冬の仕事、冬の楽しみ(完)
さて、十一月も終わりが近付き、十二月が見えてくれば、昼はともかく、夜は結構冷えてくる。そんな季節になると、喫茶アルトのスタッフに一つの仕事が増える。
それは、毎晩、湯たんぽを一つ用意すること。
熱々のお湯を湯たんぽに入れたら、ハンドタオルを巻いて、さらにその上に二つ折りにしたハンドタオルを置いておく。そうすると、喫茶アルトに住まう小さな妖精さん、アルトがそこに寝るらしい……と、彼女、寺谷翼は上司、三島美月から聞いた。その話を聞いたとき、なんか、子供の頃、クラスメイトの男子小学生が木に砂糖水を塗って昆虫採集をしていたことを思いだした……が、それは本人には言わないでおく。
その仕事は当初、美月が行うはずだったのだが、三日目には翼がやってた。洗い物をしている流れでポットに水を入れて湧かす作業をするようになった。そしたら、当然、コンロにやかんをかけっぱなしにしていなくなれないから、湧くのを待つようになった。すると、美月が湯たんぽとハンドタオル二枚を用意していなくなるので、しかたないから、湯たんぽにお湯を入れて座りの良い所に設置する大役を担い始めた、という状況だ。
その大役を任されたことに翼が不服なわけじゃない。美月には他にも仕事があるのだから、仕方の無いことだ。ただ、そう言う役をやっていると、ついつい、使用状況が気になるのが人情という物。
「…………」
朝、出勤してきたら、前日に用意したハンドタオルを確認してみる……も、昨日の夜と比べて動いてるのか、動いてないのか、よく解らない。動いてると言われれば動いてる気もするし、動いてないと言われれば昨日、自分がやったままのような気もする。確かめようもないし、動いてるとも動いてないとも言ってくれる誰かは――
「どーしたんで〜すか?」
背後から聞こえた脳天気で上機嫌な声、振り向き見れば、そこには上司の三島美月が立っていた。
「別に……」
短く答える。そして、視線を美月からシンクの片隅に置かれた寸胴へと向ける。そこへ手を伸ばしかけた、まさにその瞬間、美月が言葉を重ねた。
「ああ、アルト、まだ寝てるんですね?」
「……解る?」
「なーんとなくですけどねぇ〜ほら、ここ」
伸ばしかけた手を引っ込めて美月の方へと向けば、彼女は湯たんぽの方へと近づき、その上に被されているハンドタオルの片隅を指さした。そこは取り立てて何の変哲も無いハンドタオルの一角、強いて言うなら、少し膨らんでいるかのようにも見える場所だ。
「この辺りがつま先なんですよ。それからこう、くの字に曲がってるところが向こう脛から膝の辺りで、ここが太股。それからお尻になって、この辺り、丸くなってるのが背中で、この持ち上がってるところから頭が出るんですよ、知ってますか?」
美月の少し荒れた指が、自身の言葉をなぞるようにハンドタオルの上をツーッと撫でていく。その指先の動きを翼はじーっと目で追い、動き終わった後も数回、反芻してみる。言われてみれば、確かにそんな感じに膨れているように見えない事もない……かもしれない? ただの皺のようにも見える。
「…………」
「……解りません?」
「……なんとなく……確信は……持てない」
小さな声で翼が答えると、美月も苦笑いで言う。
「私も確信はないですけどね〜良夜さんも居ませんし、写真撮ろうとしたら、凄く怒るんですよ」
「寝相……撮ったら、誰でも、怒る……と思う」
そんな言葉を一つ二つ、重ねていると美月が「あはは」と屈託なく笑ったので、翼も動きの悪い表情筋を少しだけ働かせて、ほほを緩めた。
そして、キッチン入り口から響く、雑談の時間が終わる合図。
「Aモーニング、一つ」
声の方向に顔を向けるとキッチンの入り口に凪歩が立っていた。それを受けて美月が「はいは〜い」と軽い調子で返事をして、ボールに卵と生クリームを入れ始めた。そしたら、翼は必然的にトーストとサラダ担当だ。袋から四つ切りの分厚いパンを取り出し、それをトースターに放り込む。それが焼けるまでにサラダを作る。キャベツは千切り、レタスは良く洗って、ドレッシングは特製シーザードレッシング、トッピングにはかりかりのクルトンを忘れずに……と言う作業の合間、ふと、気づいた時には――
