お出かけ準備(1)
前回のラスト、美月が引き当てたのは二泊三日の温泉ペア宿泊券だった。
引き当てたのは美月だし、くじ引きの券を出したのは良夜だから、この二人が行くのが順当だろう。実際、美月はその方向で喜んでいる。まあ、彼女の喜びの七割は――
「おっふろ〜おっふろ〜アルトと大きなお・ふ・ろ〜♪」
この鼻歌の後半であることは、良夜の目にもあきらからだ。普段は「浴室に忘れられたら死んじゃう」と言って、一緒に入浴してくれないアルトも、温泉の大浴場なら常時暖かいし、人の出入りも多いから、一緒に入って貰えるだろうというもくろみらしい。
(変なところで知恵が回る人だなぁ……)
とは、良夜とアルト、二人の感想。
そして、「冬休みが明けたら就活に本気出す」とどこかのニートみたいな事を抜かしていた良夜も、
「うん、まあ……十一日から十三日なら……」
帰りの車の中、早速予定を立てようとしている美月にうすらぼんやりとした口調で、彼は答えた。
「あまり乗り気じゃないの?」
頭の上から金色の髪がふわりと落ちて、良夜の目をくりくりとした大きな瞳がのぞき込む。
その目を一瞥、軽くため息をついて彼は答える。
「まあ、冬休みが明けたら就活にも力を入れなきゃいけないし……それに――」
「それに?」
「……初日と最終日は良いとして、真ん中、一日、何して過ごすんだ? 一日中風呂か?」
「……一日中風呂で過ごしに行くのよ、温泉には」
あきれ顔で答えて、アルトは体を起こした。そして、頭の上から聞こえてくるのは、楽しげな鼻歌。ちらっと横を見れば、美月も上機嫌でハンドルを握っている。そんな二人をぼんやりと見てれば、暇そうな二日目も楽しく過ごせるだろう……それなら、せっかくの温泉旅行を楽しもう、美月の車に揺られながら、良夜はそんなことを考えていた。
――訳だが、世の中、そう甘くはなかった。
良夜達が喫茶アルトに帰ってきたのは、三時を少し過ぎた頃のことだった。
喫茶アルトの店内は予想通り、閑散としていて、外の気温以上に寒々しそう。カウンターに集まってる三人の従業員とオマケの姉以外には、国道側のテーブルを一人で使ってる初老の男性客が一人に、カウンターの隅っこに初老の女性が一人だけ。
男性客の方は見覚えがないが、女性の方は昔アルトで働いてたという女性で、最近、ちょくちょく見かける。
「明菜小母さん、いらっしゃい。明けましておめでとうございます」
カウンター席の隅っこでコーヒーを舐めていた老婦人にぺこりと頭を下げると、彼女もにこりと笑みを浮かべ、軽く会釈を返す。その上品な笑みに負けないほどの明るい笑顔を浮かべて、美月はカウンターの内側へと回った。
そして、他の面々にも変わりはないか? と尋ねれば、三人とも異口同音に――
「暇だった」
と、答えた。
「あはは……まあ、変わりない感じで良かったですね」
それを聞いて一安心というか、むしろ心配そうと言うか……何とも言いがたい複雑な表情を美月は見せる。
そんな恋人の様子を目で追いながら、青年も美月に倣うかのように、カウンター席の一つ、姉の隣に腰を下ろす。
「……良い物、買えた?」
姉がそう尋ねたのは、どうやら、この場でも『良夜はチェックの服ばっかり着ている』という話が話題に上ったかららしい。
喋ったのはしれーっとした顔でコーヒーを飲んでる寺谷翼。
姉の質問になんて答えてやろうか……と思い悩んでるうちに、美月が楽しそうな笑顔と共に口を開いた。
「セーターとズボン、それからシャツを二枚、買ってきましたよ〜なかなか、すっきりして、かっこいい感じなので、期待しててくださいね」
「……定価が三万近くて、初売り特価で一万五千円ちょっとって代物、かっこわるかったら泣けてくるけどね……」
ぼそぼそと呟くように言えば、姉はあははと気楽に笑い飛ばして、言った。
「四点、ズボン込みで一万五千円なら、安いもんだよ。たまには良い服着なきゃ、ダメよ、りょーや君も。隣を歩く美月ちゃんが可哀想」
「ちぇっ……」
予定外の買い物は、確かに質は良い物なのだが、値段も相応。財布の中身が恐ろしく軽くなったことを思い出して、青年のテンションは否応なく下がる。若干、不機嫌気味に答えれば、美月はそれを察したのか、察してないのか、あははと軽い口調で笑って、言葉をつないだ。
