喫茶アルトのお仕事(完)
「授業が始まるまで、授業が始まるまで……」
 凪歩は一生懸命に祈った。神仏は新年の初詣と高校入試の天神さん以外、当てにしたことはない人生だが、ともかく祈った。一刻も早く、この女が――
「店員さん、お冷や〜」
 際どいホットパンツにGジャン姿のこの女が授業に出ていなくなることを……
 コポコポと言われるままにグラスへとお水を注ぐ。
 凪歩はこの女――吉田貴美(一応上司)が何をしに来たのか、聞いていなかった。モーニングの注文を持って裏に引っ込んだ時、美月に聞いても教えてくれはしなかった。正確に言うと、美月も知らなかった。
「えっと……とりあえず、今日は一日休ませてくれ。でも、ランチタイムには店内にいるから、どうしても回らなかったら手は貸すという話だけはしたのですが、それ以上はどうしても教えてくれなかったんですよねぇ……」
 ほんわかとした口調で語る美月に内心、聞けよと凪歩は思った。
「……自分で、聞け」
 皿を洗いながらポツリと呟く同期の言葉は無視することにした。
 後一人、店内には人間が居て、もう一名、妖精が居るのだが、前者はすぐ傍に貴美が引っ付いてるから聞けない。後者はYesとNoの二者択一の会話しか出来ないので、こんなに難しい話を聞き出すのは不可能。
 と、言うわけで、なぜに貴美が朝っぱらからこんなところでモーニング食べて、お冷やを何杯もおかわりしているのかという話は、全く聞けずに居た。
 とは言っても、そろそろ時間のはず……と思って視線を腕時計へと落としてみれば、そこでは長針と短針のいつも仲良し二人組が一コマ目が始まる時間を示していた。
 あれ? と思って視線をカウンターの隅っこ、先ほどモーニングのセットを片付けに言った辺りへと視線を向ける。すれば、そこには和明と楽しそうに何やら話している貴美のお姿。帰りそうな気配など寸毫たりとて見えやしない。
『なんで帰らないの!?』
 って、今すぐにでも大声で聞きたい。でも、聞いたら百パーセント倉庫で正座だろうから、聞かない。
 しかたないから、黙って働く。
 喫茶アルトのお仕事というのは山と谷がきつい。一コマ目の授業が始まる直前が一番人が少ない。そこからジワジワと人が増えていく。この辺りは基本的に楽だ。散発的に来るだけだから、来た順番に席に放り込んで、来た順番に注文を取って、頼まれた物を出すだけのルーチンワーク。頼まれる物もモーニングかコーヒーだけというのがほとんどで、朝からケーキをがっつくという客は余り多くない。こなすのは簡単だ。
 そもそも、この辺りの時間帯は普段から凪歩が一人で回しているので、普段通りにやれば良いだけ。例え……
(見てる……見てるよ……あの人、ものっそ見てる……)
 例え背後に物凄い視線を感じていても、ちゃんと働けるはずなのである。
 今日、朝からカウンターの方に視線を向けると、七割方の確率で貴美と視線が交わる。交わった瞬間、貴美の視線は物凄く鋭い。鋭いけど、次の瞬間にはふっとその視線から力が抜ける。スムーズな力の抜き方が貴美らしくて、油断が出来ない。
 だいたい、なんでカウンターに居るんだろう? と凪歩は思う。
 コーヒーを煎れる係の和明はカウンターに居て動かないわけだから、取りに行くたびに貴美と視線が合う。
 そして、視線が合う度に睨まれていたような気分になる。
(ほんと……もう、正座させられても良いから、帰れって言っちゃおうかな……)
 そう思わないこともないのだが、やはり、踏ん切りが付かない。結局、じりじりと生殺しのままに時間が過ぎていき、一発目の山場を迎える。
「六百五十円になります」
 一発目の山場、それは二コマ目開始十五分前だ。要は一コマ目、サボってたり、最初から授業がなかったりでアルトでダラダラしてた連中が登校するために会計にレジに並ぶ時間帯、それがこのタイミング。
「三百五十円のお返しです。ありがとうございます」
 アルトから大学までは歩いて十分ほど。教室までの距離を考えると五分は欲しい。だから、十五分前というのはレジの待ち時間を考慮に入れると割とギリギリだ。
「悪い、万札しかないけど良い?」
「はい」
 そう言って、男子学生が財布の中から万札を取り出す。ちなみに彼の会計はコーヒーのみ。チッと内心毒突く。彼の後には三人の客。万札をレジの奥に放り込んで、千円札を九枚取り出す。それを彼の目の前で一枚一枚数えて渡す。なーんてことをやっていれば、後の連中の顔色が変わる。
 くどいようだが大学の周りには何にも無い。図書館に籠もって自主的に勉強するとか言う真面目な学生でもなければ、暇を潰せるような場所は喫茶アルトくらいの物。しかも、今はまだお彼岸前とあって外は結構暑い。照り返しを考えれば三十度を大幅に超えてるはずだ。しかも、大学はクールビズだの節電だのでエアコンは全然効いてない。
 自然、客引きのためにエアコンきつめの喫茶アルトに人は集まり、集まった客は出来る事ならギリギリまでここに居たいと望み、結果、このレジ前のチキンレースが始まり……
(もう……とっとと来てよね……バカじゃないの……?)
