酒が飲めるぞ〜(4)
直樹のバイト先は全県チェーンの本屋だ。返本する雑誌や本を伝票に記載して段ボール箱に詰めていくのが主な仕事で、他にはレジのヘルプとか本棚の整理とかと言った雑事色々。暇なときは大きな窓ガラスを拭いてたりもする。
そんなバイトが終わるのが九時少し過ぎ。
「お疲れさまでした」
女性社員が店舗の鍵をかけたら、互いにねぎらい会ってその場はお開きだ。
バイトが終わればまっすぐに家に帰るのが貴美との約束になっている。特に、今夜は飲み会が企画されているから、とっとと帰らないと食事がなくなる。
愛車のZZ−400にまたがり、国道をカッ飛べば十時少し前には自宅アパート駐車場。キュッとタイヤを鳴らして駐輪場に真っ黒いバイクを駐める。
ファイヤパターンが眩しいヘルメットを脱いで、アパートを見上げる。
自身の部屋は明かりが消えていて、代わりにお隣さんの部屋からは煌々とした明かりが漏れていた。
「始まってるかな?」
呟いてエントランスから階段をトントンと上っていく。
夜の十時を過ぎてるとは言え、休日前日の学生アパート。ざわついた空気が廊下を抜けて階段にまで満ちているような気がして、心なしか足取りがいつもよりも軽くなる。
そんな軽い足取りで階段を一つ二つ三つと上がっていけば、あっという間に二階と三階との間の踊り場。そこまで帰ってくると聞き覚えのある声もちらほらと聞こえてくる。
「○×△××■!!」
何を言ってるのかは良く解らないが、一番良く聞こえてくるのは寺谷翼の声だ。いつもはボソボソと聴き取りづらい声でしゃべる彼女が、快活な声で大笑いしている声がドアの外どころか、踊り場まで聞こえていた。
「盛り上がってそう……」
そこに後から来て入り込むのは結構きついな……と青年は思った。しかし、今回は部屋で一杯引っ掛けていくわけにも行かない。今日は数日前に取ったばかりの免許で凪歩と翼を自宅まで送る役目も仰せつかっているからだ。誕生日の本人にそれをやらせるわけにも行かないし、美月は飲むなと言っても多分飲む。そして、貴美本人は是非飲みたい。結果、押し付けられた本日のお役目。
「大丈夫かなぁ……色々と……」
そんな呟きは秋の夜風に吹かれ、直樹よりも一足先に三階の廊下へと達する。その風に乗った呟きを追いかけるように、彼もトントンと階段を駆け上がって三階へ……
賑やかな声が漏れ聞こえる良夜の部屋を通り過ぎれば、そのお隣が懐かしの我が家。施錠されている鍵を開いたら、部屋の中にヘルメットとタンクバックを放り込んで、踵を返す。
その放り出したままのヘルメットを貴美に見つかり「自分の頭を入れる物を、サッカーボール変わりにされたいか? あぁん?」と、美しいおみ足でグリグリとヘルメットを踏みつけられたのは、全てが終わった後の話。
隣の部屋の前にまで戻って呼び鈴を一発。お気楽な電子音が鳴り響けば、中から声がした。
「どうぞー、待ってたよー」
翼の声だった。
明るく透き通るような声だった。
「……勝手に言うなよ……――」
その透き通る声の片隅に、呟くような友人のひと言が微かに聞こえた。
「ああ!開いてる!」
そして、同じ声が大きな声でそう言うと、直樹はドアノブに手をかけた。ほとんど力も入れることなく、それを回せば、玄関ドアは静かに開く。
室内に入って数歩、部屋に入れば小さなガラステーブルの周りを四人の女性が取り囲み、一人の青年が借りてきた猫のように小さく、美月と翼の間に収まっている姿がそこにはあった。
「不用心ですよ? 鍵、かけておきましたから」
そう言って何処に座ろうかと思い、立ったままで辺りを見渡す。すると、貴美の隣に座っていた凪歩が少し体を動かしたので、そこに直樹も体を押し込んだ。ちょっと狭め。同居人の貴美はともかく、反対側の凪歩との距離がどうにも近いのが落ち着かない。
「まあ、この辺りはのんきなもんだし……――いくら何でも、それは止めろ」
「えっ?」
「ああ、アルトの馬鹿が不審者が来たら、目ん玉の中に腕、突っ込んで脳みそかき混ぜてやる、だって」
「……怖いこと、言いますね……」
褐色の液体で満たされたタンブラー、それを傾けながらに友人がぼやけば、青年も苦笑い。容赦のないストローの一撃を一度と言わず、食らった身としては見えない妖精ならやりかねないと思ったり思わなかったり……
「それより……待っててくれるって、言ってませんでした?」
それはともかく……と、貴美の方へと向き直れば、彼女はグラスを左右に振りながら、そこを満たした半分ほどの液体越しに直樹に視線を送る。褐色の液体越しに見える貴美の瞳はいつもよりも濃いめの色合い。
