年越し……新年(3)
 日付どころか年まで変わった深夜十二時だいぶん過ぎ。いくら年越しの夜だとは言え、住宅街は静まりかえっていた。そんな住宅街を静かに走る車が一台。明るいパステルカラーの車体が妖精のぬいぐるみにまみれた軽自動車、三島美月嬢のアルトだ。
 大きめの家が並ぶ住宅街の中でもひときわ大きな家の前、その車が止まると、後部座席からポニーテールで眼鏡を掛けた女性が下りてきた。
 ポニテ眼鏡の彼女――時任凪歩だ。彼女が運転席側へと周り、コンコンと窓ガラスを数回叩けば、内側に小さな妖精のぬいぐるみが貼り付けられた窓が微かなモーター音を奏で、開いた。
「ありがと。それと……大丈夫? さっきから、なんか、欠伸しまくってたけど……」
「ふわぁ……って……あはは、大丈夫ですよ〜」
 不安そうに尋ね凪歩の舌の根も乾かぬうちに、美月は大きな欠伸を一発。大きく開いたお口を恥ずかしそうに押さえながら、彼女はごまかすように笑う。それは凪歩よりも三つか四つ年上とは思えないほど幼い仕草だった。
「ダメそうなら……うちに泊める……こたつで寝ることになるけど……」
 美月の向こう側、助手席に深く腰を下ろした翼がいつもの鉄仮面で言えば、美月は
「せめて、布団は用意してくださいよ〜」
 と、泣きそうな顔をして見せるも、翼は「予備はない」の一点張り。
 そんな二人のやりとりに凪歩は頬を緩める。そして、努めて冗談めかした口調で彼女は言った。
「じゃあ、うちから布団二組持って行くから、私もつばさんちで泊めてよ」
 凪歩の言葉に翼がじーっと普段にも増して冷たい視線を向け、そして、抑揚のない冷たい口調で言った。
「……馬鹿は……休み、休み、言え……」
「ひどっ!?」
 二人のやりとり、挟まれた形の美月がもう一度笑う。
 結局、
「あはは、今からお布団、用意して貰えませんよ〜」
 と言うことで、凪歩は自宅に素直に帰ることになった。
 その別れ際、美月が窓を閉める前に凪歩に尋ねた。
「っと……それじゃ……えっと、凪歩さんは明後日でしたっけ? 次の出勤。世間様と同じで四日から仕事始めでも良いんですよ?」
「いや、吉田さんに伝票の整理とかやるように言われてるし……他にも一応、仕事はあるから」
「ああ、そうでしたね。それじゃ、また明後日」
 こんなやりとりを終えると、美月はパワーウィンドウのスイッチを押し、窓を閉めた。窓が閉まりきるよりも早く、妖精まみれ一号はその場を後にした。
 夜更けの自宅前に一人取り残された凪歩は、美月の車が見えなくなるまで、その場で立ち尽くした後、踵を返す。大きめの門をくぐれば、そこは無駄に広い自宅の庭だ。
 葉を落とした庭木達が、春を待ち焦がれる庭を通り抜け、凪歩は玄関へと向かう。
 その足取りは重い。
 広い庭……とは言っても、まさか、歩いて何分もかかるほどの広さがあるはずもない。随分と重い足取りではあったが、彼女はあっという間に分厚い玄関ドアの前へと立つ事になった。
 星が降りそうなほどに晴れ上がった夜空の下、冷たい風が凪歩の頬を撫でる。
「……」
 数秒の逡巡……その後に凪歩は意を決したかのように扉に手をかけた。
 音もなく、ドアは開く。
「……ただいま……」
 小さな声で呟く彼女を最初に出迎えたのは、暖房の効いた暖かな空気と見知らぬ草履、そして……――
「あら、お帰りなさい」
 頭からホカホカと湯気を上げてる母の声だった。
「ただいま」
 先ほどよりかは少し大きめ、はっきりした声で母に声を掛け、凪歩はパンプスに指を引っ掛け脱ぎ捨てる。ポンポンとダークブラウンのパンプスが玄関の御影石の上に転がる。それを直すどころか、見向きもしないで、彼女は、靴下にも同じように指を引っ掛け、脱いでしまうと、丸まったそれをポン! と母の手のひらに乗っけた。
「――って、親に渡せばなんでも綺麗になって帰ってくると思わないようにね? お風呂は?」
