学祭 The 3rd!(1)
 タカミーズの会計血の掟。仕送りは二軒分まとめて家賃光熱費、携帯電話等の引き落としに使い、余りには手をつけない。バイトの給料は半分ずつ家に入れて、生活費に充てる。残りは好きに使って良し。他に必要なお金は「残り」から支払うこと。デートの時は基本、割り勘。毎回精算するのも面倒だから、ここで貴美が払ったら次は直樹というふうにして、バランスを取ろう。
 二人は二人で一緒に暮らそうと決めたとき、こう言うルールを決めた。
 そして、二年と半分ほどが過ぎたある日の夜……とある夕飯。本日のメニューはミートソースで味付けしたケチャップライスと豚テキ、サラダ。それを直樹がぱくついていた頃、ふと、貴美が尋ねた。
「ねえ、なお……なおって、私にいくら、お金を借りてるか……覚えとん?」
 そう言われた瞬間、直樹のフォークを持つ手がぴたりと止まった。その先っぽには分厚い豚テキ、挽き立て粒胡椒がたっぷりと付いたそこからはトロトロと芳ばしい香りを放つ肉汁が滴り、テーブルの上に置かれた皿の上にぽたりと落ちる。
 と、同時に彼の背中にも冷たい汗が一筋落ちた。
「えっ……えっとぉ……」
「……ふと……気になったんよ」
 貴美の垂れ目がスーッと真一文字に狭まる。その隙間から見詰める瞳と決して笑っていない口元が、彼女が「気になった」だけで尋ねているわけではないことを青年に教えていた。
「あっ……あの……こ……これくらい?」
 左手の指が二本、ピッと立ち上がり、次いで手のひらがパッと広げられる。
 も、貴美はフルフルと首を左右に振ってみせる。
「……解ってんっしょ? それで足りないのは……」
 一オクターブ下がる声、ゴクリと生唾を飲み込めば、豚の油の味がした。
「……こ、これ……までは行って……ないですよね?」
 そう言って親指だけを折って彼は尋ねた。恐る恐る、震える声で。
「……まあ、ギリね……割と……結構、凄く、ギリ……ああ、デートの時の支払い、細かく計算すれば超えてるかも……」
 答えて貴美は中断してた食事を再開、ナイフで豚テキを切り取ってはパクパクと自身の口内に運ぶ作業をし始めた。
 一方の直樹は未だ固まったまま……顔を上げない貴美の顔をじっと見詰める。
 そして、直樹の豚テキから肉汁の滴りが終わる頃、貴美は口を咀嚼以外の目的で開いた。
「選び……今すぐ耳揃えて返すか、スカート履くか……」
 顔を上げぬままの静かな口調、言葉は死刑宣告のように男の心に響き渡る。
「……はっ、履かせて頂きます……」
 深々と直樹が頭を下げれば、貴美は「じゃあ、明日ね」と告げて、食事を再開。それを確認し、直樹もぱくりと肉を口に運んだ。されど、その分厚い豚テキに味はなかった……さっきまではあんなに美味しかったんだけど。
 その日、十月も中頃、世間一般的に秋。スポーツの秋、食欲の秋、読書の秋、文化の秋、学祭の秋、そして、直樹にとっては……
 女装の秋。

 さて、学祭名物女装ミスコンではあるが、実際のところ、ここ数年は盛り上がっていなかった。
 このイベントは美月の祖母、真雪が現役でフロアで寝てた頃から始まった伝統のイベントだ。しかし、はっきり言っちゃうと、ミスコンの添え物、色物の扱いだった。誰もがその情報を聞いて『ああ、今年もやるんだな』と半笑いになるようなイベント、それが『彼氏が彼女に着替えたら』コンテストだ。
 それも三年前、二条陽が入学したときは確かに盛り上がるかに見えた……が、陽は日常的に女装してるし、演劇部が練習してる第二講堂に行けばいくらでも彼の女装コスプレを拝見することが出来る。学祭においても演劇部は出し物を行い、陽はその中で女装して出演している。はっきり言えば、珍しくないというわけだ。そして、下馬評通りに陽の優勝、徹頭徹尾、盛り上がることなく、イベントは幕を閉じた。
