ずっと……(完)
 彼女との一晩を、青年は全く覚えてない……と言うことはなかった。まあ、詳細は一部忘れてるところもあるだろうが、アウトラインというか概要は完璧に覚えている。
 こー言う状態になったことに対して、最大の責任者は当人二人だ。男の方が責任が重いってのが一般的だろう。それを否定することはない。しかし、あえて、当人達以外の誰かに責任を持っていくとしたら、この宿屋の仲居さんだ。
 布団を敷きに来てくれた彼女が、
「お布団、ダブルで良いですか?」
 って、尋ねたのが悪い。
「あっ、はい」
 そう答えちゃったのは、美月だったのか、良夜だったのか、もしかしたら、二人同時に答えてたのかもしれない。
 普段なら止めるというか、茶々を入れて続けられなくすると言うか、ともかく邪魔をする妖精さんが酒をかっ食らって轟沈してたってのも大きいだろう。
 そんな感じで、仲居さんはダブルの布団を一つ敷いていなくなっちゃうし、邪魔な妖精はグーグー寝てるしで、お酒も入ってるしで、一つの布団に入っちゃえば、そう言うことになるのは当たり前という奴だろう。
 別に後悔してるというわけではない。
 美月は思ってたよりもずっと綺麗だったし、彼女の最初の相手になれたのは幸せだった。
 ただ、どーせ、あの腐れ妖精は気づいてるだろうから、言い訳というか、申し開きはしなきゃ行けないだろうし、その際、二三発は刺される覚悟も必要だろう。そこのことを考えると、すこし頭が痛い。
 それからもう一つ……
 考えていると、腕の中で華奢な体がもそもそと動き、彼女の目が開いた。
「あっ……」
「あっ……」
 二人同時に声を上げた。
 そして、彼女はすぐに
「えへへ」
 と、いつもの調子で笑った。
 実年齢よりもずっと幼く見える笑み。年上のはずなのに、年下に見える笑みはいつもと同じで、彼を少し安堵させた。
「あっ……あの――」
「変なこと言ったら、怒りますよ?」
 開きかけた青年の口を彼女の言葉が塞いだ。
「子供じゃないんですから……」
 そう言って彼女は、また、笑う。今度は少し大人びた……というのはおかしいだろう、元々、彼女は大人なのだから。
 青年は自身の肌に彼女のなめらかな肌とその上にしっとりと掻いた汗を感じた。
 トクン……と鼓動が高まった。
(もう一度……)
 言いそうになる言葉をぐっと飲み込み、別の言葉で口を開く。
「あっ……あの、さ……美月さ――」
 言いかけた言葉が止まった。
 熱せられていた背中に冷や水をぶっかけられた思い。
 ぶっかけたのは、床の間でちょこんと正座している妖精さん。まっすぐに睨み付けてる三白眼と、膝の上に置かれたストローが怖い。
 その顔を美月の肩越しに見ながら、コホンと一回咳払い。そして、彼は改めて口を開いた。
「……アルトが怒ってるから、一緒に叱られて……」
 良夜がそう言えば、美月の笑顔も凍り付く。乾いた笑いを浮かべて、彼女は言う。
「あはは……そっ、そこはほら、『俺が代わりに叱られるから〜』的な男らしさを……」
 残念ながら、良夜にそんな男らしさはなかった。
 この後、良夜は四回刺された。
 美月は一回だった。
 外は穏やかな小春日和、薄く開いた障子の隙間からまぶしい光が二人の布団の上へと差し込んでいた。

 さて、二日目である。どうやって時間を潰したら良いだろう? と思っていた二日目だ。
 午前中はアルトがごちゃごちゃと文句を言っていたようだが、つまるところは――
「自分が寝てる間にシタのが許せない!」
 だったので
「うるせーよ! そこのテレビで好きなもん、好きなだけ見てろ! カードは買ってやるから!!」
 って、言ったら、本当に二千円分買わされた。見てたのは、もちろん、AV……ではなくて、洋画。ごく普通の奴。CS;Iマイアミとか……それに出てたグラサンを美月が「この人、格好いいですねぇ〜」とか言ってたので、サングラスかけてみるかなぁ……と言ったら、アルトと美月、二人に口を合わせて「止めろ」と言われた。ちょっとショック。
