淑女二人(完)
 その家族は幸せだった。
 快活な娘は多少やせ気味ではあったが、病気らしい病気もせず、多少いたずらが過ぎる部分もあるが、叱れば聞き入れる素直な子だった。
 頼りがいのある父、仕事は忙しく、給料も少ない物の、やりがいはあった。
 優しい母は看護師だった。家計を助けるために外で働き、帰ってきてからは家事を怠ることもない、働き者だった。
 だから、家族は幸せだった。
 その幸せな家族の歯車が狂ったのは、父がリストラされたときのことだったのだろうか?
 しかし、そのことに気づいた者は居なかった。
 少なくとも、三人は気づかなかった。
 娘は何も知らずに毎日よく食べ、よく遊び、よく学んでいた。
 父は再就職のために職安へと通い、友人や知人を頼った。
 母はそれまで短時間だった仕事をフルタイムに変えた。
 母は取り立てて有能な看護師というわけでもなかったはずだ。
 しかし、苦難こそが人を育てるとはよく言ったもの。
 朝も夕もなく、働き通し、手当が付くと言われれば人が嫌がるような仕事も率先して引き受けた。職場も小さな診療所から大きな救急病院に変わった。
 看護師の働き口はいくらでもあった。
 給料も増えた。
 それは、父が働いてたときよりも多いほどに……
 そして、父の再就職先はいっこうに見つからなかった。元の職種が悪かったのか、それとも父の能力が足りなかったのか、もしかしたら、景気のせいかもしれない。ともかく、彼の再就職先は一年が経つというのに、見つからずに居た。
 父は追い詰められた。
 だから、酒に逃げた。
 母は、いつかは父が立ち直ってくれると信じていた。
 そして、母は今まで以上に必死に働いた。
 救急病院の勤務は激務だ。
 家に帰れないことも多い。
 それを考えれば、父が家に居てくれるのは安心だった。
 学生時代、一人暮らしをしてた父は家事もそれなりに出来るようだ。
 専業主夫でも良いんじゃないか?
 そう思うようになっていた。
 母は。
 父はそうは思っていなかった。
 早く、一刻も早く、この状況から抜け出したかった。
 でも、出来なかった。
 ますます、母の仕事は忙しくなる。
 給料も増える。
 そして、父は壊れた……

「由美子が昨日帰ってきたら……娘は裸ですすり泣いてて、夫は酒を飲んで高いびきだったらしい……」
 喫茶アルト、倉庫の中。
 ぱっと見、居るのは一人きり。三島拓也。美月の父親で、アルトに言わせると『私の子分』
 タワー型のパソコンが置かれたテーブルの上、行儀悪く腰掛けてる男の頭の上には、その『親分』であるアルトが居た。
 前回ラストの後、フロアは大変だった。
 少女が泣き出した所に美月が帰ってくれば、当然、何があった? どうした? と彼女は執拗に尋ねてくるし、誤魔化そうとすれば良夜に対してあらぬ疑いをかけ始める。
「本当にロリコンなんですか!?」
 と、美月が迫ったときには、その設定を作って吹聴して回ってたアルトも罪悪感を覚えた。
 その上、泣いてる娘に気づいた母親までもが参戦してきて、しかも、その母親はアルトのことを知らないから、傍目から見れば『子供の扱いが上手い』と従兄弟に紹介された大学生が、娘を泣かせたようにしか見えない。ただでさえ、このいきさつなんだから娘と男性との接触に不安を抱いていた母親にしてみれば「そら見たことか」と大騒ぎ。
 その修羅場に気づいた翼や凪歩達もが興味本位で首を突っ込んでくるわで、営業時間中だと言うのに、フロアはしっちゃかめっちゃかというか、シリアスな局面でも喫茶アルトは喫茶アルトだったというか、平常運転だったというか……
 良夜、清華、拓也にアルト、それから和明と事情を知る者、全員が頭を抱えた。
