迎春準備(完)
 二十九日、この日、良夜は少し早めに起きた……と言っても、世間一般的に言えば、普通の起床時間だ。早いというのは冬休み中の学生にしては、と言う注釈が付いた上での「早い」である。
「ふわぁ……」
 起きる時間は普段よりも早めだが、寝る時間はいつもと同じ午前様。差額分、睡眠時間は短め。短めの睡眠時間が彼に欠伸を強要する。その欠伸をかみ殺し、彼はのたのたとやる気のない仕草でパジャマからジーンズとネルシャツへと着替えた。
 そして、着替えが終われば、彼はベランダへと続く部屋の窓を全開にした。瞬間、室内の暖かな空気が一気に外へと流れ出し、代わりに身を切るような冷たい風がびゅっ! と良夜の頬に爪を立てた。
「さみっ!」
 先ほどまでの眠気も何処へやら。ブルッと身震い一つ、青年の脳みそは一気に覚醒領域へと叩き込まれる。その目覚めた頭で最初に考えたのは――
「止めときゃ良かったかなぁ……?」
 そんな後悔の言葉だった。

 元々、良夜は年末だからと言って改めて大掃除をする、と言うタイプの人間ではない。しかし、彼の姉は掃除を始めると引っ張り出した本を読み始めて動かなくなるという典型的な駄目人間だし、父親は父親で年末はなんだかんだと忙しいジャパニーズビジネスマンだ。必然的に大掃除や迎春準備を執り行うのは、彼と彼の母親の役割になっていた。
 ただ、自分の部屋に関しては……
「普段やってれば、大慌てで大掃除する必要もないからなぁ〜」
 それが彼の考え方で、実家でも概ねそれが通用していた……と言う話を、青年が美月にしたのはこの前日、アルトや美月といっしょにカビた着物の代替品や正月飾りの買物に行ってたときのことだった。新しい人形用の着物は手作りグッズのお店で購入、結構良い値段。美月と割り勘にしたがそれでもかなり懐が痛んだ……と言うのはちょっとした余談だ。
 それから、少し大きめのスーパーマーケット。良夜は運転するジムニーを駐車場に停めると、身を切るような北風の中、青年は懐に妖精を、右側に恋人を連れて歩き始める、まさにそのタイミングだ。
 話の流れで話題に載せた言葉に、美月が応える。
「それじゃ、今年も大掃除とかはしないんですか?」
「そうだなぁ……こっちに来てからした事もないんだよなぁ……」
「うう……私は今年も大掃除、出来ませんでしたよぉ……明日は普通にお仕事ですし……」
 足を止める美月の前、進むこと数歩。軽く振り向き、彼は笑って言った。
「今から帰ってやるとか?」
「ヤですよぉ〜良夜さんがしてください」
 笑って駆け寄る美月に、良夜は笑みを浮かべて答える。
「それこそ、嫌だよ」
「部屋の掃除くらい自分でしなさい」
「……――ってアルトも言ってるからね」
「……じゃあ、来年の課題と言う事で……」
「……おいおい」
 バツが悪そうに言う美月に苦笑いだけを与え、三人はスーパーの店内へと急いだ。
 店内に入ると、年の瀬も押し迫った店内はそこそこの人出だ。あっちゃこっちゃに迎春準備用の特設売り場が設置された店内を、多数の家族連れが、思い思いに商品を手に取っていた。
 そんな店内、美月が最初に向かったのは、乾物コーナーの一角にしつらえられた餅の売り場だった。そこで真空パックの鏡餅を大小四つ、彼女は手に取る。カウンターの上に大きめのを一つ、キッチンと美月、和明の部屋に小さめのを一つずつ置くそうだ。
「……こんなの、去年もしてたっけ?」
「してましたよ。去年も一昨年も」
「してたわよ。去年も一昨年も」
 なんとなく尋ねた言葉に美月とアルトが即座に突っ込み。言われてみたところで記憶にあるはずもなく、青年は困ったようにポリポリとほっぺたを掻きながら言った。
「……ほら、食わせて貰ってたら覚えてたんだけどなぁ〜」
「あはは、お餅は朝ご飯に食べちゃいましたよ。さすがにぜんざいまで作る余裕はなかったですし」
