ずっと……(1)
 さて、温泉である。
 目的地の温泉街は喫茶アルトから特急電車で二時間、そこからさらにバスで一時間ほど行ったところにある。自家用車でとことこ……ではなく、公共交通機関を利用することにしたのは――
「その辺……この時期、雪だよ?」
 と、貴美が言ったからだ。
 去年の今頃、バイクでその辺りに行こうとして、雪の中で立ち往生したバカが、二研に居たらしい。そのバカは、仕方ないからって、泊まってた宿屋にバイクを預けて電車とバスで帰宅、春休みになってから改めて取りに行ったそうだ。
 同じ目に遭うのはまっぴらごめんだと言うことで、今回は電車とバスを利用。大きな観光地らしく、便こそ少ないがアクセスは悪くない。朝の十時くらいにアルトを出て、電車の中で駅弁食べて、バスの中でグースカ眠って、下りてみたら周りは雪景色の温泉街。大小様々な温泉宿が軒を連ねていて、そのあっちこっちから白い湯気がモクモクと上がっていた。
「結構積もってますねぇ〜」
 そう言ったのは、この間の買い物の時も着ていたダークブラウンのワンピースコートに今回はズボンを合わせている美月だ。今日はこの間よりもますます寒くなりそうだという話と、こちらがアルトよりもずいぶん山沿いであると言うことを鑑みての防寒らしい。それは一応功を奏しているらしく、この間のように震える必要はないようだ。
「建物がある分、風がない……って所かな?」
 つぶやきで答えた良夜はこの間と同じくかぎ裂きが痛々しいコート、その下は美月とアルトが見立ててくれたウールのズボンとシャツとベスト……本人としては格好いいのか悪いのかぴんとこないのだが、まあ、美月とアルト、オマケで貴美や凪歩も「似合ってる」って言ってるのだから、似合っているのだろう、と思う。この辺りは本当にぴんとこない。
「それで……どこなの? 旅館」
 胸元、ひょっこり顔を出したアルトが尋ねる。その顔は相変わらずの忍者姿。もごもごとこもった声が聞き取りづらい。
「バス停を下りてすぐ……って聞いたけど……あと、アルト、忍者はやめろって……」
「寒いのよ。それより、どこよ? なんて宿屋?」
「……宿の名前は『萬屋<よろずや>』って所」
「ふぅん……まあ、早く見つけて、お風呂にしましょ。って、デパートのくじ引きにただ券出すような宿、あまり期待は出来ないけど……」
 胸元から聞こえる言葉に対応する。その隣で美月がにこにこしながら通訳を待っている。そんな美月相手に、良夜はアルトの言葉を多少端折りながらではあるが伝えれば、彼女は屈託のない笑顔を浮かべて見せて、言った。
「あはは。そうですね。でも、ここらの旅館に泊まってると他の所の外湯にも入り放題らしいですから、大きな宿屋さんのお風呂にも入れますよ」
「そうだねぇ……あっ、ここの風呂、大きそうだよね?」
「あはっ、そうですね、後で来てみましょう」
 そう言って二人はひときわ大きく、ひときわ立派で、ひときわ高級そうな宿屋の前を行き過ぎる。
 そして、帰ってくる。
 引き返してきて青年が思わず言う。
「……ちょっと、待て」
 なぜなら、入り口の所、予約者の名前を書いた看板が掲げられているのだが、その中の一枚に――
「……浅間様ご一行……」
 その一枚、声を上げて読み上げてみた。
 間違いなく、そう書かれている。
 近くに掲げられていた宿屋の看板にも良夜が予約を取った『萬屋』という名前がちゃんと書かれているから、ここなのだろう。そう思いつつ、良夜は改めて店構えへと意識を向けた。
 木造二階建ての建物はずいぶんと大きい。外から見ただけでは部屋数まではよくわからないが、とりあえず、間口は広いし、奥行きもゆったりしてる。その大きな建物自体も使い込まれた壁の木目が良い風合いを帯びていて、雪をかぶった屋根瓦や松とも合わさって、まるで一幅の絵のよう。
 折り重なった歴史に小市民を自称する青年は圧倒される。
「……偶然同じ名前の宿に偶然、同じ名字の方が予約を入れてるんじゃ……」
 美月が呆然とそう呟くのを良夜は、理性においてはそんなことはあり得ないだろうと思った。しかし、同時に感覚としては「もし、そうだったらどうしよう……」との不安感もぬぐいきれずに居た。