「ちゃんと待ってたよ、その証拠に……ほれ、あれ」
言って、瞳がチロッと動く。
それに釣られて彼も視線を動かす。その先には小さなチョコレートを咥えた女性の姿が合った。黒髪が美しい友人、美月だ。
「ふえ?」
「解った?」
キョトンとした表情の美月としたり顔の貴美の顔とを見比べる。
「何がです?」
も、何を「解るべき」なのかはさっぱりだ。
「私らが待ってた証拠。もっと良く見てみなよ」
「へっ?」
間抜けな声を上げて青年は美月の顔をマジマジと見てみる。
ニコニコと悩みのなさそうな笑顔と綺麗な黒髪、白を基調にしたワンピースは美月が好んで良く着ているタイプの服だ。割といつもの三島美月……
「いつもと変わりませんよ?」
「飲んでないから、いつもと変わらないじゃん」
言って貴美はクピッとブランデーだかウイスキーだかを、褐色の液体を一口。
改めて見てみれば、確かに何も変わっていなかった。
――胸元のボタンとか……
「ああ……」
思わず声を上げれば、美月はますますキョトンとした表情を見せ、小首をかしげる。
「ふえ……? あの……直樹くん?」
当の本人はそれに気付いては居ない様子。どうやって説明した物か……と思いながら、青年はなぜか空の鍋の中に大量に放り込まれていたチロルチョコを一つ手に取り、口にした。クッキーいり。サクサクとした歯ごたえが美味しい。
それをコクンと飲み干し、彼は未だにこちらを見ている美月へと笑みを返す。
「顔、まだ、赤くないから」
「ああ!」
ぽん! と胸元で柏手を打って、美月はあっさりとご納得。安堵の吐息を内心こぼして、彼はテーブルの上に出されていたウーロン茶に手を伸ばした。
そんな様子の直樹に貴美が小さな声で耳打ちをした。
「上手く誤魔化したじゃん?」
「吉田さんに比べれば誤魔化しやすいですよ」
「私相手に誤魔化そうなんて百年早いんよ……――っと、それじゃ、鍋、用意すんね? 鍋ん中のチロルチョコ、出しときなよ」
ボソボソと二言三言言葉を交わして、貴美は直樹の肩に手をかけて立ち上がる。
「美月さんとなぎぽんも手伝って……ああ、つばさんは立たなくて良いから。狭いし、酔っ払いだし」
「あっ、はいはい」
「はーい」
腰を浮かせた貴美に言われて美月と凪歩も立ち上がる。すると、取り残されるのは相変わらず右に左にフラフラ揺れる翼と発泡酒らしき物をグラスから飲んでる良夜、それに直樹の三人――
「私も居るってさ。アルトが」
それプラス、見えない妖精さん。頭の上を指さして友人が笑えば、直樹もそれに合わせて頬を緩める。どうやら、彼女は良夜の頭の上でチョコレートをガツガツ食べているらしい。
そして、周りから人が居なくなれば、その分、スペースは広くなる。その広くなったスペースの中、青年は居住まいを正して、正面でチョコレートをチビチビと食べてる友人に視線を向けた。
「まっ……それはともかく……ですが、で、なんで、寺谷さんだけががぶ飲みしてるんですか?」
「時任さんの方が飲んでるよ……っと……」
そうだけ言うと、彼は一旦、言葉を切った。
「……」
黙り込むこと数秒。
「……どうしました?」
直樹が尋ねると彼は軽く肩をすくめて見せる。そして、芝居がかった仕草で顔を空の鍋の上へと、ズイッと突き出した。友人の神妙な面持ちに釣られて、直樹の顔にも緊張感が宿る。
「上司に不満があるとか?」
ボソッと控えめな口調で言えば、直樹も格好を崩して破顔する。
「あはは……そうかも?」
「違う!」
怒鳴り声に思わず顔を向ければ、そこには顔を真っ赤にしてる翼の姿が合った。
「チーフは立派な人なのです! つばさちゃんはチーフのごはんがらい好きなのですっ!!」
狭めのテーブルの上にどん! と拳を叩きつけての大演説。いかに自身が美月を尊敬しているかを蕩々と語る。
「研究熱心だし! 手際も良いし! 味付けも美味しいし!」
……つもりだったのだろうと直樹は思う。しかし……
「味見して貰えばアドバイスは抽象的で要領を得ないし! 仕事の好き嫌いは凄いし! スタイルの話題したら拗ねるし! 太ったって言っただけで拗ねられたのは、どうしようかと思ったし!!」
次第に内容が怪しくなってきたかと思ったら、彼女はガバッ! と良夜の肩に手を置き、彼の顔を真顔で覗き込んだ。
「ふぅ……」
少し薄めの唇からこぼれるは酒臭くも色っぽい吐息。それが部屋の空気に混じって消える頃、彼女は良夜に尋ねる。
「……あの人に着いていって、大丈夫?」
「…………」
その問いかけに、問われた青年は数秒悩んだ後、静かに視線を逸らして言うのだった。
「……店長、居るから大丈夫……」
そして、その頃、話に耳をそばだてていた美月は、床にのの字を書いて泣き出した。
