酒が飲めるぞ〜(2)
 今年の良夜の誕生日は日曜日だった。
 その日曜日は凪歩が休みを取っていたので、美月はその前日、土曜日を休みにしていた。だから、良夜もバイトの休みを取った。
 誕生日前後であろうがそうでなかろうが、美月が休みで良夜も他に用事がなければ、二人はアルトを伴って何処かに出掛けるというのがパターン。大抵は、映画を見たり、ドライブに行ったり……と、代わり映えと色気のないデートを繰り返していた。
 それは今日、誕生日前日の土曜日も変わらない……はずだった。
 その日の午前九時少し過ぎ。青年は喫茶アルトいつもの窓際隅っこの席を独り占めしていた。
「ふわぁ……」
 暑さ寒さも彼岸までの彼岸、まさにその日、まさにお彼岸、窓から差し込む日差しもここ今日は大分弱め。空調も良く効いてるし、アルトは何をしてるのかは知らないけど、まだ出て来ないし……と、平和な土曜日は平和すぎて欠伸が出る。
 そんな平和すぎる時間が十分……十五分……二十分……もしかしたら、それ以上……
「って、油断してると頭の上にストローが立つわよ?」
 何処か遠くから聞こえたソプラノが閉じていた目を開かせる。
「あっ……」
 視界を覆うかすみを追い払うよう数回の瞬きを繰り返せば、最初に見えたのはアイスコーヒーのタンブラー。彼が認識している「さっき」にはなかったはずの物だ。その中に詰まっていたであろう氷は随分と形を失い、反面、グラスの表面は随分と汗を掻いていて、涼やかな光を放っていた。
 そして、そこから少し上に視線を上げれば、その向こう側に美しい黒髪の女性が微笑んでいるのが見えた。
「あっ、起こしちゃいました?」
 真向かい、誰も座っていなかったはずの席を占領していた黒髪の彼女――美月がそう言う。
「ああ……ううん……大丈夫」
 答えて背年は辺りをキョロキョロ。実際に彼を起こした声の持ち主の姿はまだ見え……
「こ〜こ、上よ、上、いくらキョロキョロしたって見えないわよ?」
 そんな声が頭の上から聞こえたかと思うと、ぶわっ! と目の前に金色の頭が落ちてきた。
「わっ……って、びっくりさせるな」
 声を上げて寝ぼけ眼を一気に開く。開いた瞳の中に映り込む、ニマニマと笑う金眼。それに冷ややかな視線を投げかけ、彼は右手を顔の前で左右に振る。すると、妖精はその右手を軽く蹴っ飛ばして、反動で宙に舞い上がる。くるんと空中で一回転、とんぼを切って着地する先は青年の頭、彼女の指定席。その様は風に舞う花びらのようだ。
「楽しそうですね?」
 そう言って目の前の恋人が笑えば、青年はバツが悪そうに右手の人差し指だけで頬を掻いた。
「そーでも……てか、起こしてくれれば良いのに……」
「気持ちよさそうに眠ってましたから……お疲れですか?」
「ああ……ここ何日か、課題とかゼミの雑用で寝るの、遅かったから……」
 答えて彼は大きく背を伸ばす。胸一杯に新鮮な酸素が流れ込めば、ぼやけていた頭も少しはすっきりする。
「コーヒー、温くなっちゃいますよ?」
 美月が勧めるままにグラスに手を伸ばし、口を付ける。流れ込むコーヒーは少し薄く感じたが、冷たく美味しい。彼の中に残った眠気を洗い流していくようだ。そのコーヒーを半分ほど飲み干して、彼はコトンとテーブルの上、コースターにタンブラーを戻した。
「大変そうですね? 大学生も三年生の後半になっちゃうと……」