「って、バカなこと考えてないでさっさと行きなさい。こっちは寒いのよ?」
 胸元から大きな声が聞こえた。もちろん、寒い寒いと言いつつ、暖かな懐から全く出てこない腐れ妖精様の声だ。その声に従うのはしゃくだが、逆らってこんな所でいつまでも突っ立ってなんか居られない。
 未だ、気後れすること甚だしいが、意を決して青年は磨き抜かれたガラスの引き戸を開いた。
 ふわっと暖房の良く効いた空気が、青年の冷え切った体を抱き留める。その暖かな室内も屋外同様に、壁も廊下も、色合いに歴史がしみこんでいて、作りは華美でこそないが重厚な雰囲気を醸し出していた。
「いらっしゃいませ」
 その中、土間の方で仕事をしていた女性が青年に声をかけた。年若い仲居さんだ。長めの髪を頭の後ろで団子にしている彼女は鼻も低く目も一重、まあ、すごい美人というわけでもない。それでも、和風な面立ちに萌葱色の和装とえんじ色のたすき掛けがよく似合っていて、好感が持てた。
「絵に描いた様な仲居さんって感じね?」
 襟元からひょっこりと顔を出した妖精が呟く。マフラーが巻かれて忍者みたいになってる顔を見下ろし、暖かくなると出てくるなんて、ゴキブリみたいな奴だな……と思ったが、口には出さない。
 そして、彼は声をかけてくれた仲居さんに返事をした。
「あの……予約をしてた浅間ですけど……」
「ああ、承っております。では、こちらでチェックインの手続きを……」
 落ち着いた声で彼女は下駄を脱いで上がり框へと上がった。
 青年もちらりと視線をガラス戸の向こう側、不安そうに中をのぞき込んでいる恋人に向かってちょいちょいと手招き。彼女の顔がぱっと明るくなったのを確認すると、仲居さんが待つカウンタへーと足を急いだ。
 そして、宿帳に住所と名前を書いたり、支払いの話を聞いてみたり、有料放送が見られるプリペイドカードの話は……まあ、どうでも良いけど、ともかく、いくつかの雑事を終わらせる。
 やることを終わらせて、辺りをきょろり。美月は玄関横に置かれた小さな応接セットで湯飲みでお茶を飲んでいた。
「お待たせ」
「あっ、良夜さんのもありますよ? お茶」
 言うとおり小さめのテーブルには美月が手にしているのとは別の湯飲みが一つ。薄桃色に色づいたそれは普通の日本茶ではなく、梅茶。この辺りの名物らしい。
「おいしいですよ。梅昆布茶みたいなのかと思ったら、ずっと梅味でびっくりです」
 両手で薄い白磁の湯飲みを口に運びつつ、彼女はそう言った。
「へぇ……」
 答えて青年も美月の隣へ……腰を下ろして湯飲みをつかんだら思っていた以上にまだ熱い。その熱いお茶をズズッと一口すする。よく売ってる梅昆布茶よりも出汁の味というか、昆布茶の味はあまりしないのだが、その代わり、うめの味が濃厚で、さっぱりしている。それに何より暖かくて、少しだとは言え雪道を歩いた身にはその暖かさがうれしかった。
「じゃあ、私も……」
 そう言ってアルトがとんとテーブルの上に着地を決めたので、湯飲みをテーブルの上へと戻し、青年は体を美月の方へと向けた。
 その良夜に美月が言う。
「それで、荷物置いたら、早速お風呂にします? なんか、大浴場がすごいらしいですよ?」
「ああ……そうだねぇ……」
 ぼんやりとした口調で答えて、青年はテーブルの上、湯飲みの縁にちょこんと座っている妖精へと声をかけた。
「風呂に入る時さ……おまえ、サウナとロッカーには気をつけろよ?」
「……サウナとロッカー?」
 きょとんとした顔で彼女は良夜に尋ね返してきたので、青年は少々芝居がかった仕草で大げさに頷いて見せた。
「どうしてですか?」
 声に出して尋ねたのは美月ではあるが、アルトの方も小首をかしげて不思議そうにしている。
 その二つの顔、美月、アルトの巡に眺めて、彼は言った。
「……そこらに閉じ込められたら、おまえ、命に関わるからな? 女風呂なんだから、俺は助けにいけないんだし」
「ちょっと! 私が忘れること前提で話を進めないでください!」