「良いじゃないですか〜温泉に二泊三日なんて、一万五千円程度じゃ、すみませんよ?」
美月が明るい口調でそういえば、聞いてた連中――翼までもが色めき立った。
「えっ? 何々? どうしたの?」
最初に声を上げたのは、時任凪歩だった。物見高い性格なのは、吉田貴美の直弟子だからだろうか? と思わず、凪歩の顔を姉と翼越しに見やれば、彼女と視線が交わる。交わった目、普段はきつめの瞳がだらしなく緩めば、愛嬌があって、どこか貴美に似ているようにも思えた。
その愛嬌のある笑みに誤魔化されてることを自覚しつつ、彼は強いてぶっきらぼうな口調で答えた。
「ったく……美月さんがくじ引きで当てたんだよ。二泊三日」
「良夜さんがくれたくじ券ですけどね。ペア宿泊券です。本当はお鍋がよかったんですけどね〜」
と、美月が補足説明。
「わっ、良いなぁ〜」
「……温泉……」
「ねーちゃんも行きたいなぁ〜」
凪歩、翼、そして、小夜子が口々にうらやましがるも、あいにくチケットは二枚きり。
「残念でした〜と、言う訳なので、十一日から三日で行きたいんですけど、良いですか?」
美月が問いかけたのは、まずは保護者の老店主だ。もちろん、孫娘に甘い祖父のこと、もしかしたら、一緒に行くであろうアルトの存在も考慮に入れているのか、軽く首肯すると、
「どうぞ、ゆっくり楽しんできてください」
と、にこやかな笑みで答えた。
次いで答えたのは、仕事に関して、一番にしわ寄せが来るであろう翼だ。しかし、そのしわ寄せが来る翼も、ぽつり……コーヒーカップを手のひらに包み込み込んだまま、呟く。
「…………お土産は……湯の花が、良い……後……あれば、蕎麦」
「あれば買ってきますよ〜」
そして、姉にはとやかく言う資格はなくて、ただ
「良いなぁ……ねーちゃんも温泉に泊まりたいなぁ……」
と言うだけ。
そんな感じで、スムーズに話が進む中、ただ一人、顔色を変えている女が居た。
時任凪歩、先日、二十歳になりました。
二十歳。
ここ、大事。
彼女はぽつりと呟いた。
「……私、成人式……」
「ああ、前にも言ってましたね。お休み。まあ、吉田さんに夕方からでもちょっとだけ手伝って貰えば……」
美月が軽い口調でそういえば、顔色をなくしたままの凪歩がフルフルと首を数回、横に振った。
「……で、せっかくだから、ディナー同窓会しようって話になって……同級生と……」
「どっ、どこで?」
凪歩の震える声を聞けば、美月の声色も自ずと変わる。
その美月の顔を見ながら、凪歩は人差し指でカウンターを指さし、言った。
「……ここで」
「ふえっ!? なっ、何人ですか?」
「たっ、たぶん……二十人前後……だと思う」
「何で今頃――って、あっ、あの……つっ、翼さん?」
気づけば翼の手が美月の手へと伸びて、その手をぎゅーっとつかんでいた。小さめの頭が左右に振られ、ショートボブの髪がふわりと揺れる。
「……行かないで……」
表情は相変わらずの鉄仮面なのだが、その声の情けないことと言ったら……まるで別れ話を切り出された少女のよう。意外とかわいいと思ったことを良夜は秘密にしておこうと思った。
「確かに、二十人が一斉にディナーを取るのでしたら、キッチンに二人、フロアに二人でも足りないかもしれませんね……」
と、老人が皮算用する。
しかも、その同窓会に出席する凪歩は、当然、お休み。貴美に手伝いに入って貰っても、美月までが休めば、勤務に入る従業員はわずか三名だ。どう考えても、
「けっ、計算が合いませんね……」
と、美月が呟くとおりなのである。
「どうするのお?」
この場で一番の部外者が無責任な口調で尋ねれば、一同はうーんとうなり声を上げて、考え込み始める。
そして、数秒の沈黙……
遠くでトラックが甲高いフォーンで鳴いた。
「次の三連休は……――三月か……三月にだらっと温泉ってのもなぁ……余裕、ないだろうなぁ……」
最初に口を開いたのは、携帯電話でカレンダーを見ていた良夜だった。
その独り言のような言葉の余韻が消えるか、消えないか……そんなタイミングでふわりと頭の上から金色の頭が振ってきた。その金色の頭の持ち主が、良夜の顔をまっすぐに見つめて、尋ねた。
「……貴方、もしかして、ちょうど良かった、とか思ってないでしょうね? 乗り気じゃなかったし」
