迎春準備(1)
 さて、イブ特別営業から忘年会を経た翌日である。
 貴美は凪歩の母親を納得させるため、『お嬢さんには内側から鍵の掛かる仮眠室で寝て貰う』という約束をしていた。内側から鍵が掛かる部屋とは、美月の両親が昔使っていた部屋だ。三島家居住区に内側から鍵の掛かる部屋はここしかない。美月の部屋も和明の部屋にも鍵は付いてないのに、この部屋だけ付いてるのは……
「私除け」
 アルト曰く、こう言うことらしい。ドアノブを回せない奴のために鍵が必要なのかな? とも、良夜は思うが、奴の覗きへの熱意を考えると必要なのかも知れない。
 まあ、それはともかくとして、貴美は凪歩にこの部屋で寝るようにきつく申しつけていたわけだ……が、大方の予想通り彼女はその部屋を使わなかった。
「って、凪歩! あんた、寝るときゃ、部屋にいけつったじゃん!?」
「大丈夫、大丈夫! 約束はちゃんと守ったから」
「どこが!? あんた、私が起きたときにはそこに居たじゃんか!?」
 激昂する貴美に対して凪歩がニコニコと軽く言葉を返せば、貴美のボルテージはさらに急上昇。ほとんどつかみかかる直前にまで怒り狂っている貴美に対して、凪歩はあっさりと言った。
「だって、寝てないもーん」
 凪歩がそう答えた瞬間、さすがの貴美も絶句し、頭を抱える。一方の凪歩がニコニコとなんか知らないけど楽しそうなのは、奴が未だにきっちり酔っ払っているから。
 そのまま、数秒の沈黙……
 やおら、貴美は頭を抱えたままで尋ねた。
「……起きて、何してたんよ……?」
「お酒はたっぷりあったし、なんか、雪降ってて気分も良かったし、夜空見上げてずーっと飲んでたら、気付いたら日が昇っちゃってて……そしたら、一面雪景色で、これも綺麗だったよ〜」
 頭を掻きながら、いまにも舌でも出しそうな雰囲気で凪歩はそう言った。なお、雪が上がった後の夜空は雲一つない晴天で、満天の星空が腰を抜かすほどに綺麗だったらしい。それを見上げて飲んでれば、いくらでも飲めそうな気がしたそうだ……そして、実際に余るはずの酒を全部飲んでしまっていた。その空き缶、空き瓶、空きボトルの山を見やり、美月が絶句してたのは余談。
「春は夜桜、夏には星、秋に満月 冬には雪、それで十分酒は美味いって本当だよねぇ〜」
 吐息どころか、纏う空気すら酒臭い女は完徹の疲れも見せずに言い切っていた。

