「良夜さん……良夜さん……」
 遙か遠くから声が聞こえた。
「良夜さんったら……」
 やっぱり、遠くから声が聞こえた。
 良夜は自分が毛布にくるまって寝ているって事は気づいてたし、声の主――美月が青年を起こそうとしてるって事にも、うすらぼんやりと気づいていた。
 でも、暖かな毛布と柔らかい枕の上で眠るのが心地よくて、起きるのがかったるい。そんな、人としての本能がまぶたを閉じたままにさせ、柔らかい枕の上でコロンコロンと彼に何回も寝返りを打たせていた。
「良い加減なさい! 刺すわよ! その開かないまぶたの中にある目ん玉!!」
「……目は止めろって……何回も――」
 目を開きながらに呟かれようとした言葉が止まった。
 仰向けになった彼の目の前には、ストローを構えて仁王立ちの妖精さん。そのストローが今まさに振り下ろされんとしていることが、二の腕の緊張感からありありと伝わってくるのが、とってもデンジャラスだ。
 まあ、これは何となく予想できていたことだった。
 で、その妖精さんの向こう側に美月の顔があった。
 やけに、近い。
 枕が、やけに、柔らかい。
 ついでに暖かい。
 顔のすぐ横に浴衣に包まれた柔らかな物がある。
 それから良い匂いがしている。
 総合的に考えて……
「うおっ!?」
 思わず飛び起きたのは、自身が恋人の膝を枕にしていると言うことに気がついたから。
「……それに気づいて一瞬で跳ね起きちゃうところが、良夜の一番駄目なところだと思うのよね……」
 テーブルの上、とんと着地を決めてる妖精がぼやいた。
 どうやら、良夜はテーブルの上に突っ伏して寝ていたらしい。頬杖をついてテレビを見てた所までは覚えてるから、そこから寝ちゃえば、テーブルの上に突っ伏しちゃうというのは自明だろう。それで、先ほど夕飯の段取りをしに仲居が来たときもその調子だったので、邪魔になるだろうと引きずり下ろしたら……
「膝の上にトン……って感じでして〜」
 と、言うことらしい。
「……トンって……」
 脳天気な口調での説明が終わる頃には、良夜の頭を軽い頭痛が襲っていた。
「……問題、ありました?」
きょとんとした表情で美月は尋ねる。ぱちくりと瞬きをしている表情は、やっぱり、彼女を年齢よりも幼く感じさせた。その顔を見ながら、青年は熱気を感じるほっぺたをポリポリと掻いた。
 そして、彼は答える。
「……イヤ、別にないけど……」
「……もう良いじゃない? ご飯にしましょう。お鍋が煮えてるわよ」
 カチンカチンとコンロの端っこを叩いてアルトが催促するので、良夜はそれを美月に伝えた。
「ああ、はいは――ひゃんっ!?」
 仲居さんが来てからこっち、ずっと正座で良夜に膝枕をしていたせいだろう、美月が立ち上がろうとするのを彼女の足が――彼女のしびれきった足が許さなかった。
 ふらっと美月の体が揺れる。
 反射的に良夜は手を出した。
 美月の顔に。
 具体的に言うと、良夜の伸ばした右手の手のひらが、彼女の目の辺り、額から鼻へと優雅な曲線を描く部分にぱちーんと綺麗に入り込んでいた。
 そのままの格好、バランスの悪い中腰のまま、目の辺りを支えられた格好で彼女は言う。
「……良夜さん……何で、顔、支えるんですか?」
 極めて冷静な口調が良夜は怖かった。
「……ツイ、とっさに……」
「ここで押さえられるくらいなら、胸元押さえられて『あっ、あばら』とか言われた方がマシでした……」
「……イヤ、美月さん、絶対に烈火のごとくに怒るから……」
 良夜が答える。
 数秒の沈黙が流れた。
 アルトがコンロの縁を叩いてる。
 そして、美月が体制を整え直しながら、言った。
「……まあ、そうですね……」
 良夜の手は未だに美月の顔に張り付いてた。
「……もう、離してくださって結構ですが……」