 感心しているような、同情しているような……そんな微妙な表情を投げかけられると何か面映ゆい物を、青年は感じた。
 と、その一方……
「だからいつも言ってるじゃない? 課題でパソコン弄るときは、繋がってるLANケーブル、引っこ抜きなさいって」
 頭の上から聞こえてくるのは、呆れかえった妖精の声。
「……うるさい、調べ物だってあるんだよ」
「そのまま、全く関係のないところ、読んでるくせに……」
 そう言って、再び、頭の上から覗き込むと、彼女は底意地の悪い笑みを浮かべて見せた。
「……――って、アルトが……まあ、実際にサボっちゃうんだけどさ……」
 目の前で目障りにぶら下がる妖精を追い払い、その妖精の言葉を恋人に伝える。
 若干、気恥ずかしくて頬が赤くなる。しかし、身を乗り出してみているのを見れば、内容を聞きたがっているのはさすがに解るし、上手くごまかせないというのも経験上理解している。だから、多少恥ずかしくても言っちゃった方がマシだということに、気付いた……割と、最近。
「あはは、もう、ダメですよ? 勉強するときと遊ぶときのメリハリはちゃんと付けないと」
「はいはい」
 機会があれば年上ぶる美月に苦笑いと共に彼は言葉を返す。それに彼女はふふ……と嬉しそうに笑みを浮かべる。年上ぶって苦言を呈すことが出来たのが嬉しいのだろう。むしろ、こういう所が子供っぽいと思うのだが……
「まっ、それはさておき……今日、どうします? また、ドライブとか?」
 話題を変えるべく、青年が尋ねる。すると、美月はポン! と薄い胸の前で両手を合わせて答えた。
「ああ、今日はお鍋なので、その買い出しですね」
「……はい? アルトで鍋出すの?」
「……あの……うち、一応、喫茶店ですよ? さすがに鍋は……」
 自身でも解るほどにキョトンした顔で尋ねてしまうと、答える美月もキョトンとした顔で答える。
 キョトンとした顔同士で見つめ合うこと、三十秒。
「……どっちもバカなのね……同レベルで」
 呟く妖精のひと言が合図。
「えっと……美月さん、まずは一番最初の辺りから、順序よく話してくれませんか?」
「えっと……良夜さん、一番最初というのは……良夜さんが二十一年前、産まれたところからでしょうか?」
「……知ってるの?」
「……いいえ、詳しくは……」
 真顔で頭を振る恋人に青年はペチンと自身の額を叩く。そこまで言われれば、なんとなく察する物という物もある物で……彼はゆっくりと顔を上げ、疲れ切った表情を恋人に見せて口を開いた。
「……誕生日だからって、そこから話す必要はないよ……ってか、ようは俺の誕生日だから、みんなで集まって鍋にしようって話?」
 言えば美月の黒目勝ちの目は見る見る大きく見開かれ、それに釣られて口もポカンと間抜けに開いた。
「ふぇ……よく解りましたね。やっぱり、最初から話したからでしょうか?」
「……イヤ、一番最初のさわりを話しただけだし……てか、もっと早くに教えてくれれば良かったのに……」
「だって、良夜さん、昨日まで大学のことで忙しそうでしたので……良夜さんが今週、課題とかが仕上がってなかったら、来週に順延しよう……って、吉田さんが」
 美月が答えれば、納得する部分もあったが、それならそうと言ってくれれば良かったのに……と思う。あと、貴美は相変わらず、変なところで律儀な女だ。
 が、それよりも何よりも……
「……まず第一に来る気なんだ……あの女……」
「ああ、そうそう、この間――」