 昼は近くの蕎麦屋で熱い五目蕎麦を食べる。なぜか、翼がそばを買って来いって言ってたから、一袋買っておく。
 それから、足湯で軽く食休みを入れたら、立ち寄り湯巡りの開始だ。
 昨日と同じく、宿屋の浴衣と半纏を引っかけだけの軽装備ではあったが、宿屋と風呂屋との間は大して距離がないし、蕎麦屋や足風呂で体が温まってるせいか、すごく寒いというわけでもなかった。
 そのお風呂も、一つ一つがずいぶんと違っていて、のんびりと回るだけでもずいぶんと楽しかった。露天風呂が大きかったり、石造りのサウナがあったり、薬湯があったり、逆にろくな洗い場もなくて木製のだだっ広い湯船と妙に高い打たせ湯だけがある古い共同浴場もあって、それはそれで趣がある。
 そんな外湯の帰り道……
 ふと、のぞき込んだ路地の奥に一軒の小さな喫茶店があった。
 こんな立地条件で流行るのだろうか? と不安になるような店だが、まあ、潰れない程度には入ってる……とは、この店の年若いウェイトレス。
 ごくごく普通の一軒家にウェルカムボードを置いただけのような店構え。飾り気のないドアを開いて、二人と妖精一人は店内に入った。
 中は、アイボリーの壁紙が貼られた石膏ボードの部屋に、四席ほどのカウンターと四人がけのテーブルが二つ。従業員は年若いウェイトレスとそれより少し年かさの男性の二人きり。その二人がキッチンとカウンターの中を行ったり来たりしながら、のんびりと経営している店のようだった。
 頼んだのは、この店の名物らしいワッフル。柔らかいワッフル生地にアイスクリームと生クリーム、それに好きな果物のソースをかけて貰えるという逸品だ。それを良夜はブルーベリーで、美月はストロベリーのソースで頼んだ。
 それからもちろん、熱いコーヒーも。このコーヒーは、何でも近くの源泉から飲泉できる水をパイプで引っ張っているらしい。これがこんな路地裏の便の悪そうな立地条件で経営している理由だそうだ。
「お待たせしました」
 若い……たぶん、良夜達と同い年か、少し若いかもしれないくらいのウェイトレスが商品をテーブルの上に置いた。
 まずはそのコーヒーを一口飲んでみる。
 アルトで飲んでるコーヒーよりも少し苦みが強いみたい。その分、酸味が柔らかく、どちらがより美味しいと言う物でもないだろうと良夜は思った。
 ワッフルもなかなか美味しい。美月曰く、生クリームは出来合らしいが、ワッフルは自家製。熱々のワッフル生地にかけられたアイスクリームがほんのり溶けて、甘さの控えめな生地と果実のソースに良くあった。
 不便な店でありながらも繁盛していることがよくわかる味を堪能しながら、あれやこれやとお風呂の感想を言い合う。そんな穏やかな時間がしばし流れた。
 そして……――
「この後、どうします?」
 ふと、ワッフルの最後の一口をパクリと口に放り込み、美月が尋ねた。
「そうねぇ〜もう一個くらい入って帰っても良いわね?」
 その問いに答えたのは、さすがに浴衣までは手に入らなくて、普段通りに黒いゴスロリドレスにマフラーを巻いてるアルトだ。もっとも、彼女もお風呂で暖まったおかげだろう、顔にマフラーをぐるぐる巻きした忍者みたいな格好だけは止めていた。
「……――ってアルトは言ってるけど……そろそろ、ふやけちまうぞ?」
「そうですねぇ〜じゃあ……少し、ここで休んだら、宿に帰りますか? 宿のお風呂に入って、一息ついたら、ご飯ですよ〜」
「そうだね……」
 美月の言葉に応えて、良夜はカップに残っていたコーヒーを飲み干した。そして……
「すいません、ホットのスペシャルブレンド、お代わり……」
「あっ、私も〜」
「はーい」
 二人が頼むと、カウンターで相方と話をしていたウェイトレスが、気持ちいい声で返事をした。
