美月さんのお仕事
 頼りないとか、呆けてるとか、ストレートに頭が悪いとか、色々言われている美月さんではあるが、こう見えても一応は喫茶アルトの管理職である。老店長がコーヒーを煎れることと困った時のフォローくらいしかしなくなったお陰で、彼女のやることは最近増え気味だ。
 コンピュータを使った帳簿記入も美月の『増えた仕事』の一つ。もっとも、伝票の整理はフロア組がやってるから、美月がやっているのはその整理された伝票を順番に打ち込んでいくだけの簡単な作業だけ。それ以上の事は余りパソコンが得意じゃない美月にはちょっと無理なので、社外の会計士に任せているのが現状。
 そんな簡単な仕事を、月に一度か二度、日曜日の昼過ぎに倉庫に籠もってやる訳だ。しかし正直、美月はこの倉庫兼用の事務室に籠もる仕事というのが大嫌いだった。
 一応、倉庫には冷房もあって仕事をするには過ごしやすい。夏は暑く冬は底冷えするキッチンよりかはよっぽど良い職場環境だろう。とは言っても、フロアの様子は伝わってこないし、たまにフロアのスタッフが消耗品を取りに来る以外は一人きりで寂しいし、アルトは閉じ込められた経験から美月と二人きりでここに入ろうとは決してしないし……
 そんなわけで、パソコンでの作業をするために事務室へとやってくる度、彼女はため息を漏らすのが定番になっていた。
「はぁ……」
 この日もいつもと同じにため息を吐きながら、パソコンのスイッチを押す。押せば、今時ちょっと見ないブラウン管のモニターがたっぷりと時間を掛けて明かりを放ち始め……――
 ――ない。
 ついでに普段なら速攻で大声を上げ始めるファンすら沈黙したまま。
「ふえ?」
 ポチポチと何度もスイッチを押してみたところで、モニターは輝かないし、ファンの音も聞こえない。そもそも、スイッチの上に付いているLEDすら光を発しない。まさに「うんともすんとも言わない」感じ。
 それから五分の間、美月はテーブルを動かしてコンセントの確認をしたり、本体やらモニターやらを数回殴ってみたり、色々繰り返した結果、ぶっ壊れたと判断した。
 そして、彼女は――
「わぁい、打ち込みから解放されました〜〜〜」
 と、万歳三唱しているところを貴美に発見され、力一杯蹴飛ばされた。

「ああ、もう、ダメだよ、それ」
 良夜がそう答えたのは美月からのSOS電話が入り、事務所のパソコンが壊れたと言われた二秒後のことだった。
 良夜は喫茶アルトの常連で事務所にも何度か出入りをした事がある。その上、彼は自他共に認めるパソコンマニア。事務所に入った時に『随分古いパソコンがあるなぁ……』と前々から思って居た。
 その古いパソコンが壊れたと聞けば、諦めた方が良いと思うのは当然だった。
「買い直した方が良いよ。ショップビルドかBTOサイトで安いの探せば安いしさ」
『……』
 携帯電話の向こう側、聞こえてくるのかは静かな沈黙と微かな吐息……
「……美月さん?」
『……良夜さん』
「はいはい?」
『……日本語でしゃべりましょうよ……』
「……日本語だよ……そんなに難しい事言ってねーよ、俺は……」
 そんな感じで呼び出しを食らって、喫茶アルトに顔を出したのがお昼少し前。本日の予定は『たまっている課題に手をつけよう』だったのだが、半泣きになっている美月をほっとくことも出来ず、のこのこやって来たわけだ。
「……お昼、奢るのひと言に釣られたくせに」
「大きなお世話だよ。だいたい、吉田さんにやらせりゃ良いんだよ」
「仕事中よ。凪歩が居ないから日曜の割に……忙しくもないわね。遊んでるかも?」
「……遊んでんなら、やらせろよな……」
 頭の上には小うるさい妖精さん、冷房の効いた事務室に閉じこもっての作業の真っ最中。十年一日、代わり映えしないアイボリーのケースを目の前に起き、床の上にどっかとあぐらを掻いていた。
 このパソコン、購入したのは十年ちょっと前。前にアルトを見えてた女性が、清華やアルトと一緒に買いに行った代物らしい。
「何にも解ってなくて、向こうの店員に勧められるままに買っちゃったのよねぇ……」