 その翌年、一昨年、そんな陽の連覇はほぼ間違いないと思われていたから、事前の盛り上がりはイマイチ。それでも二研のレースガール(クイーンと言うには童顔なのでガール)姿で直樹が参戦するとなると多少の盛り上がりが発生したが、それも遅きに失した部分がないとは言えなかった。
 で、貴美が『今年も出すよ』と安請け合いした去年、事前盛り上がりは結構な物だった。不動と言われながらも奪われたタイトル、その奪還に燃える陽と、前年パンツ(残念なことにトランクス)までも晒した直樹の対決、そのトトカルチョはちょっと表には出せない金額に達しちゃうほど。運営を担う自治会はこれをメインに……とまで思うほどだった。
 が、知っての通り、直樹が自爆事故を起こして欠場。本命の一翼と残る本命のやる気をなくした大会は、整ってるだけで面白みも新鮮みもない、ワンピースの上にセーターを羽織った陽の優勝で幕を閉じた。
 そして、今年……で、ある。
「浅間くん、高見君と仲良かったよね? ぜぇぇぇぇぇぇぇっっっっっっっっっっっっっっっっっったいに怪我させちゃダメだよ!?」
 と、良夜は見知らぬ女子大生に言われた。自治会の役員らしい。何で良夜の顔を知ってるかと言えば、良夜が美月とアルトのフロアで大喧嘩をやったとき、現場に居たから。しかも、掛けた小銭が五倍になって帰ってきたらしい。どーでも良い。
「おっ、高見。期待してるからな、女装」
 と、講義しに来た教授(もう六十、孫も居る人、業界では割と重鎮)がにこやかな笑顔で直樹の肩を叩く一幕があったり……
 トトカルチョの金額は陽をして『ヤバイ金額』と言わしめる――正しくは”書か”しめる――額になったり……
 そして、極めつけが……
「……お前の人生、吉田さんに買い上げられてるよなぁ……」
 良夜はそれを見たとき、思わず、そう呟いた。
「……ぼっ、僕だって……僕だって、いやだったんです……」
 直樹はそれを見たとき、本気で泣いていた。
「あっ……ちょっと可愛いわね」
 そして、アルトは他人事だった。
「それ」とは今年の学祭のパンフレット。
 頬をこすりつけるように抱き合う二人の人物がカメラ目線で微笑んでいた。片や赤い髪を巻き上げたカクテルドレス、色は黒、片や青いウィッグをツィンテールにしたゴスロリドレス、色は白。フルカラー写真印刷でありながらも背景と二人のドレスは黒と白。その分、赤毛と青いウィッグ、肌の艶めかしさ……そして何よりも唇の赤い色がやけに鮮やかに強調されていて、退廃的な雰囲気を醸し出していた。
 煽り文句は――

『今年こそ、雌雄を決する!』
『――ところで、勝った方が雄で良いのかな?』

「……ひと思いに殺してください……」
「……大変だな、お前……」
 表紙の次に陽と直樹のインタビューが一ページずつ載って、残りは他の催し物の詳細が記されてるだけの八ページが五百円というぼったくりな代物。そんな物が開催を前に予約分はほぼ売り切れ。裏でプレミアムが付いてるとか……これも貴美が見本分を貰ってきた代物らしい。
 それを見ているのは喫茶アルト、窓際隅っこ、いつもの席。アルトもご一緒に昼食を楽しみながらの歓談が真っ盛り。
「でも、可愛いじゃない? 特に直樹のドレスが良いわ。素敵よ、よく似合ってる」
「……お前、ゴスロリ好きだからな……」
「ゴスロリじゃないわよ」
「少なくとも、直樹が着てるのはゴスロリだよ」
「着たくて着てるわけじゃないです!」
 叫んだ直樹は当然ゴスロリ……な訳はなく、今日はごく普通にチノパンとトレーナー。
 アルトの声は聞こえてないはずだが、良夜の言葉だけでも直樹の顔をゆでだこにするに十分だったようだ。さらに良夜が、アルトの言葉をそのまま伝えれば、真っ赤にした顔をテーブルの上に突っ伏させ、悶え始めた。
 その悶える頭の上に妖精がポンと飛び乗る。そして、その上にぺたりと座り込むと、良夜の顔を見上げて言った。
「恥ずかしがらなくて良いのにね?」
「……いや、普通に恥ずかしいだろう……」
