これから……(完)
 お正月恒例、タカミーズの実家話である。
 今回は高見直樹が起きたところから始まる。
 元旦、彼が起きると、すでに居間は両親二人の姿があった。
 八畳の畳の部屋にはこたつが据えられてあって、その上にはお隣に住んでる吉田家と合同で作るおせち料理が三段のお重に綺麗に盛られている。
 そのこたつを囲む両親は、二人ともそろそろ四十も後半に差し掛かる頃だが、一般的な四十台に比べるとずいぶん若く見える。
 彫りの深い顔をした父は若い時分、アルピニストだった。子供――直樹が生まれてからはハイキング程度にしか行かなくなったが、今でも摂生された生活と適切な運動だけは続けている。そのおかげもあって、中年太りという言葉は彼には縁遠いものになっていた。
 一方の母親も、直樹に似ているというか、女装した直樹は若い頃の彼女そっくりというか……ともかく、そういう評判の女性なので、基本的には美人だ。もちろん、加齢による衰えが目元口元に現れてくるのは仕方のないものではあるが、それは化粧でごまかせる程度。摂生された旦那の生活に併せているおかげで、スタイルも二十代の頃の物を維持できてるらしく、貴美と二人で歩いているとさすがに姉妹とまでは行かないが、ちょっと年の離れた友人程度に見られる女性だ。
 そんな二人が部屋着でくつろぐ居間に入ると、直樹はぺこりと頭を下げて言った。
「明けましておめでとうございます。それと、おはようございます」
 母親似の青年がそういえば、両親も異口同音に「明けましておめでとう」と言葉を返した。
 そして、父が小さなポチ袋を一つ、お雑煮やらおせちやらが並ぶこたつの上に置いた。
「今年と来年で終わりだからな?」
「卒業できなくてもあげないわよ?」
 父の後を受けて、母が茶化した口調で言った。
「ありがとうございます……出来ますよ」
 その言葉に直樹が口をとがらせて応えると、両親は「はは」と軽く声を上げて笑った。
 後は、お説教の言葉が二つ三つ。しっかりしろとか、就職活動はちゃんと考えてやれとか、まあ、聞き飽きたようなお説教には内心辟易したが、年に一回くらいしか帰ってこない長男には、言い足りない事もたくさんあるのだろう。
 一通りの説教を終え、父は一合徳利からおちょこへと熱燗を注ぎ入れる。そして、その徳利をこたつの天板に戻すと、直樹の顔を見て尋ねた。
「ところで、今年の元旦も貴美ちゃんは来るのか?」
「来なきゃ、作ったお雑煮が余っちゃうわよ」
 旦那の言葉に、直樹の汁椀に味噌仕立ての雑煮を入れようとしていた柊子が答える。
 元旦の朝、直樹の家では三人前の雑煮が用意される。
 一人分は一人息子、直樹、一人分は母親、柊子、そして、もう一人分は父親、洋司……ではない。彼は元旦だけは朝っぱらからおせちと分厚いハムステーキをつまみに熱燗を飲むので雑煮はひとまずパスするのが恒例になっている。摂生してる父が不摂生なことをする唯一の日、それが元旦だ。
 では、残る一人分は誰の物か?
