学祭 The 3rd!(11)
 喫茶アルトが飲食店である以上、身なりという物は大事だ。特に衛生状況には気を遣わなければならない。頭から泥水を被ったり、自転車で転んで休耕田に突っ込んだりしたままの姿で働くわけには行かない。
 頭から浴びる熱いシャワーが打ち付けられるのは、少々浅黒いのが玉に瑕だが女性らしい丸みを帯びた綺麗な体。その体はぶつけたり、すりむいたりで、あっちこっちが痛い。特に右の膝小僧が痛々しい。傷口の大きさも酷さも中学生の体育の授業中、思いっきりすっ転んだ時以来の物。お湯がかかると涙が出るほどに痛い。他にもあっちこっちに細かな生傷があったり、青アザが浮かんでたりと、我ながら随分間抜けな転び方をした物だと、彼女――寺谷翼は思い返す。
 その上、ズボンもブラウスもダメになっちゃって、新しいのを買わなきゃいけないかと思えば、頭が別の意味で痛くなってくる。こう言う時は熱めのお風呂にどっぷりと浸かってしまいたいところだが、そう言うわけにも行かない。とっとと砂埃を落としたら、仕事に戻らないと……
 そんな事を思いながら、彼女はシャワーの蛇口を閉じると、浴室から脱衣所に出た。
 喫茶アルトに併設されている三島家の居住スペース、そのお風呂場、脱衣所。浴室から脱衣所に出ると、几帳面に畳まれた白いバスタオルが用意されていた。それは柔軟剤が良く効いていてフワフワだ。アザと擦り傷だらけの体から水滴を手早く拭くと、先ほど脱いだばかりの下着を身につける。シンプルな白いブラとショーツのセット、今朝、新しい物を下ろしたばかり。体温の残る下着を身につけるのは若干気持ち悪いが、致し方ない。
 次は服だ。
 美月が用意してくれたのは白いブラウスとジーパン。美月曰く、これは彼女の野良着らしい。駐車場の草を抜いたり大きな窓ガラスを洗ったりと、汚れそうな仕事をする時に着る「野良着」扱いの服。制服じゃないのは、制服が全てクリーニングに出ているから。勿論、これはこれでちゃんと洗っては居るのだが……
 そのブラウスに袖を通す……――
「……きつい……特に、胸……………………よりも、お腹」
 美月と翼は身長は余り変わらないのだが、どうやら、全般的に翼の方が肉付きが良いようで、ブラウスのあっちこっちがきつい。まあ、胸はこちらの方が大きいだろうと密かに自負していたのだが、まさか、お腹もこちらの方が大きいとは夢にも思っていなかった。あと、二の腕。腕が動かしづらいったらありゃしない。
 きついボタンと格闘すること一分弱。胸元もお腹もパッツンパッツン。二の腕も動かす度になんか締め付けてくる感じではあるが、ともかく、体をブラウスに押し込むことに、翼は成功した。
 そしたら、次はズボンだ。
 スリム仕立てなジーパン、美月が持っている制服とパジャマ以外のズボンはこれだけらしい。
 それを目の前に掲げてみた時、翼は一つの予感が過ぎるのを感じた。ブラウスがあの調子だから、ズボンでの結論も見えていたが、翼はその予感というか、予想を信じたくはなかった。と言うか、奇跡を信じてみたくなった。
 だから、一応、トライしてみた。
 案の定……――
 入りませんでした。
「……」
 ふとももで詰まってやんの。
 お腹の所でホックが掛からないとか言うなら、どうにかごまかしも効こうが、脚が入らないんだから、どうしようもない。
(毎朝毎夕、自転車で坂を上がったり、下ったりしてるから……鍛えられただけ……絶対に……そう)
 頭の中で一生懸命、見知らぬ誰かに対して彼女は言い訳を並べる。
 その間も、下半身パンツ一枚の姿で、ズボンに右足を途中まで突っ込んだままという間抜けな状態。いくら引っ張ろうとも、そこから一ミリたりとて上がりゃしない。
 翼の名誉のために言えば、翼は決して太っているわけではない。平均値くらいの物だろう。たんに美月が細すぎるだけだ。美月は食が細いし、食べた物が身につきづらい体質らしい。まあ、その分、胸に行くお肉も少なく、永遠の関東平野とか言われてる訳だから、痛し痒し。
 一方、飯を不味そうに食べると評判の翼だが、本人は非常に美味しく食べてるつもり。実際にここのまかない料理は美味しい。自転車で坂道を上がったり下りたりしているせいもあって、入社以来、食欲旺盛。まかないの盛りつけは自分でやるから、ついつい、食べ過ぎてしまうのも不可抗力というヤツだ。その上、仕事が終われば三日に一度は売れ残りのケーキが出てくる。
 それで太らない女が居るだろうか?