 とりあえず、美月と翼と凪歩には「関係ないから、仕事してろ」とのお達しを老店長が下せば、納得いかない顔はしてみても、最終的には仕事に戻らざるを得ない。それに、もう少ししたら午後の授業も終わって、客も増えてくる時間帯。のんびりしていられないという状況も誤魔化そうとしている側を助けた。
 それから、少女に母親にはもうしょうがないからアルトの存在を教えることにした。
「……兄さん、お義姉さん、頭、大丈夫?」
 取り乱していたことも忘れ、彼女は第一声でこう言った。もっとも、娘自身も「妖精さんとお話ししてた」と証言してくれたし、アルトも彼女の指の先を少々強めに刺して見せたので、半信半疑というか、六四で疑が勝るような状態ではあるが、一応は納得して貰えた。
 そして、ひとまず落ち着いたところで、アルトは良夜を通じて拓也にこう切り出した。
「貴方が知ってることを直接私に言うか、私が想像してることを良夜経由で聞いて、それが正しいかどうかを私に言うか、どっちが良いの?」
「……――って言ってますって、俺は聞きたくないぞ……胸くそ悪い事になるのはわかってんだから……」
「拓也次第よ」
 って会話を拓也の前でしてみせれば、彼もアルトには話をせざるを得なかった。
 そして、「聞きたくない」と言って良夜が引き上げた後、二人きりの倉庫の中で拓也は彼が昨夜から今日、横浜の自宅からアルトへと向かう道すがらに聞いた話をアルトに語って聞かせた。
 それは概ね、アルトの想像の範囲に収まっていた。
 没交渉の叔父を頼って何時間もかけて急に訪ねてくると言う時点で異常事態だし、いくら最近の子供が早熟だとは言っても小学生でって言うのも異常事態だ。しかも、父親はこの場に居ないとなれば、それを一番に思い当たっても仕方ないことだろう。
(と、言うことを良夜も察してるのかしらね……?)
 拓也の汚らしいぼさぼさ頭の上に座って、アルトは内心呟いた。
 察しが悪いと常々言われている朴念仁だが、『聞けば、胸くそが悪くなる』事が少女に発生してるって事くらいには気づいてるみたいだ。店から出ていくときの表情も苦虫をかみつぶしているというか、胸元から這い上がる苦い物を無理矢理に押し込んでいるというか……そういう何とも言えない、渋い表情だった事を考えれば、似たような所まで推察してたのかもしれない。
(……確かめたくなかったのか、確かめない方が良いと思ったのか……)
 どちらにしても、たぶん、良夜は聞かない方が良かったのだろうとアルトは思う。
 そのお尻の下では、男が事務机の上に置かれた灰皿に手を伸ばした。そこには長く残ったタバコがこんもりと山積みになっている。さっき話をしている間に拓也が作った物だ。
 その長く残ったタバコを一本拾い上げ、彼は百円ライターで火をつけた。
 普段なら初月給で買ったというダンヒルのライターを決して手放さない男なのだが、それは家に忘れてきたらしい。あと、財布と携帯電話と着替えの服も……
「ふぅ……」
 紫煙がたなびく……
「臭いわよ」
 妖精が一言だけ言った。
 時が過ぎる。
 建物の一番深いところにある事務室、そこに入ると外の音はほとんど聞こえなくなる。
 聞こえるのは湿気たタバコが静かに燃える音と紫煙が吐き出される音だけ……
 フィルターのすぐ側まで燃えたタバコを灰皿でもみ消す。
 紫煙が一筋、大きなガラスの灰皿から立ち上った。
 男はうつむいたまま、小さな声で呟いた。
「……おまえは子守が得意だから……」
「子供と動物は嫌いよ」
 その言葉とカカト落とし二つで、妖精は応えた。
「子守された奴が言ってんだから、間違いない。親父に叱られたときとか、ツレと喧嘩したときとか、ずいぶん、助けて貰ったよ、高校受験、失敗したときもか……」
「そんなこともあったかしらね……忘れたわ」
