学祭 The 3rd!(10)
「ばいば〜い!」
 良夜の頭を一発蹴り上げ、妖精はぽーんと宙へと舞い上がった。
 その頭の持ち主が睨みつけるような視線を彼女に送ったような気もするが、それもほんの一瞬だけ。開いたドアの内側からブスッと膨れた美人(でもオカマ)が出てくるに至れば、彼はすぐにそちらに気を回さざるを得なかったようだ。
 今日の出し物がなんなのかは知らないが、陽は目にも鮮やかな晴れ着姿。見方を変えると花魁のようにも見えるが、その辺が解るほど、アルトは着物に詳しくはない。
「何してたの?」
「あっ、イヤ……あの……」
 その美しい女装が、その姿からは想像も付かない地獄の底から響き渡る魔王の声で言えば、青年はしどろもどろ。
「……良いから、入って……」
「あっ、えっ、はい」
 不機嫌な美貌のオカマが良夜の手首を掴んだかと思えば、そのまま、彼は部屋の中へと引っ張り込まれる。
 そのざま、可哀想だとは思うが、パタンとドアがドアが閉ってしまえば助けることは能わず……まあ、そもそも、助ける気も余りないけど。
「りょーや! ちゃんと事情を説明するのよ!」
 ドアの向こう側に向かって大声を一つ。勿論、中からの返事は聞こえないが、まあ、聞こえているのだろう。そういう事にして妖精はその場を離れた。

 と言う感じで、小さな妖精さんは大事な友人を人身御供に差し出し、魔王声の女装青年から逃げ出せた。
 のは良いことなのだが、今後の身の振り方という物を悩んでしまう。
「さてと……どうしましょう?」
 パタパタと羽ばたき、彼女は体育館から外へと出て行く。
 学祭二日目の朝。キャンパスはすでにお祭りモード。あっちこっちで模擬店の呼び込みやコスプレイヤー達、おめかししたメイドにバトラーさん、昨日出会った白塗りのピエロ達。そして、それらを見て回る学生達でごった返していた。
 アルトはそれらの頭を、時には飛び石のように足場にしたり、時には便利な乗り物にしたりしながら、正門付近にまで戻った。
 正門付近は昨日と同じく屋台がいくつも並んでいて、そこかしこから良い匂いが漂って来ている。芳ばしい香りに甘い香り、ソースの焦げる香もたまらない。その全てがアルトの食欲を刺激する。
「とはいっても……奢ってくれる人は居ないのよねぇ……」
 きゅーっと空腹を訴えるお腹を押さえて妖精は呟く。
 押しに弱い凪歩も良夜もこの場には居ない。特に昨日の凪歩はカモだった。欲しい店の前にまで連れて行けば、勝手に買ってくれていたのだ。ちょっと食べ過ぎたくらい。
 さてどうした物か……呟き、アルトは羽ばたきながら辺りを見渡す。
 このまま帰ってしまうのも良いのだが、この時間にアルトへ向かう学生もあまり居ないだろうし、一人で飛んで帰るのも億劫だ。それなら、たこ焼きか綿菓子でも食べてる人を見つけてご相伴にあずからせて貰っちゃおうか? 適当につまみ食いでもして、時間を潰していれば、良夜もこっちに帰ってくるだろうし、もしかしたら、凪歩や翼がまた配達に来るかも知れない。
 そんな事を考えながら、トンと一つの頭に着地を決める。頭の持ち主は見知らぬ女子大生。好感を覚える絶壁に視線を落とすこと数秒、そこから視線を上げれば、美味しそうな食べ物を持つ学生達が何人も見えた。
 選び放題。されど、その中から一つを選ぶのはなかなか難しい。
 美味しそうな牛串を持ってる男子大学生は太ってるし不潔そうで、なんかイヤ。たこ焼きをつまんでる女子大生は清潔そうだが、香水とファンデーションの匂いがきつくて近付きたくない。たこ焼きを食べてるイケメンの男子大学生も居るが、イケメンの学生って遊んでそうで、やっぱり、イヤだ。あと、スタイルの良い女子大生もなんか悔しいから、つまみ食いしてやんない。