 と、心の中の誰かに言い訳をして、諦め、脱ぎ捨てたズボンを見下ろす。その翼の姿、上半身はパッツンパッツンのブラウスで、下半身はショーツ一丁。冷静に考えると死にたくなるので考えないことにする。
 耳を澄ませば、遙か遠くとは言え、フロアの声が聞こえる。客は多くはないようだが、皆無と言う事もなさそうだ。そんなフロアをこの格好で行く事は不可能だ。いくら鉄仮面だって、恥ずかしい物は恥ずかしい。
 折角シャワーを浴びてさっぱりしたのに、埃だらけ、砂まみれ、膝小僧に大きな穴が開いてるズボンに脚を突っ込むのはイヤだ。かと言って、他に服は……と思ってみても、辺りにあるのは、洗濯籠に入ったアルトの制服くらい。おそらくは美月か和明が昨日、脱いだ物だろう。さすがに洗っても居ない他人の服も着るのはもっとイヤ。
 どうしよう……と、いくら考えていたところで、事態が好転するはずはない。他人の脱いだ服を勝手に着るくらいなら、汚れた自分の服を着た方が幾分はマシだろう。
 翼は丸められ、放置されていたズボンを取り上げ、足を突っ込む。
 びりっ!!
「……え?」
 膝小僧の穴から顔を出す可愛いつま先。
「わっ!?」
 と思った時にはすでに遅し。そこからつま先を抜こうとした瞬間、たたらを踏んだ体は先ほど視線を向けた脱衣カゴに頭からダイブ。ズボンに足を取られた影響もあって、翼は見事にすっ転んだ。本日、二度目。たんこぶ、おでこに一つ追加。
「……痛い……」
 呟き、そして、改めて脚に視線を向けてみれば、彼女の右足、膝から下がズボンの穴から顔を出していた。
「……はぁ……」
 ため息混じりに立ち上がり、もはや、珍妙な飾りの付いた半ズボンと言った風体のズボンから脚を引き抜く。目の高さに掲げてみれば、そのズボンの間抜けさがますます解ろうという物。コレを履いてフロアを突っ切るのは大分イヤ。パンツ一丁よりかはマシだが、許容範囲は大分超えてる。
 さて、どうした物か……と考える背後――
「翼さん、どうしたんですか?」
 掛けられた声に振り向けば、そこにはキョトンとした表情の美月が立っていた。
「あっ……チーフ……用事?」
「と言うか……いつまで経っても帰ってこないので、何かあったのかと……そしたら、大きな音もするし……」
「……そんなに?」
「……まあまあ、ボチボチ……傷むようでしたら、お医者さんに行きますか?」
 美月が軽く首肯するのに合わせて、翼は脱衣所の中、洗面台の片隅に置いた腕時計へと手を伸ばした。細身のアナログ時計、クォーツの安物だが薄いピンクの文字盤が可愛くて長く使ってる物だ。それを手にして時間を見れば、こっちに引っ込んですでに三十分以上が経っていた。
「……ゴメン……痛くはない……けど……――」
 そこまで言って翼は一瞬言葉に詰まる。
「けど?」
 その沈黙の理由も知らず、美月がもう一度、小首をかしげる。
「……ズボン……合わない……」
「えっ?」
「……ふとももで……詰まる」
 翼がポツリと小さな声で答えれば、美月はすっと翼の足下にしゃがみ込んだ。するりと翼の脚に巻きつくは、美月の細くて少し荒れ気味の指先。丹念にその太さを測ること、数秒。しかる後に彼女は自身の脚に同じ指を巻き付けて……
「あらあら、まあまあ……」
 その声は何処か嬉しそうな物。
 それに翼は小さくもはっきりとした声で言う。
「……チーフ」
 その声に美月がはっ! と顔を上げれば、その額には嫌な冷や汗。されど嬉しそうな笑顔は消すことも出来ず。
「……あっ、いえ、別に他意があるわけでは……」
 取り繕うかのように言葉を並べ立てる美月に翼は冷ややかな声で命じた。
「……すたんだっぷ」
「あっ……えっとぉ……」
 冷や汗を掻きながらに美月が立ち上がれば、翼の両手がぺたりと美月の胸元を覆った。
 そして、翼は言う。
「……あらあら……まあまあ……」
「ちょっと!!」
「同じ事……しただけ……」
 慌てて美月の右手が翼の手を払いのける。その美月の大きな瞳がじっ! と翼の顔を睨みつけるも、彼女はその視線を頬に受けながらツーンとそっぽを向くだけ。
「むぅ……」
「……何?」
 美月がうなり声を上げれば、翼も横目で上司に視線を投げかける。無言で向かい合い、そして威嚇しあう先輩と後輩……
 勝者の居ない戦いが始まった。

 その頃、フロア……
「……何してるんでしょうね……」
 久し振りに働いてる和明が不満を垂れていた。
 だって、他に働くスタッフが居ないから……凪歩は配達に行ったし……

 とりあえず、お互いの傷口を抉りあうのは止めようと言う合意形成が無言のうちになされたのは、二人が威嚇し合い始めてから二分ほどの時間が過ぎた時の頃だった。それから美月の部屋に招き入れられて、着やすい服を探すのにさらに十分ほど掛けた。
