教え子へと声をかけた。
「えっと、伶奈ちゃんも、何か食べる?」
「……いらない。お母さんが余り食べちゃ駄目だって言ったから……」
「……あっ、そう……」
 顔も上げずに答えられれば、二の句も告げない。こういう真面目なところも『可愛げがない』って感じになるのではないか? 親族が経営している喫茶店に預かって貰ってる以上、そこの商品をがつがつ食べるなというのは、親として当然だ。当然ではあるのだが、それを律儀に守らなくても……なんて、末っ子で要領の良い少年だった青年は思う。
(俺なら、黙っててね……つーて、がっつり食うよな……)
 パタンとメニューを閉じて、片端に置いたら、少女は問題集から顔を上げた。そして、すだれの向こう側から青年の顔を見上げて、彼女は言う。
「……食べて良いよ……?」
「ああ……別に欲しい物はなかったから……」
 答えながら、(食えるか……)と、内心呟く。少なくとも、一生懸命勉強してる教え子の目の前でがつがつ軽食を食べる度量を灯は持ち合わせていない。
「……そう?」
 そうとだけ答えて、伶奈は本の一瞬だけ止まっていた鉛筆を再稼働させる。
 灯はそれを見ているだけ。
 やっぱり、非常に退屈である。
 特に算数の問題をやらせてる間は、全然、こちらに質問もしてこない。
 仕方ないから、ぼんやりと窓の外を眺める。まだまだ寒い時期だが、窓から差し込む光だけは春の気配を感じさせていた。
 そんな感じで鉛筆がカリカリと問題集の上を走るだけの、静かな時間が一時間ほど過ぎる……と、彼女が問題集を終わらせたので、回答とつきあわせて、答え合わせをする…………間違ってるところがあって一安心ではあるが、それは単純な計算ミスだった。
「……ここ、足し算が間違えてるよ?」
「あっ……うん……ごめんなさい」
 消しゴムでごしごし消して、書き換えた数字が正しい事を確認したら、灯は言った。 
「うん、それで合ってるよ。ちょっと早いけど、ご飯にしようか? それから、少し休憩しよう。俺も少し休みたいし……」
「……はい。先生。ありがとうございました」
 椅子から立ち上がると、彼女はぺこりと頭を下げるもんだから、青年も慌てて腰を浮かして、頭を下げた。
「あっ……ううん、昼からも……よろしく」
 そして、彼は彼女がテーブルの上に放置してあった問題集や教科書を片付け始めるのを横目で見ながら、席を立った。
 向かう先は姉が伝票を弄くってるカウンター、その隣に腰を下ろすと
「疲れた……」
 と、盛大なため息を吐いた。
「お疲れさん。どうだった?」
 凪歩が伝票をまとめる手を止め尋ねる。
 それに灯は吐息を一つこぼして応えた。
「……教える必要があるのか? って気がするくらいに頭が良いな、あの子……」
「ああ、それはアル――前の家庭教師も言ってたよ」
「ほっといてても真面目にやってるし、手のかからないのは良いけど、かからなさすぎて暇。所でさ――」
 一旦言葉を切る。灯の視線がちらりと自身の斜め前、そこに突っ立っている老人へと向かう。視線が老人の皺に埋もれた瞳と交わる。
「……えっと……やっぱり、訳ありなんですか?」
 そう尋ねた。
 今は二月の末。高校すら卒業式が終わってない時期に、小学生が朝から喫茶店で家庭教師をつけて勉強している。それに私立中学の受験はもっと前に終わってるはずだし、そういえば、『入学試験』ではなく、『編入試験』を受けるとか言うのもおかしい話だ。
「親御さんの都合ですよ。家庭内のことなので、詮索はナシの方向で……」
 申し訳なさそうに言う老店長の斜め前、灯の隣で姉が冗談めかした口調で言う。
「あんまり詮索してると、大学入学前に卒業できないことが確定しちゃうよ?」
「えっ?」
「この人、学長先生と『俺、おまえ』の関係だから」
「あはは。彼が試験でどうやってカンニングするか? って事を悩んでた頃から、ここの常連だってだけの話ですよ」
 笑う老人に灯も「あはは」と笑い声を返す。そして、彼は軽く肩をすくめて答えた。
「まあ……詳しく知りたいって訳でもないから……ミックスピザとワッフル、それとコーヒーね、昼飯」
「私も詳しいことなんて、全然知らないんだけどね……――はいはい、お客様」
 灯が注文をすると、凪歩は軽く手を振り、席を立った。
 それから待つことしばし……姉の手により運ばれてきた昼食を頂く。
 大きめの生地に具だくさんのピザがメインでデザートにはふわふわのワッフル、この店の名物だというコーヒーも味わったら、お昼ご飯は終了。とはいえ、すぐに始めるってのもなんだし、一時間くらいは昼休みで良いだろうか?
 そう思いながら、灯は預かっている問題集に視線を落とした。親が用意した物らしき問題集は、灯自身も小学校の頃にもちょっとやっていた系統の物だ。当時はもうちょっと難しく感じていたのだが、伶奈に掛かるとサクサク解かれてしまう。
(兄貴が使ってた奴とか……残ってないかな……)
 今後のことをぼんやり島考えているうちに、ランチタイムが始まったようだ。学業から解放された学生達がどやどやと来店し始めれば、あっという間に店内は活気づく。
 その賑やかさに灯は手元の問題集から顔を上げ、辺りをぐるっと見渡した。
 高校時代の学食も結構な賑わい方だったが、ここのランチタイムもそれに勝るとも劣らない感じ。それを手際よく裁いていく姉の姿が「アレでも一応社会人なんだな」って感じで感慨深い。家では縦の物も横にしない感じなのに……
 もっとも――
「がんばれ、なぎぽん!」
「はーい! って余計な声援! 送るな!」
 走り回る姉にかけられる声援とそれに反射的に声を返しちゃう姉って光景は、弟が見てる分には少々辛い。気恥ずかしくて、ちょっぴり赤面してしまう。
 そんな中、食事を終えた教え子は窓際隅っこの席で、なにやら手遊びをしていた……