 最後尾の血の気のなくなった顔を見ながら、凪歩がお腹の辺りを押さえるハメになる。
「――ありがとうございます」
「だぁぁぁ!!! 野郎! ぶっ殺す! ぶっ殺して、野郎の財布に入ってる万札、全部、五百円玉に両替してやる!!」
 そう言って男子学生がダッシュで駆け出す。その背中を見送り、凪歩は吐息を吐く。
「五分や十分、早く登校したって良いじゃんか……」
「二コマ目ランは昔からの伝統ですよ」
 笑う和明の正面に笑みを浮かべて凪歩も座る。そして、思い出す、そこは――
「お疲れさま、店員さん」
 貴美の隣だと言う事を……
「げっ……」
「げっ……って失礼じゃんか……?」
 凪歩の思わず零れた言葉に貴美は眉をひそめる。
「だって、なんで居るんだよぉ……? 直樹くんは居ないのに……」
 貴美にと言うよりも、天におわす人以上の何かに尋ねたい気分で凪歩は呟く。
 されどそれに答えたのはにやけた顔の上司。
「なおは成績が微妙だかんねぇ〜せめて出席だけでも稼いどかないと……」
「……吉田さんは?」
 今度ははっきりとそのに焼けた上司の顔を見て尋ねると、彼女はニコッと不敵に笑っていった。
「私? 言っとくけど、ハンパないよ?」
「……左様ですか……」
 貴美の明るさの分、凪歩の顔が暗くなる。
「まっ、居ないものだと思って適当に普段通りに仕事しな」
 等と言われたところで、思えるはずがない。そもそも、居ない人間は働いてる人間の背中を睨まない。
 結局、老店長が煎れてくれたコーヒーの味もイマイチ理解出来ないままに午前中の小休止は終了だ。二コマ目の授業の間にモーニングで使った皿を洗いに戻ったり、グラスを磨いたり……勿論、ジワジワと客が来るから、席に放り込んで、注文受けて、注文届けて、帰る客の会計済ませて……と、普段通りのお仕事をこなす。
 ――背中に貴美の視線を受けて。
(イヤだよ、もう、胃に穴が空くよ! お姑さんに監視されてるお嫁さんの気分だよ!!」
「誰が、姑?」
「ひっ!?」
「……んっ?」
「あっ……イヤ……何でも無いよ」
 隣で皿を洗う翼に不審そうな視線を向けられながら、凪歩も洗いかけだった皿を流水の下に運んだ。真っ白い沫が透明な水に流されていく。その様は見ていて気持ちが良いもの。貴美から与えられている無用なプレッシャーも流れていく……ような気がするだけで、実際には全然そうでもない。フロアに出たら、また、お姑さんの監視を受けてのお仕事かと思うと、胃に穴が空きそうだ。
「……見てるだけ、だと思う」
「えっ……?」
 言葉数少ない翼の言葉に呼吸一つ分ほど言葉が止まる……も、「ああ……」と、すぐに彼女の意を察すると、言葉を続けた。
「その見てるだけってのがヤなんだよ……」
「……んっ……解る……でも……」
「でも?」
「……いきなり取り残されるよりは、マシ……だいぶん」
「…………ああ、美月さんが浅間くんと食べ歩きしてた頃……」
「んっ……」
 カチャカチャと食器が擦れ合う音がする。蛇口から流れ出した水が食器の上に当たって弾ける。それらの音の間に翼の小さな声が差し込まれる。
「その時……解った」
「何が?」
「……出来ないことは出来ない」
「……まあ、そりゃそうだよ」
 当たり前の事を言う翼に、凪歩の手が止まった。すると、翼も手を止め、凪歩の顔に視線を移した。
「だから、出来る事からやるしか、ない」
「……それも……まあ、そうだけど……」
「んっ……」
 戸惑うように言葉を返すと、翼は小さく頷いて皿洗いを再開した。その様子を凪歩も数秒だけ見た後、皿洗いを再開した。
 そして、本番が始まる……

 凪歩と翼の休みは基本的に平日だ。これには正直のところ、二人とも異論がなかったわけではない。先輩二人が優先的に土日をキープというのだから、文句の一つも言いたくなるのが人情だ。
 が!