 その結果……
「暑い……いや、熱い……」
 翼が陣取るコンロにはグラグラと沸騰する寸胴、隣にはとんかつを揚げるため、大きな鍋には油がなみなみと湛えられている。普通に薄着をしてても、ここに立ってれば汗が滲むほどだ。そうだというのに、今、彼女が着ている服はニットのワンピース。その上には汚さないようにとエプロンも着用。
 美月はシンプルでスマートラインの服を好む。おかげで美月の持ってるワンピースやスカートの類は、全て、ウェストが翼にはきつすぎた。ウェストのホックくらいならどうにかなるだろうと思ってたが、それがどうにかならないくらいにきつい。だから、胸が奈良盆地なのだと翼は思う。
 で、合う服を探して見つけられたのは、衣替えのさい、片付け損ねられていたニットのワンピース、のみ、だった。
 ゆったりとしたニットのワンピースはウェストのところをベルトで止めるデザインになっていて、余裕のある作りだ。それは良いのだが、ともかく、暑い。
「ふぅ……」
 こめかみの辺りから頬を伝わり、顎へと滴る汗をハンカチで拭くと、彼女は小さな吐息を一つ吐く。
 ピピピッ……ピピピッ……
 吐いた息とほぼ同時、キッチンタイマーの甲高い音がパスタの茹で上がりを翼に教える。教えられた彼女は、トングでパスタを取り上げると、取り皿の上に綺麗に盛りつけていく。その上にはトマトのかぐわしい香りが溜まらないミートソースをたっぷり。
「ミートソースパスタ、上がりましたか?」
 さすがはキッチンを預かる身と言うべきだろうか? トンとトレイの上に取り皿を置くとほぼ同時に美月がキッチンに顔を出した。
「……んっ」
 一足先に作っておいたサラダも一緒に乗せて、トレイを渡せば、美月は「はい」と軽く頷き、それを受け取った。
 そして、彼女はマジマジと翼の顔を見詰めた後、トレイを作業机の上に戻して、彼女は言った。
「えっと……代わりましょうか?」
「……えっ?」
「おでこ……テッカテカですよ?」
 美月は眉をひそめて自身の額を指さした。
 その仕草に釣られるように額に手をやれば、ぬるりと自分でも気持ちが悪いくらいの汗が指に絡みつく。
「あっ……」
「さすがにその格好でコンロの前は辛いんじゃないんですか? フロアは余り人が多くないようですし……」
「……」
 言われて翼はチラリと視線をコンロに投げかけた。
 ゴボゴボと大きな沫が弾ける寸胴、そこには陽炎が揺らめいて、大分、やせ我慢しているという自覚は彼女自身にもあった。しかし、やっぱり、人前に出るのは余り好きじゃないし、料理してる方が好きだし……
 悩む翼の前に降ってくるのはトドメの台詞。
「フロアはエアコンが効いてるんですよ、知ってますか?」
「…………代って」
 翼は自分の心が折れる音を聞いた。

 フロアのエアコンは良く効いてて、先ほどまでの流れるような汗が嘘のよう。時間的にはランチの時間帯だが、今日は学祭とあって来客も少なめ。その分、配達に廻った凪歩は随分と忙しそう。転んだ翼をおもんばかってか、今日の凪歩はずっと配達。この借りはどうにかして返さなければ……と、翼は思う。
 入り口傍のレジの横、ぼんやりと立ってるだけの簡単なお仕事。これで給料が貰えるなら、ずっと客が来なければ良いのに……とか、言う台詞を凪歩が少し前に言ってた。直後に貴美にばれて、向こう脛を蹴り上げられていたが……
 待つことしばし……
 しばし……
 しばし……
 腕時計に視線を落としてみる。
 三分しか経ってなかった。
 思ったほど経過してないことに落胆しつつも、彼女は視線をフロアに向ける。ランチタイムにしては全然入ってないと言って良いほどの人数。キッチンの方も暇なのだろうか? でも、ディナーの仕込みとかもあるし、配達分のサンドイッチとかおにぎりとか、作る物は沢山だし……と思いをはせる。
 もう一度、腕時計を見てみた。
 秒針が半周だけしてた。
(時間……経たない……)
 しょうが無いからお冷やのサーバを持って店内をフラフラしてみる。お冷やの入ってないグラスがあれば、水を注ぐ。入社直後に一回か二回、美月に教わった気がする。やる気がなかったので、右から左に聞き流してたけど、水を注ぐぐらいなら、誰だって出来るだろう。
 そう言うわけで、サーバを持ってフロアをぐるっと一周。その間に追加の注文を受けたり、客の帰った席から食器を下ろしたりと、見よう見まねではあるが、慣れない給仕の仕事をして、元の場所に戻ってくる。
 労働の中身は大したことが無いが、人前に出ることの方は精神的にちょっとしんどい。それでも、本人としては大分頑張った感じ。二時間くらいは働いてるだろう……と思って腕時計に視線を落としたら――
 ――十五分しか過ぎてなかった。
(……一時間潰すのに何時間かかるんだろう……?)
