受験と風邪と女と友(1)
お話戻って、美月と良夜が温泉宿から帰ってきた直後……
「えー、吉田さんおよび学校関係者からの情報によりますと、大学内でインフルエンザ流行の兆しがあるそうです。当店は知っての通り、お客さんの大半が大学関係者さんなので、ウィルスが持ち込まれることも十分あるので、インフルエンザにはくれぐれも気をつけてください。手洗い、うがいですね。予防接種とかして欲しいくらいですが、もはや手遅れだと教わったので、諦めましょう。来年は受けた方が良いかもしれませんが、きっと、忘れてると思うので、皆さん、覚えててください。以上で〜す」
美月がそう言う話をしたのは、とある平日、営業時間が終了した直後、お茶会直前のことだった。
年末年始に人混みに出てウィルスを貰ってきた連中も多かったのだろう。大学内部は新学期早々インフルエンザ患者だらけ。教授が寝込んで万歳三唱してる奴らから、単位ほしさに三十九度からの熱を押して出席し、結局保健室経由で救急病院に搬送される奴まで、悲喜こもごもの人間模様が学内では繰り広げられていた。
そんな中……
「私には……関係、ない」
と、翼がのんきに構えていたのは、彼女は余り風邪の類いにかからない体質を自認していたからだ。この前にかかったのは、二年前である。そのときも、熱っぽいなぁ〜と思った時に市販の風邪薬を飲んだらそれで終わり。翌日の朝にはすっきりした気分で目覚めて、風邪薬の代金を無駄にしたかと思った位。
一方、凪歩は冬になると一度はひどい風邪にかかる。熱が出て起き上がれなくなって、声もろくに出なくなるようなひどい風邪だ。
「……馬鹿は風邪を引かない……って言うのに……」
「じゃあ、翼さんは風邪を引かないから馬鹿なんだ?」
「……私……健康的な生活をしてる……から」
「健康的?」
「三食、よく食べ……早寝早起き……あと、ミカンでビタミン……」
「……それで風邪にならなきゃ、誰も苦労しないよ……」
そんな話をしてたのは、喫茶アルトからの帰りの電車内。ほとんど借り切り状態の長いすに座って、どーでもいい話をするのが翼と凪歩の日課になっていた。ちなみに出勤時は凪歩が息切れしてるので、会話はあまりない。
その日課は凪歩が一足先に電車を降りるまで続く。
「それじゃ、また明日。お休み〜」
そう言って降りていく凪歩を見送れば、長椅子を翼一人が占領することになる。
「ふわぁ〜」
と、大きなあくびを一つ。窓の外を流れる夜景をぼんやり眺めて、駅を三つ行きすぎるのを待てば、翼が降りる神崎駅だ。
駅に降りたら自転車にまたがっておうちに帰る……と言う流れになるわけだが、最近の翼は三日に一度くらいは駅前のディスカウントストアに寄るようになっていた。
二十四時間営業のディスカウントストアは、スーパーに比べると値段も安いし、遅くまで開いてるとあって、一人暮らしの社会人が仕事帰りに小物を購入するにはちょうど良い場所だ。
今日のお目当ては詰め替え用の台所洗剤。それだけと言えばそれだけなのだが、それだけで終わらないのが買い物と言うものだ。
レジかごを持って店内をとことこ……時間も少し遅めとあって客は少なめ。おかげでのんびり買い物が出来る。
と回っていると、一枚の張りが目についた。
『地酒フェア!』
美月と良夜が行った温泉地で美味しい地酒を飲んだ……そんな話をしてたっけ……って事を思い出す。
お酒は嫌いじゃない。
「お酒は……温めの燗が良い……」
って、鼻歌をぼそぼそと歌う。客観的に見て辛気くさいが、知り合いなんていないので恥はかきすて。
歌っていたら、三百ミリリットル入りの小さなボトルを見つけた。値段は手頃。端麗甘口、そー言えば美月達が飲んで美味しかったって言ってたのも端麗甘口だったか……試してみたくなった。