 お隣に住んでる吉田さんちの一人娘、貴美の分だ。
 毎年、元旦の朝、彼女は高見家に顔を出し――
「おじさん! おばさん! 明けましておめでとう! 私のお年玉は?! ないん?! じゃあ、雑煮とハム食べさせて!」
 と、大声で言うのが恒例行事になっている。
 どうしてそんなことをするか? と言えば、吉田家で供されるすまし仕立ての雑煮よりも高見家で供される味噌仕立ての雑煮の方を、貴美が好むというのと、後は下品なほどに分厚くカットしたハムが食べたいから。いわゆる「立つ厚さのハム」という奴だ。こいつをトースターで軽くあぶって醤油をかけて食べるのが、高見家の正月行事の一環になっている。飲酒を覚えてからは、雑煮を食べた後、このハムを肴に熱燗をちびちびやるのを、貴美は毎年、楽しみにしているようだ。
 そして、その貴美の来訪を毎年、楽しみにしているのが、
「お父さん、貴美ちゃんとお酒を飲むの、毎年楽しみにしてるものね?」
 と言う母の言葉通り、父親の洋司だった。
「そりゃ、どうせ飲むなら、息子よりも娘だろう? 貴美ちゃんは会うたびに綺麗になってるし」
「すいませんね、むさ苦しい息子で……」
 うれしそうに話す父を椀越しににらみつけながら、彼がぽつりと漏らせば、にらまれた本人は楽しそうに頬を緩めた。
「むさ苦しい息子ならよかったんだけどな?」
「去年も綺麗だったわね? 直樹」
「また、送ってたんですか?! メール! あの人!」
 尻馬に乗った母の言葉に、直樹は思わず、腰を浮かした。
 乱暴に置かれた椀から汁がこぼれる。
「フィアンセをあの人呼ばわりは感心しないわよ? 直樹」
 我関せじとばかりに雑煮をすすって母が一言。
「年末にしか帰ってこないどら息子の近況を知らせてくれてるんだよ……っと、呑むか?」
 楽しそうに言って、父は干したお猪口を直樹に差し出した。
 青年はその手のひらにすっぽりと収まる小さなお猪口を素直に受け取り、憮然とした表情で父親へと差し出す。
 浮いていたお尻が元の場所に戻る。
 差し出されたお猪口に、父が熱めに燗をした清酒を静かに注ぎ込む。その父の顔には楽しそうな笑顔がべったりと張り付いていた。
「まっ、女装も馬鹿騒ぎも今のうちしか出来ないからな、存分に楽しんで置けよ」
「お父さんは今でも毎日楽しそうですけどね」
「まぁな。俺はいつでも楽しいよ。嫁さんはいつまでも若いし、馬鹿息子は元気で、美人の彼女を連れて帰ってきてる。それで人生がつまらないってのは、そりゃ、おまえ、本人がつまらない人間なんだよ」
 そこまで言って、父はほんの少しだけ、寂しそうにほほえみ、言葉をつないだ。
「ただ、学生の頃みたいな楽しみ方はもう無理だな……冬の山で凍えたり、一晩中酒を飲んだり――」
「翌朝、べろんべろんの勢いのまま、女のところに行って、告白して、OK貰った瞬間、全部、リバースとかね」
「……それ、いい加減に忘れろ」
 父と母の馬鹿で、そして少し楽しげなやりとりにいきり立っていた青年もあきれたような笑みを浮かべた。その笑みのまま、お猪口からぐいっとお酒をあおる。
 強めのアルコールが喉を焼いた。
「うへ……辛いなぁ……」
 反射的に呟いた言葉に父が応える。
「女と酒は辛口が良いんだよ」
 ばたばたと玄関でドアが開く音がしたのは、そのつぶやきとほぼ同時だった。

「私は今日からここの家の子になる!!」
 ドタバタと廊下を突っ切り、直樹と父の間に腰を下ろしたかと思えば、貴美はいきなりそんな事を言い出した。
 よくよく話を聞いてみれば、母親と大げんかをしたので家出をしてきたらしい。
「……三年ぶり十三度目かしらねぇ……?」
 呟いたのは汁椀に少し柔らかくなった雑煮の餅をつごうとしている柊子だった。
「十四だよ、たぶん……」
 その妻の言葉を夫がぽつりと訂正。
「何回目でも良いですよ……」
 と、息子が小さくも吐き捨てるように言った。
 ら、
「ちゃんと聞いとんな!?」
 と、恋人が切れた。
「ああ……ハイハイ、それで、今日の家出の理由はなんですか?」
 手にしていたお猪口をこたつの上に置き、直樹は貴美の方に顔を向けた。
 すると、貴美の顔がバネ仕掛けのようにクルン! と直樹の方へと向いた。その顔、ぎゅっと眉をへの字に曲げて彼をまっすぐににらみつける表情は、油断してたら今にも拳をたたき込むぞ、と無言のうちに教えているかのようだ。
