年越し……新年(2)
 良夜と美月がなんとなく居たたまれない感じを味わってから数分の時間が過ぎた頃、美月が運転する妖精まみれ一号(別名スズキアルト)は大晦日の国道をトコトコと走っていた。
 大晦日だというのにと言うべきか、それとも大晦日だからこそと言うべきか? 日付変更線間際でも国道には結構な車通りが存在している。
 そんな夜なお賑やかな国道からひょいと右折一回、直進数秒でちょっとした住宅街を駆け抜ける。途端にそこは田んぼのど真ん中。
 国道を走るトラックや車の音も聞こえず、明かりも届かない。刈り入れが終わり春を待つ田んぼを、疎らな民家から漏れ出る微かな明かりだけが支配する静かな田園風景が広がっていた。
「……――それであの二人はあっちに先に行ってるのかな?」
 薄暗い窓の外へ向いていた青年の意識が姉の声に引き戻される。
 運転席と助手席の間、ひょいと小夜子が顔を出す。
 その顔の両側からほぼ同時に二つの声が発せられた。
「えっ?」
「はい」
 姉の向こう側から聞こえる声に青年はもう一発、先ほどと同じ言葉を吐く。
「えっ?」
「ですから〜あのお二人も先に行ってるんですよ〜」
 美月がそう言ってにっこりと笑う頃、彼女が運転する車は漆黒の闇夜の中、ポワッと浮かび上がる祭の灯へと近づいて行った。

 たまたま、空いていたというか、目の前で車の出て行ったと言うか……ともかく駐車スペースに美月が運転する車がスルリと滑り込む。止められた車から降りると、向こう側では、美月が携帯電話を取りだし何処かに電話をし、その隣では姉が眠たそうに大きな欠伸をしているのが見えた。
 そんな二人の女性を車越しにぼんやりと見詰めながら、彼は誰に言うともなしに呟いた。
「新人二人も来るとはなぁ……暇なのか?」
「まあ、忙しくはないでしょうね。二人とも明日は休みなんだし」
 そう答えたのは、良夜の胸元を今宵の居所に決めた妖精さんだ。
 その彼女、見下ろせば珍しく髪をアップにまとめているのが見える。そして、首から下は見事な紅の呉服。ちょっとした手作り雑貨を売ってる店で、美月と良夜が折半で購入した物だ。美月の行きつけの店とあって、随分と勉強してくれたが、まあ、安い買い物ではなかった……って話は余談だ。
 その妖精さんが胸元でゴゾゴゾと動くのを感じながら、青年も答えた。
「ん? 休みなのか?」
「休みよ。美月が、毎年、フロアに枕を持ち込んで寝る準備するような日に従業員呼んでどうするのよ」
「まあ……元旦早々喫茶店ってーのもねーか……?」
「そーね」
 それだけ答えて、彼女は良夜のレザーコートの中へと引っ込んでいった。きっと、出した顔が寒かったのだろう。それを意識すると自身の頬を撫でる風をよりいっそう冷たく感じ始めた。
 自然と前身頃を掴む手に力がこもり、背中が丸くなる。
 丸まった背に首だけをひょこっと上げて、彼はぐるりと辺りを見渡した。
 駐車場の向こうには小さいが歴史を感じさせる山門が見える。そこから境内へと続いているのだろうが、綺麗に整えられた生け垣のおかげで中は余りよく見えない。それでも生け垣の隙間から漏れ出る灯やざわめき、何よりも軽い足取りで山門へと入っていく人々の姿が、賑やかな祭の雰囲気を青年に感じさせた。
 その人の流れの中、逆行してくる二人の女性が居た。
「遅かったね?」
 そう言うのは、右手に携帯電話、左手に焼きイカ、ハンドバッグを肘にぶら下げ、上機嫌な笑顔をべったりと貼り付けた女、時任凪歩だ。
「……こんばんは……」
 そのポニテメガネの隣では翼がいつものローテンションで呟く。もっとも、彼女の手にはたこ焼きがひと船、かぐわしい香りを放っている辺り、彼女も十分にこの状況を楽しんでいるのだと言う事を察することが出来た。