 しかも、その場に美月も居たらしく、彼女にとっては思い出の品。だから、出来る事なら直して使いたいそうだ……後、二十万円近くしたので捨てるのも惜しいらしい。
「……まあ、立派なメーカー品だからなぁ……でも、直して使うのは無理だと思うぞ……っと……」
 パカンとアイボリーの板を外して箱を開く。そして、中を覗き込めば青年の口から言葉が漏れた。
「……げっ」
「どうしたの?」
 うめき声に近い言葉にアルトが頭の上から中を覗き込む。その不思議そうな呟きを頭の上から聞きながら、青年は基盤の上を指先でちょいと拭う。指先にはべったりと茶色い物。それを鼻の先へと持って行けば、特徴的なすえた匂いが鼻を突いた。
「……ヤニだな……煙草の」
「……あのバカ……」
 青年が呟けば頭の上で妖精が苦々しそうな呟きで答える。その呟きを耳にしながら、青年はパソコンの解体を進める。すれば、まあ……どこもかしこもヤニがべたべた。ファンはケースの物もCPUに取り付けられた物も固着しちゃって動きやしない。これもおそらくもヤニのせいだろう。
「……こりゃ、無理ね……」
 ドライバーの先っぽでファンを突いているのを頭の上から見下ろし、妖精が呟く。それは青年の思いを代弁する物。軽く頷き、彼はドライバーの先端を基盤の上を走らせる。すると、まるでひっかき絵の黒クレヨンのようにヤニが剥がれていく。
「……煙草のヤニは電気を通すからなぁ……コンデンサーもぱんぱんだよ……」
「あのバカに買わせれば良いわよ。自業自得よ」
「……誰が出しても良いよ……ハードディスクだけでも救えるかな……?」
「あっ、中身がなくなったら美月が泣くわよ。苦労の結晶なんだし……それと、壊れたのは煙草が原因?」
「遠因かな……? 経年劣化もあるだろうさ……十年以上も使えたんだから、上出来だよ」
 ハードディスクを取りだし、手の中で転がす。ひっくり返してみたり、覗き込んでみたり。そこには、若干の汚れ、特にヤニらしき茶色い物が随分付いているが、外見的には壊れているようには見えない。上手くすれば中のデータだけでも救い出せるかも知れない。
 そんな事を考える頭とハードディスクの間にひょこっと小さな頭とそこから流れ落ちる美しい金髪が滑り込んだ。
「新しいのを買うなら、あのバカにここでタバコを吸うの、止めるように言わないと……また同じ事をされたら今度はあっという間よ?」
「えっ? あっという間って?」
 その言葉に青年は作業の手を止め、顔を上げる。そして、くるりと天地逆さまにぶら下がる妖精の顔を見詰めた。
「バカね……これを買ったのは十年前だけど、あのバカがここで煙草を吸い始めたのは、貴方が入学するちょっと前よ」
「……あっ……」
「数年で壊れたらたまんないわよ……」
 言ってアルトは、ひょいととんぼを切って頭の上に着地を決める。そのトンと頭に響く小さな振動を心地よく感じながら、青年はHDDを外した筐体を覗き込んだ。
「……あっという間に汚れる物だよなぁ……」
 基板の上にはヤニが流れた跡。それをドライバーで削ってみれば、その下から見えていなかった印刷が見えた。こんな物を内臓に入れてる人間の気が知れないとか思ってみたりなんかして……
「タバコを吸いながら美月の打ち込んだ帳簿の内容をチェックしてるのよ……」
「……なるほど。一概に責められないのが辛いな?」
 ため息混じりの妖精の声を聞きながら、笑って青年は立ち上がった。とりあえず、HDDを抜いた筐体の方は粗大ゴミ行き。モニターの方も今更二十一インチのCRTモニターもないだろうな……と思う。多分、使えない事はないだろうが、新しいPCを買うところで引き取ってもらうのが良いだろう。代わりに安い液晶モニターなんかを買っちゃうのがお勧め。
「……って所だけど、お前の意見は?」
「良いわよ、和明に買わせるし、大部分は経費よ。本体もテレビも凄く高いの、買っちゃいなさい」
「テレビじゃなくて、モニターだよ……っと」
 頭の上と話をしながら、青年は事務所を出た。
