学祭 The 3rd(2)
 さて、大学が学祭に向けて賑やかしくなろうとしていた頃にまで話は巻戻る……と、言っても、ご近所の喫茶店、喫茶アルトではそんなに日々の生活が変わろうという物でもなかった。変わったと言えば、夜ごと仕事が終わる度に美月と貴美がいそいそとアルトフロアを後にし、タカミーズの部屋に向かうくらいのこと。どうやら、日々、直樹を可愛く飾り立てるための研究と練習に余念がないらしい。
 そんな中――
「……オカマは、嫌い」
 きっぱりと言い放ち、直樹をサメザメと泣かしたのは喫茶アルトキッチン担当の寺谷翼だ。
 彼女は未だに直樹のことを『大きくてうるさいバイクを乗り回してる暴走族みたいな人』というイメージで見ていた。夏休みに一度、一緒に海に行ったとは言え、初対面の悪い印象というヤツは未だに抜けきっていないようだ。もっとも、そこには『油断すれば峠に走りに行くような奴は暴走族も同然』と貴美の言が翼のイメージを肯定、補強しているという側面もあるのだが……
 そんな感じの学祭準備中の頃の事……
「直樹くん、可愛いですよ?」
 美月が翼にそう言ったのは、営業終了直前の事だった。
 この時間帯の二人は、翼がディナーから返ってきた食器を洗い、美月が明日のランチの下ごしらえをしていることが多い。そして、その時間を利用して、どうでもいい話をするのが半ば日課になっていた。
 そんないつもの時間帯、コンロの前に立つ美月に言われて、翼は洗い物の手を止めた。
「……じゃあ……浅間くんにも女装、させる?」
 翼が顔を上げて応えると、美月もスープの灰汁取りの手を止め、苦笑い。
「良夜さんはがっしりしてるから……似合わないと思いますよ?」
「……似合わない方が……良い……」
 ポツリと呟いて、翼は洗い物を再開する。今日はディナー客が多めで返ってきてる食器達も多め。山積みになっているそれらから、皿を一枚引き抜くと彼女はフワフワシャボンにまみれたスポンジで丁寧に洗い始めた。
「そうですかねぇ……? 可愛いければ良いと思いますけど……」
 美月の呟きは翼の耳にまで届いてはいたが、それに何かの返事を返すことはなかった。この上司は可愛ければそれで良いと思っている節があるので、これ以上、言っても仕方のない部分があるという判断。そもそも、あの安物の舌の持ち主浅間良夜と好き好んで付き合ってるという時点で、男性の趣味に関して、彼女と話が合うとは思えない。
 翼が黙って食器洗いを続ければ、美月も黙々と灰汁取り作業に没頭。
 そんな感じでしばしの沈黙……コトコトとスープが煮立つ音と食器の擦れる音だけがキッチンの中に響き続ける。
「美月さん」
 その沈黙を破ったのは、フロアから顔を出した凪歩だった。
 その声に釣られて翼が顔を上げると、同じように美月も顔を上げて「ハイハイ」と気楽な調子で答えているのが見えた。
「もう、ラストオーダーは終わってますよ? 知ってますか?」
「あはっ、勿論、知ってるよ。大学の自治会の人が来てるよ、なんか、募金箱の話だって」
 美月が破顔させて言えば、凪歩も一緒に頬を緩める。そして、凪歩が言葉を伝えれば、美月は灰汁取りを翼に任せ、凪歩とともにフロアへと向かった。
「すぐに戻ります」
「……んっ……」
 言われるままに汚れた食器達を見捨てて、寸胴の前に立つ。野菜や鶏ガラなどが沈むスープは丁寧に灰汁が取られていて、澄んだ綺麗な色をしていた。
 その後を引き継ぎ、翼も丁寧に灰汁取りを始める。
 黙々と灰汁を取り続ける事十五分……
 ピッピッピッ……と、キッチンタイマーが良く通る声で鳴いて、予定の時間が終了したことを彼女に教えた。
 コンロの向こう側、壁に張り付いたキッチンタイマーに手を伸ばして、タイマーを切ると、翼は先ほど洗ったばかりの小さな取り皿にスープを少し注いで、口を付けてみた。
 本格的な味付けがなされていないスープはそのまま飲むには、勿論、物足りないが、それでも様々な野菜や鶏ガラの味が十分に染み出していて、明日のスープパスタの出来が楽しみになる味だった。
「……んっ」
 翼が小さく呟いたのと、
「美味しく出来ましたか?」
 そんな声が聞こえたのはほぼ同時。
 反射的に顔を上げれば、そこには大きな募金箱を抱えた美月が立っていた。それはレジ横に置いてある募金箱と同じ奴、ちょくちょく凪歩がひっくり返すアレだ。違いがあると言えば、細々と入っていた小銭や数枚の紙幣が綺麗さっぱりなくなっているところ。あと、良く見ればアクリルの表面に描いてあるデザインというか、意匠が多少替わっている……ような気もする。震災復興がどうのこうのとか連絡先とか……
「……何、それ?」
「募金箱ですよ、知ってますか?」
「……見たことは、ある……」
