好き嫌い(完)
通常、営業終了の夜会に興じられるのは、売れ残りのスイーツであることが多い。ケーキとかシュークリームとか。多いときもあれば少ないときもあり、場合によってはないこともあるが、それ以外の物で夜会が執り行われるのはまれだ。
そのまれな日が今日この日。この日、提供された物、それは――
「これですよ〜」
大きなトレイの上には大きなお皿、少し厚めにスライスされたトマトの上にはやっぱり集めにスライスされたモッツァレラチーズ、コイツに塩胡椒とオリーブオイルで味付けすればカプレーゼと言うイタリアンサラダの出来上がり。他にはボトルが数本とグラスが四つ。いつもの夜会とは全く違う布陣だった。
「ありゃ、モッツァレラ? なんで急に?」
その大きなトレイを覗き込み、尋ねたのは、真っ白い布巾を持ってテーブルの上を拭いて廻っていた吉田貴美だ。彼女が少し怪訝そうな表情を浮かべると、美月はにっこりと微笑み、大きく頷いた。
「はい。でも、国産の牛乳で作った奴じゃなくて、水牛のお乳で作った本物のモッツァレラチーズなんですよ〜」
「へぇ……どったの? 買ったの?」
「まさか! 頂き物ですよ〜量もそんなに多くないので、従業員だけで食べちゃって良いって、お祖父さんが」
「ふぅん……」
貴美は一見興味なさそうな表情を見せるも、すぐにその表情は変わる。
「で、まさか、これに飲み物、コーヒーとか、面白い冗談は言わんよね?」
ニマリと彼女が芝居がかった笑みを浮かべてみせれば、美月もこくりと頷き、トレイの上に乗っていたボトルの一本を手に取った。
「白ワインです」
「……褒めてつかわす」
「光栄の至り」
仰々しく貴美が言えば、美月は恭しく頭を下げる。気分は悪の組織の幹部とその有能なメイドさんと言ったところ。その気分をたっぷりと味わった後、二人は「あはは」と声を出して笑い合った。
「でもさ、アルちゃんはコーヒーの方が良いんじゃない?」
「ですかね……――あっ、そーでもないみたいですよ?」
美月の荒れた指先は自身の右の肩口へ、そこをちょいちょいと突きながら、彼女はニコッと笑った。すると貴美も釣られて笑みを浮かべて、アルトに尋ねる。
「ショットグラス、いる?」
美月がわずかに右の肩口に視線を向ける。そして、彼女はコクンと頷き、答える。
「……――いるそうです」
「りょーかい」
美月の言葉に軽く応えて、貴美はキッチンへと消えていく。それを目で追いながら、美月はトレイの上に乗せてあった料理の皿やワインボトルとグラスをテーブルの上に並べ始めた。大きなお皿の回りに曇り一つないグラスが四つとワインボトルが並べられれば、ちょっぴりお洒落な雰囲気。
テーブルの上の様子に美月が満足そうな笑みを向けていると、そこに先ほどまで皿洗いをしていた翼がショットグラスを持った貴美と共に姿を現した。
そして、翼はテーブルの上、その中心に陣取る大皿を一瞥して言う。
「……皿洗い、手伝いもしないと思ってたら……」
いつもの無表情、いつものぶっきらぼうな口調。知らない人が見れば不機嫌、もっと言うと怒っていると思われそうなたたずまいではあるが、それが彼女の“素”であると言うことはすでに喫茶アルトでは周知の事実だ。
「えへへ、ごめんなさい」
屈託のない笑みを浮かべて軽い口調で美月が詫びると、翼は軽くかぶりを振った。
「……良い、今日は多くなかった……」
「後はなぎぽんだけ?」
貴美が席に腰を下ろしながらに尋ねると、美月はトイレの方へと視線を向けた。今日のトイレ掃除は凪歩の担当だからだ。その仕事は割と手間の掛かる仕事なので、トイレ掃除担当は出てくるのが遅れることが多々ある。
「もう少しですかね? あっ……出て来ましたよ」
カチャリと音を立ててトイレのドアが開いた。普段なら聞こえないそれがここまで届いたのは、それだけ営業終了後のフロアが静かだと言う事の証だろう。そのドアから出てくるのは、勿論、ポニーテールと眼鏡が特徴的な、喫茶アルトフロアスタッフ、時任凪歩だ。
「おまたせ〜トイレの掃除、苦手だよぉ」