「いらっしゃいませ! 二名様様ですか? すぐにお席に案内します」
「すいません、注文、良いですか?」
「はーい、ただいま」
 アルトのランチタイムは午前中の授業が終わった直後から始まる。授業の終了時間はほぼ全員一緒だから、来店するのもほぼ一緒。ごそっとひとかたまりでやって来て、それを捌いたかと思うと、またごそっとひとかたまりでやってくるの繰り返し。油断していると、すぐに店内に入りきれなくなった客が店外に並んだり、注文待ちの客を増産するハメになる。
「日替わり、Aね。飲み物はアイスコーヒー」
「ペペロンチーノ、サラダとスープのセット。飲み物はホットで」
「……野菜ジュース、のみ」
「「無駄な努力を……」」
 声を掛けてきた女子大生三人組の注文を伝票に控える。その隣では男子大学生のグループが手招きで凪歩を呼んでるし、そろそろ第一陣の注文分が出来上がるタイミングでもある。その上、ドアベルは乾いた音で新しい客が来たことを彼女に教える。ちなみにこの場合、『客』と書いて『テキ』と読ませる。
 そんな客どもが大挙して押し寄せる喫茶アルトの平日ランチタイム。こんな時間帯を一人で任されるのはごめんこうむるってなもんで、先輩二人が土日の休みをキープする事への不満はあっという間に雲散霧消した。
 訳なのだが……
「すいません。注文、お願い」
「お会計」
「お冷や、おかわり」
「なぎぽん、ガンバレ」
 ごめんこうむるはずの一人きりのランチタイム。矢継ぎ早に告げられる要求に凪歩は右往左往のてんてこ舞い。
「今、お伺いします」
「少々お待ちください」
「今、お持ちします」
「頑張るよ! って、余計な事言わないで!!」
 と、こんな感じで凪歩としては最速で仕事をこなしているつもり。しかし、やってもやっても、後から後から客は来るし、さばいてもさばいても客の注文は減っていかない。息つく暇どころか、足を止める暇すらまるでない。
 普段ならそろそろ貴美が入ってくれる時間……いつもの癖で腕時計に視線を落とすと、もうそんな時間になっていた。そこから、凪歩はカウンターへと視線を移す。そこに居るのは、普段ならそろそろ入ってくれるはずの吉田貴美嬢。彼女が老店長と楽しそうに歓談しながら、日替わりランチに舌鼓を打っている姿があった。
 美月の話によるとどうしても忙しいのなら、入ってくれる……と言う約束になっているはずだ。しかし、彼女が動くような様子はない。
「……どうなってんだよぉ……」
「なぎぽん! 注文!」
 半泣きの声で呟くのと、男子学生が声を上げるのとがほぼ同時。瞬間、凪歩の条件反射が声を上げた。
「はい、ただいま! って、なぎぽん、呼ばわり止めて!」
 そう言って凪歩は大股で彼の方へと歩んでいく。
 地獄のランチタイムはまだまだ始まったばかり……

 さて、そんな凪歩であったが、彼女の様子は貴美から見るとどーしても物足りないというか、トロ臭いというか……そういう風に見えてしまうのだった。
「バタバタして、何処の定食屋だ……?」
 貴美はずっと見ていた凪歩の背中から視線を外して、一人嘆息を漏らした。
「今日は少し忙しいみたいですね」
 そう言って老店長は貴美の前にアイスコーヒーのグラスとガムシロップ、クリームの入った瓶を置いた。
「並の上くらいかな? 多めだけど、あんなにバタバタやんなくても良いじゃん……」
 コーヒーが注がれたグラスに貴美がたっぷりとガムシロップとクリームを注ぎ込む。だいたい、普通の人の五割増しくらい。アルトが言う所の『コーヒー風味の砂糖水』という奴だ。それをコクン……と、一口の喉へと流し込むと、彼女はカウンターの上にグラスを戻した。
「でもまあ、泣き付いてこないのは十点加算ってところやね…………そろそろ、ピークやね?」
 貴美がポツリと呟く。