 ズイッと募金箱をこちらに向けて、美月は突き出した。その様に視線を向けて、相変わらず、ずれた返答をする人だなと思う。されど、そこにはあえて触れず、翼は寸胴とコンロの前から離れた。
 向かう先は、シンク。そこにはまだ若干の洗い物が残っていて、翼に洗われるのを待っていた。その中に手を突っ込み、ジャブジャブ……と、冷たい水を手のひら全体に受けながら、彼女は洗い物を始める。
「募金箱、回収に来てたんですよ、自治会の人が。それでこれは新しい募金箱です」
 その翼の隣に美月は新しい募金箱を置いたかと思うと、パタパタと駆け出し、コンロに向かった。
「……チーフ、濡れる……」
 わずかにひそめる眉も無視して、美月は先ほどの翼同様、鍋からひとすくいのスープを皿に取って口を付けていた。
「ああ、すぐに終わりますよ〜」
 笑顔で答えながら、彼女はしばらくの間、出汁の味を口の中でゆっくりと味わった。
「うん、美味しく出来てますね」
 そう言って、ペロッと唇の周りをひと舐め、愛嬌のある表情で笑ってみせる。そして、彼女は彼女で作業台の上をフキンで拭いたり、床に水を流し始めたりと、閉店作業に余念がない。
 それを横目に見ながら、翼も食器洗いに没頭。それをやり終えると……
「……チーフ」
 そう言って、美月に声を掛けた。
「はいはい?」
 すると、床掃除をしていた美月が顔を上げる。
 それに翼がズイッと募金箱を差し出せば――
「あっ……」
 それはもはやびしょびしょに濡れていた。
「……だから……」
「あはは……ちゃんと、拭いておきますね〜」
 引き攣った笑みを浮かべる美月に、翼は眉をひそめて募金箱を突きつけた。それを彼女が素直に受け取り、フキンで拭き始めるのを確認した後、彼女はフロアの方へと顔を出した。
 そこには一人掃除を続ける凪歩がいた。
「……終わった?」
「まだ。吉田さんが休みだと、掃除の手が足りないよ」
 テーブルの上を拭いてた凪歩が顔も上げずに応えると、翼は倉庫へと引っ込んだ。そこからモップを引っ張りだし、床を拭き始める。普段は貴美と凪歩の二人だけで終わらせるフロアの掃除だが、片方が休みの時はキッチンスタッフ――ほぼ翼が手伝うことが慣例になっていた。
 ゴシゴシと床をモップで拭いていると、頭の上にトンと小さな振動。半ば反射的に手を頭に動かせば、その指先をちょいちょいと二度ほど突かれる不思議な感触。
「アルト?」
 尋ねると指先にはもう一回だけ、突かれる感触があった。
「なに?」
 と尋ねたところで返事はなし。どうせ、たいした用事ではないと割り切り、掃除を再開。するとやっぱりたいした用事ではなかったようで、頭の上からコツコツとリズムを取るような振動が響き始めた。
 この店で働き始めて、ちょくちょく感じる不思議な感触。良夜が言うには、それはあるとが鼻歌を歌いながら、かかとでリズムを取っている時の感触らしい。
「……鬱陶しい……」
 ひと言呟きはする物の、それ以上の対応はしない。
 代わりに……と言う訳でもないが、唇からは小さな、消え入るようなボリュームの鼻歌が零れ始めていた。それは特に意図して歌い始めたわけでもないのだが、不思議と頭の上で刻まれるリズムに溶け合い、ない交ぜになって、一つの音楽として翼の中に染みこんでくる。それが翼には少し不思議で、心地良かった……

 そして、掃除が終わればお楽しみのお茶会。本日は売れ残りのケーキが、シュークリームと合わせて三つ。一人一個のケーキが割り当てられるのは久し振りだ。
「一人一つ……」
 小さな声で呟くと、指の先にちくちくと二度の痛み。
「ん?」
「どうしました?」
「アルトが……突いた……二回……」
 小首をかしげる翼に美月が尋ねた。それに翼が素直に答えると、美月は数秒ほど視線を宙に巡らせた後、ぽんと小さく手を叩いて答える。
「アルトが、自分の分がないって言ってるんですよ、きっと」
 コーヒーカップにコーヒーを注ぎながら、美月がそう言う。
 その言葉に合わせるかのように、先ほどよりも控えめな痛みが一回きり。
「アルトちゃん一人で一個かぁ……すごい比率だよね、そんな大きなケーキなんて食べたことないよね」
「あっ、私は一度ありますよ? ワンホール、一人で」
「マジで? どんな感じだった?」
「さあ?」
 美月と凪歩の会話に翼が「えっ?」と言葉を挟めば、三つのカップをそれぞれの席の前に置きながら、美月は苦笑いを浮かべて見せた。
「味は覚えてませんねぇ……ともかく、腹が立つというか、何というか? あっ、後、苦しかったです、お腹」
「ああ、アレだ、浅間くんと喧嘩したときのヤツ」
 凪歩が言った瞬間、美月の手が止まった。持っていたカップを落とさなかったのは、さすがウェイトレスと言ったところか? それでも、ただでさえ丸い目がさらにまん丸、パクパクと口が池の鯉のように数回開いたり閉じたりしたかと思えば、慌ててカップをテーブルにおいて、凪歩の方へと向き直った。