と、言うわけで飲み会の開始は若干の遅れがあった物の、ほぼ予定通りに始まった。
本日の鍋はカレー鍋。芳ばしいカレーの匂いが容赦なく鼻腔を抉れば、バイト帰りの胃袋は容赦なく主に『とっとと食わせろ』と要求を突きつけてくる。
その要求を押さえつけること十分少々。コトコトと良い音がし始めた鍋の蓋を美月が荒れた手でパカンと開く。開いた中身は想像していた通りの出来映え。豚にキャベツにジャガイモに人参、タマネギと様々な具材が香しい香を放つ液体の中でコトコトと踊っていた。
「じゃあ、今年もめでたくりょーやんが甲斐性を発揮することなく、童貞のままで齢を重ねることになった事を祝して、かんぱーい!」
「うっせーよ、大きなお世話だよ、てか、もう、帰れ! 腐れ腐女子!!」
「腐ってるから腐女子なんでーっすっと。あっ、みんな、あんま、出汁、飲んじゃダメだよ。本編終わったら、続編はカレーリゾットだかんね?」
「聞けよ!」
「吉田さんに言っても無駄ですよ?」
貴美から廻ってきたオタマを手に取り、直樹は激昂気味の良夜に苦笑いを見せる。それと同時に周りも口々に「知ってる」とか「そうだと思ってた」とか言いつのり、挙げ句の果てには――
「ほら、私も処女だから大丈夫ですよ〜」
と、訳の分かんないフォローを恋人からされると、青年はテーブルの上でのの字を書いてすね始める。良い図体のあんちゃんがすねると結構鬱陶しい。
そんな良夜を視野の端に止めながら、直樹は鍋の中にオタマを突っ込む。それを使って多めのキャベツやらお肉やらを拾い上げていれば、ぺこん! と後頭部に小さな衝撃が走った。
「出汁、とんなっつったじゃん? 張ったおすよ?」
「張ったおしてから言うのは仕様ですよね……」
「仕様、仕様」
青年が頭を軽く押さえながらに頬を膨らませれば、貴美は釣り上げていたまなじりを下ろして笑う。そして、細い指が直樹の手からオタマと取り皿を奪い去った。
ひょいひょいと器用に鍋の縁を使って具材だけを拾い上げ、取り皿に投入していく。その手際の良さに感心していると、貴美が軽くため息を吐いたような気がするが、それには気付かない振り。
そして、彼女は直樹の手に具材だけが載った取り皿を乗せると、オタマを凪歩へと渡した。そのオタマで凪歩も同じように具材を拾い上げると、今度はそれを翼に手渡す。
その受け取られたオタマは右から左。彼女の手の中に止まることなく、良夜の手へと渡った。
「えっ?」
具がてんこ盛りの取り皿を左手に、右手にオタマ。両手をふさがれた青年が間抜けな顔を見せれば、翼はツーンとそっぽを向いて言った。
「つばさちゃん、いらなーい」
「なんで……?」
尋ねたのは両手がふさがったままの良夜、彼が尋ねると翼が答えた。
「だってぇ〜つばさちゃん、おなかいっぱいだおー」
「ああ……そー言えば、私もあんま、お腹、空いてないかも……」
翼が良夜の顔に視線を戻して言う。それに続いて、凪歩も軽く自身のお腹を押さえて呟く。
そして、貴美が腰を浮かせてキレた。
「ガツガツ、チョコレートなんて食べて血糖値を上げるから! 馬鹿じゃないん!?」
「まあまあ、吉田さん、そんなポンポン言わなくても……ほら、私達で食べれば……」
美月が斜め前からなだめるも、彼女のつり上がった眉は下がらず。つり上がったままの顔と細い指をにびしっ! ベッドの上に向けた。
「あれをな!?」
指した先にはなぜか大量のキャベツやら豚肉やら下ゆでしたジャガイモやらが山積み。特に鳥つみれの団子がやけに大量。鍋の中はすでに具材でてんこ盛りなのに、この量は何事だろう? と思うと同時に、直樹はあんなところに置いてたらひっくり返しそうだ……と思う。そして、そう言う事をやりそうなのは自分なので、あそこには近付かないで置こうと心に決めた。
「……あはは……むっ、無理ですかねぇ……二人減ると」
いつものんきな美月も若干引き気味。笑顔も引きつり、グラスのワインも減りが遅い。
そんな上司を横目に翼はブン! と大きく手を上げた。
「鶏肉を叩いてミンチを作ってたら、楽しくなったのれ、どんどん叩いてたら、気付いたらあーなってました!」
(ああ……この子も馬鹿なんだ……)
と、一部の面々が気付いたのがこの時。その一部の面々の中にキッチンのもう片方の馬鹿は入っていなかったって話は、全くの余談だ。
「ここに居るの、全部、馬鹿じゃない……」
妖精が青年の頭の上で呟いた。
なお、この小さな妖精も余り食事を摂らなかった……
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