必要以上の疲労感を言葉に乗せて凪歩が言えば、貴美と美月が「あはは」と笑い声を上げ、翼もほんの少しだけ頬を緩めた。
「あれ、お酒? ワイン? 平日から飲むって……――」
テーブルの上のワインボトルとグラスに気付けば、凪歩の表情が一気に華やぐ……も、それは一瞬だけのこと。テーブル中央に陣取るトマトとモッツァレラチーズのスライスが乗った皿を見た途端、彼女の表情が固まった。
「……私、トマト、だめなんだよ……」
静かな夜だった。生きとし生けるもの、全てが寝静まったかのように、夜はどこまでも静かだった。誰かの寝息の一つ聞こえぬ夜、空には晩秋の寒々とした満月が一つ。その明るさに星の光はかき消され、雲は何処かで眠りに落ちた。
夜空の下には、大きな一つの湖面があった。その湖面は古の職人が磨き上げた黒曜石の鏡のように、真円の月を映し出している。
静かな夜、時は静かに、そして、ゆっくりと流れる。そんな時間がどれくらい流れただろう? 見ている者が誰も居なければ、当然、その時の長さを測ることも出来やしない。
ふいに、鏡のような湖面に、波紋が一つ……一つ……また一つ……現れてはスーッと岸にめがけて進んでいく。湖面の月に微かな傷跡を残して、波紋達は岸へと向かって一直線……
その波紋達は岸に達すれば緑の体を持つ一つの生き物へと変わる。それは――
――蛙。
大きいの、小さいの、様々な種類の蛙たちは、音もなく波紋を作り、軌跡を描き、岸へと上がる。彼らが向かうのは池の隣にある畑、そこでは今まさに色づき始めようとするトマトの苗木が無数に植わっていた。彼らはそのトマトの苗木にたどり着いたかと思うと、一匹、また一匹と、一つの苗に数匹程度の蛙が取り付き始め、そして……
「そして、お尻から出したぶっとい産卵管をトマトに突き刺して、中に産卵するんだよ! だから、トマトのヌルヌルしたところに入ってる黒い粒は蛙の卵なの!!」
「そうなんですか!?」
凪歩の絶叫に会わせて美月が素っ頓狂な声を上げる。
そして、無表情のままに翼が美月の頭をはっ倒した。
「いたっ!?」
「……そんなわけ、ない」
「冷静な突っ込み、ご苦労」
淡々と翼が言えば、対面の貴美もコクンコクンと大きく頷く。そして、金に近い茶髪の彼女は手にしていたトマトを取り皿の上に戻すと、ため息混じりに凪歩に尋ねた。
「何処のバカだよ……そんな嘘を教えたんは……?」
「うちの上の兄。子供の頃にだまされて……最近はさすがに種に決まってるって解ってんだけど、どーしても、あのヌルヌルしたところが気持ち悪くて……」
頬杖を突いて溜め息を漏らす凪歩の前には、ぴかぴかに光る取り皿が一枚と、ワインが半分ほど残るグラスが一つ。普段ならばがぶ飲みする凪歩も今日は少々控えめ。他につまみも用意されてないから、ワインをチビチビとなめるように飲んでいた。
それは他の面々も同じ。お酒の進みは余り良くない。
「……聞かなきゃ良かった……」
ため息を吐くのは、吉田貴美嬢。トマトとモッツァレラチーズのカプレーゼは半分ほど囓られ、取り皿の上。視線は囓り跡から皿の上へと流れ落ちるドロッとした果汁とその中に含まれる黒いつぶつぶ……彼女の視線はそこに釘付けだ。
「そっ、そうですね……」
美月の皿にも三分の一ほどに量を減らした物が鎮座ましましているし、翼も一つは食べきって皿の上は空っぽにはなっているものの、二つ目には手が伸びていない。そして、美月が小指の先ほどの大きさに切り分けたトマトとチーズもそのままだし、ショットグラスのワインもほとんど減っていなかった。
「……私から言い出したんじゃないからね……」
凪歩を責めるような空気がテーブルの上に舞い降りる。その空気に居たたまれなくなった彼女は、ぶっすっとそっぽを向いて、半分ほど残っていたワインを一息に飲み干した。そして、彼女はテーブルの片隅に置かれているワインボトルへと手を伸ばす。
「今日、余り沢山ないかんね?」
「はいはい」
貴美に言われて、凪歩はトクトクとワインをグラスに注ぎ込む。普段ならなみなみ一杯入れるところだが、今日は少々遠慮気味。半分にも満たない程度の量に納めると、彼女はそれを優雅に口に運んだ。