――湯たんぽに巻かれていたハンドタオルはめくれ上がっていていた。
いつ起きたんだろう? と内心で考えるも、確かめる術はないし、やることは他にも沢山ある。結局、この日、この話題はこれにて終了。気になる疑問は心の奥に片付け込んで、翼は日常業務を始める。料理を作ったり、食器を洗ったり、美月のボケに冷静な突っ込みを入れたり……
そして、翌日。
出勤してくると、やっぱり、湯たんぽに巻き付けられたハンドタオルは昨日、彼女自身が作ったときと同じ状態のような、そうでないような……昨日、美月が教えてくれたような感じで中身が入っているようにも見えるが、ただの皺にも見える。ちょっと気になるから、翼は朝の仕事をこなしながらも、チラチラと視線を送っていた訳なのだが……
「……いつの間に……」
キャベツの千切りを始める前には被っていたはずのハンドタオルが、千切りが終わった時点で捲れていた。
さらなる翌日。
「……また……」
寸胴に水を注いで、コンロに掛けてる間に居なくなってた。
もう一つ翌日。
「…………チッ……」
美月と話をしている間に居なくなった。
今日こそはと思った五回目。普段はシンクの側に置いてた湯たんぽを彼女の作業スペース近くに置いて、出来るだけ視野の中に納めてやろうと思って挑んだ結果……
作業台の下に落とした缶詰を拾い上げてる間に、ハンドタオルが動いていた。
「……わざと?」
思わず翼は呟いてみたが、返事はなし。どうやら、何処かに行っちゃったようだ。良夜が来たら、聞いてみようかと思うが、良夜は最近、出席率悪い。そもそも、ランチタイムは翼も忙しい。結局、聞きたいと思いながらも聞けずじまい。
毎日毎日、どうにかして、起きる瞬間を見てやろうと思いながらも、やれ、話をしてるうちにだとか、作業している隙にとか、少し席を外した隙にとか……ともかく、わずかな余所見のうちに居なくなってしまう。
怒ってもしかたないし、気にはしつつも半ば以上諦め、翼は普段の日々を過ごしていた。
そんなある日の事だった。その日は日曜日。翼は最低最悪の状態で出社していた。まあ、ひと言で言えば、飲み過ぎ。もう少し余分に言うと、高校時代の友人二人と食事に行ったのだ。ちょっと早めの忘年会と言ったところだ。一軒目は海鮮居酒屋、二軒目はショットバー、三限目は寺谷翼邸で、二時までは飲んでた……と言う記憶はあるが、何時に寝たかという記憶は定かではないし、そもそも、寝てないような気もするし、自分が何時に起きたのかも良く覚えてない。そー言えば、友達二人は仕事に行く翼を「じゃあ、お休み」の言葉で見送ったような気がする。許せない。
シャワーは浴びてきた。しかし、体中酒臭いし、頭の中ではダースのシンバル奏者が適当な演奏をし続けてるような感じがする。なによりも、足下は常時震度三以上。
危うく電車を乗り過ごしそうになりながらも、ギリギリの所でなんとか降り立ついつもの駅。太陽が異様に眩しい。
「……きつい」
自転車に乗ったら転びそうな気がしたので、今日はアルトまで押して上がることにする。しかも、歩く速度だっていつも通りとはいかず、いつもよりも随分と遅め。酒臭い吐息をいくつも落とし、酒の結晶かと思える汗を額に浮かべて、ようやく、彼女は喫茶アルトの裏口にまでたどり着いた。
「あっ、おはようございます」
そんな彼女を出迎えたのは、彼女の上司、三島美月だ。丁度、ゴミ出しの最中だったようで、彼女の右手には大きなポリ袋が一つ、握りしめられていた。その上司の顔に視線を投げかけ、ひと言だけ翼は呟く。
「……おはよ……」
「……どうしたんですか? 顔色、悪いみたいですけど……」
「……つばさちゃんは……大丈夫……」
「……つばさちゃんって……」
翼の顔を覗き込むように美月が顔を近づければ、彼女は「あっ」と小さな声を上げ、その余り高くない鼻をつまんだ。
「お酒の匂い……仕事の前日に余り沢山飲むのは良くないですよ?」
「……友達が……土日しか……休み取れないから……ゴメン……」
批判の視線に晒されれば、言い訳のしようのない立ち位置に、鉄仮面も思わず曇る。美月の視線から逃れるように彼女は、その視線を山土むき出しの駐車場へと落とした。
