年越し……新年(1)
 姉が来た当日、帰れと言っても帰るわけはないし、イヤミを言えば泣かれるしで、半ば以上、諦めの境地で姉が荷ほどきするのを、良夜はのんびりと眺めていた。大量の荷物は着替えやら、本やら。どうやら、この姉は荷造りが下手らしく、大きなボストンバッグとキャリーケース一つにブチ込められていた荷物は思って居たよりも随分と少なかった。
 そんな荷物の中、気になる物が一つ、姉の手により取り出された。
「……アレ、ねーちゃん、そんな物、持ってたんだ?」
 姉が取り出したのは少し大きめのノートパソコンだった。黒いボディはぴかぴかに磨かれた鏡面仕上げ。手にした姉の顔が映りそうなほど。彼女はそれを部屋の中央にあるガラステーブルの上に置くと、青年の方へと顔を向けながらに言った。
「最近のOLはパソコンくらい持ってないと仕事が出来ないんだよ〜」
「……教師はOLじゃないと思うよっと……でも、ねーちゃん、家電製品と仲が悪いじゃん」
「製造業だよって……前にも言ったかな? この子はねーちゃんに優しいんだよ……――って、アレ?」
 パソコンデッキの前、オフィスチェアに座る弟から、姉の視線を奪ったのは、『優しい』と評価されたノートパソコン君だった。彼はピポーンと言う耳に触る音で主の意識を我が身へと引き戻した。
「えっ? アレ……? 何? どうしたの?」
 その情報に姉が顔色を変える。真っ青な顔で彼女が最初にやったのは、パソコンの液晶モニター、その左上を左手でペチペチと叩くことだった。
「どうしたんだよ……? それと、前から言ってるけど、使い方の解らない家電製品を叩いても、家電製品は応えてくれないからね」
 ため息混じりに椅子から立ち上がり、真新しいノートパソコンを覗き込む。国内某有名メーカーのロゴマークが入ったそれは、結構な高級品のはずだ。本を読むのは好きだけど、カタログを読むのは苦手という姉のこと、どーせ、家電屋に行って、店員に言われるがままに買っちゃったのだろう。
 姉がのの字を書いて遊んでいたタッチパッドを奪って、警告ウィンドウを表示させる。そこに書かれているのは『ネットワークが見つかりません』の文字だ。その文字にもう一発ため息を吐いて、彼は尋ねた。
「ねーちゃん、プロバイダ、何処だよ?」
 それに彼女はキョトンとした表情で尋ね返した。
「りょーや君、プロバイダーってなぁに?」
 その間の抜けた返事に良夜はがっくり。話を聞いてみれば、姉は買った電気屋に全ての設定を任せて、そのまま、使い続けていたらしい。自宅にいるときは無線で使い放題だから、きっと外に出ても使えると思い込んでいたようだ。なお、自宅の外に持ち出すのもこれが初めて。
 そんな話を聞いて確信したのは、この姉にIT関連の説明をするだけ無駄だと言う事だ。青年はガラステーブルの前で所在なく座っている姉に背を向け、先ほど整理し直したパソコンの前へと向き直った。そして、自分が使っているルーターと姉のノートパソコンを接続。後はちょいちょいと設定を弄ってやれば、姉のパソコンは広大なネットの世界に繋がる。後はブラウザを開いて姉に返せば、姉はぱちくりと何回も瞬きを繰り返し、弟に言った。
「わぁ、すごいね。さすが工学部〜ねーちゃん、文学部だから、良く解らなくてもしかたないよねぇ〜」
「……いや、世間の常識だし……高校でもこー言うの、教わったはずだし……」
 だいたい、姉が勤めてる学校でもパソコンの授業はあるだろうに……と思ったが、それはあえて言わないことにした。