「ごめんごめん、りょーや君が遅くて〜それで、お参りは?」
「人のせいにすんな」
 姉の言葉に頬を膨らませてみても、車の向こう側には届きはしない。それどころか――
「まだだよぉ」
「……なぎぽんがあっちこっちで買い食いしてたら……電話が掛かってきた……」
「あはっ、屋台の買い食いは楽しいですよねぇ〜」
 姉を含めて四人の女性は、車の反対側であれやこれやと楽しそうに華やかなおしゃべりの真っ最中。反応してくれるのは、胸元からひょっこりと顔を出した妖精さんだけ。
「ばーか」
 全く嬉しくない反応に、青年はチッと小さく舌を打って、車の前を通って向こう側へ……
 そして、女の集団から数歩ほど下がったところを、彼は山門へと向かってのんびりと歩き始めた。
「あっ、浅間さん、そのポンチョ、可愛いねぇ〜?」
「ああ、うん、去年、買った奴なんだけど……可愛いけど、結構、寒いんだよ、これ」
「オシャレは我慢だって、ブティックの店員さんに言われたんですよ〜翼さんのコートは暖かそうだし、可愛いし、良い感じですよね」
「……でも……重い……肩が、凝る……」
 前を歩く四人の女性達は、互いの防寒具を褒め合うのに忙しくて、良夜のことなど忘れてしまっていそうだ……
「りょーや君なんて、全然、こー言うの気付かないからねぇ〜」
「ああ、気付きませんねぇ〜首から上しか見てないんじゃないんですか?」
「でも、吉田さんの髪型が変わってても気付かなかったとか言ってたよ?」
「……バカ舌は目もバカ……」
 と、思ってたら、割と覚えてた。
(こいつら……)
 一発ぶん殴ってやろうか……? と思ったが、きっと、殴り返されるのでやらない……けど、ムカツク連中だな、思いながらに後ろを着いて歩くと、胸元から、また、声が聞こえた。
「まあ、概ね、こんな感じよ」
「なにが?」
「だから、あの四人、共通の話題が貴方……正確に言うと、貴方の悪口」
「……ったく……人のこと、玩具にしやがって……」
 不機嫌に呟きながら、彼は山門の高い敷居をまたぎ、彼は境内へと入る。参道の賑やかさは思って居た以上だ。まっすぐに歩くことも出来ないくらいに人出があって、その両脇を十を優に超える数の出店が固めていた。
 その賑やかな空間を石灯籠からこぼれる明かりが、柔らかく演出する。
「まっ、貴方のことは私が相手にしててあげるから、とりあえず、綿菓子買いなさい、綿菓子」
「……相手していらない」
「じゃあ、静かにしててあげるから、綿菓子買いなさい、綿菓子」
「…………買ってやるから、せめて、相手しろ」
「……言っておいてアレだけど、だいぶん、情けないわよ……」
 胸元から聞こえる力なき声を半ば無視して、彼は辺りをくるっと一瞥。定番の綿菓子は、やっぱり定番のたこ焼きのお隣。ソースの芳ばしい香りに心を奪われつつも、まずは、綿菓子をテキ屋のおっちゃんに声を掛ける。
「綿菓子一つ。袋に入ってない方」
 それと同時に背後から飛んでくる一つの声。
「あっ、良夜さん! 除夜の鐘を聞きに行きますから、買い食いとか、してちゃダメですよ〜」
 美月の声に振り向き、顔を戻せば、すでに綿菓子は良夜の目の前。厳つくはあるが、何処か憎めない物を感じるおっちゃんがニマッとなんか底意地悪く笑って「三百円」とおっしゃる。今更キャンセルするわけにも行かず、素直にポケットから出した小銭を綿菓子とトレード。
「ごちそうさま♪ あっ、ひとつまみで良いから、この先に付けて」
 言って、彼女は懐に潜り込んだまま、ストローをズイッと胸元から差し出す。
「……お前、出てくるくらいしろよな……奢らせてるんだから」
「着物が重くて動くのが億劫なのよ。良いから、刺して……それとも、この先に貴方の肉を刺して囓ってやりましょうか?」