「まあ……吉田さんとか、凄い匂い、ぷんぷんさせながら働いてたこともありますから……でも、お料理……大丈夫ですか? フロアに行ってくれても良いですよ? 今日は日曜日ですし……」
逃げた先まで追いかけてきた美月の視線は、批判の色合いよりも、翼を案じる色の方が強いように、翼には思えた。その大きな瞳へと視線を動かして、彼女は答える。
「……チーフ、今日は打ち込みの日、だし…………それに、フロアは……嫌い……」
「丁度、吉田さんも居ますから、一度、仕込んで貰えば?」
「…………足、青あざだらけになる……」
「あはは。でも、ほんと、刃物や壊れ物を扱うんですから、無理はしないで下さいね」
「……んっ」
小さな声で翼が弱々しく答えると、美月は心配そうな表情を作る。それでも彼女は何も言わずに、ポリ袋を片手にゴミ箱の方へと歩いて行った。それをチラリと横目で見送り、翼は裏口からキッチンへ入る。入り口傍には大きめのカラーボックスとタイムカード。それに自分のカードを突っ込み、事務室へと向かう。それから、荷物と言っても財布と定期入れ、手帳の他には、小物数点しか入ってない小さなハンドバッグをロッカーに放り込んで、キッチンに戻った。
そして、いつものように彼女の作業スペースに彼女は立つ。そこにはいつものように転がっている湯たんぽ一つ。相変わらず、昨日、翼がやったとおりにも見えるし、皺が少し増えているようにも見える。
「ふわぁ……」
大きな欠伸を一つ。じーっとその湯たんぽに視線を落としながら、作業の用意。包丁やまな板を軽くすすぐのが、翼の一番最初の仕事だ。昨日のうちにしっかり洗ってるけど、それでもちゃんと使う前にもすすぐ。それが終わったら、寸胴でお湯を沸かし始めたり、昨日のうちに下ごしらえをしていたスープに火を入れたり……今日は美月が倉庫兼事務所で打ち込み作業をしている分、翼の仕事は少し多め。もっとも、客の少ない日曜日だから、全体的にはのんびりとした時間がゆっくりと過ぎていた。
「ふわぁ……頭、痛い……」
そんな中、数回目の欠伸をかみ殺して、翼は作業スペースの片隅に置かれていた湯たんぽに目を向けた。ハンドタオルはしっかりと巻き付けられたまま。それを確認すると、翼は自身の腕時計に視線を落とした。そこに示されている時間は、もう、とっくにハンドタオルのお布団がめくられているはずのお時間だ。そー言えば、昨日、この妖精は休みだった美月や良夜と一緒に遊びに行ってたから、その分、今日は朝寝なのかも知れない。
「……良い身分……――」
呟いた瞬間、つるん! と手の中から握っていたお皿が逃げた。
「あっ……!」
と、口から呟きが漏れても後の祭り。手の中から逃げたお皿はコンクリ打ちっ放しの土間へと真っ逆さま。ぱーん! と涼やかな音を立てて、それは砕け散った。ちなみに、それが結構良いお値段であることを翼は知っている。一応、ブランド品のはずだ。
「……ああ……」
グレイの土間の上に放射状に散らばる破片を見下ろし、翼は溜め息を一つ。その破片は窓から差し込む朝日に煌めき、結構綺麗。綺麗であるのが何かの慰め……になんかなるわけもない。ただでさえ痛む頭がさらに痛くなるのを感じながら、翼は倉庫兼事務室へと向かう。始末書を書いて、箒とちりとりを用意するためだ。
ほんの少し前に出て来たばかりの倉庫に翼が入ると、真正面には美月の黒髪美しい後ろ姿が見えた。その向こう側には真新しい液晶モニターと大きなタワー型のパソコンが一台。
「……お邪魔」
そう呟くと、美月が「アレ?」と振り向き、そして、尋ねた。
「どうしたんです?」
深かった眉間の皺が消え去り、不思議そうに翼を見上げる顔を見下ろし、翼は答える。
「……お皿、割った……」
「あっ、大丈夫ですか? 怪我、してません?」
「……大丈夫……」
伝票の打ち込みを中断して、美月が問えば、翼もそれに答える。
「深酒、良くないですよ? キッチンは危ないことも多いですから、気を付けてくださいね?」
珍しくお小言じみた言葉を並べる美月に翼は小さく頷く。そして、美月の事務机の一角を借りると、鉛筆で始末書に文字を書き込み始めた。用紙は貴美が自宅のパソコンで作った物。日付と自分の名前、割った時のシチュエーションに、割った食器の種類を書くようになっている。それから空いたスペースには妖精の横顔をアレンジしたアルトのロゴマーク、美術芸術方面の才能は皆無だと言ってたはずなのに、貴美の作ったこの用紙は随分と可愛く出来ていた。あと、丸っこいフォントがやけに可愛い。