 それから日用雑貨の所でカジュアルな感じでリースと呼ぶ方が相応しそうなしめ縄を一つ、彼女は手に取る。後は栗の甘露煮とサツマイモを少々。他のお節料理は作らないが、栗きんとんだけは作るらしい。それからパックに入ったエビの煮物やら黒豆など……所謂お節料理が少々。二人前としては多い感じだが、元旦の朝昼に食べきるらしい。
 以上が美月の買物だった。
 一方、良夜は……と言えば――
「……インスタントの味噌汁が一袋十食分に昆布の佃煮が一パック……」
 籠の中に入れた物を青年の胸元から見下ろし、アルトが呟いた。ちなみに朝ご飯である。ここに前日残した揚げ物があれば入って、なければ無しでというのが彼の朝食だ。
「……なんだよ? アルト……その不服そうな声は……」
 ジトォ〜っと冷たい視線で自身を見上げる妖精を見下ろし、彼は眉をひそめる。そして、その言葉を美月にも伝えれば、美月も苦笑いを浮かべて言った。
「まあ、確かに年末のお買い物にしては寂しいですよね? お餅とか、買わないんですか? ほら、こー言うのとか、可愛いですよ?」
 そう言って彼女が見せたのは、自分で先ほどカゴに放り込んだ鏡餅だ。その小さな一つをひょいと手に取ると、彼女は良夜の方へと差し出して見せた。
「安い物ですし、飾ったらどうです? 来年、良い事あるかもしれませんよ」
「良い事……ねぇ……?」
 美月の差し出すそれを手に取る。みっちりと中身が詰まっているせいだろう、見た目よりも随分と重い。コイツがぎっしり入った箱を運ぶのは、バイト先のスーパーでも苦労したもんだ。そんな事を思い出しながら、彼はそれを手の中でひっくり返して見る。貼られた値札に表示されてる値段も、まあ、手頃なところ。
「じゃあ、一つ、買って帰るかなぁ……」
 呟き、彼は受け取った鏡餅をポンと籠の中へと放り込む。少し増えたカゴの重さを青年は指先に感じる。その右手、コートの袖をちょいちょいと突かれ、青年が顔を向ければ、そこでは美月が申し訳なさそうな顔を彼に向けていた。
「って……あの……取られちゃうと、困るんですけど……」
「あっ……」
「だったら、最初から渡さなきゃ良いのに……」
 アルトの呆れかえった呟きは、美月に伝えられる事はなかったし、アルト本人も伝えるようには言わなかった。

 それから、餅の特設売り場へと戻って、改めて鏡餅を一つ、手に取り、カゴに入れる。しめ縄の方は玄関のドアに引っ掛けるようなフックも付いてないし、付けて良いものかどうかも解らないからパス。
「パソコンデッキの上にでもこれを置いて、迎春準備だなぁ〜」
 冗談めかした口調で良夜が言うと、懐から頭の上へと移動していた妖精の顔がフワッと音を立てて、彼の目の前へと落ちてきた。
「軽く大掃除くらいしておきなさいよ?」
「……形容詞が相殺されてんぞ?」
「くだらない突っ込みはよしなさい、女々しいわよ」
「へいへい……って、そんなに汚れてないだろう? 一応、月一くらいで掃除やってるし」
 アルトの言葉を美月に通訳しつつ、青年は目の前でブラブラと揺れる妖精に言葉を返す。その目障りな金髪の頭を手のひらで追い払うと、妖精はひらりと身を翻し、頭の上に着地を決めた。
 そして、カツン! と頭の上に落ちてくるかかと。
「いてっ!」
「大して痛くはないでしょ? 大げさなのよ」
「うるさい」
「それより、貴方の部屋よ。ぱっと見は綺麗だけど、パソコンの裏とかベッドの下とか、埃まみれよ。年に一回くらい、綺麗になさい」
 そう言われて、青年は足を止めた。その斜め前、一歩先に言った美月が不思議そうに、そして、アルトの言葉を待つように彼の方へと振り向き、顔を向ける。されど、それは一旦無視して、彼は頭の上へと意識と視線を向けた。
「なんで知ってんだ? そー言うこと」
「貴方の部屋に遊びに行って、貴方がトイレとかで席を外してるときにこっそり覗いてるのよ」
「……お前なぁ……」
「エロ本の一冊でも隠してるかと思えば、全然なのよねぇ……やっぱり、ネットで? ネット時代にはわびさびって物がないわね」