 どれもこれもピッと来る物がない。帯に短したすきに長しと言うヤツ。
 人の頭を椅子に辺りを見渡すこと数分。聞こえて来たのは、聞き覚えのあるカップルの声だった。
「お腹、空きましたぁ……」
「綿菓子、買ってやったろう? 人形焼きも食べるか?」
「私は綿菓子や人形焼きがエネルギーになる生き物じゃないんですよぉ……」
「じゃあ、牛串でもなんでも食えば良いだろ? あっ、焼き鳥も良いなぁ……」
「潔斎中なんですっ! 最初からやらないよりも途中で挫折した方が、祈りが通じない気がするんです!」
「じゃあ、我慢しろよ……」
「我慢出来ないから言ってるんですっ! キツネ舐めると、七代、祟りますよ?」
「じゃあ、俺にどうしろって言うんだ?」
「にくぅ……おにくぅ……お肉、食べさせてくださぃ……」
 顔を向ければ巫女装束のたぬ吉とその友人の青年――確か、哲哉とか言っただろうか? ――が綿菓子と紙袋を手にブラブラしているのが見えた。その歩く方向から、どうやら、二研のサーキットの方へと向かっている様子が見て取れた。
 それを目で追うこと数秒、意を決したかのように彼女はぽーんと頭の上から飛び上がる。
「よっ……はっ、ほっと! 十点、九点、八点、七点、九点、九点、十点!」
 二つの頭が中継地点。最後のジャンプは三回宙返り半捻り。着地もぴたっと決めて高得点。それを祝うかのように黄金の耳たぶがピコピコと動く……のはただの偶然だろう。
「だいたい、食肉目ですよ? 食、肉、目! 肉を食べる目(め)!」
「肉を食べる、目ってなんだよ……目玉親父か?」
「鈴木土下座右衛門ですっ!」
「……なんだ? それ……」
「あっ、良いです、知らないなら、流してください!」
「……お前、時々、変な事を言うよな……」
 身振り手振りを交えながらにまくし立てるたぬ吉に対して、青年の方は冷静な受け答え。その会話の主な内容は、肉を食わせろ、勝手に食え、の行ったり来たり。その往復に時々、訳のわかんないボケや冗談をたぬ吉が絡めて来たり、哲哉が手を出してみたり、その出した手をたぬ吉が華麗にかわしてみたり……かわすのは良いのだが、余り頭を振り回さないようにして欲しい。酔うから。
 そんな二人、哲哉は否定するが、端から見れば頭の軽いカップルのじゃれ合いだ。
 それを見ながら、妖精さんはお目当てのつまみ食い。たぬ吉の麦秋を思わせる美しい髪を掴んでぶら下がったら、彼女が持ってる綿菓子にダイブ。ストローをざくっと突き刺したらくるくるとまとめ上げて、ミニチュア判綿菓子が完成だ。
 この間、わずか十秒足らず。
「いただきます」
 聞こえていないだろうが、買ってくれた人間へのあいさつも忘れずに、ぱくりと噛みつく。口の中いっぱいに広がる優しい甘みと柔らかな食感、やっぱり、お祭りと言えば綿菓子だと妖精は思う。
 それをアムアムと食べつつ、妖精は彼女の椅子になっている女性の頭を見渡した。
 髪は黄色みの強い小麦色で麦秋を連想させる色。その頭の天辺、腰を下ろしたアルトの両側ではピコピコと狐耳が小気味良く動く。その良く動く耳、右を見て、左を見て、それからもう一度、哲哉と楽しげに言葉を交わすタヌキ顔を見下ろして、アルトは呟いた。
「これが神様の使い……ねぇ……」
 ため息混じりの言葉は誰の耳にも届かず、宙へと消えていく。
「思いつきで潔斎なんて始めたのが悪い。自業自得だ、バカ」
「うう……牛串、焼き鳥、たこ焼き、お好み焼き、くるくるソーセージ……お肉ばっかりじゃないですくわっ!?」
「学生ばっかだからな、みんな、肉が好きなんだよ」
「うう……気分はもう犬神ですよ、犬神っ! 肩まで埋められて、目の前に餌を置かれた犬っころの気分です!」