「九月はりょーやんの誕生日で酒が飲めるぞ〜酒が飲める、酒が飲める、酒が飲めるぞ〜」

「って、調子っぱずれで下手くそな歌、歌ってたわよ……貴美」
 妖精がそう教えると青年はパタンと額をテーブルの上に突っ伏してため息を吐いた。
「……祝う気は皆無だな……」
 アルトに教えられ、青年はため息を吐く。貴美に祝われたいか? と尋ねられれば微妙なところだが、かと言って酒の肴にされるのもまた微妙。今の気持ちに一番ぴったり来る言葉はたった一つ。
「……もう、ほっといて……」
 呟き、頭を抱える青年の上で妖精が言った。
「お断りよ」

 さて、まさか本当に買い物だけで一日が終わるはずもなく、結局、ちょっと遠目でちょっと大きめのショッピングセンターにまで行っての買い出しがデート代わり。そこでついでにお昼も食べたら、味はアルトのと変わらなくて値段は二割増しな感じでガッカリ。なんか、機先も削がれたし生ものも買ったしで、後は部屋に帰ってダラダラ……
「……美味しいわけでもなければ、不味いわけでもなくて……微妙な感じですよね」
「……平たく言うとカップの自販機で二百円で売ってるコーヒーと同じ感じの味……って、伝えなさいよ」
 ダラダラするついでに今年のプレゼントとして買って貰ったケトルでコーヒーを煎れてみれば、褒めてるんだか、褒めてないんだか、微妙なコメント。自分で飲んでみても言われる通り、微妙なお味。
「もうちょっと不味ければネタになる……って所?」
 一口含んで真顔で論評すると、目の前、ガラステーブルを挟んで座る彼女は破顔した。
「あはっ、そこまでは言いませんよ」
 二人が挟むテーブルの上には、アイスコーヒーのタンブラーとデパートで買ってきたケーキが二つずつに、妖精が一人。良夜のグラスに取り付いた彼女は、チューチューと自分のストローで褐色の液体を吸い上げると、プハーと大きな吐息を吐いて見せた。
「素人が自宅で煎れたにしては美味しい……って言っても良いんでしょうけど……ほんと、話題に出来ない味のコーヒーよね……普通すぎて」
 そんな風に論評されるコーヒー、そのお供は東京の有名店から取り寄せ販売してるという一級品だ。普段食べてるケーキよりも大分美味しいし、値段もちょっとと言わずに高め。
「貧乏学生だと勇気のいる値段だもんな……ごちそうさま、美月さん」
「いえいえ。誕生日にアルトの廃棄ケーキもないでしょう? それにたまには良夜さんも良いもの食べないと……舌が退化しますよ?」
 最近よく言われる『舌が退化する』のフレーズに苦笑い。例の燻製グリルを美味しいと言って食べちゃった一件から、翼が言い出したらしい。
「正確に言うと『舌が退化してる』よ、翼が言い出したのは」
「……完了してる訳か……」
 テーブルの上、青年のチーズケーキと美月のチョコレートケーキ、両方を突く妖精が補足説明。それに軽く肩をすくめて、彼は美月の方へと顔を上げた。
「……って、そー言えば、これ、夜に食えば良かった……って、訳にもいかないかぁ……タカミーズもいるし……」
 少々残念そうに良夜が言うと、美月は人差し指をピン! と立てて応えた。
「ああ、凪歩さんがケーキを当てにお酒は飲めないからって、チョコレート、持ってくるって」
 その発言に引っ掛かる物を感じれば、青年は間抜け顔を上げて尋ねる。
「はい?」
「ですから、最初にお鍋でお酒飲んだら、その後はチョコレートをつまみにウィスキーをチビチビ、ケーキの代わりにしちゃおうって……もう、そんな事してたら、飲み過ぎちゃいますよね?」
 困った風ではあるが、何処か楽しそうな笑顔で美月は答える。
 も、その答えで良夜の間抜け顔は消えない。フルフルと顔を左右に振って、もう一度、尋ね直す。
「……じゃなくて、誰がそれを言ってた?」
「凪歩さん」
「……もしかして、くるの?」
「……みんな、って……言いましたよね? 良夜さん」
「……みんなって……タカミーズや美月さんだけじゃなくて……?」
「ええ、凪歩さんと翼さんも来ますよ?」

 と、良夜の部屋で会話が交わされていた頃……
「今夜は浅間くんの誕生日で、酒が飲めるぞ〜酒が飲める、酒が飲める、酒が飲めるぞ〜」
「……飲める、ぞ……っと」
 喫茶アルトのキッチン、シンクに並んだポニーテールとショートボブが鼻歌を歌いながら、食器を洗っていた。

「だからさ……もう、ほっといて……」
「諦めなさい」
 ケーキの残るテーブルの上、突っ伏してサメザメと泣く良夜の額を妖精がペチペチとストローで叩いていた。

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