 と、美月がむっと頬を膨らませても、良夜もアルトもお構いなし。
「解ったわ、常に退路を確保しておくわ!」
「……――って、アルトも言ってるけど、美月さんも気をつけてね」
「……ロッカーの中、押し込んで帰っちゃいますから……」
 ブスくれた美月が立ち上がる頃、アルトも梅茶でお腹がチャプチャプになったようだ。ぽーんと飛び上がって美月の頭に着地を決めた。
 それを目で追っていた良夜が、湯飲みを片手で取り上げる。残りは半分、四割ほどほどだろうか? 冷え始めている……と言うほどではないが先ほどよりかは飲み頃と言ったところのお茶をぐいっと一息に煽り、彼は立ち上がった。
「さてと……それじゃ、行こうか? せいぜい、のんびりしよう」
 青年がそう言うと妖精も恋人も
「はーい」
 気持ちの良い返事をした。

 男しか居ない入浴シーンはパスである。書いてる方も読んでる方もつまらないに決まっているので、割愛させて貰う。
 ただ、手足が伸ばせるどころか泳げるかと思うほど――実際に泳いだりはしないが――の湯船にゆったりとつかり、サウナで汗を流したのは心地が良かった。フロントで預かった木製の割り符を使えば、ここいらの立ち寄り湯は全てどこにでも入れるらしい。別の入浴施設には変わったお風呂もあるとか、サウナで一緒になった老人に聞いた。それを考えれば、明日一日、丸々ずっと温泉三昧というのも、確かに楽しそうだ。
 良夜はそんなことをぼんやりと考えながら、風呂を出た。パッパッと下着を着たら、その上から宿屋のロゴが入った浴衣と綿のたっぷりとつまった暖かそうな丹前を引っかける。
 そんな格好になったら、一気に『温泉宿に泊まってる』って気分になるから、不思議な物だ。
 やっぱり年期を感じさせる廊下を歩いて、部屋に帰る。
 もっとも古いのは見た目と雰囲気だけで、施設はしっかりしていて、なかなかの物。ちゃんと部屋のドアはオートロックだ。そのオートロックの鍵を開いて、彼は部屋の中に入った。
 室内は八畳の和室、家具と言えば大きめの座卓が一つ。おそらくは四人くらいが楽に食事を取ることが出来るだろう。その上に置かれたポットと湯飲みの置かれたお盆が一つ、後は……部屋の隅で液晶テレビが妙に違和感を放って鎮座していた。
 そんな室内に美月やアルトの姿は見えなかった。
 一般的に女性の方が長湯なのだろう。特に美月はあの長い髪が洗うにしても乾かすにしても時間がかかるという話を前にしていたことを良夜は思い出した。
 青年は脱いだ服を入れた小さなトートバッグを荷物の入ったボストンバッグのすぐそばにぽんと放り投げる。
 そのそばには立派な床の間。
 白磁の壺には見事な生け花……葉ボタンは何となく解るが、赤い小さな実をつけた花や周りを飾る草花はよくわからない。その背後にはどこの誰が描いた物でなんてタイトルなのかはよくわからないが、見事な山水画の掛け軸が一幅、かけられていた。
 しかし、本当に見ものなのはそちらではない。
「……ほんと、ばかばかしいくらいに立派だなぁ……」
 小さめのテーブルとゆったりした椅子が二脚置かれたデッキテラス。掃き出し窓の向こう側は雪化粧を施された日本庭園だ。大きな松が何本か見えるし、その向こうにはせまくはあるが池もある。全体としての広さはどのくらいなのだろうか? 視覚的な目隠しが多くて全体を見通すことは出来そうにないが、それでも、小ぶりな家ならすっぽり入りそうな広さはあるだろう。
「こりゃ、二泊三日どころか、一万五千円じゃ一泊分も出ねーかも……」
 良夜は呟く。
 デッキテラスの壁に掛けられている時計に目をやる。
 どうやら、良夜は四十分ほどは風呂につかっていたらしい。普段の青年から考えればずいぶんな長湯だ。美月とアルトはどのくらいで出てくるだろうか? 前に家の風呂を使わせたとき、アルトは三十分ほど入っていたし、美月は髪の手入れを始めたら長くなると聞いた。
(のんびり待つか……晩飯までは時間がある)
 声には出さない。