 さて、それから数日後。その日は、十二月三十一日、大晦日。とは言っても、年中無休のスーパーマーケットでアルバイトの身だ。昼から夕方までの気だるい時間帯をアルトでダラッと過ごし、美月に「また来年、良いお年を」と軽く声を掛けたら、アルバイトへとご出勤。いつもと違うことと言えば、迎春準備の商品を片付け、代わりに初売りの商品を並べることくらい。後は、売れ残った鏡餅の行く末を心配する程度。
 いつも通り、バタバタと閉店までの時間をみっちり働き、帰宅するのはいつもと同じ十一時過ぎだ。手には売れ残りのコロッケやらとんかつやらが数個に、ちゃんと金を出して買ったカット野菜とポテトサラダがワンパックずつ。
「ただいまぁ〜」
 いつもよりも大きめの声で言えば、帰ってくるのは聞き慣れた姉の声。
「おかえり〜りょーやくん。もーすぐ終わるから、ご飯の用意、お願いね。ご飯は炊いてるから」
 部屋の中、ガラステーブルを占領する姉が応える。彼女の前には良夜がネットに繋いだノートパソコンが一台、それに向かって彼女はポチポチと一本指をのたくらせていた。メールで小論文を送らせ、添削、校正、そして、採点して送り返すというのが、毎晩彼女が行っている仕事だ。まあ、冬休み明けにはすぐに受験って連中をほったらかしにして、弟の所に遊びに来てるんだから、これくらいはするのが当然だろうと、青年は思う。
「それはそうと、ねーちゃん、風呂は? 入ってないの?」
 買い物袋をシンクの上に置き、中から揚げ物を取り出しながら彼は尋ねた。
 その言葉に姉が応える。
「入ったよ」
 その答えにトースターに揚げ物を入れようとしていた手が止まった。そして、彼の首が上半身諸共姉の方へと向き直る。彼の瞳に映るのは、ポテッとした感じのニットポンチョを着た姉の姿だ。良く見れば髪も少し湿り気を帯びているような気がする。普段の姉は風呂から上がると大きめのパジャマに着替えている。それが今日は昼間にも着ていたこの服だ。風呂上がりにわざわざ、この格好に着替えたのだろうか?
「どったの?」
「どうって……――ああ、服? ふぅん……りょーや君もそー言うのに気付くようになったんだねぇ〜恋人が出来ると、人間が変わるって本当だよね……ねーちゃん、嬉しいようでちょっと寂しいよ」
「……ねーちゃん、喧嘩売ってるの?」
「ううん、そんな事ないよ?」
 どう見ても嬉しそうに言ってる姉の顔を見下ろし、彼は憮然とした表情になるも、帰ってくるのは底意の見えない笑みだけ。チッと舌を打ち、シンクの横、小さな棚の上に置かれたトースターへと顔を向ける。そのトースターにタイマーを仕掛けて、持って帰ってきたコロッケととんかつを中に放り込む。普段なら冷えたままでも、気にせず食べちゃうところだが、姉がうるさいので彼女が来てる間だけは暖め直すことにしていた。
 そのタイマーが切れるのを待つ数分……その数分の間に、彼はカット野菜とポテトサラダを二つの皿の上に盛りつけていく。その作業が終わる頃、チーンとトースターが主を呼ぶ。呼ばれた主は、若干焦げては居るが、ジュウジュウと表面に浮かんだ油が芳ばしく焼けるとんかつとコロッケをトースターから取り出し、皿の上へと盛りつけた。
 後は、姉が待つガラステーブルの上に置けば、夕飯の完成。
「おまたせ。飯つぐから、待ってよ」
「ううん、今、仕事終わったところだからぁ〜ありがと」
 その言葉を背中で聞きながら、もう一度、シンクの方へ……食器カゴから二組の茶碗と湯飲みを手にすると、茶碗それぞれにご飯を装い始めた。
 その背中に掛けられるもう一つのお言葉。
「あぁ、りょーや君、ねーちゃん、ご飯はいらないよ」
「えっ?」
 と、手元に視線を落とせば、そこにはすでに飯が盛られたお茶碗が二つ。しかたないから、姉の方をボソッとジャーの方へと戻して、彼は空になった茶碗をシンクの中に放り込んだ。
 そして、自身の茶碗と二つの湯飲みを持ってガラステーブルの前へと座る。