 アルトのピークはランチの第一陣が食事を終えて帰る辺りから始まる。この時間帯には、まだ注文した料理が届けられてない客も居れば、実習その他の用事で遅れてくる連中も居る。そこに帰る客をレジで対応しなければならないとなると、ウェイトレスはキッチンからフロア、レジへと店内中をかけずり回るハメになってしまうからだ。
 特に今日、フロアの中で動いてるのは凪歩ただ一人。和明すらこの場で貴美とコーヒーを煎れながらの雑談中と来たもんだ。
「まっ、若いうちの苦労は買っても……と言いますからね?」
「……売りつけてる悪徳商人のくせに」
「今日の分の発注は吉田さんですよ?」
 いたずらに笑う老人に貴美は困ったような笑みを向けた。そして、グラスを握ってクイッと半分ほどコーヒーを飲む。
「あはっ……まあ、ね?」
 苦笑い気味に頬を緩めて、貴美はグラスを両手に包み込む。そのグラスの中でクラッシュアイスが溶けて崩れ落ちた。崩れ落ちた氷から顔を上げて、貴美はフロアの中をぐるっと見渡した。
「そろそろ……かな?」
 口の中だけ、鼻先でも聞こえないような声で彼女は呟く。
 入り口で所在なく立っているのが一人、それとフロアでメニューを閉じてキョロキョロしているのがひとりに――
「アイスブレンド、入りました……よっと」
 和明がカウンターにサーバとクラッシュアイスを詰めたグラスを置く。
 そんな中、凪歩はレジで客の対応中。並ぶ客が他にも二人。他にも待っている客と溶けていく氷があることを凪歩も気付いているのだろう、レジスターを弄る彼女の顔から血の気が引いていくのをカウンターからでも見て取ることが出来た。
「テンパり始めたやね……」
「落ちついてこなせばまだまだ大丈夫だと思いますがね……」
 目の前に客が居て、レジを打っているというのに、凪歩の視線が入り口の辺りに向いたり、フロアに動いたり、挙げ句の果てには貴美の方にまで遊びに来たり……視線を動かす度に彼女の顔からは血の気が引いていく。
「……キョロキョロしてたら……」
 貴美がそう呟いたのと、カチーンと小銭が跳ねる音がしたのはほぼ同時。
「「「「あっ……!」」」」
 と言ったのは、まずは凪歩、そして見守っていた二人に、”それ”を受け取る予定だった男子大学生。
 凪歩の手から出奔した五百円玉はレジの上で一旦跳ね、床に着地。それを大学生が拾い上げて、凪歩に返す。ごく普通の行動だ。
 しかし、この時、凪歩はテンパって居た。
「あっ、ありがとうござい――」
 礼を言って受け取ろうとしたら、レジ横に置いていった募金箱をその手が強打した。それは大学自治会が震災復興を目的に置いていった物だ。そのアクリル製の募金箱は凪歩の右手にぶん殴られて、そのまま、床へと真っ逆さま。
「「ああ!?」」
 見ていた者、全員が声を上げるも上げただけ。スローモーションのようにそのまま、頭から着地。ぱかーんと見事な音を立てて、それは真っ二つに分離した。
「ああ……」
 蓋と胴体が別れた募金箱からは小銭が散乱する。意外とボランティア精神溢れるが客が多いのか、小銭が多いもその枚数は決して少なくない。その大量の小銭を辺りにいた面々が拾い集めて募金箱に戻すと……
「あれ……最初の五百円玉……」
 中身の金額が最初よりも五百円増えた。
「わっ、わっ、わっ、五百円、五百円!!」
 慌てた凪歩は募金箱をつかんで蓋を引っ張る。しかし、先ほど、男子学生の手により閉められた蓋は、凪歩の力では開かない。開かないことが凪歩の心を余計に焦らせたようだ。両手でつかんで捻ったり、ぱかぱかと叩いてみたりと、凪歩は必死で募金箱を開けようとする。
 そんな慌てっぷりは――
「……とりあえず、レジ……して?」
 と、学生が言うまで続いた。
 その様子を見ていた貴美の口から、
「――…………ああ、もう……」
 うめき声が洩れ、両手が彼女の金色に近い頭を抱え込む。
 そして、周りから聞こえるクスクスという小さな含み笑い。店内の空気としてはむしろ、待たされていた人達も含めて柔らかくなっているのだが、パニックの中に入り込んだ凪歩にはそれを読む余裕なんてない。むしろ、笑われていると言う事実が彼女をさらに追い詰める。