「……肴はあぶった……イカで良い……」
って、鼻歌をやっぱりぼそぼそと歌う。やっぱり、辛気くさい。かきすての恥パートツー。
歌っていたら、鮮魚売り場にイカの一夜干しを見つけた。
神が飲めと命じていた。
「女は無口な……人が良い……」
って、歌ったら、八代亜紀が認めてくれた気分になった。
そんな訳で、ちょっぴり無駄遣いをしたら、いそいそと、翼は自宅へ向かって自転車をこいだ。
そして、十分少々……
古びた安アパートだが、住めば都の楽しい我が家。
トントンと軽い足取りでさびの浮かぶ階段を駆け上ったら、自宅に入る。
部屋に入ったら、まずは湯船にお湯を貯める。
それが溜まるのを待つ間にチャッチャッとお料理。お酒は陶器の徳利に移して電子レンジでチン。イカはトースターで軽くあぶれば完成だ。
そうこうしているうちに狭めの湯船にお湯が溜まるので、パッパッと服を脱いだら手早く入浴。
「ひゅるり〜ひゅるり〜らら〜」
肩まで浸かって、鼻歌を歌う。ここ、割と大事。
遠くでチ〜ンっとレンジが主を呼んでるのを聞いて、しまったと後悔しても後の祭り。ちゃんと体と頭を洗って、たっぷりと浸かってから外に出る。
風呂から上がると、翼はいつもTシャツとショーツだけという非常にきわどいというか、あられもない姿になるのが定番だ。友達には「裸族か?」と言われた事もあるが、子供の頃からこんな感じで寝ているせいか、寝間着の類いを着てるとなんだかよく眠れないのだ。
冬場はこの上にどてらを引っかける。まあ、寒いか寒くないかで言えば寒いのだが、こたつがあるから大丈夫。
そして、いよいよ、今夜のお楽しみ。
レンジで温めたお酒とトースターで焼いたイカ、ちょっと冷えたかな? と思ったけど意外と大丈夫、十分暖かい。
それを持ってこたつに潜り込む。
『センター入試には大雪が降るというジンクスがありますが、今年も明日から今週末にかけて……――』
テレビのスイッチを入れれば天気予報がかかった。余り興味がないから適当にリモコンをいじってチャンネルを変える。最終的に選んだのは、芸能人のトーク番組。よく知らないけど俳優らしき人が、よく知らないけどお笑いタレントらしき人と二人きりで対談してる番組だ。すごく面白いというわけではないが、我慢できないほどにつまらなくもない。
それを見ながら炙ったイカを手で裂く。味付けはマヨネーズに七味を効かせた物。これをたっぷりつけて食べるのが一夜干しのイカの正しい食べ方だと翼は信じて疑わない。それから、お酒をちびりちびり……お酒もイカも非常に美味しい。値段も安かったし、大当たり。少し遠いところで造られている地酒だから、欲しいときに必ず手に入るとは限らないかもしれないのが、ちょっと残念だ。
三百ミリリットル、合で言うと一合とちょっとをじっくりと時間をかけて飲みきった。
そして、寝た。
こたつで。
翌日の朝までぐっすりがっつり。
ちなみにその日の最低気温はマイナス二度。
凍死してなくて良かったねって感じである。
こたつ様々。
死にはしてない。
でも、ただですむはずもなかった。
まず、喉が痛かった。
頭も痛い。
軽く額に手を当ててみたらほのかに熱い気がする。
くしゃみや咳が出るようなら美月に相談しようかと思ったのだが、どうやら、頭が少々重いくらいで咳き込んだりくしゃみが出たりと言うことはないようだ。一昨年、風邪を引いたときにドラッグストアーで購入した風邪薬を取り出す。まだ、有効期限は切れてないようなので、それを水で流し込む。後は、出かけしなにコンビニでマスクでも買っておけば良いだろう。今日一日、出勤すれば明日は休みだ。そしたら、医者に行こう。
そんな皮算用で、翼は出勤した。
風邪薬が効いたのだろうか? それとも仕事中という緊張感が良かっただろうか?