「今夜は良いよ……とっとと寝たいの……」
 娘が吐き捨てた言葉と履き捨てた靴下とを手の中で弄びながら、母は軽く肩をすくめる。
「……寝たい、ね……?」
 そして、呟かれた言葉には小さなトゲのような物、それが凪歩の胸を微かにひっかく。
「……なんだよぉ……早く寝たいんだから、言いたいことがあるならさっさと言ってよ」
 小さな傷に居心地の悪さを感じて、つま先を階段へと向ければ、母はもうひと言呟いた。
「お義母さんなら、もう、二階の客間よ……」
 階段へと向けていた足は半歩で止まった。
「……寝ちゃった?」
 首だけ回し、背中越しに尋ねる言葉に、母が答える。
「さあ? テレビでも見てるかもね。宵っ張りなお人だし」
 そう言われると、凪歩は足を向けていた階段に背を向けた。
「じゃあ……入ろうかな?」
「そうしなさい。お風呂のお湯は――あっ……」
 母の言葉が詰まったのと、背後から階段を下りる足音が聞こえたのはほぼ同時だった。
 半ば以上反射的に振り向けば、そこには藍色の作務衣を寝間着にした老婆が居た。髪は真っ白だし、顔は深い深い年輪が刻みつけられてはいるが、きつめのまなざしは衰えることなく、その背にはまるで一本の鋼が通ったかのようにしゃんとしていて、階段を下りる足取りにも危うさを見出すことは出来ない。
 かくしゃくとした老婆、それが彼女を表すもっとも最適な言葉だった。
 その姿を見た時、凪歩は己の心臓がぎゅーっと冷たい手で握りしめられるような感覚、それと、膝から力が抜けていくのを感じた。
「……冴子さん、申し訳ありませんが、お茶をいただけませんか?」
 全身を緊張させる凪歩の隣、孫を一瞥することもなく、老婆は通り過ぎた。
「あっ、あの……あけまして……おめでとうございます」
 震える声で、凪歩は言い、頭を下げた。
 しかし、老婆の視線が凪歩へと向くことはない。
 これはいつものことだ……と言うか、凪歩がこの老婆とまともに会話をした記憶など、一つもない。
 凪歩の二人の兄、洋と静流は恐ろしく頭の良い子供だった。幼稚園に入る頃にはひらがなとカタカナの読み書きはほぼ出来たし、自分の名前くらいなら漢字で書けてた。そして、勉強することが全く苦でない二人は、競うように学習に力を込めたせいで、二人とも成績はどんどん伸びていった。
 一方、凪歩は、まあ、ひと言で言えば並の少女だった。元々の出来も並だし、並の子供のように勉強よりもゲームをしたり、テレビを見たり、友達と人形で遊んでる方が好きな少女だった。
 そうなると、必然的に出来の良い兄二人とそうでもない妹という形で比べられる。それが凪歩には嫌で嫌でどうしようもなかった。
 そして、一番になって比べていたのが、この祖母だった。
 二言目には「お兄ちゃん達を見習いなさい」「お兄ちゃん達はこんな事をやらなかった」「お兄ちゃん達ならこんな事はできた」等々……
 そう言う祖母に対して、俯き、話を聞いてるだけの自分、それが凪歩と祖母との関係だった。
 しかし、いつまでも子供はうなだれてばかりではない。
 ある日、凪歩の我慢の限界がやってきた。
「ばあばなんて嫌い」
 瞬間、凪歩の頬が焼けるように熱くなった。
 ひっぱたかれたのだと言う事を理解するのに三秒ほどかかった。
 その夜、父が随分と長く祖母と話し、翌日から、祖母は凪歩と口をきかなくなった。
 母曰く――
「お父さんが凪歩を上の二人と比べるのは止めろって言ったら、じゃあ、もう、あの子には何も言わないって言ったのよ……」
 と言う事らしい。
 じゃあ、凪歩も無視してやれば良い。凪歩とで祖母の顔を見る度、ひっぱたかれたときのこととその時の鬼のような形相を思い出して、身が縮む思いをするのだから……と思って無視をすれば、聞こえよがしに母の前で「あの子はあいさつの一つも出来やしない。親が悪いんだ」と吐き捨てる。