 貴美の親子げんかの理由は、平たく言うと、就職の話だった。
 もう少し具体的に言うと、就職した後、どこに住むか? と言う話だ。
「前からなおとは話してんだけど、基本的にはこの辺りに就職して、どこか適当な安アパートでも借りて住もうって話にしてるわけなんよ。その方向でいろいろ調べてるしさ。そしたら、こっちで就職するなら、結婚まではお互いの実家で生活しろって、言うんよ!? うちのママ!!」
 と、激高しながらに貴美が言ったので、高見家の親子三人はお互いの顔をちらちらと一瞥ずつし終えた後、こくんと頷き合って言った。
「「「それで良いんじゃないの?」」」
 見事な家族の連係プレイだった。
「ちょっと!!」
 一人だけ血のつながらない女性は思わず右拳をブン! と大きく振り上げ、そして――
「お雑煮やお父さんのお酒がこぼれたら、おばさんは許さないよ」
 と、柊子が淡々と言った。
 その言葉に、貴美の手がぴたりと止まった。その中で止められたままの拳と、お椀やら酒器やらが並べられたこたつとを、貴美は数回見比べる。
 その拳が叩き下ろされる前に、彼女の形の良い口元へ……
「こほん……」
 わざとらしい咳払いが一つ、正月の居間に響く。
「元々、貴美ちゃんのご両親……特にお母さんは同棲には大反対してたからね……」
 貴美の様子にため息を漏らし、洋司は直樹が置いたお猪口に手を伸ばした。手にしたお猪口に手酌で酒を注いで、クイッと一献。
「だからさ……あのときみたいにうちの親、説得して欲しいんよ……パパ」
「パパ、言うな」
 にじり寄る貴美から半歩、洋司が体を逃がす。困ってるような喜んでるような、微妙な表情は、この男が貴美に何かねだられるたびに見せている物だ。実の娘ほど親しく長く付き合っているが、娘ではないという微妙な関係と言う奴で、昔から父は貴美には弱い。
 その弱さを十分に理解し、常々「なおパパはチョロい」と公言してはばからない貴美は、洋司が置いた一合徳利に手を伸ばすと、未だ、彼の手の中にあるお猪口へと酒をつぐ……ついでに、彼の元へとさらに身を寄せた。
 今にもひっつきそうな距離感。
「人の旦那に色目を使うな……旦那、喜ぶな」
「いっ、いや……喜んではないけど……」
 ジト目の柊子に「ははっ」とごまかすような笑みを見せ、彼は貴美によって満たされたお猪口をこたつの上へと戻した。そして、居住まいを正すふりして、貴美と適度な距離を取り直す。
 そんな旦那の様子から、貴美へと視線を動かして、柊子は言った。
「大学で同棲を許したのは、仕送りを減らせるって言う打算があったからよ。この周辺で就職するなら、自宅に住んだ方が家賃はいらないし、その分、家にいくらかでも入れてもらえればこっちも助かるのよねぇ……この家のローンもまだ半分以上残ってるし……吉田さんの方も似たような物でしょう?」
「でも、聞いてよ、おばさん!」
「おばさん言うな、ママと呼べ。お姉さんでも可」
「誰が呼ぶか……って、だいたい、同棲から別居じゃ、なんか、別れる直前みたいでいやじゃんか!」
「…………それだけ?」
 あきれ声で尋ねたのは直樹だ。
 その直樹をちらりと一瞥、直後、柊子へと視線を戻した貴美は、今度は柊子の方へとさらに近づいた。
「それから、どうせ、年をとったら、うちら二人で老人四人の面倒見なきゃいけないんだから、若い間くらい好きにさせてくれって良いじゃんか?」
 貴美が言うと、年長者二人は深々と深いため息を一つずつつ吐いた。
「……それ、言ったんだ? ご両親に」
 と、洋司。
「うん。言った」
 と、貴美が頷いたら、今度は柊子がため息をついて尋ねた。
「じゃあ、なんて?」

「誰もあんたに面倒見てくれなんて頼んでないから!!」
「親の面倒、見ない訳にいかないっしょ!?」
「ほっとけば良いじゃない!! 好きに生きて、好きに死んでやるわよ!!」
「じゃあ、私も好きに生きるから!! この辺に就職して! なおと同棲して! 子供が出来たら籍入れて、帰ってきて、後はパパとママが年取ったら、面倒見りゃ良いんでしょ!!」
「同棲と出来婚だけはしないでって言ってるでしょ!? 母さんにも世間体って物があるのよ!! あなたがどこで誰と暮らして、どうなろうと勝手だけど、母さんの知り合いの目の届くところでやらないで!! 恥ずかしいから!!!」
「世間体って言うなら、私にも世間体があるん! 親の面倒を見ないとか、世間体が悪いじゃんか!!」
