年越し……新年(4)
さて、話は美月が凪歩を下ろした直後へと立ち戻る。
ちょうど、車は住宅街から国道へと出る交差点へと差し掛かっていた。
この交差点には感知式の信号がついていて、美月が車をそこに止めると、信号の下側にぱっと『感知中』の文字が表示された。
「ふわぁ……」
ガリガリッと音を立てて彼女はサイドブレーキを引くと、大きな背伸びとあくびを一発。
その隣、助手席には彼女の後輩であり、部下でもある女性、寺谷翼がいる。彼女は上司がまなじりににじんだ涙をぬぐうのを横目で見ながら、小さな声でつぶやいた。
「……寝たら……だめ……」
「わかってますよ〜」
気楽に笑う上司から視線をそらし、窓の外へと視線を向ける。そこは月明かりがぼんやりと照らす薄暗い世界。その世界を見るともなしに眺めながら、彼女自身もあくびをかみ殺した。
上司同様、まなじりに涙がにじむ。それをこっそりとぬぐい、彼女は考える……
(少し、はしゃぎすぎた……)
仕事終わりに人混みの中に出かけての買い食い歩きは、楽しかったが、その分、疲れた。良い具合にお腹も膨れたし、眠くなっても仕方のないところ。妖精のアルトも運転手が寝ないように気をつけるとは言っていたようだが、当てにして良い物やら悪い物やら……
そんなことを考えているうちに、ぼんやりと眺めていた歩行者用の信号が青に変わった。立ち止まる紳士の赤信号が消えて、歩く姿が青く映し出される。
そして、一瞬の沈黙。
いつまでたってもエンジンの音は高まらないし、それ以前にサイドブレーキが下ろされる気配もしない。
「ん?」
と思って、翼が視線を動かせば、そこには運転席の中、シートベルトに縛り付けられながらも器用に寝ている上司の姿があった。とろっと垂れるひとしずくのよだれがチャームポイント。自身よりも二つ三つ年上のはずだが、それを感じさせない幼さがある。
ってことを、翼はまるで人ごとのように考えていた。
そして、彼女は、ようやく、正気に戻って、“叫ん”だ。
「……って、チーフ!!!!????」
このときの叫び声は、翼本人をして、
「こんな大きな声が出るとは知らなかった」
と、言わしめるほどだった。
なお、アルトは翼が気づく十秒ほど前から美月の髪を引っ張り、彼女を起こそうとしていたことをここに記しておきたいと思う。
まあ、無駄な努力だったわけだが……
当然のことではあるが、翼は美月を自宅に泊めることにした。それはほとんど無理矢理、すがるような勢い。出来ることならば穏便に説得して泊めさせたいところではあったが、そこは口べたで無口な翼のこと、最終的にはドアミラを握りしめて離さないという強硬手段で彼女を押しとどめるに至った。
「もう〜大げさですよ〜」
美月はそう言って太平楽に笑ったものだった……が、それも部屋に入ってこたつにあたるまで。翼がお茶の用意をしている間に、天板に頬杖ついてうつらうつら。彼女の意識が夢と現<うつつ>を行ったり来たりしてるのを見て、翼は自分の判断が間違いでなかったことを思い知った。
もっとも、洋館を改装した喫茶店で暮らしている美月のこと、畳の上に寝転がるのも、こたつの中で寝るのもあまり経験のないことだ。その上、美月は……
「女友達のお部屋に泊まるのって、初めてかも……」
ということらしく、布団を引いて、電気を消したら、いきなりテンションが上がった。眠気も忘れた様子で、そばで寝ている翼やアルトに声をかけくる始末。
「それでですね、ちょっと聞いてくださいよ〜聞いてくれてます? 寝てません?」
やっぱり、帰してもよかったか……とも思うが、きっと、彼女のことだから車に乗せたとたん、寝てしまうだろうということが容易に想像できてしまうから困ったもんだ。
「……起きてる……聞いてる……」
翼がそのおしゃべりに付き合ったのは、仕方がないから……と言うわけではなかった。やっぱり、なんだかんだ言ってもおしゃべりというのものは、楽しい。それがたとえ、聞き役七割、相づち二割で、普通にしゃべるのがほんの一割程度であったとしても、だ。
灯りを落とした部屋の中、近くに街灯もないし、分厚いカーテンを引いてるから外からの明かりも入ってこない。互いの顔も見えないほどに暗い部屋が、女性達の楽しげな話し声と控えめに相づちを打つ声で満たされる。
それは、いちいち、ここで書き留めるまでもないような、たわいのないおしゃべりだった。たとえば、この間食べに行った店はおいしかった、まずかった。この間のまかない料理はおいしかったから、お客さんに出してみよう。理系男子はチェックの服ばっかり着てるという話を聞いてから、改めてお客さんを観察してみたら、実際にその通りだった。しかも、良夜の服もチェック率が高くて、悲しくなった等々……
楽しそうにしゃべる美月に楽しく相づちを打ったり、一言だけの突っ込みを入れたりしてるうちに夜は更け、どちらからともかく眠りに落ちて、翌日になった。
そして、起きたら、いきなりの修羅場だった。
「ふえぇぇぇぇぇ〜〜〜どーして、目覚ましが鳴らないんですかぁぁぁぁぁ????!!!!」