「……お前、凶悪だよ」
 凄くアルトにため息一つ……青年は素直にフワフワの真っ白い綿菓子をひとつまみ、出来るだけ潰さないよう、優しく引きちぎると、それをアルトのストローの切っ先に突き刺してやった。
「ありがと」
「……とりあえず、相手しろよ」
「食べ終えたらね」
「詐欺だな……」
 別に相手して欲しいわけでもないけど……内心そんな事を呟き、彼は一足先を進む女達の一団へと急いだ。
「鐘撞き堂はこっちですよ〜」
 良夜が追いつくと、美月は人混みの中を縫うように歩き始める。本堂へと向かう参道から小さな池の畔へと向かう細い小道だ。その池の向こう側に鐘撞き堂が見える。さすがにここまで屋台は出てないが、小さな池の向こう側から聞こえる喧噪だけは良夜の耳に触れていた。
 人混みの中から一段高くなった鐘撞き堂を見上げれば、ゴーン、ゴーンという鐘の音が心地よい余韻を残しながら、大晦日の空へと広がっていくのを、青年は感じ取ることが出来た。
 良夜の隣、肩が触れあうくらいの距離で見上げある姉が呟いた。
「後……何回くらいかなぁ?」
「多分……まだ、始まったばかり……だと思う」
 答えたのは、姉の向こう側にいた翼だった。彼女は、自身の手元、手首に巻きついた腕時計へと視線を落としながらに答えると、顔を上げ、鐘撞き堂を見上げた。
 そして、また、ポツリと小さな声で言った。
「……最後の一回は新年に突く……から……」
 翼に言われ、青年もポケットから携帯電話を取りだし開いてみる。年越しにはまだ少々の時間がある。それを確認すると、彼は携帯電話を片付け、もう一度、鐘撞き堂を見上げた。
 良夜の頭の高さが鐘撞き堂の床くらい。そこで初老の住職が一回毎に手を合わせ、お経を唱えながら、ゆっくりと、まるで行く年を惜しむかのように鐘を突いていた。
 そんな鐘撞き堂をぼんやりと見上げて居れば、唇から洩れる言葉は決まり切っていた。
「……今年も色々あったよなぁ……」
「定番の感想ね。もう少し捻りなさい」
 応えるアルトをチラリと一瞥。胸元から覗き込む妖精はあからさまに、そしてわざとらしく眉をひそめていた。その愛らしくも小憎たらしい顔から視線を住職へと視線を戻し、彼はもう一度呟く。
「……今年も色々やられたよなぁ……」
「誰によ?」
「……お前……」
「色々してあげたのよ、感謝なさい」
 綿菓子付きのストロー片手に、妖精は胸元の狭い空間で器用に胸を反り返らせて見せていた。器用なもんだと呆れるやら、感心するやら……それに応えるのも面倒臭いと言わんばかりに彼は「へいへい」と投げやりに答え、ふと、視線をそらした。
「えへへ」
 そらした先には美月の黒目がちな瞳……
 交わる視線に気恥ずかしい物を感じながら、彼は尋ねる。
「なに?」
「いいえ、今年も色々あったなぁ〜と思いまして」
 屈託のない微笑みで彼女が応えれば、また、胸元の妖精が嘯く。
「……何もなかったじゃない……今年も」
「……うるさい」
「ふえ?」
「ああ、何でも無いよ。なんでも」
 キョトンとした表情の恋人に誤魔化しの笑みと定番の言い訳をすれば、美月はクスッと小さく笑って見せた。
「来年の目標は、良夜さんの『何でもない』に誤魔化されないってことにしましょう」
「美月さんの来年の目標は『部屋の掃除』じゃないの?」
「あっ、今、酷いこと、言いましたね!?」
「気のせいだよっと……あっ……」
 良夜の言葉に美月がムッとした表情を見せ、口を開こうとした、まさにその瞬間だった。それまで静かに響いていた鐘の音が止まる。ピーンと糸が張ったように緊張していた空間は、何処か浮き足だったざわめきに支配され始める。
「あけましておめでと〜」
 その言葉を最初に言ったのは姉の小夜子だった。