「あんたは、世間体のために親の面倒を見るって言うの!?」
「誰も、そんな事、言ってないっしょ!?」
「今、言ったじゃないの!! もう、良い!! どうしても、直樹君と同棲がしたいって言うなら、この家から出て行け!! タカミ=タカミって、富野アニメに出てくるような名前になっちゃえば良いのよ!!!」
「あっ、人が気にしてる事言ったっ!? 解った、出て行ってやんよ!! もう、こんな、家、帰ってくるか!!!! 一人寂しく、独居老人になって、腐れちゃえ!!!!」
「腐れてるのはあなたでしょ!? この変態ショタコン腐女子!!!」
「ママだって、未だにトルーパーとシュラトを引きずってるくせに!!」
「ひっ、人の性癖、えぐったわね!?」
「そっちが先じゃんか!!!」
(以下、腐女子同士の醜い罵り会いが十五分ほど続いたと思ってください)

「と言うやりとりをして、今、ここに至ってるわけなんよ……」
 説明しているうちに頭の上った血も落ち着いてきたようだ。ふぅと大きなため息を一つ吐き、彼女はこたつの上、満たされた熱燗の熱量が急速に失われていこうとしているお猪口へと手を伸ばした。
「――って、何で、一つのお猪口がぐるぐる回ってるのよ……取ってくるから、それは置いておきなさい」
「あっ、じゃあ、私、湯飲みで」
「それと、新しいのを一本、燗してくれ」
 席を立つ柊子に貴美と洋司が声をかける。
 その声に柊子は「はいはい」と投げやりな言葉を返して、キッチンへと消えていった。
 取り残されたお猪口は洋司の口元へ……
「それで、おじさんは?」
「パパが私とママの口論に口を挟むわけないじゃん。お腹、抱えて笑って、私が出て行くときに、これを渡して終わり……笑いすぎてチアノーゼになってたよ、あの糞親父」
 直樹に問われ、貴美が答える。答えた彼女が胸ポケットに突っ込んであったポチ袋を取り出した。白地に薄く描かれてるのは仕事を選ばないともっぱらの評判の白猫姉御だ。中身は諭吉さんがお一人だったらしいが、当然、それはすでに回収済みである。何がすごいってこのポチ袋、四十半ば過ぎたおっさんが買いに行ったってのが一番すごい。
「相変わらず、吉田さんちのおじさんは大物ですよね……」
 空っぽのポチ袋を手渡されて、青年はため息一つ。
 二人の会話を、冷えた熱燗のつまみにしていた父が口を開いた。
「それで、直樹はどうしたいんだ? 卒業した後も貴美ちゃんと一緒に住みたいのか? まあ、多少、よくなってきてるとは言っても、このご時世だ。フリーハンドで今後の事を考えられるってわけでもないだろうが……」
 父にそう言われ、直樹は口を閉じ、沈思した。
 その隣では、貴美がじっと直樹の顔を見つめている。
「僕は……」
 ゆっくりと言葉を選び、彼は言った。
「……一年くらい、一人で暮らし――」
 その言葉が全て言い終えられるよりも先に、ゴッ! と鈍く嫌な音がした。
「ぎゃっ!」
 貴美の左フックが見事に直樹の右側頭部へとめり込んでいた。
「今の話の流れなら、吉田さんと一緒に暮らしたい、って以外の答えはないっしょ!? だいたい、なおが一人暮らしとか出来るわけないじゃんか! まじめに考えとんな!? って、痛いな! もう!」
 貴美が一息に言い終えた後はしばしの沈黙……と言うか、頭を抱えてる直樹に口を開く余裕はないし、貴美も思いの外綺麗に左フックが入ったせいで、拳が痛いようだ。左拳を抱えて悶絶している。
 そんな中、最初に口を開いたのは、洋司だった。
「まっ、二十日過ぎに財布から札が消え失せたとか、ゴミで床が見えなくなったとか、自分の作った物を食ったら吐いたとかって経験でもしながら、三ヶ月もすれば、出来るようになるもんだよ、家事なんて」
「おじさん!!」
 貴美が腰を浮かせ、大きな声を上げる。
 それを洋司は軽く手を上げる仕草と視線だけで制する。
 半分ほど腰を浮かせたままに固まる貴美と、側頭部の痛みからようやく解放された直樹とを交互に見比べながら、父は言葉を続けた。
「この馬鹿の面倒を見てくれるのは良いけど、貴美ちゃんは直樹よりも成績がずいぶん良い。もしかしたら、稼ぎだって直樹よりもよくなるかもしれない。それで家事もさっぱりなら、直樹……おまえ、ひもだぞ? だから、俺は結婚するまで、おまえが一人でって言うのには賛成だな」
 と、父親に言われ、そこまでは考えてなかった直樹は――