「所で……」
なんとなく、食べ損ねちゃった空気感の中、翼がポツリと言葉を漏らすと、一同の視線が彼女の顔に集中した。
「…………今日の昼の賄い……トマトソースのスープパスタ……」
「ああ、そうでしたね、なかなか、良く出来てましたよ」
ボソボソとつぶやいた翼に言葉に、美月が答える。翼は「んっ」と素っ気なく受け答えながらも、両手で包んだグラスに口を付ける様は何処か気恥ずかしそう。そんな翼の隣で、貴美が「あっ」と小さな声を上げた。
「この間もミートソースのパスタ、普通に食べてたし、そもそも、イタリアンでトマトとチーズが食べれなきゃ、食べられるもん、なくなんじゃん?」
貴美が言うと凪歩はボソボソと体裁悪そうに口を開いた。
「……チーズは大好きだし……後、トマトソースとか水煮缶とかはケチャップとかは……――」
凪歩はそこまで言うと一旦言葉を切り、そっぽを向く。そのそっぽを向いた頬がみるみるうちに真っ赤に、まさにトマトとか思うほどに真っ赤に染めていき、そして、言った。
「缶詰とかチューブとかそのまま、木になってるって……思い込む事にしてる」
「木になってるんですか!? トマトの水煮缶って!」
また、美月が素っ頓狂な声を上げたので、今度は貴美がグーで、彼女の後頭部に鋭い突っ込み。声も上げられないほどに悶絶する美月はほったらかしにして、翼がため息混じりに言った。
「……欺瞞」
「だっ、だって……弘子おばさんがイタリアンの専門家で、トマトとチーズが大好きなんだもん……」
「ああ、そう言えば、美月さんの恩師が親戚にいるんだっけ?」
貴美が尋ねると凪歩が大きく頷き、言葉を繋いだ。
「うん。今は学校の先生だけど、若い頃は有名なイタリアンレストランで修行してたとかで、遊びに行くとかならず、出てくるのはイタリアンなんだよ……」
そして、必ず何処かにチーズとトマトが顔を出していた。生のトマト、特に種周辺のどろどろした部分が残ってるような奴は拝み倒して外して貰えもするが、まさか、ミートソースからトマトを抜いて貰うこともなんて出来ない。かと言って、食べない凪歩のために他の物を用意してくれるほど甘い家族親族でもなく、結局、凪歩が編み出した詭弁が――
「トマトソースも水煮缶もケチャップも、後トマトジュースも缶詰とかチューブ入りで木に生っている……だから、蛙は卵を産み付けないんだ」
と言う理屈だった。
そんな説明を凪歩がすれば、一同の視線はいっそう冷たくなり、一つの思いを心に刻む。
((((なんで、蛙はトマトに産卵しないって、思い込めないんだろう……?))))
その思いは当然、話を聞いていた全員の思いであると同時に、凪歩本人すらも常々思って居ることだ……が、思い込めない物は思い込めないのだから仕方が無い。
集中する視線に晒され続ければ、気分はまさに針のむしろ。その空気に耐えきれず、彼女は少し逆ギレ気味に大きな声を出した。
「てか、誰だって一つや二つ、好き嫌いってある物でしょ?!」
「まあ、私も苦い物とか余り好きじゃないけどねぇ〜ゴーヤとか……ピーマンも生に近い感じのは嫌いかなぁ……後は砂糖とミルクの少ないコーヒーとかも……」
冗談めかした口調で良いながら、貴美はようやく食べかけだったカプレーゼにフォークを伸ばした。ぷつりと突き刺し持ち上げれば、取り皿の上には凪歩の言う『蛙の卵』が一滴、残されていた。それを一秒ほど視線をやるも、すぐに視線は手元へと戻される。そして、彼女はぱくりとトマトとモッツァレラチーズを口に運んだ。数回咀嚼、ワインで流し込めば、彼女は「ふぅ〜」と大きな吐息をこぼして言う。
「うん、ヤッパ、美味しっと……――どーしてもだめなのはゴーヤくらいちゃうかな? 内臓系は食べ物じゃないし? 魚とかサザエとか」
貴美がトマトを口にしたのをきっかけに、凪歩の話で止まっていた手達が再び動き始める。
「ああ、私、ゴーヤはまだ食べたことないんですよ〜お店でも使いませんし。でも、サザエの内臓は美味しいですよ?」
「……ゴーヤもワタも……美味しい……と、思う」