「どうした? ねーちゃんが飯を食わないって……ダイエットでもしてんの?」
「ねーちゃん、ダイエットは必要ないよ」
「……そんなダボダボしただらしない格好してりゃ、スタイルなんてわかんないもんな」
「りょーや君、前にも言ったよね? ねーちゃんのスタイルに関して、つべこべ言ってると、凌遅刑にしちゃうぞ? って」
 にっこりと満面の微笑み。紡がれる言葉は軽い調子で歌っているかのようにも聞こえる。されど、言ってることは剣呑その物。良夜はコクンと小さく頷き、静かに応えた。
「……言いません……」
 以降、口と箸は黙々と動き続けるだけ。勿論、口はその食事を味わい、喉の奥へと押し込む以外の動作はしない。
 そんな時間が十分少々……姉はふいに言った。
「ねーちゃん、ご飯食べたら、少し出掛けるから」
「えっ? こんな時間に?」
「うん。初詣、二年参りだよ」
 そう言う姉の前には良夜が用意した料理はほとんど消え失せていて、残っているのは大きめの湯飲みに入れた熱いお茶だけ。それをずずーっと音を立てて啜ると、彼女はホッと一つ大きな吐息をこぼした。
「でも、何処の寺か神社に行くのか知らないけど……この時間だと、今年中に着くのは無理じゃないか?」
 言って彼は視線を壁……そこに掛けてある安物の白いクォーツ時計へと向けた。時間はもうすぐ十一時半と言ったところ。三十分で行けそうなところってあっただろうか? と考えてみたところで、その手の建物に興味を持たない青年にはあるともないとも答えられない。
 壁と時計に埋められた視線の外側、コトンと湯飲みがガラステーブルの上へと置かれる音が、彼の意識を話し相手の方へと引き戻した。
「ああ、その点は大丈夫だよ。駅の傍に小さい古刹があるんだって。そこ、毎年、沢山の屋台も出て、ちょっとしたお祭りみたいになるんだよ。小さな所だからそんなに混んでないしね」
 楽しそうに言う姉の言葉にはいくつかの疑問が転がっていたが、青年はその中でとりあえず、一番当たり障りのない疑問について尋ねてみた。
「……コサツって?」
「歴史のあるお寺のことだよ。りょーや君……ねーちゃん、恥ずかしいから、もうちょっと国語の勉強して? 日本人なんだし、英語もダメなんだし」
「うるさい……理系だから良いんだよ……それで、ねーちゃん、もう一個聞きたい」
「ううん、世間の常識だし、高校でもこう言うの、教えてるし……って、なぁに? 余りのんびりしてると、時間になっちゃうよ?」
「……また、変な言葉が聞こえたような気がするけど……とりあえず、一つ……――」
 間延びした姉の言葉に若干のいらつきを覚えてつつも青年はつとめて冷静な口調を維持……しきれない苛立ちが、彼の唇に小刻みな痙攣を与える。
 そして、一旦、言葉を切り、居住まいを正し、言葉を続けた。
「誰に聞いた?」
「美月ちゃんだよ」
「……ああ、やっぱりね……」
「それでね、十一時半に待ち合わせしてるんだ」
「どこで?」
「ここで」
 姉は人差し指だけを立てた右手を真下に向け、そう言った。そのまさに瞬間――
『ぴんぽ〜ん』
 良夜の部屋のチャイムが鳴った。

 ドアを開けば、頭の上にちょこんとアルトを乗っけた美月がいた。
 ひとまずはアルトは無視して、良夜は美月の顔を見詰め、美月は良夜の瞳を見詰め返す。
 沈黙の数秒……
 そして、二人は「あはは……」と乾いた声で笑い合う。
 無視された形のアルトは、そんな二人の様子を見下ろし、そして、思った……
(数時間前に、良いお年を〜って言って別れて、年を越す前に再会って言うのは……思ってた以上に気恥ずかしかったのね……)

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