 と、言うわけで二十五日がやってきた。
 浅間良夜が起きると、彼は自分がコートにくるまり床に転がされていることに気付いた。なんでこんな所に寝てるんだろう……と思った所で記憶は余りない。確か……と青年は昨夜のことを思い起こす。美月といっしょに雪を見上げてた後、フロアに帰って、小腹が空いたから唐揚げとかローストビーフとかをつまんで……
 眠気に霞む頭で青年はぼんやりと考える。
 そこにコツンと頭に小さな衝撃。
「いてっ!」
「……ごめん」
 反射的にこぼれた言葉に、答える女性の声。見上げてみれば、大きなトレイを抱えた翼の姿があった。真下から見上げる形、アルトの制服がズボンなのがちょっと残念……と思わず思う。
「ああ……こんな所で寝てる方も悪いし……気にしないで……」
 言いながら青年は体を起こす。硬い床で寝ていたせいか、体のあっちこっちがやけに痛い。その体をほぐすように、青年は立ち上がって背伸びをする。体を動かす度に、パキパキという心地よい音が体の内側から響く。その音に、睡魔の残る脳細胞が一つ一つ目覚めていくのを感じた。
 酒と眠気に呆けていた脳細胞が蘇れば、薄れていた記憶も蘇る。思い出すのは、昨夜の顛末。思い出すがごとに、体の動きは小さくなって、しまいには棒立ち。そして、その様子を見ていた翼へと視線を向ける。その向けた視線を半開きにし、鋭さを増し、彼は言った。
「……それより、昨日、俺にガブガブ酒を飲ませて、潰したことを謝れ」
 その言葉に翼は数回、ぱちくりと瞬き。無表情のままに視線を背ける。
 そして、響く、舌打ちの音。
「……チッ……」
「あからさまに舌を打つな、舌を」
 昨夜、翼は酒を飲まなかった。先日、飲んだばかりでその時に色々大失態をしたので、今回は飲まないと決めて居たらしい。で、代わりに良夜に酌をし始めた。自分が飲めない分、他人に飲ませて、飲んだ気分になろうという魂胆だったらしい。それを美月がマネをし始め、凪歩までもが尻馬に乗って、貴美が煽った。結果、三人の女が代わる代わるにお酌を始めれば、良夜はあっという間にベロンベロン。ただでさえ、体調不良気味で酔いの回るのが早かった青年は、気付いたら床に簀巻きになって朝を迎えていたという体たらくだ。
「ったく……玩具にされるのはアルトだけで十分だってんだよ……」
 吐き捨てるように呟けば、答えたのは聞こえない振りをしている翼ではなく――
「あら、玩具にされてる自覚があったのね?」
 頭の上に着地を決めた妖精だった。彼女はふわりと天地逆さまになると、青年の顔を覗き込み、いたずらに笑った。こぼれんばかりに輝く笑みは、昨夜の疲れを感じさせない物だ。それが青年には軽くむかついた。
「と、言うわけで、おはよ。良く眠れたかしら?」
「……おはよ、節々が痛いよ」
 軽く言うアルトにぶっきらぼうに答える。そして、辺りを見渡せば、カウンターに人だかり。老人と美月を向こう側において、他の面々が食事をしているのが見えた。
 その良夜に気付いて、美月が軽く手を振った。
「あっ、おはようございます〜いま、起こそうと思ってたんですよ?」
「おはよう……美月さんも、昨日、飲ませすぎだって……俺を潰してどうするんだよ?」
 青年が眉をひそめて言えば、美月は「あはは」と笑って誤魔化す。それに良夜は軽く肩をすくめて、カウンターに付いた。
「おはようございます」
 隣に座る直樹が言えば、他の面々も口々に同じ事を言う。それに青年はまとめて「おはよう」と返し、目の前でパイプを吹く老人にだけ――
「昨日はありがとうございました」
 そう言って、軽く頭を下げた。
「いえいえ。私はもう、コーヒーを煎れるだけの置物だと思って下されば……」
「置物はぎっくり腰になって倉庫で固まってたりしないわよ……って、伝えなさい」
「……――ってアルトが言ってる」
「置物だから固まることもあるんですよ、むしろ」
 軽く受け流す老店主にアルトは殊更に大きな溜め息を一つ。青年も、老人の孫娘も、他の面々も苦笑い。そして、青年の目の前に大きなトレイが、美月の手により置かれた。
「どーぞ」
 分厚いふっくらとしたトーストに太めのソーセージと目玉焼き、それからシーザーサラダとフルーツ付きヨーグルトが並ぶ。それに合わせられる飲み物は、勿論、煎れ立てのコーヒー、それは喫茶アルト定番のモーニングだ。
「いただきます」
「はい、どーぞ」
 微笑む美月に微笑み返して、青年はトーストにたっぷりのバターを塗って口に運ぶ。焼きたてのトーストは芳ばしいし、バターのほどよい塩味と合わさって美味しい。それに肉汁たっぷりなソーセージと半熟の目玉焼きも、なかなかの味だ。
「まあ、りょーやんが起きてきたんはさておき、よ。今年こそ、倉庫の余計なもん、全部、捨てなよ?」
「うう……どーしてもダメですか? 思い出の品とかあるんですけどぉ……」
「思い出の赤点答案用紙な?」
「うっ!? こっ、後輩の居るところで言わなくても……!」
 コーヒーを片手に貴美がパチンとウィンクと共に言えば、美月の顔は耳まで真っ赤。慌てて、翼の方へと向き直れば、その翼は冷たくひと言。
「……知ってる……」
「ちょっと!?」
「あっ、私も〜」
「どーして!?」
 翼だけではなく、凪歩までもが言えば、美月は悲鳴のような声を上げる。その様子に、一同が声を合せて笑えば、雑談は一旦終わりだ。再び、大掃除の打ち合わせが始まった。もっとも、直樹はカウンターで座ってケータイでも弄ってろ、のお達しから始まったそれは、貴美があらかじめ考えてあったプランを上意下達する場、と言う方が正しい趣きだ。
「……――と、こんな感じかな? 今年は去年より二人人員が多いし、その分、きっちり、掃除するんよ? 特に美月さん」
「うう……前向きに善処する所存ですぅ……」
 美月の政治家答弁を聞きながら、それまで黙って聞いていた青年が口を開いた。
「手伝おうか? どーせ、暇だし……」
 彼がそう言うと、美月と貴美がほぼ同時に答えた。
「あっ、良いんですか?」
「給料は出んよ?」
 きっぱりと貴美が言えば、美月は面食らったように目を大きく見開き、言った。
「ふえ? いえ、少しくらいなら……」
「出さなくて良い。人数は足りてんだから。それとも美月さんのポケットマネーで出す?」
 恐る恐る美月が言っても、貴美はぴしゃり。取り付く島もないとはまさにこの事だ。さすがにそこまで言い切られれば、美月も二の句が継げない様子。チラチラと何か言いたそうではあるが、口に出せないといった面持ちで彼女は恋人の顔をうかがい見る。
 その美月の顔を見やり、青年は軽く肩をすくめ、そして、頬を緩めた。
「昼飯くらいは食わせてくれるんだろう? 朝飯分と昼飯分くらいはただ働きするよ」
 トーストを千切りながら、青年は答える。すると美月の表情はパッと明るくなった。そして、彼女はその美しい黒髪をふわりと揺らし、大きく頭を下げた。
「ありがとうございます!」
 にっこりと満面の微笑みで言われれば、青年も気分が良い。
「お昼、暖かい物が良いな、期待してるよ」
 彼がそう言えば、彼女は「はい!」と胸を張って答えた。
 