 頭の上でそう言って嘯く妖精の顔は、青年からは見ることが出来ない。その代わりというわけでもないが、機嫌良さそうに彼女がかかとでリズムを取っていることを感じ、そして……――
「なんのお話、してるんですか?」
 良夜の袖を引きながら、彼の顔を見上げる恋人の姿だけははっきりと見ることが出来た。
「えっと……ベッドの下が埃だらけだってさ」
「後、良夜のパソコンの中はエロ動画でぎっしりって話」
「してない」
「ふえ?」
「何でも無いよ」
 キョトンとした表情に美月には適当な言い訳を与えて、話しを切り上げる。その言い訳に美月も納得したようで一安心。頭の上で「チッ」と舌を打つ音が聞こえたが、下手に反応したら墓穴を掘りそうなので、聞こえなかったふりをする。
 そして、二人は食品売り場からレジへと向かう……その道中、日用雑貨のコーナーでは当然のように大掃除用のグッズが特設売り場にてんこ盛りになっていた。
 その前に足を止めて美月が良夜の方へと顔を向ける。
「やっぱりアレですよね、ベッドの下とか、埃が溜まってるならちゃんと掃除しないとダメですよね〜」
「……まあ、美月さんの部屋はベッドの下と言わず、部屋の隅っこと言わず、割と埃だらけだって噂らしいけどね」
「ああ、私は大丈夫ですよ〜」
「何が?」
 青年が尋ね返すと、凹凸のない胸元をズイッと逸らして、彼女は答える。
「だって、ほら、私はもう、その辺の事は来年の課題にしちゃいましたからね」
「……おいおい」

 まあ、昼の内にそういう話をされれば、なんとなく、気になる物。バイトから帰った深夜、何気なく、ベッドの下を覗き込んでみれば――
「げっ……」
 と言う声がこぼれるほどの埃。布袋に詰めたらクッションか何かになりそうな量だ。この時間から掃除を始める気には勿論ならないから、明日……と言う訳でその夜は早めの目覚まし時計を仕掛けてお休みなさい。
 そして、翌日、窓を開けて、冷たくも綺麗な空気を取り込みながら、ベッドの下やらパソコンの裏やら、見えないところに溜まった埃を払っていたら……
「酷いよ! りょーやくん!! ねーちゃんはどこで本を読んでたら良いの!?」
 遊びに来た姉が涙目で訴え始めた。
 来るのを忘れていた……と言う訳でもないのだが、今日、この日、朝一番の高速バスで来るという話までは良く覚えていなかった。と言うか、本だけ読ませてれば大人しい人だから、ほっとけば良いや……と思って、意識の中から追い出していた。
 ら、彼女が来たとき、部屋の中はコートが欲しくなるほどに室温は低く、パソコンデスクの上から下ろしたパソコンとその付属品一式(キーボードとかマウスとかカードリーダーとか……)で床は一杯。勿論、ベッドの上だって、ベッドカバーも敷き布団のカバーも外してしまっている。
 すなわち、本を読むスペースが今、この部屋にはない。
 しまったなぁ……と思いながら、ダボダボのコートに両手に大荷物をぶら下げた姉へと視線を向ける。そして、ポツリと小さな声で呟いた。
「…………玄関の外で読んだら?」
「酷いよ! ねーちゃんを寒空の下に放り出すって言うの!? 女の子だよ! ねーちゃんは!?」
「……じゃあ、女が弟とは言え男の一人暮らしの所に泊まりにくんなよ……」
「ねーちゃんだって、寂しいんだよ?! たまには弟と会いたいのに、りょーや君、おとーさんとおかーさんが居ないと帰ってこないじゃないの!? だから、ねーちゃんが来たのに!! ひどい! 酷いよ!! りょーやくんの人でなし!! りょーや君には姉萌属性はないの!?」
 そこまで一息に怒鳴り散らすと、彼女はくるんと半回転。『姉属性だけはねーなぁ……』と思って居る良夜に背中を見せたかと思うと、そのまま、部屋の隅っこへと数歩の散歩。その一角、邪魔にならない辺りに荷物を置くと、彼女は再び、青年の前へと帰った。
 そして、ぺたん……膝から崩れ落ちると、彼女は大きな眼鏡を細い指先で取り外す。左手にその眼鏡、右手が顔を覆ったら……
「……毎日、毎日、ねーちゃんは弟のことを心配してるのに……弟は彼女が出来れば姉の事なんてどーでも良いんだね……」