「あけおめ、ことよろ〜とか言ってみたりして?」
 ちゃかした口調で凪歩が……そして、翼はいつものローテンションで
「……おめでと」
 と、ひと言だけ。
「おめでとう。今年もよろしく」
「おめでとうございま〜す」
 良夜と美月も異口同音に新年のあいさつを口にし、ぺこりと頭を下げる。
「金髪の綺麗な子が居ないの、残念だね」
「金髪の綺麗な子?」
 三々五々、鐘撞き堂から離れる人の流れに乗っかりながら、呟いた姉の言葉をオウム返し。それに応えたのは、呟いた本人ではなく、胸元の妖精さん。
「貴美のことでしょ?」
「ああ……吉田さん?」
 伝えるともなしに伝えた妖精の言葉に小夜子は「そんな名前だったかな?」と答え、人の流れに乗って本道へと続く参道を歩き始めた。
「あの子がいたら、アルトの従業員、全員だったでしょ?」
「お祖父さんが居ませんよ」
「あはは、そうだね〜」
「お祖父さんは今頃家で、のんびりしてますよ〜」
(家でのんびり、たばこを吸ってんだろうな……)
 何も知らない小夜子と美月が笑いあうのを傍目で見ながら、事情を知ってる連中は内心苦笑い。新人二人に良夜、ついでに胸元のアルトも互いに視線を送りあって、肩をすくめる。
 そして……人混みに押されながら、押しながら、たどり着いた本堂の前、カランカランと大きな鰐口を鳴らして、五人の男女と一人の妖精は静かに手を合わせ、初詣は終了だ。
「お疲れさんっと……それじゃ、帰って寝っかなぁ……」
「えぇ〜なんか、今夜は帰りたくないなぁ〜」
 良夜の言葉に応えたのは、ポニテメガネの凪歩だった。
 そのポニテメガネの言葉に姉が喜色満面で声を上げた。
「りょーや君! ねーちゃん、リアル『今夜は帰りたくないの』を初めて聞いたよ!? もう、泊めてあげるしか!?」
「食いつくな、喜ぶな。この人はイベントがあるたんびに帰りたくない、帰りたくないって言ってるだけなんだから」
 姉の言葉に眉をひそめて言えば、美月やアルトどころか、ポニテメガネ本人までもが「あはは」と声を上げて笑う。そして、今度は本道から山門へと向かう帰り道の人の流れに乗って、五人と妖精は駐車場へと向かう。
 もっとも、出店の一つ一つに誰かが引っ掛かりながらの帰路は往路よりも随分とゆっくり目だ。良夜もアルトの食べ残した綿菓子を胃袋に片付けると、ジャンボフランクと豚串を一本ずつゲット。
「これの原価とか経費とか、だいたい察しが付いて、物凄い暴利を取ってるなぁ〜って思うのに、買っちゃいますよねぇ? こー言う屋台って」
 ベビーカステラの袋を小脇に抱えて、美月は苦笑い。その笑顔に、やっぱり、各々好き好きに戦利品をゲットしている連中が笑ってみせる。
 そんな楽しい帰り道が駐車場でフィナーレを迎えた後、姉が言った。
「じゃあ、ねーちゃん、先に帰るからぁ〜りょーや君は美月ちゃんと一緒に他の子、送っておいで」
「えっ?」
 言うだけ言って踵を返す姉に、青年は顔を上げた。そして、思い出すのはここに居る人数(除く妖精)と車の定員。
「ああ……って、こんな夜中にねーちゃん一人で帰らせるわけにいかねーだろう?」
「気にしないで良いよ〜そんなに遠くもないし、大丈夫だよ〜」
 姉の軽い言葉に良夜は「チッ……」と舌打ち。そして、未だ車の前で待ってる美月の方へと視線を向けた。
「悪いけど、一人で大丈夫だよね?」
「勿論ですよ〜車くらい、一人で運転できますよ」
 胸を張って答える美月から、青年は視線を胸元へ……それを察したのか、コートの中でダラッと豚串の肉をつまんでいた妖精がひょっこりと顔を出した。その妖精の顔を見ながら、そして、美月の方を豚串の串で指しながら、青年は言う。
「……アルト、この人が居眠り扱きそうになったら、思いっきり刺して良いからな」
