For  All Lovers(3)
「……おい、誰が積もるほどじゃないって言ったんだ?」
「気象庁じゃないかしらね?」
 牡丹雪がドカドカ降ってくる空を眺め、青年は呟く。夕方少し過ぎから降り始めた雪は、その大きさ、その量、共に増加の一途をたどり、アルトの営業時間終了直後にはすでに一面真っ白け。気になって携帯電話を見てみたら、周辺一帯には大雪警報が発令中とのこと。まあ、今日の良夜は歩いてきてるし、家も近い。どうとでも帰ることが出来る。それに、去年、一昨年の勢いなら、クリスマスの営業が終わったら、そのまま、アルトの忘年会に突入し、アルトのフロアでグースカ寝ることになるはずだ。だから、帰れなくても問題ではない。
 それはタカミーズも同じだし、新人の一人寺谷翼も一人暮らしだから、こっちに泊まることになっても心配する者は居ない。
「……メロン」
「ハムスターならうちにもタカミーズの家にも居るよ」
 洗い物をしながら、ポツリと呟いた翼に、良夜が冷静な突っ込みを与える。そのメロンちゃんには餌もたっぷり与えてきたので、一晩くらい帰らなかったところで大きな問題は発生しない。奴らに飼い主の不在を悲しむ知性など無い(多分)
 で、唯一、帰らないと心配し、怒る家族が居る従業員、時任凪歩は――
「電車止まった! もう帰れない!!」
 と、大きな窓ガラス越しに雪空を見上げ、万歳三唱していた。
「喜ぶな! バカ!」
 ら、貴美に力一杯はっ倒された。

「色々ゴネてみた結果、五千円札渡されて『タクシーで帰ってこい』って言われたんだよねぇ……」
 大きなモップで床をこすりながら、凪歩は溜め息と共にそんな言葉を営業終了後のフロアに吐き出した。
 その言葉に、テーブル三つ分ほど離れた所でそのテーブルを拭いていた貴美が、その手を止めた。上げられる顔は少々呆れ気味。芝居がかった仕草で肩をすくめて見せると、彼女は言った。
「タクシー代を出すだけ優しいじゃん? うちの親だったら、『文句があるなら出て行け』のひと言だよ? 多分」
「……そして、自宅を出て隣の家に上がり込んで、ご飯食べて、お風呂に入って、暖かな客間で寝てるのが――わっ!」
 余計な事を言う直樹に向けてクイックスロー一発。ターゲットを見もせずに投げられたそれは、狙い違わず彼の顔面に一直線。ビシャっ! と濡れた音を立て、彼の顔に張り付いた。張り付いたそれはそのまま、彼の座るテーブルにぽとりと落ちたので、貴美は回収ついでにそのテーブルを拭き始めた。
「……お見事」
「どーいたしまして」
 店内ほぼ中央、二つのテーブルを合わせた大きめのスペースで一人頬杖をついていた直樹がぽとりと漏らす。その言葉に貴美もぽつり。そして、彼女はポケットに手を突っ込む。そこから取り出されるのは、レースの付いた白いハンカチだ。シミ一つないハンカチは、貴美の白い手のひらごと、直樹の頭にポフ! と叩きつけられた。
「どーも」
 ふて腐れ気味に呟き、直樹は頭の上に乗せられたハンカチを手にする。綺麗なハンカチで、布巾の絞り汁に濡れた顔をふきふき……そうして、彼の顔が落ち着く頃、テーブルの上も綺麗になっていた。
「電車、止まったみたいだし、タクシーもこの調子だと危ないかもなぁ……」
 そんな事を言いながら便所から出て来たのは、便所掃除担当の浅間良夜だ。頭の上には小さな妖精さん、右手には携帯電話、その携帯電話に視線を落としたまま、彼は直樹の座るテーブルに近付いた。
「そー言えば、この辺で雪が積もったの、三年目で初めてだなぁ……」
「電車が止まるほど降ったのなんて、美月が子供の頃以来よ」
 アルトの言葉に「へぇ……」と相づちを打ちながら、直樹の正面に腰を下ろす。そして、顔を国道側の窓へと向ければ、そこはすっかり雪景色。見える国道、普段ならこの時間帯でも結構な交通量を誇っているのだが、今夜は皆無に近い。ろくな轍も出来てない新雪の上に、さらなる新雪が降り積もっていくのが見えた。