「もう、ゴチャゴチャ言ってないで、綿菓子と人形焼き食ってろって……」
「私はザラメと小麦粉をエネルギーに出来ない生き物なんですよぉ……おにくぅ……お肉、食べさせてぇ……」
 消えてく呟きに気づきもせず、恋人と間抜けな会話を続けるキツネ娘……その姿からは彼女が神様のお使いだなんてとても信じられない。朱袴を履いた女子大生って所だ。それも比較的脳みその軽いタイプ。
「だいたい、神様のお使いが妖精にタクシー代わりにされてるのも気が付かないで、間抜け面晒してんじゃないわよ!」
 綿菓子、最後の一口をパクリ。それをモシャモシャと咀嚼しながら、彼女は吐き捨てるように言った。そして、ペチン! と空っぽになったストローでピョコピョコと動く耳たぶをひと叩き――
「ひゃっん!?」
 ――した瞬間、たぬ吉の体がビクン! と大きく振るえた。
「てっ、哲哉さん、もう、ダメですよ〜潔斎中に何考えてるんですか?」
「はあ?」
「いや、ですからぁ〜もう、こんな所でいきなり耳を触るなんて……もう、エッチですよねぇ」
「……肉、食えなくて、頭がおかしくなったか?」
 ほっぺたを押さえてクネクネし始めるたぬ吉の横、キョトンとした顔で哲哉が足を止めた。場所はちょうど学舎に一歩入った辺り。周りは昨日と同じく何処かに向かおうとしてたり、立ち話をしてたりする学生達の群れ。
 そして、たぬ吉の上でニマッと底意地の悪い笑みを浮かべる妖精が一匹。
 まずは耳の裏側……と言って良いのだろうか? 外側というか、まあ、ともかく、その辺りをストローの先っぽでツーッと撫でてみれば……
「ひゃひゃん! くすぐったいですっ!」
 たぬ吉はビクン! とストローの動きに合せて体を震わせる。
「……何が?」
「なっ、何がじゃないですよ〜あはは、もう、耳、くすぐったいから触っちゃダメだって、いつも言ってるじゃないですか〜」
「……普段、俺が触ってる見たいに言うな……ほら、とっとと行くぞ。もう、時間、ねーんだしよ」
 悶えるたぬ吉の頭めがけて平手を振り下ろす。普段なら華麗に避けるたぬ吉もアルトの悪戯のせいで避ける余裕もあらばこそ。青年の平手は狙い違わず、ペチンと彼女の後頭部を見事に捉えた。
「いったぁ〜哲哉さんっ! 私の耳を触るだけならまだしも、頭を叩くなんてひどいですっ! バチ当てますよ、バチ!」
「……叩いたけど触ってないって、何回言わせるんだ?」
 頭を押さえて膨れるたぬ吉の前、哲哉がパッと手を広げてヒラヒラ。
 キョトンとした顔で哲哉の揺れる手を見詰めるたぬ吉、その上でアルトは、
「こっ、これは楽しいかも知れない……」
 ニマニマと底意地の悪い笑顔を浮かべて、彼女の頭の上を移動する。耳の裏側から向かう先は表側。油断すると落ちそうなので、四つん這いになって慎重に動く。
「ともかく、さっさと行こうぜ。遅刻したら吉田さんがうるさいんだから」
「……むぅ……はぁい」
 言うだけ言って哲哉はたぬ吉に背を向け、歩き始める。その後をたぬ吉も不承不承というか、納得いかないというか……何とも言えない複雑な表情と共に頭を押さえながらに着いていく。
 そして、たぬ吉が数歩ほど進んだ辺り。そろそろ、二四研サーキットへと続く出入り口が見えるところ。そこでアルトはたぬ吉の耳の中に腕を突っ込み、その奥に生えている細かな産毛を優しくナデナデ……
「ひゃんっ!」
 文字通りに飛び上がるたぬ吉の体。顔は茹で上がったタコのように真っ赤っか。その顔をうつむけ、彼女はしばしの間肩をブルブルと震わせ始める。そして、おもむろに一歩先を進む哲哉の肩を掴んだかと思えば、寸毫の間も与えずに彼の体をくるんと半回転。
「ん? なんだ?」