 椅子に腰掛ける。座面のクッションが柔らかくて、座り心地はとても良い。肘掛けの位置もちょうど良いし、なんと言っても背もたれの優雅な曲面、まるで背中を抱きかかえられてるみたいで心地良い。おそらくはアルトで使ってる物よりもずいぶんと高級な物なのだろう。
 椅子に座って頬杖をついて、窓の外を眺める。見える風景はずいぶん違うが、何となく、アルトのいつもの席を思い出す。静かでのんびりしてて……と思ったところで、彼は、年明けからこっちは客が少ないのとそれに伴って店員の仕事が少ないのとの影響で、アルトに行けばいつもカウンターでストゥールだったことを、ふと思い出す。
「そうだなぁ……アルトの椅子に座って……いつもの席でコーヒー、飲みたい気分だなぁ……」
「なによ? たった、半日足らずでホームシックって早いでしょ?」
 声が聞こえた。
 ぼんやりしかけていた意識をこちら側へと引き戻し、体を起こす。
 声の主はテーブルの上に居る小さな妖精さん。頭の上からほかほかと湯気を上げてるところを見ると、ずいぶんと良く暖まったらしい。
「そー言うわけでもないよ。ただ、こう、のんびりしてるときは、なんかコーヒーが欲しいって、思うようになったみたいだよ、誰かのせいで」
「私の教育のたまものね?」
 薄っぺらな胸を張る妖精にため息一つ……こぼしたところで、彼は辺りをぐるっと一周、見渡してみた。
「……美月さんはまだ風呂? それとも忘れられる前に忘れてくることにしたのか? 先手を打って」
「まあ、似たような物。全部の湯船につかろうとして、のぼせて、ひっくり返って、見知らぬおばあちゃんと一緒に露天風呂のベンチで涼んでるわよ」
「……あの人らしいよな……」
「頭、グラングランになってたわよ。湯船の中で待ってたら私がのぼせるし、出て待ってたら湯冷めしちゃうから、先に帰ってきたのよ」
「おまえ、図体小さいから、暑い寒いに弱いんだよな」
「うるさいわね! デリケートなのよ!」
 怒鳴ってアルトはトーンと良夜の頭の上へと飛び乗った。
「どうするの? これから」
 定位置に落ち着き、彼女は良夜の顔をのぞき込んだ。
 金色の髪が目の前で揺れる。
「晩飯にはずいぶんあるしなぁ……別の風呂屋で、もうひとっ風呂……か、テレビか……」
「映るの?」
「まあ、NHKくらいは映るだろうさ……そういえばさ、大学受験ん時、初めてビジネスホテルに泊まって、知らない街の天気予報とか訳わかんないローカルスーパーのCMとかがおもしろくてなぁ〜」
「ああ……そういうのあるわねぇ〜そー言えば、海に行ったときも天気予報をおもしろがってみてたわね? 貴方」
「まあ、海の時は特に天気がわかんないと明日の予定にも響くだろう?」
 適当な話をしながら、椅子から立ち上がる。
 純和風な雰囲気の中、どう見ても浮きまくっている黒い液晶テレビがやっぱり浮きまくりな黒塗りのテレビ台の上にどっかと座っている。
 そのテレビのスイッチを入れた。
『あっんっ! やっ! あっ! ああぁ、すごくおおきいのぉ〜!』
 映ったのは大きなおっぱいがタユンタユンと上下に動いてるシーンだった。
「「「あっ」」」
 の声が三つ、聞こえた。
 三つ、だった。
 後で確認したところ、どうやら前に使った客がプリペイドカードを突っ込んだままで帰っちゃったらしい。で、良夜がスイッチを入れたら、かけてたAVがそのまま映ったという有様。
 不幸な事故である。
 しかし、そんなことはこの場、すぐにわかる物ではなかった。
 特に先ほどまで湯あたりして、頭がグラングランになってたお嬢様には。
「良夜さんが……良夜さんが……――」
 三人目、噂のお嬢さんが小さな声で呟いてたかと思ったら、大きく息を吸った。
 そして、彼女は全力で言った。
「よりによって、巨乳物見てる!!! 裏切り者!!!」
「そこかよ!!」
 棒立ちになってる恋人に、良夜は全力で突っ込んでいた。
「……その前にビデオ、消しなさいよ……」
 頭の上から下りた妖精がテレビのスイッチを切った。

 良夜達、三人の温泉旅行はのっけから波瀾万丈な形で始まった。

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