 追い詰められた結果……
 扱い慣れてるはずのレジで何度もとちる。
 お冷やをこぼしそうになる。
 注文の配達先を間違えそうになる。
 と言うか、注文があったことすら忘れかける。
 と、決定的なミスこそないがその一歩手前を連発し始める。
「……もはやここまでって奴か……」
 呟き立ち上がろうとする貴美のての上に老人の細く皺だらけの手が重ねられた。
「まあ、もう少し見てましょう?」
「大丈夫なん?」
 笑みのままに頷く老人の顔を見やり、貴美は浮かせ掛けていたお尻をストゥールに下ろした。再び、視線は相変わらず凪歩に釘付け。フロア中央部で右往左往しているのが不安でたまらない。
 そして、数分が流れる。
 凪歩は相変わらず、右往左往の真っ最中。入り口にたまる客こそ居ないが、そろそろ、帰る客が増え始める頃。そろそろ、フォローに回らないと決定的なミスを犯してしまうのも時間の問題。
 そんな事を考えて、もう一度、貴美が立ち上がろうとした、まさにその瞬間だった。

「ぎゃーーーーーーーーーーーーーーー!!!!!!!!!!!!!!」

 喫茶アルトフロア、ど真ん中で間抜けな悲鳴が響いた。
 発した主は先ほどからテンパっていらっしゃる時任凪歩さん。
「「……刺したか……」」
 老店長と金髪の女が同時に呟く。それと遙か向こう、いつもの窓際隅っこの席で参考書を読んでいた青年が、コーヒーを盛大に吹き出していたのは余談である。
 他の客達はと言えば、口々に発していた会話も、食事の手も止めて、キョトンとした顔で凪歩を凝視。一斉に数十の視線が凪歩を貫く。
 嫌な沈黙が流れる。凪歩の顔から血の気が引くというか、もはや、奴の顔は真っ青を越えてなんか土色っぽくなっている。その土色になった顔を引き攣る笑みに変え、両手を高く差し上げてバンザイのポーズ。そんな姿で彼女は言った。
「………………ぎゃおー、かいじゅうだぞー…………なんつって……」
 そして、言うだけ言って、彼女はキッチンに逃げ帰る。その後ろ姿が、泣いているような気がした。
「……………………」
 誰も彼もがたった今起こったことに対応することが出来ずにいる中、最初に老店長が無表情に呟いた。
「……なんつって……は要りませんでしたね……」
「……むしろ、そのダメ出しが要らないよ、店長……」

 キッチンに逃げ帰った凪歩が出て来たのは、それから二分ほどたった時のことだった。その間、大きな怒鳴り声が聞こえて、出て来た時には目が真っ赤に腫れていたような気がしたが、そこは上司同僚顧客までもがスルーしてあげる優しさを持ち合わせていた。
 それからの凪歩が急に仕事を手早くこなし始めた……なんて言うサプライズは勿論なかった。貴美から見れば十分もたついてたし、至らないところを数えればダースでは足りない。
 しかし、先ほどまでの余裕のなさだけは幾分マシになっているように貴美は感じた。実際、細かいミスはなくなり、普段以上に待たせ気味になったとは言え、客は確実に減っていく。そして、見てる方にとっても永遠に続くかと思うような時間を消化し尽くし、ついに凪歩はランチタイムを一人で捌ききることに成功した。
「だぁぁ、もう、また遅刻だぁぁぁぁ!!! 二コマ目も失敗したのに!!」
 ただ一人、午後一ランに(も)失敗し、単位が危なくなりそうな奴を生み出したことを不問にすれば、だけど。まあ、この場合、悪いのは凪歩じゃなくて七割方失敗した本人が悪いので不問にされる。
「いらっしゃいませ。ようこそ喫茶アルトへ……ただいま、お席に案内します」
 ランチタイムを一人でこなしたことで、多少の自信も付いたよう。山も越えたし、それからの彼女はそれなりにスムーズに仕事をこなすようになっていた。
 そして、貴美はその昼からの客が一息吐いた頃、凪歩を自分の席に呼んだ。
「えっと……何か?」
 呼ばれた凪歩は不審そうな表情で貴美の顔を伺う。真意を測りかねていると言ったところか?