 良く空調の効いた部屋からキッチンに入るとムワッとした暑さと湿度を青年は感じた。一応はキッチンにも冷房は入っているのだが、大きなレンジがあったり、コンロでは寸胴の中でお湯が沸いてたりで、熱源には事欠かない。かと言って、冬が暖かいか? というとそうでもない。冬は冬で床がコンクリ打ちっ放しの土間だから底冷えがすさまじい。こんなところで料理を作ってるくらいなら、事務所で入力でもやってた方がマシだろうと思う……が、彼の恋人はそうでもないらしい。
「あっ、直りました?」
 そう言う恵まれた環境よりも、この夏は蒸し暑く冬は底冷えのするキッチンが良いと言う変わり者――美月が、出て来た良夜に声を掛けた。今日はお休みのはずで帳簿付けの仕事も中断中だというのに、彼女はワンピースの私服の上からエプロンを着けて、キッチンの中をフラフラしっぱなし。右手にオタマを握りしめてるところを見ると、何か料理でも作っていたのだろう。
「ああ……やっぱり、直らなかったよ。基板がぶっ飛んでる。HDDだけは回収して後は粗大ゴミだなぁ……データだけはサルベージ出来れば良いけど。後、モニターも買い換えた方が良いと思う」
「……良夜さん、暗号でしゃべるのは止めてくださいね」
「……日本語だよ」
「ふぇ……そうなんですか? えっと、要約すると……直らなかったと言う事ですね?」
「…………まあ……全体としてはそれで……」
 最初に言ったじゃん……と内心苦笑い。その内心が表情を歪めるのを感じながら、青年は軽く首肯して見せた。
 首肯に満足したのか、美月の笑顔がいっそう華やぐ。その笑顔に釣られるように青年も笑みを浮かべると、美月の荒れた指が良夜の手元を指さした。
「それ、なんですか?」
 そう言った美月の視線と指の先を追いかけてみると、そこには小さな機械が一つ。
「ああ、ハードディスク……まあ、パソコンの部品。使えるかどうかは解らないけど……」
 良夜が答えると美月は貸してとばかりに手を出す。それの荒れた手に四角い部品を乗せると、美月は「あっ」と小さな声を上げた。
「思ったよりも重いですね? ずっしりしててびっくりしました」
「まあ、鉄のかたまりだしね」
 良夜の台詞を聞いてるのか、聞いてないのか、美月は物珍しそうにそのハードディスクを何度もひっくり返したり、覗き込んだりを繰り返した。
「壊れたんでしたら、お祖父さんと相談しないと……」
 そのハードディスクを見ながら彼女が言うと、良夜は「あっ……」と声を上げた。
「っと、ちょっと店長と話をしてきて良い?」
「ふえ? 良いですよ、じゃあ、一緒に……」
 そう言って付いてこようとする美月の肩をぐいっと掴んで、回れ右。くるんと回して背後を向かせる。顔はこちらを向けさせないのがポイントだ。目が合うと嘘が吐きにくいし、なんか、ばれそう。
「ああ、たいした用事じゃないから……それより、買い物、一緒に行くんならエプロンは脱いでないと……」
 そこまで言ったところで、奥で寸胴の番をしていた翼の姿を見つけた。
「あっ、うん、そうだ。ほら、店から居なくなるんだし、寺谷さんにも一声、掛けておかないと……」
 そう言って、美月の肩越しに翼を見る。翼も自身の名前が出たことに気付いたのだろう。その能面のように無表情な顔がこちらへと向いた。
「…………」
「…………」
 結び会う二つの視線。
「……仲間はずれの予感……」
 と、呟いたのは首を巡らせ斜め上後を見上げる美月さん。
 その呟きをマルッと無視しながら、青年は『察しろ』の気持ちを過分に含んだ視線を翼に投げかける。すると、投げられた鉄仮面はポツリと言った。
「……行ってら……」
 ヒラヒラと振られる右手を見詰めて青年は、奴も敵だ、と思った。
「……そんなアイコンタクト、無理に決まってるじゃない……」
 頭の上では一番の敵が呟いた……

 なんとかかんとか美月を翼に押し付けて、やってきましたフロア、そしてカウンター。日曜日、それも朝食には遅く、昼食には早い微妙な時間、フロアは閑散としていて、客と言えばカウンターで暑いのにホットコーヒーを舐めるように飲んでる老婦人が一人と隅っこの方でケータイを弄ってる女子大生が一人きり。貴美も窓際の席で直樹と一緒に欠伸をしている体たらく。