「ふえっ!? なんですか!? その信用のなさ!?」
 胸元から這い出した妖精はよたよたとおぼつかない飛び方。着物が重いと言ったのは事実のようで、飛ぶと言うよりも堕ちると言った趣で、彼女は車の窓枠に着地を決めた。
 落ちた窓枠から良夜を見上げ、彼女は言う。
「りょーかい。ざっくり行ってやるわよ」
「……――って、アルトも言ってる」
「ふぇ……アルトは私の味方だと思ってたのに……裏切られた気分ですよぉ……」
 少々芝居がかった素振りで美月は泣き真似をしながら、運転席へ……ドアが空いた隙を狙って妖精もスルリと潜り込めば、モソモソと美月の肩を伝って、彼女の頭頂部へと登頂する。
 それを確認し、青年はコンコンと軽く窓をノックした。
 スーッと開く窓ガラス……顔を出した美月の頬は相変わらず膨れ気味。可愛く膨らんだほっぺたはただでさえ幼く見える彼女をいっそう幼く見せた。
「なんですか〜? 信用の無い美月さんですよ〜」
「……拗ねるんじゃないの、店に帰ったら、電話してよ」
「ふえ? 起きてるんですか?」
「まあ、一応ね……気になるし。気を付けて」
「はぁい。じゃあ、行ってきますね」
 気を取り直して……と言うか、機嫌が悪かったことも忘れて、美月は明るく手を振る。そして、窓を閉めたかと思うと、スーッと駐車場から車を出した。

 紅いテールランプが小さくなっていく。その隣で黄色いウィンカーが数回瞬くのを見送った後、青年は姉へと顔を向けた。
「じゃあ、帰ろうか?」
「りょーや君も良い所あるね?」
「……いくら大晦日だって日付変わってる田舎道、ねーちゃん一人で帰らせられるか……普段、自分のこと、女だ、女だって良く言うくせに……」
「あはは、こっちじゃないよ。美月ちゃんの方。起きてて待ってるんでしょ?」
 笑う姉と一緒に良夜は薄暗い田舎道を歩き始める。十二時も過ぎた深夜とあっては、さすがの大晦日とは言え、疎らな民家からこぼれる明かりも随分少なめだ。祭の灯が遠くになれば、天上高くにぽっかりと浮かんだ月の明かりくらいしか、足下を照らす光はなかった。
「あっちもあっちで気になるし……まあ、あの人は変な強運が着いてるから、事故とかは起こしそうにないけど……」
「今日も目の前で駐車場が空いたもんね?」
 行きは車で数秒だった田舎の道も歩けば結構な時間が掛かる。真っ暗な足下を月明かりだけを頼りに歩いていれば尚更だ。もっとも、薄暗い田んぼ道が終わり、国道に出たところでそこは結構きつい上り坂。車や原付で移動することが習慣になっている姉弟の足取りが軽やかになる事は決してない。
「やっぱり、タクシーでも呼べば良かったかなぁ……」
「……ねーちゃんがタクシーで帰るなら、俺は美月さんといっしょにあの二人を送ったけど」
「勿論、りょーや君が半分出してくれる計算で喋ってるんだよ?」
「……イヤだよ、高いよ、深夜割り増しだって付くんだぞ、タクシーは」
 そんなアホな事を言いながら、国道の峠をのんびりと登っていく。深夜の大晦日、国道を行き交う車は少々少なめ……いつも賑やかな国道とは思えないほど。
 一組の姉弟は夜道を互いの近況を始めとした愚にもつかぬ事を語り合いながら、ゆっくりと坂を上がっていた。
 そして、ようやく、アパートの入り口……
「ああ……疲れたぁ……やっと、着いたよ〜階段登るの、面倒臭いよぉ〜」
 エントランスの入り口、ペタンと座って姉は力なく笑う。元々体力の無い出不精の女性だから、人混みの中、ウロウロした挙げ句に急な坂道を歩いて上がってきたのが堪えたのかも知れない。
「だいたい、いつからねーちゃんが二年参りとか行くキャラになったんだ?」
「うーん…………丁度去年の今頃かなぁ?」