 そんな様子に貴美は「クスッ」と小さく笑って言った。
「まあ、座んなよ」
 そう言うと、凪歩は迷わず――
 ――床に正座した。
 貴美の顔色が変わって、辺りからは囁き声が聞こえる。
「……やっぱり……」
「さすがサドヶ島出身のサド姫様……」
「……ショタの上にレズで女王様って……どんだけ……」
「……踏んでくださぃ……」
 ちなみに踏んで欲しがってるのは一年の女子だった。
「誰が床に座れっつったんよ!!?? 後、お前ら、反応良すぎ!!!」
 貴美が珍しく顔色を変えて絶叫した。

 閑話休題。
「なんか怒らせたからこういうご無体な仕打ちをされているのかと……」
「……心当たりあるんな……?」
 カウンターの片隅、二人並んで言葉を交わす。その二人の前にはアイスコーヒーが一つとコーヒー風味の砂糖水が一つずつ。ざわついていた背後も今は落ちついた。そこをディナーの仕込みが終わった美月がフラフラしているから、一人少ない喫茶アルトの昼下がりにものんびりとした時間が流れ初めていた。
 そんな空気感の中、貴美は単刀直入に言った。
「私、もう、ランチには入らないから」
「えっ?」
「授業終わった後には入って雑用とかこなすけど、ランチには入らんから、なぎぽん、がんばんな」
 ヒラヒラと手を振り、彼女はコーヒー風味の砂糖水をグビッと半分ほど飲み干す。
 その隣では凪歩がパクパク。
「なんで!?」
 ようやく絞り出せた言葉に、貴美は真正面、斜め下に視線を向けたままに答える。
「三年も後期になっと忙しいんよ。ゼミの方も教授がここの常連だから色々優遇して貰えてたけど、それも限界だしね」
「……はぁ……そうなんだ……」
「そっ。それで、今日、なぎぽんがランチを一人で回せるかどうか、確かめてたんよ。無理なら、もうちょっと頑張るつもりだったんやけどね?」
 悪戯な笑みでネタ晴らしをすれば、凪歩は深い溜め息と共にその表情を不機嫌そうに歪めた。
「なんだよ……それじゃ、適当なところで音を上げれば良かったんじゃんか……根を上げたら、絶対、正座だと思ってたから……」
「……イヤ、正座はさせたよ? でも、意外と回せてたじゃん? アルトちゃんにきっつい気付けを貰ったみたいだけど」
「なんかね、もうね、店のど真ん中で悲鳴上げたら、いろんな事がどーでも良い感じがした……」
「……まあ……そうだろうね……」
 暗い目で遠くを見る凪歩から貴美が視線を逸らす。
 沈黙数秒、その後、凪歩の顔が上がって「でも……」と言葉を繋いだ。
「でも……刺されて、顔を上げて、ぐるっと周りを見た時、ふと、出来る事は出来るし、出来ないことは出来ないんだから、出来てないことを数えるのは止めようって思ったんだよね。どうせ、誰も助けてくれないんだし」
「まっ、それが正解だよ……」
 語る凪歩へと貴美が視線を向けた。わずかに後輩の顔を見詰めた後、先輩が格好を崩して笑う。それにつられて後輩も微笑んだ。
 そして、貴美は凪歩の肩をポンと一つ叩いた。
「まっ、私のやり方を続けるのも良いし、変えるのも良いし、好きなようにやんなよ。相談には乗っから」
「はい」
「それとね……」
 にこりと貴美が微笑む。それと同時に、凪歩の肩に置かれた手に力がこもる。爪が彼女のブラウス越しに肩へと食い込んだ。
「この店、今が一番大事な時期なんよ……売り上げ、伸ばせなかったら、正座じゃすまんよ? 石……抱かせんよ?」
 言い終えると同時に表情から笑顔が消えれば、凪歩の首が高速で何度も上下に動いた……

「いらっしゃいませ! ようこそ、喫茶アルトへ!!」
 こうして、翌日から、喫茶アルトのランチタイムの看板が金色に近い癖っ毛から、藍色のポニーテールに変わった。
「見た目は吉田さんの方が良かったな」
 と言うのが今の評判。
 それ以外の評判が固まるのはもうちょっと先のお話……

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