「あっ、ゴメン」

 と言うわけでお食事の開始である。
 豪勢な食事が山盛りのテーブルを挟んで、向かいには上機嫌の美月さん。一眠りしたおかげだろうか? 昼間あれだけべろんべろんだったことを、見る者に感じさせはしない。元々、すぐに酔っ払うが、すぐに抜けるというか、後に引きずるほど飲む前にべろんべろんになるというか、そういう体質なのは、良夜もよく知ってる。
「だからって、何で、お猪口出してんの……?」
「飲みたいですからねぇ〜」
「昼間、飲み過ぎたばっかりなのに……」
「今夜は帰る必要もないですし、お布団も敷きに来てくれるそうですし、のんびりお酒が飲めますね」
「……そういう問題じゃないわよ」
 最後にアルトが突っ込みするも、美月はお猪口を引っ込めない。笑顔の割に押しが強いって事は随分前から気づいてた。仕方ないから、青年はため息交じりに大きめの徳利を美月のお猪口の上に傾ける。それから、ついでに……と言うわけでもないが、アルトの前に置かれた自分のお猪口にもなみなみと酒を注ぎ込んで、彼は気づく。
「……って、俺のは?」
 当然、用意されたお猪口は二つ。美月とアルトが確保すれば良夜のはない。
「それで良いじゃない」
 そう言ってアルトがストローで指し示したのは、昼間、お茶を飲むために使っていたお湯のみだ。
「ああ、良いですね、私、そっちでも良いですよ?」
 アルトの台詞を伝えて、小ぶりな湯飲みを手に取れば、美月がぱっと顔色を明るくして言う。もちろん、そんなことは認められないし、アルトに与えるわけにも行かない。ゆえに湯飲みでがぶ飲みは良夜の役割。
「あっという間に軽くなっちゃいましたよ?」
 良夜の湯飲みに酌をすると、美月は手にした銚子をふらふらと左右に振ってみせる。チャプチャプと音がしているようだが、その音はずいぶんと軽い。
 まあ、そのなくなったのがどこに言ったかと言えば、良夜の湯飲みで、その湯飲みは
「……ものすごいずっしりしてる」
 と、言うわけである。
 その重さと言ったら、同じ量のお茶を入れたときよりも重いように思えた。
「まあ、良いから、食べましょう? お鍋が煮詰まりすぎるわよ」
「ああ、そうだな。アルトも食べようって言ってるから……」
 美月にアルトとのやりとりを伝えて、食事開始。
 今日の献立はぼたん鍋、イノシシの鍋だ。味噌味で少し辛めの出汁に白菜やらネギやらと一緒にイノシシの肉を入れて食べる。肉も旨いが良く味のしみた油揚げが美味しい。普通よりもちょっと大きめに切ってるせいで食べ応えもある。
「濃いめの味付けなので、すっきりしたお酒が進みますね?」
「……女性が手酌で飲むものじゃないよ……」
 左手にお猪口、右手に徳利、とても素敵な姿に頭痛を覚える。
「飲むなって言っても飲むんでしょ?」
「えへへ……」
 笑って誤魔化す美月が可愛いから、誤魔化されてるなぁ〜と思いつつ、青年は彼女から徳利を奪って傾ける。
 小さなお猪口に控えめに酒が注がれた。
 それを美月はテーブルの上に置いて、お箸を握り直して、取り皿からしし肉を一枚取り上げて、パクリと一口。それをもしゃもしゃと租借したら、
「美味しいですよね〜」
 と、満面の微笑みで言って、お箸を置いて、お猪口を握って、クイッと一献でそれを干して、
「おかわりください!」
 と、やっぱり、満面の微笑みを持ってお猪口を良夜に差し出す。
「美月さん……酒の飲み方が悪いよ……」
 美月のお猪口にお酒を先ほど以上に控えめに注いでいると、今場所優勝のアルト山状態だった妖精さんがその一抱えもある大杯をドン! とテーブルの上に戻して、顔を上げた。
「良い飲み方、貴方は知ってるの?」
 すでに彼女の顔も真っ赤っか。胸元のボタンをいじくり回してるあたり、こやつも結構やばい。