 そして、そのたびに母が頭を下げるハメになる。
 あいさつをしても無視されるし、しなければイヤミを言われる。当然、ますます、相手のことが苦手になる。結局、隣の県で一人暮らしをしている老婆がこちらにやってくる度、凪歩は居たたまれなくなると言うのが、定番になっていた。
 さて、閑話休題。
 頭を下げた凪歩に一瞥も与えず、老婆はすたすたとキッチンの方へと歩みを進めていく。それを見送ると、凪歩同様に取り残された母がそっと、
「……気にしないのよ……」
 そう囁くのを耳にしながら、凪歩は二階へと上がった。
 結局、凪歩はこの日、お風呂には入らなかった。

 二階に上がってポフッとベッドに肢体を投げ出す。柔らかな羽根枕に顔を埋めていると、一気に全身から疲れが滲み出してくるようだ。服を脱ぐことすら億劫。でも、着たままで寝ると肩が凝る……そんな事を考えながらも、時間は無情に過ぎていく。
 普段の仕事上がりならこうしているだけで、心地よいまどろみの中へと意識が落ちていくのだが、今日はまんじりともしない。疲れ自体はいつもの何倍も溜まっているのだが……
 そんなとき、小さなノックの音が二つ聞こえた。
「……開いてる……」
 顔も上げずに答えたのは、ノックして部屋に入ってくるような人物がこの家には一人しかいないからだ。
「凪姉、漫画、読ませて」
 聞こえてきたのは、案の定、そのたった一人の人物、弟、灯の声だ。野球部を引退し、坊主頭を止めて伸ばし始めたら、割とイケてるっぽいともっぱらの評判。そのイケてるという評判の顔を枕と顔の隙間からチラリと一瞥すると、
「勝手に」
 そう答えた。
 すぐに足下の辺りから、ゴゾゴゾと本棚を漁る音が聞こえ始める。
 それを聞きながら、顔を少し動かす。頬を枕に埋めて、視線は目の前に反り立つ乳白色の壁。ぼんやりと見詰めながら、彼女は足下から聞こえる音に意識を向ける……どうやら、何冊かの本が取り出されたようだ。
 されど、いつまで経ってもドアが開く音も閉じる音も聞こえやしない。
「なにしてんの?」
 尋ねて、体を起こす。そして、顔を向ければ、白いジャージを着た灯が部屋の隅っこ、本棚を背もたれ、床に座り込んだでペラペラとマンガの本をめくっていた。しかも、その本は随分前に買った奴で、灯だって何回も読んでる奴だ。
「何って……マンガを読んでる」
「灯……部屋で読みなよ」
「どこでだって良いだろう? ……ああ、着替える? だったら、出るけど」
 視線はマンガに向けたまま、ペラペラとページをめくりながら、彼は答える。
「ああ……着替え……着替えね……」
 言われて自身の体を見れば、制服どころかその上に羽織ったコートも着っぱなし。ひとまずコートを脱ぐと、彼女はポンとフローリングの床に投げ捨てた。
 そして、ベッドに座った彼女は壁とヘッドボードが作る角に体を押し込む。視線はぼんやり、読書中の弟へ……
「……灯、見てた?」
「……凪姉が帰ってきたのと、”あの人”が下に降りたのは知ってる」
「そっか」
 本から顔を上げずに灯が答え、凪歩も部屋の片隅に体を押し込んだままで相づちを打った。
 足をベッドに投げ出し、腰窓から見える新年の風景に視線を投げる。部屋が明るいせいか、外に居たときに見えていた星も、ここからでは見えない。代わりに窓ガラスが鏡のように室内を……窓を眺める自分とマンガの本をめくる弟の姿をぼんやりと映し出しているのが見えた。
「受験勉強、進んでる?」
「……ボチボチ……行き場がなくて浪人って事は無さそうだよ」
「一人暮らし、するの?」
「第一志望は県外だけど、第二と第三は地元。凪姉の所の学校が第三志望だよ」
「ふぅん……第三志望かぁ……」
 そー言えば、浅間良夜も第三志望で入学したとか言ってたなぁ……と下らないことを思い出す。
 その意識の隙間にするっと弟の言葉が滑り込んだ。