「こうなるなら、なぎぽんとつばさんだけ、先に帰らせるべきだったんやけど……まさか、この辺がこんなに雪に弱いって知らんかったんよ」
 貴美が苦々しそうに言うと、凪歩が「えぇ〜?」と不服そうな声を上げた。そして、彼女はモップの柄に顎を置き、言った。
「忘年会、出られなくなるじゃん」
「……今日のあんたは、仕事しに来とんな? それとも忘年会に来とんな?」
「りょーほー」
 冷たい視線を投げかける貴美に凪歩は軽い口調に笑顔を添えて答える。それに貴美はため息一つ……
「ともかく、家に電話しときな。親、心配しとんよ? それと、これも片付けといて」
「はーい、りょーかい」
 貴美に渡された布巾を右手に、左手でモップを引き摺り、凪歩は軽い足取りでその場を後にする。その後輩の後ろ姿を見送りながら、貴美は呟く。
「子供か? ありゃ……」
 その言葉に良夜や直樹、アルトも声を上げて笑い合う。
 その笑い声が消えるよりも先に大きな皿を両手で抱えたキッチン組の二名がフロアに顔を出した。その二人の手には大きなお皿が一つずつ、そのどちらにも唐揚げやらローストビーフやらサラダやら……と、雑多で統一性のない料理が並んでいた。どうやら、忙しすぎて細かいメニューを考える余裕がなかったらしい。
「お疲れさまでした〜ご飯、出来ましたよ……っと、あれ、凪歩さんはどうしたんです?」
「……何か、やらかした?」
 それぞれが手に持つ皿をテーブルに置きながら、美月と翼が尋ねる。
「ああ、家に電話しに行かせたんよ……っと、ああ、そうそう、美月さん」
 答えたのは貴美だった。彼女は、片手をテーブルの上に突くと、美月の方へと体を向けた。その顔からもヘラヘラした笑みが消え、真顔になる。その真面目な顔に、美月も自然と居住まいを正した。
「はい?」
「大雪とか大雨とか、そう言う時はなぎぽんやつばさんとか、電車で来てるのは先に帰らせないと……」
「ああ……でも、今日は二人に抜けられると、お客さん、捌ききれなかったかも……」
 貴美の言葉に美月がそう答える。すると、貴美はバツが悪そうにバリバリと頭を掻いた。
「まあ……そうなんだけどね……でも、普段なら時間帯によってはどうにかなったかも知れないし、泊まって貰うにしても早めに言っておかないと、二人にも都合があるじゃん?」
 貴美がそう言うとと、美月は少しだけ視線を逸らした。そして、しばらくの間、貴美の言葉を咀嚼するように視線をさまよわせると、彼女はぼんやりとした口調で呟いた。
「……はあ、まあ……確かに……そーですねぇ……」
「まっ、私も気が付かなかったから、偉そうな事は言えんけどね? ともかく、そう言う事に気を配るんも、責任者の仕事だから」
 冗談めかした口調でそう言うと、貴美はパチンとウィンクを一発。それに釣られて美月も顔を上げ、少しだけ笑みを浮かべた。
「責任者はお祖父さんですけどねぇ……」
「店長なんて、すっかり、コーヒー煎れる仕事以外、やんなくなってんじゃんか……」
「あはは、確かにそーなんですけどね?」
 今度は貴美が苦い顔をしたかと思えば、美月が屈託ない笑みを浮かべる。そして、互いに軽く笑い合うと、この話は終わりの様子。ポンと貴美は美月の肩を叩いて、彼女は言った。
「お互いに気を付けよ?」
「はい」
「まあ、普段なら、茶会ん時に言う事なんやけど、忘年会にそれもないだろうしねぇ〜」
「あはは。私は気にしませんよ?」
「私が気にするわい! 酒がまずくなるじゃんか! で……」
 美月との会話を終えた貴美が「で?」と視線をテーブルの方へと戻す。ジトッとした冷たい視線がぐるりとテーブルの周りを一回転。そこには元々座っていた良夜と直樹、そして、料理を並べ終えた翼が座っていた。
「おめーらは何してんよ?」
「味見」
 一オクターブ下がった貴美の声に応えたのは、元々低調な翼の声だった。彼女の手にはローストビーフが一枚、ぺろんと垂れ下がっていて、それが今まさに大きく開いた口に放り込まれようとしている所だった。なお、良夜と直樹も手には唐揚げや茹でたソーセージなんかがぶら下がっていたりする。