 相方の方がカウンターの内側で豆を挽き始める。
 がりがり……
 心地よくて、聞き慣れた豆をひく音が遠くから聞こえ始めた。
「ここ……ネルじゃなくて、サイフォンなのよねぇ〜」
 手元、合板のテーブルの上、足を投げ出していた妖精がぽつりと言った。
 そして、彼女はぽーんと飛び上がる。
 その彼女がふらふらとカウンターの方へと飛んでいくのを、良夜は目で追い、呟いた。
「……――って言っていなくなった……」
「気を使ったんでしょうかねぇ〜?」
「……さあ? どうかな……」
 豆をひく音が止まった。
 コポコポとお湯が沸き始める音が聞こえ始める。
「……何でだろうなぁ……あの無駄に豪勢な客間も良いけど、こういう所の方が落ち着けるんだよなぁ……」
 青年は視線をカウンターの方へと向けた。
 そこではマスターがサイフォンを用意しているのを、妖精が退屈そうに見上げているのが見えた。
「喫茶店ですからねぇ〜人のお店でも、私もやっぱり落ち着きますよ」
 漏斗にひかれた豆が入れられて、フィルターも用意された。そういえば、ネルドリップのコーヒーを煎れてるのは良く見るが、サイフォンでコーヒーを煎れてるところをのんびり見るのは、これが初めてかもしれない。もしかしたら、そういう店に入ったことはあっても、普段は気にしてないだけかも……
「……待つと、長いですよね?」
 視線をカウンターの若いバリスタに向けたまま、彼女は呟いた。
 それに青年もつぶやきで答える。
「普段は待たせる方だし?」
「あはは、たまにはカウンターに座って、待ってることもありますよ?」
「そうだね……」
 カチャカチャと食器のこすれる音がした。
 青年は視線を美月に戻した。
 美月も視線を青年に戻した。
 そして、青年が口を開いた。
「……あのさ……」
「はい」
 美月が返事をした。
 でも、良夜の唇はすぐには動かなかった。
 やけに、喉が渇く。
 数秒……
 口を開いたのは美月の方だった。
「……ほんと、待つと、長いですよね……」
 それから、また、数秒が流れた……
「……そういえばさ」
「はい?」
「……あのゴム……どったの?」
 青年が尋ねると、美月は若干頬を赤らめながらも、さらっとした口調で答えた。
「……お姉さんに貰いました」
 ガン! と良夜の額がテーブルの上に落ちた。
「……おっ、女にして貰えって……最終日のレジで……押しつけるような感じで……箱ごと……」
「あの糞姉貴……」
 道理で待たせると思った……と、あの寒い日、外で待たされたことを彼は思い出す。
 突っ伏したまま、三十秒ほど、時がゆっくりと流れた。
 美月は催促をしなかった。
 そして、彼は突っ伏したまま、言葉をつないだ。
「……あのさ……」
「はい?」
「……まだ、就職も全然決まってないし、就職したって美月さんよりも給料多くないかもしれないって言うか、自由に出来る金は美月さんよりもずっと少ないと思うんだ……仕送りも止まるし……」
「まあ、良夜さんよりも社会人歴も長いですし、家も持ち家ですからねぇ〜あと、なにげに経費で落とせる物も多いんですよ? 携帯電話の料金とかガソリン代とか」
「自営業は良いね、そう言うとこ」
「まあ、余裕があるって訳でもないですけどね」
 顔を上げないままで言葉を交わす。顔を上げないのは、自分が耳まで顔を真っ赤にしてる自覚があったから。
 顔を上げないまま、彼はまた、口を開いた。
「そー言う感じで……ちゃんと結婚できるのはいつのことか、良くわかんないかもしんないけど……えっと……あの……」
 顔を突っ伏させたまま、彼は大きく深呼吸をし、そして、顔を上げた。
 彼女の瞳はまっすぐ良夜の方へと向いていた。
「ずっと……そばに居て、欲しい……そばで……脳天気に笑ってて欲しいんだ……」
 絞り出すような声で彼は言った。