美月や貴美といった上司達は大丈夫? と声をかけてくれたのだが、仕事が出来ないほど辛くなることもなかったし、大きなミスも取り立ててやらなかった。咳やくしゃみでウィルスをばらまくこともなかった。それに仕事をしてたからと言って、病状が悪化するわけでもなく、翼はつつがなく、一日の勤務時間を終わらせることが出来た。
「つばさんがしんどそうだし、今日はお茶会はなしでとっとと帰ろう。明日はちゃんと病院に行くんよ? それと、しんどかったら、暫く休んで良いから。そうなったら、なぎぽんが自分の休みを返上して働いてくれるって、私は信じてっから」
そう言って、貴美はがっしりと凪歩の両肩をつかんだ。視線は真っ正面、凪歩の顔を射貫いている。
「私は、信じて、いる、んだ、よ!」
満面の笑みで、ひと単語ごとに区切って彼女は言う。
視線を全く逸らさないで貴美に言われれば、凪歩もイヤとは言えないのだろう。ぷいっと斜め下、足下へと視線をそらして彼女はぼそぼそ……
「げっ……うっ……まあ、そりゃ……ね? しんどいときはお互い様だし……」
そして、最後に美月がにっこりほほえんで、言った。
「私も今週末は家に居る予定ですから……辛ければ遠慮なく、休んでください。来週も駄目なようなら、こちらでどうにかしますから、相談しましょう」
「……んっ」
優しい言葉に見送られて、翼は凪歩と共に自転車で坂を下って、駅へと向かった。
自転車でさーっと坂を駆け下りて、いつもの無人駅へ……プラットフォームで少し待てば電車が滑り込んでくる。今日はいつもよりも一本速い電車で。早くても中身は相変わらずがらがらだ。
そのがらがらの長いすに座って、ホッと一息……
「病院から帰ってきたら電話してよ。別に週末、予定があるわけでもないから、マジ、遠慮しないで…………――ちょっと!? 翼さん!?」
そんな凪歩の声がずいぶんと遠くに聞こえた。
もう、翼は返事もしたくなかったし、する力も残っていなかった。
「病院から帰ってきたら電話してよ。別に週末、予定があるわけでもないから、マジ、遠慮しないで……」
って凪歩が言ってる最中、翼の体が長いすの上にぽてん……と崩れ落ちた。
「……――ちょっと!? 翼さん!?」
そう言って、凪歩が彼女の体を触ってみれば、
「わっ!? すごっ!」
驚くほどに翼の体は熱い。まるで風呂上がりかと思うほど。
凪歩は翼の家を知らない。神崎駅が最寄り駅って話はちらっと聞いたことがあるし、そこから自転車で十分ほどの距離にある二階建てのアパートに住んでるって事も聞いたことがある。
そして、それだけの情報で人の家を訪ねていけないことも、凪歩は知っている。
で、仕方ないから……
それからしばらくの後……凪歩は普段ならば、自転車で十分足らずで終わる駅からの道を徒歩で二十分以上の時間をかけて、凪歩は帰ってきた。彼女の肩には真っ赤な顔で青息吐息になってる翼さん。
「かっ、帰れたぁ」
なんとか片手でハンドバッグからキーホルダーを取り出して、鍵を開く。
分厚い扉を開いて中に入れば、暖かな玄関先。ホッと一息吐くよりも先に、凪歩は大声を上げた。
「おかーさん! 客間にお布団!! それから、灯!! ちょっと!!!」
大声を上げたせいだろうか? それまで眉をひそめて苦悶の表情で眠り続けていた翼の瞳が開いた。潤んだ瞳が凪歩の顔を見上げて、問う。
「……ここ……?」
かすれ声の消えそうな声だった。
その声をかき消すかのように凪歩は叫ぶ。
「うちだよ、うち! もう、良いから、そのまま、寝てて!!」
「……んっ……」
その微かな声をかき消すように叫べば、翼は何か安心したかのように体から力を抜いた。遠慮したあげくに暴れられるよりかはずいぶんとマシだが、彼女の体から力が抜けると翼を支えている右肩にずん! と重みがかかってちょっと辛い。
「どうしたの?」