その用紙の上に鉛筆を走らせる様子を、美月は打ち込みの手を止め、覗き込む。見詰められると書きづらいし、気恥ずかしい。そんな思いを抱きながらも、手早く書上げると、翼は書き終えた用紙を所定の位置へと突っ込んだ。
「お疲れさま……んっと、お皿が割れるのはしかたないんですから、気にしないでくださいね。でも、怪我だけは気を付けてくださいね」
「……ありがと、チーフ……」
気遣ってくれる美月に軽く頭を下げて、翼はその場を後にする。足取りは重くも速度は速め。パタパタと逃げるように部屋から出ると、彼女は事務室のドアを閉めた。そして、そのドアにもたれかかり、「はぁ……」と大きな溜め息を一つこぼす。
がっくりと肩を落としてキッチンに戻ると、自分がキッチンを空っぽにしていたことに気付いて、もう一段階、深く、彼女は凹んだ。
「今日は……ダメ……」
作業スペースに戻って吐いた弱音が、ひとりぼっちのキッチンに消えていく……と思った所で、ここが無人でなかったことを翼は思い出す。
未だ惰眠を貪る妖精さん、だ。
翼の作業スペースのすぐ傍、置かれた湯たんぽと、そこに巻き付けられたハンドタオルのお布団は未だ、朝、翼が出社した時のまま。美月のように寝姿の想像までは付かない物の、気持ちよく寝てるんだろうなと言うことだけは想像が出来た。
「…………」
それをじーっと眺めていれば、思い起こすのは当店店長三島和明のお言葉。たまに向かっ腹が立つ事がある。その言葉が正しい事を思い知るも、彼のようにその上に大きなお皿やボールを置くところまで底意地悪くもなれない。結局は……
「……本当に……良い、ご身分……」
それだけの言葉を残して、彼女は仕事に戻った。次の仕事はキャベツの千切り。新鮮なキャベツをドスンと半分に切ったら、芯だけは先に切り飛ばして、残りは大きな菜っ切り包丁でザクザクと刻んでいく。割と簡単な仕事だ。二日酔いに痛む頭をぼんやりさせながら、視線は包丁の行く末を霞む視線の中に捉えて、彼女は手を動かし続ける。
その最中、ふと、視野の片隅に置いてあった湯たんぽが、彼女の意識を捉えた。
「……ああ……そうか……」
思わず唇から言葉がこぼれたのは、今の今まで意味を見出すことの出来なかったただのシワが、人の寝姿に見えたから。
右の方、わずかに膨らんでるところがつま先、くの字に曲がった膝と太股のライン、そこからお尻、大きめに膨らんでるところが丸まった背中から肩のラインだ。そして、左の端っこ、ドーム畳になったところから首と頭が出ている……まさに、湯たんぽとハンドタオルの間には一人の少女が寝転がっている、それを彼女は理解した。
それを理解した瞬間、布団の中で気持ちよさそうに眠る少女が寝苦しそうに寝返りを打っているのが、なんとなーく見えた。そして、もう一度、二度……何度も寝返りを打ち始めているのが解れば、彼女が今まさに起き……――
「ぎゃっ!?」
と思ったら、彼女の左の人差し指に激痛! 思わず、二日酔いも吹っ飛ぶ痛み。視線をゆっくりと、恐る恐る動かせば、指先にざっくりと大きな傷。深さ自体は大したことないのだが、場所が悪かったのか、酒の影響か、結構な勢いで血が溢れ出す。咄嗟にギュッと指先を掴んだまま、パタパタと翼は駆け出した。向かう先は、事務室、美月が使ってる事務机。その片隅に救急箱があったはず。
そして、カットバンで傷口を塞いで帰ってきたときには、すでにハンドタオルの布団はめくれ上がっていた……
その後……
本日の打ち込み作業はお流れ、キッチンに戻ってきた美月の手により、翼は職場を追い出された。
追い出された翼の居場所は……
「良い機会やねぇ〜?」
ニマッと底意地悪い笑みを浮かべた吉田貴美嬢が、手ぐすね引いて待っているフロアだけだった。
その日の夜、彼女が自宅風呂場で見た物は、向こう脛に浮かぶ大きな青あざだった。
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