 その言葉にクスリと笑って彼女は小首をかしげる。
「……朝から晩まで?」
「……それはアルトで働けって意味だよね?」
 格好を崩して、彼は苦笑いで答える。
 すると、彼女はクスリとまた笑う。
「あっ、解っちゃいました?」
「……解るよ。それはヤだって言ったじゃん」
「あはは、解ってますよ〜」
 軽い口調で彼女は笑った。
 その後……
「じゃあ……死ぬまでずーっとの方……ですね……」
 そう言った口調は、少し恥ずかしそうで……でも、どこかしらうれしそうだと思えたのは、恋人の欲目だったのかもしれない。
「まあ……うん……そうだね……死ぬまでずーっと……の方、だよなぁ……」
 美月の言葉を反芻する。
 やっぱり、恥ずかしいことを言ったと若干後悔した。
 本当は……
「……本当はさ……」
 一旦、言葉を切った。
 視線を美月から、カウンターへと動かした。
 サイフォンからサーバーへとコーヒーは全て落ちて、ウェイトレスがそれをトレイに乗せていた。そのトレイの片隅に、アルトがちょこんと座って、足をぷらぷらさせているのが見えた。
「ほんとは……もっと格好いいこと言いたかったんだけどなぁ……」
「あはは、良夜さんにそー言うことは求めてませんから……」
 そして、二人の元にコーヒーが届けられた。
 暖かな香り、普段飲んでるのよりも少し苦めのコーヒー……
 それと、トレイの端っこにちょこんと座った妖精さんも……
 新しいコーヒーがサーバからカップに注ぎ込まれると、彼女はトレイの片隅から良夜のカップの縁へと移動した。
 そして、ウェイトレスがその場からいなくなると、良夜の顔を見上げて、彼女は訪ねる。
「大事な話はあらかた終わったかしら?」
 尋ねた言葉を美月に伝え、彼は答える。
「まぁ……一応、な」
 その言葉に
「あら……そうなんですか?」
 と、言ったのは、コーヒーカップにミルクを注いでいた美月だ。
「……俺は、あらかた……」
「私、まだ、答えてませんよ?」
「えっ……? ああ……そう、かな?」
 言われてみれば、確かにそうだったかも……と、カップを取り上げかけた手を止め、彼はきょとんとした表情を見せた。
「『はい』も『いいえ』も言ってませんよ〜」
 屈託のない笑みを浮かべた。
 良夜はこの笑みに惹かれたのかもしれない……と、今更ながらに思った。
 そして、彼女は答える。
「はい。あなたのそばでのーてんきに死ぬまで笑ってますから、その代わり、良夜さんも、死ぬまでずっとアルトに刺されててくださいね?」
 そう言って、もう一度、彼女はその顔を思いっきり破顔させた。
 それに良夜は……そして、二人のやりとりを半ば他人事のように見上げていたアルトまでもが――
「あははは」
 と、声を上げて笑った。
「りょーかい。解ったよ」
 それだけ答えて良夜はコーヒーを口に運んだ。
 少し苦みと香りの強いブラックコーヒーが彼の口内へと流れ込んできた。
 そのカップをテーブルの上へと返せば、妖精はストローでそのカップの縁を軽く叩いた。
 チン! と澄んだ気持ちの良い音がした。
「そうね、このバカが死ぬときは私が刺し殺してやるわ」
「……――って言ってる」
「あはは、良かったです」
 アルトの言葉を伝え聞いた美月も、コーヒーを口に運ぶ……

 こうして、良夜と美月、そして小さな妖精の間に小さな約束が生まれた。
 温かなコーヒーの香りのする場所で……
 その小さな約束が生まれて……――

 ランチはサンドイッチ、サラダ、コーヒー、そして妖精
 And
 ランチはサンドイッチ、サラダ、コーヒー、そして妖精――ディナーもねっ!――
 Fin...

 ……――彼と彼女と妖精の物語は一度幕を閉じる。

 To Be Continued...

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