 もう一本、拓也は灰皿のタバコを拾い上げ、また、火をつける。
 顔は上げない。
「臭いってば……」
 また、アルトが言った。
 そして、男はうつむいたまま、呟いた。
「…………また、子守頼むよ…………」
「……二十何年かぶりに聞いたわ……」
「重いもん背負った子だけど、また、おまえの子分か妹分にしてやってくれ」
「子供と動物は嫌いよ……」
 そうは言うものの、彼女の足は一度しか動かない。
 また、湿気たタバコが焼ける音と煙が吐き出される音だけの世界に戻った……
 数秒……
 煙を吐いていた男の唇が小さく動いた。
「……さんきゅー、姉さん……」
「……何十年かぶりに聞いたわ……」
 そう呟き合った二人の顔は晴れやかな物ではなかった……

 アルトはフロアに戻る前、キッチンで軽く顔を洗った。
 本当は熱めのシャワーを使うか、出来ることならゆったりとお風呂にでも浸かって、心に溜まった澱<おり>のような物を洗い流してしまいたかったけど、あいにくキッチンはディナーの仕込みの真っ最中。翼は一生懸命野菜を刻んでるし、美月は鍋の前で立ち仕事。これで下手にシンクの辺りをうろちょろしてれば、頭の上から何が降ってくるか解らない。
 シンクで顔を洗ったら、とっとと逃げ出して、キッチンの片隅に置いてあるハンドタオルで軽く顔を拭く。
 フロアに顔を出すと、そこに西部親子の姿は見えなかった。さすがに一日中フロアに居るわけにも行かないから、母娘は昔拓也と清華が使っていた部屋に引っ込んだらしい。
 アルトはふわふわと二階の居住区へと上がった。
 三つ並びのドアはそのどれもがダークブラウンの合板製。それを木靴に包まれたつま先で力一杯蹴っ飛ばせば、かつん! と安っぽい音がした。
「あーけーて!」
 と、大声を上げるとギーッとちょうつがいが軋む音と共にドアが開いた。
 開けたのはもちろん、アルトの声が聞こえる伶奈だ。
 部屋は元々美月の両親が使っていた部屋だが、もう、何年もろくに使われていない。おかげで八畳ほどの洋間にはセミダブルのベッドが一つと大量の段ボール箱やら衣装ケースやら本棚なんかが押し込められていて、狭苦しい上に雑然としていた。
 そのほぼ中心部には古びた座卓というか、ちゃぶ台というか、そう言う物が置かれていて、清華と由美子、とか言ったろうか? 二人の母親コンビが囲んでいた。
「どうしたの?」
 由美子が顔を上げて問いかける。
 黒髪をこざっぱりと切りそろえているのは、働く女性らしいと言ったところだろうか? 良く見れば、ナース服の上にカーディガンを一枚羽織っただけ。着替える余裕もなく、娘を連れて家から飛び出してきたのだろう。それは良いのだが……
(子供同士の年の差で考えると十歳くらい違うはずなだけど……清華と余り変わらないくらいに見えるわね…………)
それに白髪交じりの頭に化粧っ気のない顔、皺も……口元目元に浮かんでるのを隠し切れていない。苦労しているのだろうか? まあ、清華の苦労が人よりもずいぶん少ないだけなのかもしれないが……
 と、親の方に意識を取られていたら、娘の小さめの両手があるとの体をふんわりと包み込んだ。
「アルトが来たよ」
 小さな声でそう言うと、少女はアルトの体をぎゅっと胸元に押しつけ、抱きしめた。それは、逃げられそうにはないが、先ほどのように締め上げられているという感じもしない。
 隈の出来た赤い目をぱちくりさせてる横で、やっぱり、隈の出来てる目を少し緩めて、清華が言った。
「余り、強くしちゃダメよ」
「前に思いっきり頬ずりされたこと、私は忘れてないわよ!」
「……――って言ってるよ」
「伝えなくて良いわよ!」