答え、翼が切ったままにしてたから。
翌日、美月と翼が目覚めたのは喫茶アルトの営業時間が始まる直前くらい。
正確に言うと、美月が起きて、時計を見て大騒ぎしたから、翼も起きた、といった具合。
前日、話し合われたとおり、翼はお休みで、美月はお仕事。だから、美月は慌てている。それは「帰らないと店が回らない」からではなく、老店長は美月がいなくても気にしないで開店するだろうし、それでなんとなく、上手に店を切り盛りしちゃうだろうから。
それが、美月には
「悔しいじゃないですか!?」
ってことらしい。
着崩れた服を直して、顔を洗って、さすがに歯磨きまでは無理だから、代わりに翼が飲み過ぎた日のために買ってきてるモンダミンで口をゆすいだら、なぜか、電話台からプランプランと垂れ下がっていた受話器を拾って、アルトにお電話、だ。
「ああ、はい。昨日は翼さんのお宅に泊めてもらって……はい、はい……いえ、今すぐ帰ります。はい、はい、それじゃ……――あっ、そうそう、明けましておめでとうございます」
部屋の中を右往左往したかと思えば、受話器に向かって大声を上げたりと、美月は元日早々忙しそう。
一方、Tシャツにショーツ、その上にどてらという訳のわからない格好をしている翼はのんきだった。今日は休みだし、予定という物も特に入っていないから、当然だ。彼女は元日朝っぱらというすばらしい時間帯にドタバタと上司が駆けずり回るのを、こたつの中からぼんやりと眺めていた。
(お腹がすいたなぁ……)
ぼんやりと眺めながら、ぼんやりと考える。
「あっ、翼さん、櫛、貸してください、櫛!」
電話を終わらせ、美月がそう言うので、翼は短く「お風呂場」と答える。すると、美月はばたばたとユニットバスの中へと駆け込んでいった。
それを見送ると、翼はやおら立ち上がり、小ぶりな冷蔵庫へと近づいた。単身者用のあまり大きくない冷蔵庫だ。それを開けば、さすが料理人と言うだけはあって、そこそこの品揃え。まあ、それでも、最近はアルトのまかないで済ませることが増えたおかげで、生鮮食料品は少し控えめ。
その冷蔵庫から、パック入りの角餅を二つ三つ……取り出すと、魚焼きの網に乗せ、コンロにかけた。
そのまま、待つこと数分……
美月がバタン! と大きな音を立てて、風呂場から飛び出してくるのと、小ぶりなお餅ががプク〜と膨らむのがほぼ同時。その膨らんだ餅を砂糖醤油にからめたら、焼き海苔をくるんと巻いてできあがり。
「それじゃ、ばたばたしちゃって! ごめんなさい! ともかく、私は帰ります!」
自慢の黒髪を綺麗に整えた美月がそう言うと、翼は先ほど焼き終えたばかりの餅を彼女の手に握らせた。
「あっ、磯辺餅ですねぇ〜」
「……朝ご飯の、代わり……」
「あはっ、いただきます」
屈託ない笑みを浮かべて、美月はぺこりと頭を下げた。そして、部屋を飛び出し、駐車場の隅っこ、ゲスト用のスペースに止めた車へとめがけて、彼女は駆け出していく。振り返りもしない。
「……ふわぁ……元旦から……ばたばた……」
美月の車が出て行くのを確認すると、大きなあくびを一発。それから、思い切りよく背伸びをすれば、関節がパキパキと心地よい音でなった。
そして、部屋に戻る。
火が消されたコンロの上では、膨らんだ餅がしぼみかけていた。
美月には磯辺餅にして渡したが、翼はこれをお雑煮にする。
寺谷家、というか、翼の母親が作っていたのは焼いた角餅を簡単なすまし汁に入れた物だった。味は何となく覚えているのだが、レシピは教えてもらった記憶がないから、あやふや。今考えると、もっと教えてもらえばよかったなぁ……と思うが、後の祭。
おぼろげな記憶を頼りに、去年も作ったすまし汁を手早く作る。鰹節と煮干しの出汁パックで簡単に出汁を取ったら、具材はお麩。これが完成したら、少し冷えてしまった餅と鯛の刺身を一切れ、椀に入れ、その上から汁をかけてできあがり。余った分は夜か明日の朝にでも温め直すのが、一人暮らしを始めてからの定番だ。
それをこたつの上に戻って、いただき――
つんつん
肘に触る何かの感覚……
「……――なんて物は、ない」
まるで誰かに言い聞かせるようにつぶやけば、さらに肘に二回の刺激。
「……――なんて物が、ある……?」
もう一度、つぶやく。
すると、今度は、一度だけの刺激。
「……今、起きた?」
またもや、一度きりの刺激。
「……忘れられた……?」
先ほどよりも、強めの刺激。ちょっと痛いのは、彼女の怒りに比例しているのだろう。
ペチン! 額を叩いて、翼は立ち上がった。目指すは、先ほど、美月が使っていた固定電話だ。この間、留守番電話付きのやつに買い換えたそれをひょいとつかんで、ボタンを押す。短縮ダイヤル、入っている数は多くない。その数少ない短縮ダイヤルに入っている番号の中から、上司の携帯電話を呼び出し、コールをする。
も、
『ただ今運転中もしくは携帯電話の利用を控えなければならない場所にいるため、電話に出られません。のちほどおかけ直しください』
(何で、こんなところだけ、きっちりしてるの……?)