 エントランスの入り口、コンクリートブロックの上にちょこんと座って、姉はうすらぼんやりとした口調で答える。その姉の隣に良夜も腰を下ろし、新年早々の夜空を見上げ、そして、言う。
「……割と、最近だな?」
「まぁねぇ〜りょーや君とこーやって遊べるのもそんなに長くないかなぁ〜って気がしてきて」
 立てた膝の上、突いた肘に顎を乗せ、弟の方へと視線を向けた。
 その柔らかな笑顔を見ながら、彼は軽く肩をすくめた。
「就職したって、たまには遊べるだろう? 不良教師なんだし」
 その弟の言葉に姉はふっと頬の力を抜き、目を閉じる。
 しばしの沈黙。
「……?」
 その意味の取りづらい沈黙に釣られるかのように、青年も口を噤む。
 そして、彼女は目を開き、ニマッとこぼれんばかりの笑顔で言った。
「でも、ねーちゃんが結婚したら、もう遊べないかなぁ〜って思って」
「えっ!? いつ!?」
「えっとぉ……彼が結婚出来るようになるのを待たないとねぇ……若すぎると色々あるじゃない?」
「って、マジで、相手教え子かよ? 嘘だろう?」
 アタフタ……意味も無く両手をバタバタと動かし、彼は取り乱し始める。そんな青年に姉はクスクスと楽しそうな笑みを浮かべるばかりで、彼の並べ立てる問いかけには何一つとして答えない……――
 ――のではなく、ひと言だけでしか答えない。
「嘘だお?」
「えっ?」
 ぴたりと止まる両手に、自覚できるほどの間抜け顔。
 唖然と固まる弟をほったらかしに、姉はすっくと立ち上がった。そして、彼女はエントランスへと入っていく。疲れただの、しんどいだの言ってたのが嘘のような足取りだ。
 そして、彼女はひょいとクビだけを青年の方へと向けて言い放った。
「あはは、ウソウソ。さてと……一休みも済んだし、帰ろう」
「ねーちゃん、どこまでが嘘だよ!?」
「さあ? ねーちゃんが結婚したときに解ると思うよ、請うご期待って所じゃないかなぁ?」
「ねーちゃん! 急に結婚するとか言われても祝いとか、出せねーからな!」
 とっとと階段へと足を急ぐ姉を追いかけ、彼は少々大きめの声で怒鳴った。普段のこの時間なら多少と言わずに迷惑な程度の大きさ。しかし、学生達の大部分が里帰りし、残った連中も大晦日で出掛けてたり、遊んでたりで、迷惑に思う奴らはそんなに居ない。そんな静かなアパートの階段を姉はヒールの音を心地よく響かせ、登っていく。
「期待してないよ」
 そんな言葉だけを立ちすくむ弟に残して……
「ったく……祝いなんて出さねーからな……」
 踊り場を抜け、見えなくなった姉のひと言……その呟きは生まれたばかりの新年の空気に混じって、星の輝く空へと消えていった。
 誰の耳にも届かずに……
 何処かで木枯らしが吹くのを、良夜は聞いた。

 おまけ……
 その夜、美月からの電話はなかった。
 代わりに見知らぬ電話番号から無言電話があった。
「……アルトか?」
 と尋ねてみても返事はない。アルトの声は電話では伝わらないらしいと言う事は、随分前から知られていることだ。鈴虫と同じ。
「ともかく、何処か安全なところで寝てんだな? だったら、電話、切って良いぞ」
 と言ったら、素直に切れた。
 それから、翌日というか、翌朝……
「帰ってきたので、電話しました〜」
 と、美月がのんきな声で電話をして来たのは、アルトの営業開始直前。
 勿論、良夜は爆睡中。寝ぼけ眼<まなこ>の霞んだ脳みそで新年早々、美月が楽しそうに昨日の経緯を語ってくれていたのだが……まあ、脳みそに入るはずもない。かろうじて理解出来たのは、彼女が翼の家に泊まっていた、と言う事だけだった。
 あと、遅くまで女同士であれこれ喋ってたのも楽しかったらしい……

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