「行く気にはなってたよ……」
ただ、自分がいけないことよりも喜んでた美月がいけなくなったことの方を、良夜は残念に思っていた……後、アルトの分も、一応。
「本当かしら?」
言って、彼女は体を起こす。起こして、偉そうな口調で言い、また、言葉をつなぐ。
「だいたい、インドア系オタク青年だから……今時、趣味が『ゲームとネットと漫画』なんて男、流行らないわよ」
「……『温泉湯治』が趣味の男は流行るのか?」
「六十過ぎた辺りからはありじゃないかしら?」
「……四十年近く先だよ……」
と、投げやりに話しているのは、すでに良夜がこの温泉旅行を諦めているから。美月には可哀想なことをしたと思うが、今後、行く機会くらいはいくらでも転がっているだろう……というのが、良夜の偽らざる本音という奴だ。
一方のアルトは、
「行きたいわよ。でも、美月と二人で大浴場というのも不安なのよねぇ……まあ、良夜がどこかで日帰り入浴くらい、連れて行ってくれるでしょ? それで手を打つわ」
かつん! とカカト落としを一発、クスクスとすんだ笑い声を上げると、それに青年も「へいへい」と投げやりではあるが了承の返事を返す。そうすると、妖精さんも納得してくれている様子。さすがに三月の末に二泊の旅行に連れて行けと言われなくて、一安心だ。
で、最後の当事者、美月は……と言えば――
「……これ、私が旅行に行くから二十人の予約を蹴ったって……吉田さんにばれたら、コトですよね……?」
「……絶対にキレる……」
「……折檻ですよねぇ……」
カウンターの上、額を付き合わせて相談しているのは、キッチン担当時任凪歩さん。吉田貴美に叱られ慣れる二人が、ぼそぼそ、ごにょごにょとささやきあっていたかと思えば、最終的には凪歩と共に「はぁ……」と大きなため息をこぼすに至った。
カウンターの上へと乗りだしていた体を起こすと、美月は力ない笑顔を浮かべ、そして、言った。
「……しょうがないですね……人数、はっきりしたことが決まったら教えてください。あと、メニューや予算の希望なんかも……」
「うっ、うん、ごめんね、タイミング、悪くて」
凪歩がぺこりと頭を下げる。しかし、アルトのルールでは大人数の予約は前日のお昼までとなっているから、十日以上も前に予約の話をしている凪歩に非はない。
「間が悪かったねぇ」
小夜子が他人事のように(実際他人事だが……)呟くとおり、全ては「間が悪かった」だけなのである。
良夜は、三月にのんびり温泉旅行なんて無理だし、平日に学校や就職活動をサボっていくというのはもっと無理。かといって美月にも良夜以外に一緒に行きたい相手はアルトくらいだが、そのアルトも良夜が来ないのなら、
「宿屋に置き忘れられたらどうするのよ!?」
って訳で、絶対にお断り。
「……お祖父さん、行きます? 二十人の予約がある日は無理ですけど、それ以外の土曜日から月曜日の三日なら、どうにかなると思いますし……」
あきらめ顔で尋ねられると、老人は困ったような苦笑いを浮かべて答えた。
「まあ……他に行く人が居なければ……」
彼がこう答えると、その場はこの老人が行くもんだという空気が支配的になってくる。
そんな空気感の中、おずおずと手を上げた女性が一人居た。
「あの……月曜日のお昼過ぎくらいからでしたら……お手伝いしてもかまいませんが……」
それは先ほどまで、熱いコーヒーを舐めるようにゆっくりと飲んでいた老婦人――高槻明菜(旧姓)だった。
その控えめな声で発せられた言葉を合図に、その場にいた者の視線がこの老婦人の元へと一斉に集中した。
その注目の中、婦人はやっぱりおずおずと小さな声で言葉を重ねる。
「働いていた期間よりも、辞めてた期間の方がずっと長いですし、こんなおばあちゃんがお手伝いしても、お客様にご迷惑かもしれま――」
「お願いします!!!」
老婦人の言葉が最後まで紡がれるよりも先に、即決したのは、三島美月嬢だった。
で、結局……
「自分が遊びに行きたいからって、客に仕事を手伝わせるな!!!」
と、帰ってきた貴美に大目玉を食らうことにはなるが、それでもなんとか、二泊三日の温泉旅行へは行けることになった。
なお、この貴美の頭がちょっとおかしな事になっていることは……次回の講釈にて語られる。こうご期待。
ご意見ご感想、お待ちしてます。