繰り返し、メッセージが流れる受話器を見つめ、翼は静に嘆息した。
仕方ないからアルトの方に電話をすると、老店長が――
『しばらく、そちらで飼っていただけると、こちらとしても助かるんですけどね』
と、いつもの柔和な声で言った。
「……仲、悪いの?」
『簡単に言うと、互いにいつかは殺ってやると思い続けて半世紀の間柄ですから』
老人がそう言うと、耳の横から頬、肩口にかけて何か細くて小さな物が激しくぶつかる感覚を翼は感じた。それは、くすぐったいと言うには荒々しくて、痛いと言うには物足りない。そんな微妙な刺激の発生場所を一瞥、何も見えないことを確認すると、すぐに受話器へと意識を戻して、翼は言った。
「…………今、肩口で……暴れてる……たぶん」
『こっちが殺ってやる、とか言ってるんですよ、きっと。そうですねぇ……お暇なときにでもこちらに届けてくだされば、食事か何か、ごちそうしますし、面倒でしたら、次の出勤の時でも良いですよ』
「じゃあ……夕飯……ごちそうになりに……行く……」
『はい。では、おいしい物を用意して待ってますね』
翼が即答すれば、受話器の向こう側で老人は静かに答えた。
餅は汁椀の中でダルンダルンに伸びていた。
「家でテレビ見ててもつまらないから……映画、見に来た……一食分、食費、浮いたし……」
シネコンのエントランス、翼は昨夜、凪歩と別れた後のことをずいぶんと端折りながらではあるが、一通り教え終えた。すると、凪歩は案の定――
「やっぱ、私もそっちに行けばよかったなぁ〜」
と、言い出したので、翼は冷たくぽつりと言葉を彼女にくれてやった。
「……寝言は……永眠して、言え」
「ちょっと!? 殺さないでよ!!」
目をむく凪歩にため息だけを返して、翼はすっと手をあげる。人差し指が凪歩の隣、斜め後ろを指し示す。
「……その男性<ひと>……誰?」
翼に言われて、凪歩は首だけを後ろへと向ける。そして、その切れ長の瞳を大きく見開いた。
「って、灯、いつ来たの?」
「……少し前。ずっとしゃべってるから、声、かけ損ねてた……」
そう答えたのは、ダークブルーのダウンジャケットにアイボリーの綿パンを着た青年だった。彼は、少し前にやってきて、凪歩のそばに立ったかと思うと、今の今までずっと携帯電話をいじくっていた。何かしたいことがあったと言うよりも、無聊を慰めるためと言ったところだろう。そのつまらなさそうな横顔が、翼には妙に印象的だった。
「……カレ?」
そう翼が尋ねると、二人は全く同じタイミングで、目をまん丸に見開き、そして、首をすごい勢いで左右に振った。
「弟!」
「弟です」
ほぼ同時に帰ってきた言葉に翼は目を数回ぱちくり。
よく見てみれば、切れ長で少しきつめな目元はよく似てるし、二人とも男女の平均よりもずいぶんと背が高い。言われてみれば、よく似た姉弟だ。
「……そー言えば……一度、店に、来てた?」
そう尋ねると、凪歩も名を知らぬ青年も異口同音に首肯したので、翼は……
「ああ……お風呂……たまにのぞきに来る弟……くん?」
翼が言った瞬間、凪歩は脱兎のごとくに逃げ出し、弟君は鬼神の顔で彼女を追いかけていった。
そして、翼は……
「……軽い、冗談なのに……」
と、駈けだしていった二人にぼんやりと小さな声を投げかけていた。
遠くで、開演ベルが鳴った。
それと同時に頭の上からかすかにため息が聞こえた……
……ような気がした。
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