「それで、凪姉、明日は? 元旦、休み?」
「えっ? うん、やす――……あっ、いや、仕事、仕事だよ……」
 漏れた本音を慌てて言い直しても時すでに遅し。顔を上げた弟がまっすぐに凪歩の顔を見詰め、クスッと鼻で笑うような表情を見せて言った。
「ああ、休みだけど、仕事だっつーて、朝から出掛けるつもりなんだ?」
 その言葉に、溜め息を一つ吐くと、彼女は素直に答えた。
「……そーだよ……家に居たってヤな気分になるだけだもん。あんたは? 予備校はどうせ冬休みなんてないんでしょ?」
「自習室は開いてるけど、強制じゃないよ。俺もあの人の相手をするのは親父とお袋に任せて、自習室で過去問でもやるか……」
「お年玉貰うんだから、少しくらいは相手して上げなさいよ」
「良いんだよ、元旦から真面目に勉強してるって方が世間的にはウケがよくて、あの人もきっと喜ぶさ」
「まあ、それもそうだね……しかし、明日、朝から出掛けるのは良いけど……何処に行くかなぁ……」
 ぼんやり呟く……元旦早々電話を掛けて呼び出せるような友達も居ない。みんな、家で家族と過ごすことだろう。一人で出かけて時間の潰せるところ、出来れば余りお金の掛からないところが良いなぁ……と思考を巡らせる。
「映画でも見に行ったら?」
「映画……かぁ……」
 妥当と言えば妥当な提案を口の中で数回反復。うーんと唸るような声を上げて、思案する事数秒……彼女はポン! と膝を叩いて、決断した。
「よし! 灯、付き合え!」
「……勉強するって言ったの、聞こえてなかった?」
 あきれ声でそう言っても、現状、漫画を読んでる奴がそう言っても説得力は無かった。

 さて、翌日。社会人の凪歩はもう貰っていないし、祖母には貰った記憶も無いが、灯の方は未だ高校生と言う事で祖母を含めた家族からお年玉を徴収するという大事な仕事が残っている。それに片方が仕事で片方が勉強と言ってるのに、同時に出るのもおかしい。
 そう言うわけで、凪歩は普段の出勤時間に、灯はそれよりも電車一本遅くに家を出ることにした。
 目的地は、先日、浅間良夜に連れて行って貰ったショッピングモールだ。その最上階はシネマコンプレックスという奴になっている。そこの入り口を待ち合わせ場所にしていた。
 電車とバスを乗り継いで、ショッピングモールへ……そこは暖房が少し強めで、コートを着ていると汗ばむほど。
 辺りには元旦だというのに、カップルだの家族連れだのが結構入っているようだ。
 もっとも、凪歩の場合、相手は弟だし、着ている服もアルトの制服と私物のコート。化粧も普段通りに控えめと言うより、ほぼスッピンな感じ。それでも邦画とはいえ、話題作だという触れ込みだし、弟と一緒に出掛けるというのも久し振り。総論的にはちょっと楽しみと言ったところ。
 元旦のショッピングモールをぶらぶら……電車一本分の時間を潰す。一部の店舗は営業を休んでいるようだが、半分くらいは初売りなんかをしてて賑やかな空気に満たされていた。
「そろそろかな……」
 腕時計にチラリと視線を落とす。予定通りにならそろそろ奴も来るはず。そろそろ、待ち合わせ場所のシネコンの入り口へと向かおうか?
 そう思ったとき、最上階へと続くエレベータ、その入り口で――
「なぎぽん」
「あっ、えっ?」
 掛けられた声に顔を向けたら、そこには同僚の能面女、寺谷翼がよく着ているダッフルコートの下に珍しくスカートを履いて、そこに立って、居た。
「なんで!?」
 凪歩が目をむけば翼は静かに答える。
「……映画……見に来た」
 そして、その翼の頭の上で……
「ふわぁ……ねむ……」
 大きな欠伸をしている妖精が居ることと、自身の背後で姉を見つけた弟が近づいてきていることを、凪歩はまだ知らない。
 

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