「えっ……あっ……いや……あ、うん」
 恋人と父親にジッと見つめられて、しどろもどろ。
 そんな様子に貴美は「はぁ……」とひときわ大きなため息をついて、恋人の父の方へと向いて言った。
「考えてなかったみたいじゃんか……単に、一人暮らしの気楽さをちょっと味わってみたかっただけっしょ?」
 実はその通り。
「まっ、そんなところだろうとは思ってたけどな。でも、もう、思いついたろう? おまえ、このまま、貴美ちゃんの世話になるのか、少しでも役に立てるようになるのか、考えてみろ。貴美ちゃんも、こんな感じでずっと居ても良いのか、悪いのか……いや、続けられるかどうか、よく考えてみなさい。仕事だけじゃない、妊娠とか出産とか子育てもあるんだよ?」
 言われて、二人はクシュンと頭を下げた。
 また、静かに時間が過ぎる。
 窓の外には雲が広がり始め、気温が下がっていく。
「お待たせ……」
 そして、柊子が盆の上に徳利と湯飲み茶碗、それともう一つのお猪口を乗せて、居間へと帰ってきた。
 運ばれてきた酒は、直樹が思ってたよりもずいぶんとぬるかった。

 さて、まさか本当に帰らないわけにも行かず、貴美は夕方少し前に自宅へと帰った。
 足取りは少々重め……普段の三割増しほどの時間をかけて、隣家から自宅への道を歩いた。
 朝から広がり始めた雲のおかげで、残ってるはずの残照は見えない。
 ずいぶんと暗くなり始めた玄関先に人影と小さな小さな赤い光が見えた。
「あっ、パパじゃん……」
「よっ……少しは諭されてきたかい?」
 火のついたたばこを人差し指と中指に挟んで、男は軽く手を上げた。貴美の父、勝だ。色白で細身、なのに長身という体つきは「ホワイトアスパラ」というあだ名を友人から頂戴していた若かりし頃そのままな中年男性だ。
 そんな体を門扉にもたれさせて、喫煙中。
「全然諭さないパパの代わりに、血のつながんないパパに諭されてきたよ」
 憮然とした表情で、貴美は父がもたれてるのとは逆の門扉に背中を預けた。
 真っ黒い空とご近所さんの家しか彼女には見えない。
「はは。そりゃ、おまえ、好きな男の面倒を見ようって娘にかける言葉はないけど、逆に好きな女に世話になってる息子にはかけなきゃいけない言葉がたくさんあるって事だよ」
 笑い声の混じる軽い調子で言って、父はたばこを咥えた。
 紙巻きたばこの先端が赤く光る。
「そんなもんかな……」
 貴美は父の燃えるたばこの先っぽに視線を移して呟いた。
 父の薄い唇からフーッと一筋の紫煙がはき出され、真っ暗な空へと広がっていく。
「相手がどこの誰ともつかない男ならともかく、直樹君の事は子供の頃からよく知ってるからな」
 父はそう言うと、頭の後ろ、門扉の上へと手を伸ばした。そこには古びたガラスの灰皿が置かれている。手のひらくらいの大きさのそれをひょいと取り上げると、そこにたばこの灰をぽとりと落とした。
 そして、幾分短くなったたばこを口に咥え直す。
 ゆっくりと紙巻きたばこをくゆらせる。
 娘は無言で父の様子を見ていた。
 風が冷たい。
「貴美」
 男は短くなったたばこを灰皿の底でもみ消しながら、口を開いた。煙ではない白い物が口からこぼれる。
「なに?」
「あっちで諭された事とか、これからの事とか、考えた上で同棲するって言うなら、協力してやるし、ダメなら尻は持ってやる」
「……解った」
 父の顔も見ないで、貴美は軽く頷く。
 父親は貴美の横顔を見ながら、言葉をつなぐ。
「寒くなるから、中に入れ」
「……パパは?」
「もう一本、吸ってから入るよ」
 言って男は新しいたばこに火をつけた。
「尻、持つ前に肺がんで死んじゃ駄目だかんね?」
 それだけ言って、貴美は中へと入っていく。
 それを見送り、男はことさら大きくたばこの煙を吸い、ゆっくりと吐き出す。
 黒い空に白い煙が立ち上る……
『貴美!!』
 部屋の中から大声が聞こえた。
 男の顔がかすかに緩む。
 ゆっくりと、空から雪が……今年最初の雪が降ってきた。

 貴美と直樹のこれからは、まだ未定……

「まっ……就職できなきゃ、嫌でも帰ってくることになるだろうしなぁ……」
 男のくゆらすタバコの煙がゆっくりと薄暗い空へとたなびき、消えていく……

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