「良くしらねーけど、とりあえず、おまえも美月さんも酒癖が悪いって事くらいは知ってる――って、美月さん、何で、もう、お猪口、差し出してんの?」
 頭を抱える気分でそう言うと、空のお猪口を差し出している彼女は悪びれもせずに答えた。
「良夜さんのついでくれる量が少ないんですよ〜」
「……昼間、べろんべろんになってた癖に……」
「今はもう大丈夫ですよ〜」
 そう言って美月は笑う。
 お猪口はまだ、良夜と美月の間にとどまってる。
「……引っ込める気、ないの?」
「ありませんよ」
 満面の笑みで言い切られた。
 仕方ないから、お猪口にお酒を注ぐ。先ほどと同じくらい。だいたい三分の一を少し超えた程度。
 美月の相手ばかりはしてられないから、自分も取り皿に入れた肉や野菜に舌鼓を打つ。濃いめの味付けでしし肉特有の臭みや癖も全くないのに、不思議と肉のうまさという物だけははっきりと感じられる。それに良く煮込まれてクタクタになった白菜も美味しい。
 たっぷりと鍋を味わったら、湯飲みのぬる燗をぐいと流し込む。酒を論評できるほど、たくさんの種類を飲んできたわけでもないが、このお酒は日本酒特有の臭みというか癖もなくて、すごく飲みやすい。おかげで美月がバカみたいに飲んじゃうのは困りものだが、まあ、確かに後は寝るだけって状態なら、多少、多めに飲んでも大丈夫だろう。羽目を外しすぎて、周りに迷惑をかけるようなことさえしなければ問題ない。
 と、思ってしまったのは、良夜にもたっぷりと酒が入っていたからだろう。
「おかわりください」
 そう言って差し出される美月のお猪口にお酒を注いで、
「あっ、私も……」
 と、妖精が手元で言うから、彼女のお猪口にも注ぎ込んで、
「あっ……俺もねーや……」
 って、呟いたら、美月が、
「じゃあ、返杯ですねぇ〜」
 そう言って、ひょいと徳利を奪ったから、良夜は「ありがとう」と言って素直に湯飲みを差し出す。
 とくとくと酒を良夜の湯飲み、半分ほどに注ぎ込み、そして、美月は言う。
「あっ……なくなっちゃいましたね?」
 左右に徳利が揺すられる。音はしない。それから美月は、手のひらにひっくり返した徳利をぽんぽんと叩きつけたりするので、それだけは止めてとお願いしておいて……
「じゃあ、頼む?」
 良夜がそう言うと、美月の返事は一つしかなかった。
「はーい」
 良い返事をして美月は四つん這いでテレビ台に近づいた。テレビ台の横にはアルトで使ってるのとよく似た黒電話が置かれている。その受話器を持ち上げる。ゼロを回すとフロントに繋がるので、部屋番号と名前を告げたら、残ってるお酒を同じくぬる燗にして持ってきて貰えるように頼む。
 それが届けられたら、第二ラウンド。
 コトコトと良い音を立てる鍋に肉や野菜、それから豆腐に椎茸、いろんな具材をぶち込んでは、好き好きに食べて、互いに酒を酌しあっては、それを飲み干す。
「お肉入れなさいよ、お肉」
「野菜も食えって。おまえ、嫌いな物はないけど、好きな物があったらそれしか食わないだろう?」
「良夜さんもそう言うところ、ありません? あっ、お酒、お代わりください」
 隣の部屋にまで聞こえるほどの大声こそ出さないが、わいわいとアルトを含めた三人は熱い猪鍋での宴を存分に楽しんだ。それは、買ってきた五合のお酒を三人でぺろりと飲み干しちゃうほど。
 終わる頃には良夜も美月も、アルトまでもべろんべろんで、何時くらいに寝たかも釈然としないほど。
 で、翌日……
「えっと……」
 素っ裸の良夜の腕の中には、素っ裸の美月が寝ていた。

 枕元には使用済みのゴム製品が転がっていた。
 

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