「ふぇ!? なんで知ってんですか!?」
「吉田さんが教えてくれた」
「ふぇ……吉田さん……」
 耳まで真っ赤になる上司の横顔を見やり、翼は凪歩から詳しく聞こうと心に決めた。
 と、そんな幕間劇のあと、それぞれが席に戻ると、美月はコホンと咳払いを一つ。ケーキを切り崩しながら、彼女は凪歩の方へと向いて口を開いた。
「それでですね、明日の配達の件ですが……」
「自転車で上がったり、下ったりかぁ……結構、キツいよね?」
「……なぎぽんが一人で行けば良いのに……」
「ほら、フロアは吉田さんが二研やゼミの方に行くから、フロアの方は人手不足な感じだから……」
「……フロアはチーフでも……出来る」
「わっ、私だって、キッチンで……さっ皿洗いくらいは……」
 醜い争いが翼と凪歩の間で繰り広げられる中、美月は我関せじとばかりにケーキをチマチマ。時折アルトと話をしているのだろうか? 自身の指先を眺めながら、「ケーキが美味しい」とかなんとか、愚にも付かない独り言を呟き中。
 そんな姿を見ていれば……
「……チーフが行けば……」
「そだよね。フロアは私で、キッチンが翼さんで……」
 翼が呟き、凪歩が答える。
「……春にキッチン……一人でやった……」
「うんうん、フロアも店長がいるし何とかなるよ……」
「ふえ?」
 ぶつくさと囁き会っているのを美月も気付いたのか、フォークを咥えて顔を上げると、二人の顔を順番に眺めてゆき、軽く笑って見せる。
「ああ……別にそれでも良いですけど……私が行くなら――」
 そして、言葉を一旦区切ると、にこりと笑って断言した。
「車で行きますけどね」
「「ずっこい!」」
 未だ無免の二人が見事なユニゾンを奏でる。
「まあまあ、キッチンのお仕事もありますし、妙な注文もありますから〜」
 美月が言う事は全て貴美も交えたスタッフ会議で決まったことだ。それに文句があるわけではないが、やっぱり自転車で坂を上がったり下ったりというのは、ただでさえ低め設定のテンションが下がること、おびただしい。
「それで……ですね、こちらが本題なんですよ? 知ってますか?」
 と、美月に問われてみても、彼女がポケットから取りだした四つに折られた封筒がなんだか、翼が知っているはずがない。まあ、『知ってますか?』は美月の口癖みたいな物だから、いちいち「知らない」と答えないのがこの店のルールだ。
 沈黙を答え変わりにする翼に変わり、凪歩が「あっ」とタルトを食べる手を止めて、声を上げた。
「さっき、自治会の人から貰ってたヤツ……何? それ?」
「えっとですね……なんでも学祭で使える金券だそうです。募金箱を置いてたお礼に……って……」
 そう言って美月は封筒のなから金券の冊子を取りだした。ペラペラとめくっていくのを覗き込むと、それはどうやら百円単位で切って使う物らしく、一ページが五百円分、それが二ページで合計千円。
「まあ……入れ物を置いてただけで千円も頂くというのは心苦しいので……」
 そう言って、美月はなぜかこの場にまで持ってきていた募金箱に自身の財布からペロッと一枚の千円札を投入。そして、その金券は一ページずつに別けると……
「はい、どうぞ。配達のついでに使ってきて下さい」
 そう言って凪歩と翼のケーキの隣にペラッと置いた。
「わっ、ありがとう……良いの?」
「……ありがと」
 素直に二人はチケットを受け取るも、互いの顔を見合わせる。
「ああ、良いんですよ〜自転車で上がったり下ったりも大変ですし。冷たいものでも飲んで来てください」
 そして、にこやかに美月が答える横で、やっぱり、二人は互いの顔を見合わせて……なんとなく、そろそろ半年以上の付き合いとなれば、目と目で通じあうものもあるというか……
「うーん……っと、なんか、素直に受け取ったら悪いし……」
「一応……配達も……仕事、だから……」
 言って二人は手近な場所に置いてあったハンドバッグから財布を取り出し、中から五百円玉を一つずつ……
 チャリンと募金箱の中へと投入。
「ふぇ? もう……そんな事、気にしないで良いのに……」
 合計二千円になった募金箱と少しだけ頬の赤くなった凪歩と、やっぱり、頬が熱くなった翼の顔を見やり、美月は笑った。
 そして、もう一度、じーっと募金箱の中を見詰めて、ジャスト十五秒……
「でしたら……最初に入れた千円……返して貰っても良いんじゃないんですかね……?」
 そう言う美月の頭の上でペチン! “三つ”の平手打ちが叩きつけられた。
「ふえぇ〜軽い冗談だったのに〜」
 そんな感じで、学祭の準備はなんとなく整い始めていた……

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