 意味も分からず、あっけにとられてる哲哉の顔面、その右こめかみ。そこに向けて彼女は、力一杯――
「ぎゃっ!?」
 左フックをたたき込んでいた。
「てっ、てめえ!」
「触らないで下さいって言いました!」
「触ってねーってか、俺、お前の前を歩いてたろーが!!」
 哲哉の振り上げる拳はたぬ吉の頭――の上、アルトが座ってる辺りを目指して真っ逆さま。
「わっ!?」
 人を呪わば穴二つって奴か? と、思わず両手を振り上げて顔を庇う。も、彼女の優秀な足場がひょいとわずか後ろに動けば、彼の拳が殴るのはアルトの目の前、数センチの空間。
 その勢い良く空振った右腕にたぬ吉は流れるような身のこなしでしがみつく。そのまま、体重をわずかに掛ければあっという間に脇固めの完成だ。
「いててて!!!」
「おぉ〜」
 哲哉の悲鳴と同時にわき起こるのはギャラリーのどよめき。中には拍手している者までも居たり……拍手してるのは、きっと、これをイベントか何かだと思っているのだろう。
「じゃあ、さっきから誰が私の耳に触ってるんですかっ!?」
「知らん、知らん! しらねーよ!!」
 脇固めはいつしかコブラツイストへと移行していく。それに伴い、哲哉の額に玉のような脂汗が浮かび上がり、うめき声がいっそう大きくなっていく。
 そんな二人の姿を耳たぶのヘリをむんずと掴んだままに彼女(元凶)は見下ろし、呟く。
「……やり過ぎたかしらね? って、こんなのが神様の使いって、世も末ねぇ……他にそー言う知り合いいないけど」
 だいたい、今現在、思いっきり耳たぶを掴んでいるのだが、それについては気付いてない様子。どうやら、哲哉とじゃれるのに一生懸命でそれどころではないようだ。
 そして、いつの間にか周りには大量のギャラリー。もっとも、彼らが見ているのは主に巫女装束のままプロレス技を掛けてるたぬ吉の姿だ。長い裾からはみ出す白い健康的な太股や袖から見える脇なんかが萌えポイントらしい。あと、女性的には哲哉の苦しんでる姿も良いらしい。世の中、S女性も多いようだ。
 バカだと、妖精は思った。
 見てる方も見られてる方も。
 とりあえず、そろそろ、“気付け”をしないと収拾が取れないような気がする。一応、同じ女として白い生足とかいつまでも無料公開させておくのも可哀想だ……
「……ん?」
 が、少しはだけた胸元、スポーツブラに包まれた割と大きめな胸に目が止まったとき、彼女は思った。
(もう少しこのままでも良いかしらね……)
「やれやれ!」
「もっとやっちゃえ!!」
 口々に適当にはやし立てるギャラリー達、完璧、見物モードの妖精さん、そして、苦しむ哲哉と締め上げるたぬ吉。
「動物はっ! お腹! 空いてると冗談が! 通じないん! ですっ!!!」
「だーかーらー! しらねえっつってんの!!!」
「まだ言いますかっ!!??」
 相変わらずなやりとりを繰り返すたぬ吉と哲哉のカップルは勿論、ギャラリー達も、そして、アルトですら意識は二人のやりとりと戯れに集中していた。
 だから、背後から近付く影に気付く者は居なかった。
「食う物食ったら、とっとと帰って来いって言ったっしょ!?」
 女の怒声が即興のプロレスリングの周り響き渡る。
 声の持ち主はレースクイーン姿の吉田貴美だ。
 彼女はツカツカと近付いてきたかと思えば、ガツンと蹴りを一発放つ。それは哲哉の体を締め上げるたぬ吉ではなく、哲哉の方、それも二人の体重を支える彼の右膝に向けて、だ。
 膝を裏側から蹴っ飛ばせば、人間はその体の構造上、膝がかっくんと折れて崩れ落ちる。
「いたっ!?」
「わっ!?」
 哲哉の悲鳴が走り、タヌキの驚きの声が響く。そして、二人の体はもつれ合いながら崩れ落ち、冷たいリノリウムの床へと倒れ込んだ。