「他人事みたいにしてンな!」
 言って貴美はひょいと翼のつまんでたローストビーフを奪取、有無を言わせぬ速度でそれを口の中へと放り込んだ。
「あっ……」
 と、翼が呟いたときには時すでに遅し。翼のローストビーフはムシャムシャと咀嚼されてゴクン! と貴美の白い喉を下って行ってしまった。
「おっ……うまっ……」
 ローストビーフがよっぽど美味しかったのだろう。彼女の目が大きく見開き、言葉に詰まる……もそれは一瞬。すぐに彼女は居住まいを正して、翼の方へと向き直った。
「――ってのはともかく、つばさんもいつまで下っ端やってんじゃないんだから、人が注意されてるときは真面目に聞け!」
「……私は、生涯……一料理人……」
 飲み込まれていくローストビーフを名残惜しそうに見詰めて、翼がポツリと呟いた。その翼の発言を聞いて美月もパン! と胸の前で手を打ち、表情をパッと明るくする。
「あっ、それ、格好いいですね! じゃあ、私もその方針で……」
「だから、あんたはもはや責任者だって言ってんじゃん!?」
 ぽん! と胸の前で美月が手を叩いてみせれば、ばん! と貴美の手がテーブルを叩く。思って居た以上に大きな音に美月もびっくり。ビクン! と体を震わせ、彼女は背筋を伸ばす……も、すぐに頬を緩めて「えへへ」と笑ってしまうのだから、彼女も油断ならない。そんな美月の仕草に、貴美は軽く溜め息……そして、視線を良夜へと向けると、彼女は言った。
「……キッチンにはマイペースになる変な電波でも流れてんの?」
 貴美があきれ顔で言うと、良夜が答えるよりも先に頭の上の妖精が答える。
「発生源は美月よ」
「ぷっ……」
 しれっとした口調の言葉が面白くて、青年は唐揚げを手にぶら下げたまま、思わず吹き出した。それに貴美がキョトンとした顔を見せた。
「そんなに面白い事、言った?」
「ああ……いや、ちょっと、不意打ちだった」
「何よ、面白い事を言ったのは、私じゃない?」
 ぶらんと頭の上からぶら下がって妖精が不満そうに頬を膨らませる。その顔を無視するように、青年はぶら下げっぱなしにしていた唐揚げをパクリ。ショウガの風味が良く効いた衣はパリパリ、中からは火傷しそうな肉汁がジワッと滲み出す。
「あっ……美味しい」
 半ば反射的に呟いた言葉に翼が「ありがとう」と言って軽く頭を下げた。どうやら、今日のメイン、ローストビーフは美月が作って、唐揚げは翼が作ったらしい。勿論、味付けはオリジナル。メイン二品だけは、二人とも、昨日のうちからチマチマと用意していたらしい。
「でも、余り沢山つまんじゃダメですよ? 凪歩さん、帰ってきてないんですから」
 美月が良夜の隣に腰を下ろしながら言うと、一同は彼女が消えた倉庫の方へと視線を向けた。
「親子喧嘩中かしらね?」
「……――って、アルトが言ってる」
 アルトの呟きを良夜が通訳すると、他の面々の顔色が一様に沈んだ。
 元々、クリスマスイブは限定ランチメニューなんかを出す兼ね合いもあって、例年、非常に忙しい。外でケーキの受け渡しをしている良夜や直樹なんかはトイレにも行けないくらいだ。その上、今年はディナーの特別営業をおこなかった。具体的に言えば、蝋燭の明かりで営業し、ディナーコースを普段よりも凝った物にした。はっきり言って、ここが「喫茶アルト」ではなく「イタリアンレストランアルト」かと思うくらいに凝った料理が用意されていた。
 で、そう言う特別営業の中身を貴美があっちこっちのツテを使って、十分に告知した。その告知は功を奏し、と言うか、功を奏しすぎて……
「……忙しすぎ……」
 その一言をその場に居る人間、全員に成り代わって代弁したのは、寺谷翼だ。『For All Loves』と銘打ったクリスマス特別営業は、周辺のカップル全部が来たのかと思うくらいの大盛況で、スタッフは全員、ろくに食事を摂る暇もなかった。それは……