美月と翼も口々にそう言いながら、フォークを自身の取り皿や中央に置かれた大きな盛り皿へと手を伸ばす。やっぱり、取り皿の上に残ってたり、切り口から滴る『蛙の卵』を多少意識している様子だ。されど、概ね、滞りなく、彼女らはトマトとチーズのスライスを口に運ぶ。そして、トマトのさわやかな酸味とチーズの濃厚な味わいの妙を楽しめば、凪歩の戯言などでは彼女らの手を止められる物ではなかった。
「うーん、美味しいですねぇ〜トマトもチーズも……」
「……んっ……塩加減も……良い塩梅……」
「牛乳のモッツァレラと味が全然ちゃうね?」
大皿の上からどんどんサラダは消えていき、ボトルを満たしていたワインも減っていく。貴美が用意したショットグラスからもワインがなくなっているところを見れば、見えない妖精さんも楽しんでいるのだろう。
「うう……」
ただ一人、つまみなしでワインをちびりちびりと舐めているのが、十年来のトラウマが抜けない時任凪歩だった。
「あの……トマト、誰か食べて……」
ボソボソっと上目遣いで言ってみたところで……
「贅沢抜かすな」
「好き嫌いは良くないですよ?」
「……やっ」
そして、テーブルの上に投げ出していた左手にチクッとした痛みが二回。もはや、彼女に味方は居なかった。
「良いじゃん……バケットの上に乗せたて軽くトーストしたら、きっと美味しいに決まってんじゃんか……」
テーブルの上にのの字を掻きながらいじけてみても、誰も同情はしてくれないみたい。各々思い思いにカプレーゼをつまんでいけば、大きなお皿の上にあんなにもあったおつまみ達はあっという間に減っていく。それを名残惜しそうに眺めては居るものの、やっぱり、あのとろっとした部分が気持ち悪くて、凪歩は手を出せない。しかたないから、テーブルの片隅に置かれていた岩塩をワインと交互に舐めていく。これはこれで……と思ってたら若干、泣けてきた。
すると……
パクパクと一方的に食べていた三人が顔を見合わせ、ひときわ大きくため息を突いた。
「……塩をなめるな、塩を。貧乏な江戸っ子か?」
「ほんと、喉を通りませんよねぇ〜」
「……チーフ、割とガツガツ……食べてた……」
貴美、美月、そして翼が一言ずつ言い合うと、三人の手が中央の大皿へと同時に伸びた。三本のフォークに突き刺さる三枚のトマト、それが三つの口へと運ばれる。盛り皿の上に取り残されるのは真っ白い体に黒い胡椒、黄金色のエクストラバージンオイルに身を浸したモッツァレラチーズのみ。
「わぁい、ありがと〜」
だらしなく垂れ下がった頬で凪歩が大皿に手を伸ばせば、翼がペチンとその手を叩いた。
「……誰が食べさせると、言った?」
「えぇ〜ここまで来て食べさせてくれないとか!?」
「……なぎぽんって……良い所のお嬢とか言ってなかった?」
「良いところじゃなくて、親の稼ぎが良いだけだって! だいたい、親の稼ぎがよくても、今、この瞬間、食べたい物が食べられないのは辛いの!」
意地汚い絶叫。その後に、凪歩はモッツァレラチーズを大皿ごと手元に引き寄せると、まずは一枚、念願のモッツァレラチーズを口元へと運ぶと、彼女はがぶっと噛みついた。フレッシュチーズらしく癖は余りないのだが、口いっぱいにミルクの香りと味がオリーブオイルの風味と共に広がっていくのが溜まらない。バジルや塩胡椒なんかも良いアクセントになっている。水牛のモッツァレラチーズは何回か食べたことがあるのだが、日本で作っている乳牛のそれとは、やっぱり、全く違う。
「うーーーーーーん、美味しい!」
思わず叫んでしまえば、ワインを傾ける三人の……――否、多分、四人の視線が痛い。
「……だっ、だって、我慢してたんだもん!」
顔を真っ赤にしながらも、ワイングラスとチーズの刺さったフォークはけっして離さない。
「……誰も取りゃしないから……」
その凪歩の様子に呆れ声を上げたのは、ワイングラスに残ったわずかな液体をチビチビと飲んでいた貴美だった。すでにワインボトルにはほとんどワインも残っていないから、普段なら豪快な飲みっぷりの貴美もこの調子。ちなみに飲んだのは、つまみを食べられなかった凪歩。ほぼ自棄酒。