「いちゃいちゃすんのは、義務を果たしてからにしっ!」
 倒れ込んだ二人を見下ろし、ふんぞり返って貴美が言う。
 すると、もつれ合ってひとかたまりのペアは二つの体に戻り、クシュンとした表情を見せた。
「……別にカップルじゃねーって……」
 哲哉は気恥ずかしそうにボソボソ言うのが精一杯。
「はぁい……」
 たぬ吉の方も崩れた胸元を直しながら、ポツリと答える。
「んじゃ、たぬちゃんはとっととサーキットに行って、祈祷の準備始めな! 時間、十分以上押しとんよ! てつぅもその手伝いをしたら、分解整備の講習準備! やっこと、山ほどある、言ったじゃん?!」
 テキパキと貴美が指示をくだして、二人はその場を後にし、残るのは無粋なギャラリー達だけ。
「あんたらも、何処見とったん!? チャッチャッと散れ! 銭とんぞ!?」
 貴美が普段とは違う真顔で一括すれば、三々五々にその場からギャラリーも居なくなり、取り残されるのは貴美と……
「さすがねぇ……見事なもんだわ」
 いち早く、たぬ吉の上から貴美の頭へと待避を決め込んでいた妖精さんだけ。
 二人きりになった空間の中、ペチペチとアルトが貴美の額を数回かかとで蹴っ飛ばす。
 すると、貴美は数秒の沈黙の後、殊更に大きなため息を一つ吐いて呟いた。
「……あるちゃんがちょっかい、出しとったんね?」
 それに妖精は、ストロー一回で答えるのだった。
 すると貴美はもう一度、大きなため息を吐いた。

 二日目最初の祈祷には車とバイク、ついでに自転車が合わせて十台ほど集まっていた。
 その前には神酒やお供え物、それとなんか知らないけどフサフサの着いた、アレ(大麻という、おおぬさと読む)とかが飾られた簡易な祭壇が作られていて、まあ、言い方はちょっと悪いかもしれないが、雰囲気としては工事現場の地鎮祭と言った趣きだ。
 祭壇の周りでは、それまでは響き渡っていた、バイクのアイドリングや話し声、デジカメの作り物っぽいシャッター音も今は一休み。聞こえるのは、たぬ吉が唱える朗々とした祝詞の声だけ。
「掛けまくも畏き……――」
 その声は澄み渡り、落ち着き払っていて、先ほどまで、肉々言ってたのが嘘のよう。それをバイクや車の持ち主達が自身の愛車の傍で静かに聞いている風景は、ちょっぴり変ではあるが、厳かな空気に包まれていた。
 それをアルトは祭壇が作られたテーブルの上、たぬ吉の正面、言わば特等席から見上げて居た。
「神様って……余り信じてなかったんだけど……」
 テーブルにちょこんと腰掛け、足をぷらぷらさせながらアルトは呟く。
 見上げるたぬ吉の姿……麦秋を思わせる小麦色の髪は残暑の陽光に照らされキラキラと輝きを放ち、半分ほど閉じた瞳は穏やかなれど逆らうことを許さない威厳に満ちていた。先ほどまでのただのコスプレ女子大生と同一人物とは思えない。
 斜め下から妖精が見上げて居ることなどつゆ知らず、彼女は静かに祝詞を唱え続ける。
 唱え続ける斜め前、特等席に腰を下ろした妖精は静かに手を合わせる。
 そして、彼女は静かに心の中だけで小さな祈りとお願いを呟く……
 その願いは……――

「――……夜の守り日の守りに守り導き幸はえ給へと恐こみ恐こみも白す」
 その時間は二−三分と言ったところか? 祝詞の全文なんてアルトは勿論知らない。だから、何処で終わるのかも良く知らないが、ともかく、声が途切れたから終わったのだろう。
 言葉が途切れて数秒が経った頃、パンパン! と大きな柏手の音が響いた。
 その音を合図に、スーッと妖精は目を開ける。残暑の光に目が眩み、それが落ち着くとその目には、たぬ吉が祭壇に向かって深々と頭を下げて居る姿が映った。