最初に出てきたのは母親の方だった。
「風邪っぴきが無理して出勤して、電車の中で息絶えたの! ともかく、寝かせるから、布団を敷いてよ……って、灯!!! ちょっと!!!」
「なるほど……」
「こんな時間にこんなの一人で返せないし、私、翼さんち知らないし……ともかく、布団、敷いてよ」
「解ったわよ」
イヤな顔一つしないのは、同じような感じで飲みつぶれた同僚や部下を父がちょくちょく連れて帰ってくるから。ちなみに凪歩の父は凪歩の父親だけあって超絶ウワバミで、趣味は「飲み比べで他人を潰すこと」と豪語するような外道である。
そういう感じで母は良く出来たと言うか、慣れっこになってる。そんな母がぱたぱたとスリッパの音を立て二階へと続く階段を駈け上がっていくのを、凪歩は翼に肩を貸したまま見送った。
そこに入れ替わるように二階から弟が階段を降りて来た。
「なんだよ……って……あれ、その人、寺谷さんだっけ?」
きょとんとした顔で彼が尋ねるから、凪歩は友人に肩を貸したまま、こくんと小さく頷き、答えた。
「そうだよ。ちょっと、そっち持って」
「あっ? ああ……倒れたの?」
「そうそう。とりあえず、今夜は客間に寝かせるから……二階に上げるの、手伝って」
「りょーかい……」
答えて灯は翼の右側に立ち、そのだらんとだらしなく垂れ下がった腕を持ち上げ、そこに首を突っ込もうとした――
――ら、翼が暴れた。
力なく垂れ下がっていた右腕を上げると、彼の胸にぐいと押しつけてその体を押し返そうとする。
「ちょっ……暴れんなよ……男だから、いやなのは解るけどさ……」
「灯なんて、かかしか人形だと思ったら良いから……ちょっとの間、我慢してよ」
と、灯と凪歩が言ってみたところで翼の嫌がり方は収まらない。フルフルと首を何度も左右に振って、拳を力なく灯の胸に押しつける。かなり強情な嫌がり方をして見せた。
とは言っても、方や風邪引きの女、方やこの間まで野球部でレギュラーを張ってて、しかも引退した現在でも日々の素振りとランニングを欠かさないスポーツマン。力勝負をすれば勝敗は火を見るよりも明らか。
「ったく……悲鳴、上げんなよ」
そう言ったかと思うと、灯は翼の腕をつかむとそのまま首に回して、無理矢理、肩を貸すような形にしてしまう。
すると、ぐったりとしていた顔が上がって、灯の顔を見上げた。そして、小さな声で彼女は呟いた。
「……じゅっ……け……」
「あぁん?」
さすがにここまで嫌がられるとむかつくのか、灯は少々不機嫌そうなと言うか、ドスをきかせた声を上げた。
その声に、翼はもう一度、今度は体ごと顔を持ち上げる。真っ赤になった頬に、熱にうなされ潤んだ瞳がまっすぐに彼の顔を射貫いた。そして、珍しく、はっきりと彼女は言った。
「受験生なんだから……移ったら……どうする、の……馬鹿!」
最後の『馬鹿』に、ことさらに力がこもっていた。
その言葉に不機嫌だった灯の目元からも力が抜けて、少し力の抜けた声で彼は呟いた。
「えっ? ああ……まあ、大丈夫だろう? 俺、健康的な生活をしてるし……」
とうそぶく灯の声を聞いて、どこかで誰かが似たようなことを言ってたなぁ……と、凪歩は思った。
なお、灯の言う『健康的な生活』とは、三食、よく食べ、早寝早起き……後、適度な運動、らしい……が、そんな物で風邪をひかないんなら、医者はいらない。
案の定、翼の風邪は灯に移った。
彼は熱を出した。
三日後、一月十八日、土曜日。
それはセンター入試のまさに当日、その日……もちろん、彼のセンター入試は大爆死だった。
「……私立、落ちたら後がないぞ……」
熱から回復した後、青年はそう呟いた。
彼の呟く『私立』とは、もちろん、喫茶アルトから歩いて五分の所にある私立大学のことである。
余談ではあるが、凪歩には移らなかった。
ご意見ご感想、お待ちしてます。