「昼飯にサンドイッチつまんで、後は、クッキー三枚を水で流し込んだだけだからなぁ……」
 と、良夜がぼやくほど。他のスタッフも似たり寄ったりの食事内容。彼らの空腹はもはや限界、極まっていると言っても良いレベルに達しているのだ。
「まあ、私は普通に食べたけど」
 訂正、一人だけ例外がいた。アルトだ。客のテーブルを渡り歩いては一曲演奏して「チップ」と称して、つまみ食いをしていた妖精に空腹の二文字はない。
「……――って事をしてた」
 ちょっとむかついたので、奴の行いを懇切丁寧に語ってあげる。すると、じろりと殺気を孕んだ視線が彼の頭の上を貫く。その中には『いつもアルトの味方』を自称する妹分までもが含まれていたりして……
「……わっ、悪かったわね……」
 さすがのアルトも額に冷や汗が浮かべての逃げ腰。それを青年が伝えれば、欠食従業員達も溜飲が下がったのか、良夜の頭というか頭の上の空間に集まっていた視線も逸れていく……そして、溜め息が一つずつ。
 目の前には良い香りを放つ料理達、その前に座る欠食従業員達……地獄のような一分がゆっくりと流れて――
「ごめん! お待たせ!」
 空腹も限界に近付きつつあったテーブルに凪歩がパタパタと足音を立てて駆け寄ってきた。
「それで、ちょっと悪いけど、お母さんが責任者と話をさせろって……どーも、これを機会に何処かで遊んでるって思われてるっぽくて……丁度イヴだし」
 そう言って顔色をなくした凪歩が携帯電話を差し出せば、貴美が手を出し、受け取る。受け取ったら、彼女の手は携帯電話を耳に当てた。そして、紡がれる言葉は、普段の変な方言からは想像も付かない上品な代物だった。
「はい。お電話、代わりました。喫茶アルト、吉田貴美です――」
 相変わらず見事なもんだなぁ……と良夜が思いながらに見ていると、貴美の顔がみるみるうちに苦虫をかみつぶしたような表情へと変わっていく。それに良夜は不思議そうに小首をかしげる。そして青年は、貴美が表情を強張らせ、見詰める方へと視線を向けた。
 それは良夜のお隣。
 そこには、右手を差し出したまま、固まっている、三島美月の顔があった。
「……えっ……えっとぉ……あのぉ……」
 グーパーグーパーと、突き出したままの右手を開け閉めする美月を見やり一同は「まずい」と思ったらしい。
「えっ……あれ……どっ、どうしたの?」
 解ってないのは、やっちまった張本人ただ一人。
「……時任さんにはいつもお世話になっております。はい、本日は……」
 苦り切った表情になりながらも、貴美の口調も声色も一切変わる事がない。その代わり……と言う訳でもないが、苦い表情を良夜に向けたまま、彼女は美月の顔を左手で指さし、その後にすっとその手で拝むような仕草をしてみせる。
 そして、彼女は電話を耳に押し当てたまま、そそくさと席を立った。
 それが引き金だった。
「……飲み物……取ってくる」
 そう言って翼が立ち上がった。
「あっ、なんか、知んないけど……手伝う」
 キッチンに向かう翼を追って凪歩も消えた。
「……ぼっ、僕、トイレ……」
 棒読みで言って直樹も立ち上がった。
「ショットグラス、取ってきましょう」
 ショットグラスはテーブルの上に転がっているような気がするが、なぜかアルトはそう言って飛び立った。
 その誰もが良夜の顔を見やしない。
 取り残されるのは良夜、そして……――
「さっき、吉田さん、私が責任者だって言いましたよね!?」
 なぜか、良夜の胸元につかみかかってくる三島美月嬢だけだった。

「……危なかった……」
 翼が言えば、車座になってる他の面々がうんうんと大きく頷く。そこには電話をかけ終えた貴美やトイレに行ったはずの直樹も、アルトまでもが凪歩の頭を椅子にして、そこに居た。その彼らの前には細切れになったパンの耳とジャムが置かれていた……

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