 どうやら、これで祈祷の時間は終わりのようだ。
 たぬ吉がその場を辞すると、それまで奥に引っ込んでいた貴美が出て来る。
『本日、最初の祈祷はこれで終わりです。今後の予定は……――』
 祈祷が終わったことと今後の予定を貴美が告げる。その声をを遠くに聞きながら、アルトはぽーんと飛び上がる。目指す先は立ち去ろうとしているたぬ吉の頭。
 狙い違わず、そのピコピコと動く耳の間に着地を決めると、彼女はストローの先っぽでチョン! とたぬ吉の良く動く耳をひと叩き。そして、耳に向かって大きな声で言った。
「お疲れさま。素敵だったわよ!」
「ひゃっ! あっ、ありがとございま――あれ?」
 辺りを見渡しもたぬ吉の目には妖精は映らないし、彼女の恋人は別の場所で分解整備の準備中。辺りに居るのは不可視の妖精さんだけ。彼女は耳を押さえたまま、その見当たらない誰かを探して、辺りをキョロキョロ……
「どったん? 顔が間抜けになっとんよ?」
 辺りを見渡すたぬ吉に声を掛けたのは、アナウンスの一仕事を終えて戻ってきた貴美だった。
「あっ、えっ、なんか、今日、さっきから、ちょくちょく耳を触られてる気がするんですよねぇ……哲哉さんだと思ったんですけど……」
 貴美に問われてたぬ吉は不思議そうな表情で答える。
「ふぅん……まっ、妖精が触ってんのかもね?」
 それに貴美はパチンとウィンク一発。
 それに対してたぬ吉はぱちくりと数回の瞬き。貴美の顔を覗き込む表情は不思議そうと言うよりも、怪訝な物になっていた。
「吉田さんって……そう言うの、信じてるんですか?」
「まっ、たぬきっちゃんとこの神様と同じくらいにはね?」
 そんな会話を背後に聞きながら、ぽんと妖精はたぬ吉の頭を飛び立つ。
 向かった先はブスッと不機嫌そうに膨れた親しき友人、その頭の上。
「お帰りなさい。お疲れさま」
「……一人で逃げやがって……こっちが魔王に事情説明してる間にお前は神様にお祈りか?」
 妖精さんの友人――浅間良夜が憤然とした口調で言えば、アルトは「あら」と小さな声を上げた。
「見てたの?」
「見てたよ……何を祈ってたんだ? てか、お前、神様とか信じてなかったんじゃないのか?」
 青年の無造作な頭の上に着地を決めたら、彼の顔を覗き込んで、彼女は言う。
「そうね、今は信じてないわ。でも、さっき、お祈りした分が叶えば信じても良いわね」
 言った言葉に青年は訝しむような視線で妖精を見上げて、尋ねる。 「……何を祈ったんだ?」
 ぺちん! とアルトは訝しむ彼の頭に踵落としをたたき込み、答えた。
「うふふ……秘密」
 意味深な笑みに青年は「気になるよ」と問い直すもやっぱり、答えは先ほどと同じ。
「秘密よ。それよりも、次は何処に行くの?」
「日本史研究会……」
「何があるのよ?」
「……歴代信長の野望……」
「…………ああ……そう……」
 ポケットに手を突っ込み、青年は少し俯き加減の猫背で歩き始める。その頭の上で、妖精は無表情に言葉を投げ捨てる。
 そして、彼女は両手を彼の頭の上に突いて低い天井を見上げた。低い天井、当たり障りのない蛍光灯だけが彼女を照らす天井だ。その天井に向けて、彼女はポツリとこぼす。

「明日が今日よりも素敵な日でありますように……」

「なんか言ったか?」
「べっつに〜それより、私、信長の野望よりも太閤立志伝の方が好きなのよねぇ……」
「……マイナーな物を……」
 一瞥だけ与えて歩き始める青年、その頭の上、アルトはなんとなく、自分が神様を少しだけ信じることになる……そんな予感を抱いていた。

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