 そんなフロアの中、青年は老婦人の横に腰を下ろす。昔、アルトで働いてたこともあると言う老婦人――高槻(旧姓)明菜は良夜とも顔見知り。その老婦人にぺこりと会釈をしてから、彼は老人にパソコンの惨状を伝えた。
 すると、にこやかな笑みでパイプを磨いていた老人ではなく、良夜に会釈を返した老婦人の方が眉をひそめた。
「……まだ、吸っていらっしゃるんですか? 煙草……」
 大昔、喫茶アルトの開店時のスタッフが呆れ口調で言っても、老人は澄ました笑顔でパイプを磨き続ける。そんな様子に老婦人もため息一つ……
「明菜も煙草は嫌いなのよ」
 アルトの言に青年は軽く肩をすくめて、苦笑い。
「昔から止めないと言って止めてないんですから、立派な物でしょう?」
「……お孫さんには止めたとおっしゃってる癖に……」
 何処か誇らしげに言う老人に老婦人は憮然とした表情でそっぽを向いた。口の中ではブツブツと何やら言っているようだ。所々『真雪』という言葉が聞こえていたので、おそらくはとうにこの世から引退してしまった友人……親友への恨み言だろう。
 その老婦人から視線を老人へと向ける。その老人は相変わらず、ニコニコと笑ってパイプを磨いたり、時折口にくわえたり……何処か楽しそうな老人の顔を見上げ、青年は言った。
「……体はともかく、パソコン、また、壊れても困るから……事務所で吸うのは止めてくださいね?」
「あはは……ハイハイ、そちらの方は約束しますよ」
 にこやかに言うが、信用度は結構低め。頭の上の妖精もカツカツときっちり二回頭を蹴っ飛ばす。
「壊れたら、また、新しいのを買う……と言う事で」
 朗らかな台詞、聞いた三名の心が一つになった。
(((ダメだ……この人……)))
 三人がひとしきり頭を抱えて口を開こうとした、まさにその瞬間だった。
「お待たせしました〜何もこんな時に味見とか言わなくても良いと思いません?」
 ひょこひょこと美月がキッチンから顔を出し、彼女は屈託のない笑顔を見せた。
 示し合わせてるのかとすら思わせるタイミングに、誰もが開きかけた口を閉ざす。その閉ざされた一瞬を老人が開いた。
「今日はお買い物に行かれるのでしょう? でしたら、これを……」
 老人が口は開き、ポケットから取りだした財布も開く。そして、中から一枚のカードを手渡せば、孫娘の顔が一瞬だけキョトンとし、キョトンとした顔がみるみるうちに喜色一色に染まっていく。
「ふっ? 良いんですか?」
「ええ、最近、頑張っているようなので……ちょっとしたプレゼントですよ。暗証番号は前にお教えした通りです。無駄遣いはしないで下さいね?」
 老人の言葉に美月はコクンとひときわ大きく頷き、そのカードを控えめな胸にギュッと強く抱く。
「はいっ! さっ! 良夜さん、行きましょ!!」
 そう言う美月に腕をつかまれると、その腕の持ち主とその持ち主を椅子代わりにしている妖精は冷房の良く効いたフロアから、残暑厳しい駐車場へと引っ張り出される。まさに、あれよ、あれよという間という奴。
「あっ、あの、店長、さっきの話!」
 恋人の心はすでに何処かの電気屋さん。楽しい買い物と言うよりも認められた事へのうれしさで頭がいっぱい。その美月に引っ張られながら、なんとかかんとか言った言葉に返されるのは老人の楽しそうな笑顔と一つの言葉。
「ハイハイ。考慮に入れて前向きに」
 そんな事を言う老人の前で老婦人は呟いた……
「……小悪党……」

 さて……壊れたパソコンから引っ張り出したハードディスクさん。それは……――
「…………」
 今、翼の目の前にあった。
 チュンチュンとお湯の沸く寸胴のすぐ隣で……
「………………」
 しばらくの間、見詰めた後、翼はプイッとそっぽを向いた。そして、彼女は口の中で小さく呟くのだった。
「……見てない……」

「良夜さんが悪いんですよぉぉぉ〜〜〜」
 それからしばらくの間、毎週日曜日の事務室からはそんな声が聞こえていた……

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