「所で貴美は?」
「二研の会合。今回は真面目に参加するとか言ってたぜ?」
「じゃあ、なんで直樹が居るの?」
 アルトに問われて数秒の沈黙……突っ伏したままの頭をちょいちょいと指で突いて、彼は問うた。
「……――って聞いてるぞ?」
 問われて直樹は頭を少しだけ上げると、上目遣いに良夜を見詰めて答えた。
「もう、出たくないです……どーせ、下らないこと押し付けられるだけですし、拒否権なんてないし……」
 ボソボソ……消え入るような声に目に涙を溜めきった表情、それは若干と言うには少々多すぎる哀れさを醸し出していた。
「心安まる場所がないな」
「……バイト先にまで知られてたんですよ……」
「なんでだよ?」
「他店にうちの大学の人が居て、そこから……」
 やっぱり直樹が突っ伏したままに言うと、思わず、良夜は天を仰ぎ見る。それはアルトも同じような感じ。ペチンと彼女自身の額を叩いて宙を仰ぎ見る様子が見て取れた。
 そして、しばしの沈黙……
「あっ、そうだ」
 そう言って沈黙を破ったのは、妖精アルトちゃんだった。
「なんだ?」
 良夜がそう言って応えると、彼女はトーンと直樹の頭から飛び立ち、良夜の鼻先へと到達。パタパタと羽根を小刻みに動かしてのホバリング、真っ正面から彼の顔を見詰めていった。
「今年、貴方、要らないって」
「えっ? ……ああ……配達のバイトか?」
「そうそう。今年は凪歩と翼が交代で配達するそうよ、自転車で。運ばれる方も女性の方が良いって」
「……ふぅん……じゃあ、ゼミの方にでも行ってるかぁ……」
「ああ、でもね、ちょっと重大な仕事があるのよ」
「ん? なんだよ……?」
「うん、それはね……――」
 そう言って、妖精は一旦言葉を切った。そして、くるんと良夜の目の前でとんぼを切って一回転、トンと彼の鼻を蹴っ飛ばしたかと思えば、それを反動として、今度は先ほどまでいた直樹の頭に再度着陸。
「これが日に三回お着替えするはずだから、それを全部、写真に納めること、だって。美月がわくわくしてたわよ」
 アルトがそう言うとさすがに良夜は直樹が本気で哀れに思えた。
 そして、直樹にそれを伝えるべきか、黙っているべきかを数秒悩む……も、結局伝えずに終わらし、代わりに、溜め息と共に別の言葉を彼は投げかけた。
「はあ……とりあえずさ、直樹、お前、借金返せ、な?」
「……返せるわけないでしょ……三十万、超えちゃってたんですよ?!」
 逆ギレのように叫ぶと、直樹は再び顔をテーブルの上に突っ伏させた。
「しかし、三十万の借金って凄いわよねぇ〜一体、なんに使ったの?」
「……――と、アルトが聞いてる」
「…………バイクの任意保険と車検代……あと、去年入院したときの入院費やバイクの修理代なんかも……なぜか、僕の吉田さんへの借金扱いで……」
「……バイクの保険は払えよな……」
「だって、聞いて下さい!」
 そう言って、直樹がガバ! と、顔を上げれば、上に乗ってた妖精ちゃんはスッテンコロリン。そのまま、コロコロと転がり、直樹の背後へと消えていった。
「何も言わずに支払って、後から『立て替えて置いたから』って言われて、いつの間にか借金が増えてるんですよ?! 押し売りか送りつけ商法じゃないですか!?」
 ああ……と良夜が呟くことも気付かず、友人は真顔で力説。それを聞いてる良夜は軽く溜め息を吐き、じーっと見詰めること二秒とちょっと。やおら、口を開いて、彼は問いかけた。
「……払う金は持ってたのか?」
 問えば、まっすぐにこちらを射ていた視線が右に動いて、彼はしばしの沈黙を作った。
 その沈黙も二秒とちょっと。
 視線を外したままに彼は応える。
「……………………ないわけですが…………」
「…………あほだな……って所で、まあ、それは良いんだけど……」
 言って良夜は軽く格好を崩す。そして、飲みかけだったコーヒーを一息に飲み干せば、氷の溶けきったそれは少し薄味風味。ついでに残った氷も囓って、「ふぅ」と一息吐いて、彼は言葉を続けた。