 大きな声で清華が応えた。その声を、聞こえているのか、いないのか、少女は胸元にアルトをだいたまま、二人の大人から少し離れたところにちょこんと腰を下ろした。
 この部屋は余り使っていない兼ね合いでテレビの類いは置かれていない。だから、ちゃぶ台の上に置かれたスマートフォンがテレビの変わり。もっとも、部屋の片隅に座った少女の位置からは、声こそ微かに聞こえているが、何を言ってるのかよくわからないし、画面は全く見えていない。まあ、良いところ、BGM代わりと言ったところだ。
「逃げないからつかまないでも良いのよ?」
「……」
 そう言っても彼女はフルフルと力なく首を左右に振るだけ……
(まあ、しょうがないか……)
 昨夜……まだ余り遅くもない時間から、さらわれるように引っ張り出されて、一日も経たないうちに見たこともないところまで連れてこられたのだから、彼女にとっては超展開という奴だろう。
 そのあげくに
「……友達には、もう会えない……」
 アルトを胸に抱いたまま、少女は消え入るような声で呟いた。
 どうやら、もう引っ越すことは決めてしまったらしい。おそらくは拓也が決めさせたのだろう。こういう決断は妙に早い。後で聞いたところに寄ると、向こうには拓也と清華夫妻以外に親類らしい親類がいないのに比べ、こちらにはまだ一応親戚がいる兼ね合いもあるらしい。もっとも、没交渉で頼りづらいと言うのは三島家と同じなのだが……
 その決断が正しいのか正しくないのかは、アルトにはよくわからない。
 どうにか方法もあったのではないかと思わなくもない。
 でも……
「私が……がまするから……」
 カツン……とアルトの小さな足が彼女の胸を蹴り上げた。
 締め付けられるほどではないが、それでも抱きしめられたままの格好では、たいした力も入らなくて、弱々しい物だった。
「馬鹿なことは言うもんじゃないわよ……」
「私が我慢するから……お父さんや……お母さんと一緒にいたいよ……学校、変わりたくない……」
 涙をこぼしながらそう言う彼女の言葉が間違えていると言うことだけは、アルトははっきりと言うことが出来た。
 でも、それはきっと、母親達から散々に言われているのだろう。この子がこの言葉をアルトにだけしか言ってないと思うほど、少女と自身との間に信頼関係があるとうぬぼれたりもしない。
 だから、アルトは少女の胸元をもう一度蹴っ飛ばす。
 相変わらず、力の入らない、へろへろの蹴り。
 それに少しだけ少女が力を緩めたので、アルトはペチンと少女のあごの辺りを叩いて言った。
「友達になってくれるかしら? やっぱり、淑女には淑女が似合うと思うのよね」
「……しゅくじょ、って?」
「素敵な女性って意味よ」
 不思議そうに小首をかしげる少女に、妖精は少しだけ困ったような笑みを浮かべてみせる。そして、もう一度、彼女に尋ねる。
「まあ、そのうち解るわよ。それよりも、友達になってくれるの? くれないの?」
「…………」
 答える代わりに少女は再びアルトの体を強く抱きしめ、小さな声で泣き始めた……
「……まっ、しばらくは……しょうがないわね……」

 そして……
「……助けなさいよ……」
 窓際隅っこ、少し前まで良夜の指定席だったところでは、逆さ吊りになった妖精が渋い顔で良夜に助けを求める姿が見受けられるようになった。
「……いじめちゃ駄目だよ?」
 苦笑いで良夜が言えば、逆さ吊りのアルトのスカートを引っ張りながら少女は答える。
「アルトが私のシュークリームの中身、全部、吸った」
 答える少女の頬はほんの少しだけ……緩んでいた。
 こうして、窓際隅っこいつもの席は、青年と妖精の指定席ではなく、『淑女、二人』の指定席になった。

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