 しくしくというわざとらしい泣き真似が聞こえてきた。
「……出来る前から、割とどーでも良いって思ってたよ」
 サメザメと泣く姉を見下ろしていれば、思わずこぼれる落ちる本音。その声に、彼女はガバッ! と音を立てて立ち上がった。晒される素顔、勿論、化粧は崩れてないし、目も腫れちゃいない。
「高校三年間! 暗黒の男子校生活で、一番おしゃべりしてた女はねーちゃんでしょ!?」
「それがどーしたってんだよ!?」
 怒鳴り合った二人がじーっと互いの顔を見詰める。
 沈黙の数秒……
「……うん、ごめん、ノリで言っちゃった」
 すっと肩から力を抜き、彼女はくるんと半回転。良夜に背を向けると、先ほど、自分が荷物を置いた辺りへと足を進めた。
 がさごそ……大きなボストンバッグを漁りながら、彼女は言った。
「あっ、そうそう、お餅、持ってきたよ、お餅。りょーや君の好きなあんこ餅。こっちじゃ売ってないでしょ?」
「ノリで言うなよ……って、えっ? ああ、ばあちゃんちの?」
「そうだよ。お味噌とか、ある?」
 良夜の言葉に応えながら、彼女はボストンバッグから取り出した大きな買い物袋を良夜に手渡した。ずっしりとした重みを持つそれには、未だ柔らかいお餅が十個くらい。
 その袋と姉の大きな眼鏡とを数回見比べながら、彼は答えた。
「インスタントしかないよ……」
「そうだと思ったから、はい、これも」
 そして、もう一つ手渡されたのは、実家のそばにあるスーパーの買い物袋だ。そちらには良夜の実家でいつも使ってる味噌に人参、大根、油揚げと鶏肉……雑煮の材料が氷と共に詰め込まれていた。
「……用意、良すぎんぞ……」
 半ば呆れながら、彼はその二つの買い物袋を持って、冷蔵庫に近付いた。スーパーの方は普通に冷蔵庫に入れて、餅はフリーザーバッグに小分けしてから、冷凍庫へ……毎年、実家でやっていたことだ。
「それでさ、りょーや君」
「なんだ?」
 背中に掛けられた声に振り向きざま、彼が応える。その言葉に部屋の真ん中、所在なげに立って居た彼女が軽く肩をすくめて、口を開いた。
「ねーちゃんはこれから何をしてたら良いの?」
「…………アルトにでも行ってきたら? 冬休みで客もないし、コーヒー一杯で閉店まで粘ったって、文句は言われないよ」
 その姉のいいざまにため息一つ。しかる後に彼がそう言うと、彼女は眼鏡の向こう側、大きな瞳を閉じ「うーん……」とうなり声を上げて考え込み始める。
(……寒いから外に行きたくないなぁ……とか思ってんだろうなぁ……この人……)
 姉の心情を的確に読みつつ、静かに待つこと少々……
 ふいに彼女はパチ! と目を見開き、言った。
「じゃあ、ねーちゃんは暖かいところで本を読んでるね……大人しく」
「……手伝えよ……」
「きっと、邪魔になると思うから〜それじゃ、頑張ってね」
「……へいへい」
 姉の軽い声に弟も軽く応える。
 そして、姉は先ほど部屋の隅に置いたボストンバッグに取り付き、その中から数冊の文庫本を取り出した。茶色い無地のブックカバーが掛かったそれは、ぱっと見ではどんな本なのかは解らない。それらを手にした彼女は、良夜の前をスーッと横切り、そして……――
「おい!」
 トイレ風呂兼用のユニットバスに入った。
「ねーちゃん!?」
 パタンとドアが閉り、ガチャリと鍵が掛けられれば、ノックをしようが、叫ぼうが、どうしようが、中からの返答は何もない。
 そして、彼女が出て来たのは、お昼過ぎ、丁度、部屋の片付けが終わり、鏡餅をパソコンデッキの上に飾ろうとしていたときのことだった。なお、それまでの間、良夜はトイレを一階宮武哲也の部屋にまで借りに行くハメになっていた。
 こうして、良夜の迎春準備は、一応、終わった。
 後は、もういくつか寝て、お正月が来るのを待つだけ……

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