フォークに串刺しにしたチーズをガブりっ! そして、ワインをコクンと一口飲み干して、凪歩は言った。
「だってぇ〜本当に全部、食べられるかと思ったもん……」
言って凪歩は一つ目をぺろり。二つ目もフォークに突き刺し、カプッと囓ったかと思うと、あっという間に食べきった。最後、三枚目は……ほんの少しだけフォークで切り取ると、それを取り皿の隅っこ、未だ汚れていないスペースに置いた。
「アルトちゃんにお裾分け」
少し気恥ずかしそうにはにかみながらに言えば、テーブルに置いてあった右手にチクッと小さな痛みが走った。その次の瞬間、ほんの一瞬、ほんのちょっぴり、取り皿から視線を外した刹那、小さな小さなモッツァレラチーズは取り皿の上から消えていた。
「取る瞬間って、気付かない物なんですよねぇ……不思議と」
不思議そうに言ったのは、アルトの一応保護者的な立場の三島美月嬢。その言葉に「へぇ〜」と相づちを打って、三枚目をパクリ。二枚目の時点でワイングラスもボトルも空っぽになってるのが、凪歩にはちょっぴり残念だった。もっとも、一番飲んでるのは凪歩なので、誰を責めることも出来やしない。
そして、最後の一口がコクンと凪歩の喉へと滑り落ちると、貴美がパン! と軽く手を叩いた。
「……じゃあ、もう、そろそろ、お開きやねっと……ああ、自転車にも飲酒運転はあんだから、押して帰りなよ」
彼女がそう言うのが、夜会終了の合図だった。飲んだ量が知れてるせいか、美月も翼も特に乱れる様子もなくて、平穏無事な閉幕だ。酒豪の凪歩には少々物足りないが、平日で明日も仕事があるとなれば、贅沢も言えない。
「お疲れさまでした」
互いにそう言いあって、外に出れば秋の夜風がほろ酔いの頬を優しく撫でた。
職場が自宅の美月とアルトとはそこで別れて、凪歩は翼と貴美、三人と肩を並べて歩き始める。終電までにはまだまだ随分と時間があるし、風に吹かれながらのんびりと歩けば、良い酔い覚ましになった。
くだらない雑談を織り交ぜながら歩けば、ゆっくり歩いていたつもりでも貴美のアパートまではあっという間。彼女とそこで別れ、彼女がアパートの玄関に入っていくのを見送る。
そして、新人二人になって、また、やっぱり、のんびりと自転車を押しながらに歩く。
「この店……楽しいよね……」
ふいに凪歩の口から言葉がこぼれた。
その言葉に翼は足を止め、彼女の顔を一瞥。
「楽しいのは……なぎぽんの想像力……」
そうとだけ言って再び歩き始める翼を追って、凪歩も足を進める。
「……だって、なんか、それっぽいし……――あっ……満月だ……」
天頂近く、寒々とした空に輝く大きな月、それがふいに凪歩の目に飛び込んだ。ぼんやりと見上げる事、一秒ちょっと。その隣では翼もやっぱり、足を止めて、見上げて居た。
その月を見上げたまま……凪歩はポツリと言った。
「……こういう夜になんか……産卵とかしてそう」
「…………トマト、嫌いになりそう……」
凪歩の隣で翼がため息混じりに呟いた。
そして、翌日……
「ちょっと!? なんで、私のまかない料理だけ――」
本日のまかない料理はトマトソースの冷製サラダ風パスタ。世間的にはすっかり晩秋だが、お湯や油が常時煮立っているキッチンで食べるには丁度良いメニューだ。普段ならまかない料理にそれは入っていないのだが……
「こんなに生トマトがゴロゴロしてんのよっ!?」
沢山の野菜とチーズがトッピングされたサラダ風パスタの真ん中にはさいの目にカットされたトマトが、数こそ少ないがしっかりと鎮座していた。
張本人、なんとなく賄い担当が板に付いてきている寺谷翼がポツリと呟く。
「…………こんなに……ってほどでも、ない」
この日から、手を変え、品を変え、凪歩の賄いには生トマト、特に真ん中のドロッとした所が多めに出ることになった。
なお、彼女が生トマトを克服するのは、数年先のこと……
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