 そして……――

「……まさか、ただ働き相手にここを指定するとは思わなかったなぁ……」
 外……空は昨日のどか雪が嘘のように晴れ渡り、生まれたばかりの太陽が一面真っ白に染め上げられた世界を照らし出していた。その白の世界へと青年が足を進めれば、彼の足は足首までずっぽりと新雪の中へと吸い込まれ、頬を切るような風が撫でていく。そんな彼の両手には窓ふき用のワイパーとバケツ、そして、脚立。彼の敵は喫茶アルト名物壁一面の巨大なガラス窓。これを一枚一枚拭いて廻るのが、彼に与えられた任務だ。
「……今日のメンバーの中で貴方だけが私服を持参してて、しかも、そこそこ、身長が高いから、よ」
 と、窓の向こう側、直樹のカップから温かなコーヒーを盗み飲む妖精が呟いた……が、残念ながら、その声は良夜の耳には届かなかった。しかし、その人を小馬鹿にしきった表情を、窓越しと冷たい風越しに見やり青年は思う……
「……いつか、奴を殺そう……殺して、その辺にぶら下げて、魔除けのお守りにしてやろう……」
 と……

 なお、美月の言い分は……
「だっ、だって、倉庫で力仕事して貰ったら、隠してる赤点の答案用紙が見られちゃうじゃないですか!? 私のバカが良夜さんにばれちゃったらどうするんですか!?」
 と言う事らしい。
 そんな事を力説する美月に翼はポツリと言った……
「……チーフのバカは……みんな知ってる……」

 追伸。
 お昼のまかない料理はミネストローネだった。火傷しそうなほどに熱いそれと、芳ばしくトーストされたバケットは涙が出るほどに美味しかったことを、ここに付け加えておきたい。

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