「お前が顔を上げた時、頭から落っこちたバカが鬼の形相でストローを振り上げてるから、覚悟を決めろよ」
 そして、次の瞬間、喫茶アルトフロアーの中に直樹の間抜けな悲鳴が響き渡った。

 さて、それから数日後、いよいよ本番という日……直樹は諦めの境地で二研部室に来ていた。未だ早朝と呼ばれる時間帯、昨日までは沢山の部員達が泊まり込みで用意していた部室も、今日は一度帰宅して誰も居ない。もっとも、テーブルの上に放り出されたままの様々な工具やバイクの部品達は昨日までの熱気の余韻をそこに留めていた。
 そんな空間に場違いな手鏡とお化粧品セット、勿論、直樹を女にするための道具達。家ではなく、わざわざここでやっているのは、バイクに乗る都合でヘルメットを被らなければならなかったから。これくらいの距離ならノーヘルでも良いと、直樹は思ったのだが、貴美がそれを許さなかった。
「そんなんだから、借金が増えるんよ……っと、ほら、顎、あげな」
「これくらいの距離なら、お巡りさんだって居ませんよ……って、まだするんですか?」
 手鏡の中の自分はすでに薄化粧を終えてぱっと見、本当の女の子のよう。頬の厚みは変わってないはずなのに普段よりもふっくらと見えたり、目も普段よりも大きくぱっちりして居るみたいだ。何度見ても自分だとは思えないし、思いたくもない。
「口紅、塗んなきゃだめっしょ?」
「……もう、良いですよ……やらなくても……」
 そうは答えるも言われるままに青年は顎を上げる。
「だぁめ、あと、何処にお巡りさんがいるかわかんないんだからんね? 違反金のお金なんて持ってないくせに」
「……そりゃ、そうですけど……はぁ……もう、ほんと、僕の人生、吉田さんに買い上げられちゃってますよね……」
「あっ、もう、しゃべんな……口紅が塗れない」
 言われて彼は素直に口を閉じる。その閉じた唇の上を細い筆がゆっくりと撫でて、唇を紅く飾り立てていく……
 そして、数分……
「終わったよ」
 その声に視線を鏡へと向ければ、そこには、やっぱり、自分とは思えないし、思いたくもない美人が恋人の前に座っていた。
「はぁ……ほんと、呆れるくらい似合うのがヤですよね……」
 呟き、彼は席を立つ。今日の衣装はゴスロリ風のエプロンドレス、ちょっと見、メイド服に見えない事もない感じのドレスだ。真っ白なのは今回は陽が黒で、直樹が白をテーマにすることが事前に決められていたから。直樹の居ないところで。
「似合わなきゃやらせないよ……っと、私、ちょっと、漫研の方に顔出してくるよ。来る?」
「お断りです、行ってらっしゃい」
 ぽんとウィッグが乗った頭を一つ叩き、貴美は席を立った。そして、直樹は部室の中、大きなテーブルの上に乗ったバイク雑誌へと手を伸ばした。
 その雑誌を開いて視線を落とせば、そこにはホンダがモデルチェンジをしたとかそう言う記事……カワサキ派の直樹としても多少は興味のある話。
 その記事に目を落とした瞬間、少し離れたところから声が聞こえた。
「ああ、そうそう……」
 それに直樹は雑誌から顔も上げずに応えた。
「はい? 何ですか?」
「なおの人生は私が買い上げてっけど、私の人生はなおに持参金付きでくれてやってんだかんね?」
 言われて直樹は顔を上げる。そこには相変わらず、ヘラッとした表情の貴美がドアに手をかけ、立っていた。
 一瞬の絶句……青年はマジマジと顔を見詰めながら、ひと言だけ言った。
「……押し売りみたいな物ですよね……」
「否定はしないよ、じゃあ、また、後でね」
 言って出てく背中に彼はもうひと言――
「せめて否定してください!」
 そう、大きな声で怒鳴りつけた。
 そして、三度目の学祭が始まる……  

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