 その日、午後の授業も概ね午前中と同じ感じで終了。退屈なのもほぼ同じ。予定の時間が終わったら、バランスはよく解らないが、とりあえず、数ページの宿題を出して、その日は終わった。
 翌日は彼女が受験する私立中学の過去問題が手に入ったので、それをさせてみた。
 いくら出来の良い少女とは言え、さすがにこれを全問正解とは行かない。間違えた問題はレクチャーしてあげる必要がある。おかげで前日よりかは退屈ではなかったのが、何よりの救いだった。
「よう……灯、何してるんだ?」
 そんな風に喫茶アルトの片隅、授業を行っていると、声をかけてくる男がいた。
「……おまえこそ……何してるんだ? ジェリド」
 聞き覚えのある声に顔を上げれば、細面で掘りの浅い中性的なイケメンが立っていた。ジェリド・マサ……もとい、勝岡悠介だ。
「俺はアパートの手続き。部屋の下見だよ。早めに決めないと、近場は埋まるから」
 突っ立っている青年が答えると、少女は鉛筆の手を止め、顔を上げた。
「……誰ですか?」
 すだれの向こう側から少女はやっぱり、うかがうような視線……と、自身に投げかけられたときには思ったが、どうも、ちょっと違うようだ。頭のてっぺんから足の先まで、何度もじろじろと見ている様は『値踏みしている』と言った方が良いかもしれない。敵か味方か、害を与える人かどうかを、値踏みしているのかもしれない。と、灯は少女の小さな顔を横から見ながら思い、そして、教え子の質問に答えた。
「ジェリド・マサって言う馬鹿だよ。後、一応、俺の友達……らしい」
「言い切ってくれよ……灯」
 灯が投げやりな口調で言うと、悠介は苦笑いで答える。
 そして、少女は不思議そうな表情を浮かべて小首をかしげた。
「じぇりど?」
「悠介だよ、勝岡悠介って言うんだよ、そっちは? じゃり」
 言ったかと思うと、悠介は無造作に少女の癖っ毛の頭をワシャワシャとかき混ぜ始めた。
「やっ、あっ……触らないで……」
 じたばたと嫌がる少女にかまわず、青年は元々くしゃくしゃの癖っ毛をさらにくしゃくしゃにしていく。まあ、嫌がってはいるが、くすぐったそうに首をすくめている姿はほほえましくて、灯も授業の最中ではあるが、その二人の様子を笑みを交えながらに見ていた。
 ら、
 イケメンの男は少女の頭をワシャワシャ触りながら、灯に視線を向けて問いかけた。
「ところで、なんで小学生が平日の昼間にサテンで家庭教師と勉強してんだ?」
「あっ、馬鹿……」
 灯はそう呟くが時すでに遅し。脊髄反射で動く唇が案の定、脊髄の命令で動いた。
「不登校か?」
 瞬間、少女の手がパン! 悠介の手をはじき飛ばす。そして、その小さな頭がうつむく。元々すだれのようだった前髪が顔の前に落ちて、その表情は外からうかがい知ることは出来ない。
 この時点でようやく、不味いことを聞いたって面をするもんだから、灯は
「……おまえ、その唇、ホッチキスで止めちまえよ……」
 とだけ返した。
「あっ、いや……言いたくなかったら……」
 少女の顔をのぞき込むようにしながら、ヤツはしどろもどろ。
 しかし、その弁明を少女が聞いているような様子はない。
 代わりに少女の唇がぶつぶつと意味不明に動く……
「……うん……大丈夫…………解った……」
 そして、パン! と両手をついて立ち上がる。上げた顔、すだれの向こう側には真っ赤に腫れた瞳があって、その瞳は悠介の顔を射貫くかのように睨み付けていた。
 と思ったら、少女の細い指がぴっ! と悠介の方へと指し示されて――
「刺しちゃえ!!!」
 と、少女は怒鳴り声を上げた。
 瞬間!
「いてっ!? なにっ!? なんだ!? いてっ、いた! ぎゃっ!!!」
 男の大きな悲鳴が数分にわたって響き渡った。
 そのとき、悠介は……
「死ね!!!」
 って声を聞いたらしい。

「あはは!」
 そのわけも解らず痛がってるジェリドを見やり、笑っている少女は――
 ――少しだけ可愛かった。

 追伸。
「ああ、その子は妖精さんが着いてるから、下手なコトしたり、言ったりすると、洒落にならないことになるよ?」
 と、ズタボロになったジェリドに含み笑いを見せて、姉が言った。
 その話を灯も悠介もよく解りはしなかったが、とりあえず、悠介がひっかき傷だらけになった顔を撫でてるのを見て、馬鹿なことを言うのは止めようと心に決めた……
 のだが、
(こいつはたぶん、無理だろうな……)
 とも思った。
 そして、概ね、この先、その通りになる。

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