 答え、一時間。
 一時間の時間を一時間かけて潰す。
 その一時間とは思えない一時間を潰す間、注文の忘れ物をしたり、間違えたり、掛かってきた電話に「寺谷です」と出ちゃう定番の失敗もやらかしたり、謝ってるのに「怒ってるの?」と謝ってる相手に聞かれてみたりと、慣れないフロアの仕事は結構大変だ。キッチンで汗でもかいてた方が良かったと後悔することしきりではあるも、表面上は相変わらずの無表情。
 その鉄仮面を維持したままで、レジ横に突っ立っていると、喫茶アルト名物のドアベルがから〜んと渇いた歌声を上げた。
「……あっ、いらっ――……なんだ……」
 入ってきたのは数少ない顔見知りの青年。夏には一緒に海にも行ったことのある大学生の顔を見れば、緊張感が抜けて本音が零れる。
「……なんだって、なんだよ……?」
 入ってきた青年――浅間良夜が苦笑いを浮かべると、翼はとりあえず、ぺこりと頭を下げた。
「……朝、ありがと……」
「……えっ、ああ……良いよ。気にしてないから。それより、こっちに居るって珍しいね?」
 問う良夜にどこまで答えようかと逡巡すること、数秒……口を開こうとしたまさにその瞬間――
「ああ……そっか……」
 視線を上、自身の頭の上へと向けて、青年が首肯すれば、翼は自分のサボりがちな表情筋がわずかに歪み、瞼の開き具合が細くなるのを感じた。
「……一人で、納得されても……困る」
 普段以上にぶっきらぼうな口調で言えば、良夜は苦笑い。ほっぺたを掻きながら、バツが悪そうに彼は言った。
「ゴメン、アルトに『その格好でキッチンは、暑い』って言われて、納得しただけだよ。それ、美月さんの?」
「……うん、ズボン、もう、ダメになったから……」
「へぇ……去年、見た……――そうだっけ?」
「……何が、そう、なの?」
「アルトが言うには、俺と一緒に買物に行った時に買った物らしい……」
 気恥ずかしそうに頬をかく青年を見やり、買いに行ったことは覚えてないんだろうなぁとぼんやりと、翼は思う。それから陽が翼の事を案じていたことやら、「期待の新人」だと評価してくれてることやらを良夜に教えて貰う。ちょっと嬉しい。色々と報われた気分。
「まあ、魔王声で、だけどね」
「……私、聞いたこと、ないから……」
 そんな感じで入り口付近での立ち話、動きの遅かった時計の針が随分と働き者になった事を実感する数分があっという間に過ぎる。そして、フロアから「すいませ〜ん」との声が聞こえれば、青年は「あっ」と小さな声を上げた。
「っと、ゴメン、邪魔したかな? 後で、美月さんとこにも顔出すって言っておいて」
「……んっ、今日のお昼……奢る、から……」
「さんきゅー、気にしないでも良いのに」
 そう言ってその場を離れる良夜を見送ろうとした……ら、彼がふいに振り向き言った。
「所で……なんで、そんな厚着してるの? もっと、薄いヤツ――イタッ!? なっ、なんだよ、アルト……痛いって……ああ、もう、向こうに言ったらゆっくり話すから。ってゴメンね、それじゃ、また後で」
 ……振り向き、言って、そして、急に頭の上で手を振り回し始めた青年を翼は見送る。
 そして、十分後……
「……えっと……コレ?」
「……何?」
 翼は良夜のテーブルに刻んだパンの耳とお冷やを置くのだった。
 マヨネーズもちゃんと持ってきてやってるのが、せめてもの優しさだと思って欲しい。

「……貴方、地雷探すのが上手すぎよ……」
 アルトがそう呟くも、翼には聞こえなかったし、良夜には――
「ちょっ、どー言う意味だって?」
 良夜には理解が出来なかった。

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