喫茶アルトのお仕事(2)
 さて……
「そんなんじゃ、私、いつまで経っても辞めれないじゃんか……」
 と、おっしゃる吉田貴美さん。しかし、周りから見れば彼女の仕事っぷりはそれはそれは素晴らしい物であった。とても辞めようと思って居る人間のそれではない。
 彼女の見事な仕事っぷりは仕事が始まる前から始まる。
 キーンコーン、カーンコーン……
 大昔から変わらぬ音で親しまれているチャイムが鳴れば、授業は終わり。実習室の正面、教卓で教鞭を執っていた教官が終わりを告げて、居なくなる。しかし、席を立つ学生は少ない。中途半端に進んだ実習に区切りを付けないと帰るに帰れないからだ。カタカタとキーボードを叩く音、ペラペラとテキストをめくる音、控えめに交わされる相談の声……五十人からの学生が立てる物音がなくなる事はなかった。
 もっとも、時間と共にそこから緊張感という物が薄らいでいくのも不可避だ。次第に相談の声が大きくなっていき、その内容も課題から離れて行き始める。
「昼、どうする?」
「アルトかなぁ……今日の日替わり、何かな?」
「スパゲッティだと良いんだけどなぁ……」
 そんな男女の声まで聞こえて来ると、PC実習室はお昼休みの空気感に支配され始める。その支配率が増えるに従い、席を立つ生徒達も増え始める。まあ、この辺りで席を立つ連中が終わらせているのは課題ではなく、やる気と言う奴。後で泣く事になるのは誰もが理解しているのだが、空腹という奴にはあがなえない。
「…………」
 そんな中、一人黙々とキーボードを叩く女が居た。
 飲食店でバイトしてるくせに頭がまっキンキンな女子大生、今回の主役、吉田貴美嬢だ。三度の飯よりもヤオイ漫画が好きとか、その中でもショタ系が大好物とか、その歪んだ性癖をクラスの女子全部に広めたお陰で、工学部数少ない女子は全部腐ったとか、結果付いたあだ名が『腐ったリンゴ』だとか……そう言う女性なのであるが、いまの彼女からそれらの事をうかがい知る事は難しいだろう。
 彼女の十本の指は一秒たりとも止まらず打鍵し続ける。瞳はモニターを睨みつけ、そこの中で流れ出されるプログラムを凝視する。声を掛ける事すらはばかられる集中力だ。実際、隣にいる恋人など少し前から作業を止めているが、未だに声を掛けられずにいた。
 そんな時間が十分少々、終わるときは唐突に終わる。
 電光石火の素早さでUSBポートからメモリを引っこ抜いたかと思うと、椅子をも倒さん勢いで立ち上がる。
「出来た! じゃあ! なお! 後! よろしく!!」
 取り残されるのは彼女の最愛の恋人と教科書やノート、レポートなんかが詰まったカバンと財布や携帯の入ったハンドバッグ。これらを持ってアルトまで来ること、それが彼女の言う『よろしく』の内容だ。
「……ハンドバッグまで置いていくのに、何でUSBメモリは置いていかないんだろうな……?」
「……コピーされたくないんでしょうね……僕らに」
 お隣さんと恋人の会話に見送られ、実習室から飛び出す。廊下は他の教室や実習室から出来た学生達でごった返しているが、それを華麗なステップで避けて走る。目指すはエレベータではなく、階段。いままでの経験上、エレベータを待っているよりも階段を駆け下りた方が早い事が解っているからだ。
 三階から二階、二階から一階……階段も無人というわけにはいかないが、廊下よりかは随分と少ない。それにこの時間の貴美の全力疾走は、そろそろ大学の名物になりかけているので、
「どいて! どいて! どいてぇぇ!!」
 と、叫びながら走ってれば、自発的にどいてくれる人が多い。
 最後の三段は一気に飛び降りて、一階に到着。目指すのは正面玄関ではなく裏口。そこから出ると、二研のバイク置き場がある。
 大学から二キロ圏内に住んでいる者のバイク、自転車、車等での通勤は禁止されている。勿論、大学から徒歩数分のアパートに住んでる貴美に徒歩と自転車以外の通学手段など許されては居ない。
 だがしかし、二研が玩具にしているバイクを借り受けることまでは禁止されていない。『通学じゃなく、大学からアルトに通勤するのに使っているだけ』というギリギリ以下の言い訳だ。勿論、そんな言い訳が認められているわけではない。ないが、大学の職員にもアルトの常連は多いので目を閉じて貰っているだけというのが現実だ。
 ピンクナンバーのスクーター、そのシートの下に鍵を突っ込むとメットボックスが開く。そこに押し込められた『二研!』とデカデカと書かれた半キャップ、それをすぽっと金色の頭に被せる。それからセルモーターはとっくにぶっ壊れているのでキックを使ってエンジンを始動させる。
 数回、キックを蹴っ飛ばすと二研廃人仕様のアドレスV125のエンジンに火が点る。二研廃人仕様と言うだけあって非常に癖が強くて乗りにくい。アクセルを少し空けすぎればフロントが浮かび上がりそうになるし、閉じすぎれば止まっちゃう。ピーキーな設定という奴だが、慣れると早い。浮かび上がりそうになるフロントを体重で押さえ込んで、一気に加速。あっという間に制限速度ギリギリの60キロまで上げて、国道を爆走。タイヤが滑りそうなほどの勢いで喫茶アルトの駐車場、良夜のジムニーの横に滑り込む。
 バイクのエンジンを止めると、勝手口から店内に入る。入ったところにはカラーボックスが一つと、その上にはタイムカード。ガチャンと押して、借り物のヘルメットもカラーボックスに押し込む。後は、ポケットの中にねじ込んであった蝶ネクタイを締めれば準備完了。なお、元は事務所の方にあったタイムカードがここに移動したのは、貴美が事務所に入る時間を惜しんだから。
「おはよっ! フロアの方、どう!?」
 大声で声を掛ければ、答えるのは美月だ。
「そろそろ、忙しくなってるみたいです」
「りょーかい。さあ、働いてやんよ!!」
 パンパンとほっぺを叩いて、彼女はフロアに躍り出る。
 フロアにはすでにランチの第一陣が到来しているようで、凪歩はすでに右往左往。バタバタと足音を立てて客を捌いている姿には、滞っている様子こそないが、余裕があるようにも見えない。
「いらっしゃいませ、ようこそ、喫茶アルトへ。お二人様ですか?すぐにお席に案内します」
 早速一組のカップルを隅っこの席へ。案内したら、キッチンに戻ってお冷やとおしぼりの用意。ついでに出来上がっているランチセットを一人前持って、フロアに戻ると順序よくそれらを届けていく。どちらも届け終えたら、注文が決まった風な客を探しだし、そこに顔を出す。
「ご注文はおきまりになりましたか?」
 上品な言葉でそう尋ねて、注文を承る。それをキッチンに届けたら、帰り道ではカウンターで和明が煎れたコーヒーを受け取り、目的のテーブルへと運ぶ。その間もお冷やのグラスが空になってるところがあれば注ぎに行ったり、電話が鳴れば受け取ったり……
 他にも……
「りょーやん、今日も来てないよ」
 と、美月に教えて上げるのも大事なお仕事。結果、美月がバッテンの並ぶカレンダーにまたバッテンを付けて、目を釣り上げさせていたが、とりあえず、スルー。あの青年もそろそろこっちに顔を出さないとヤバイと言う事くらいは理解しているだろう。
 そんな感じでキッチンとフロアとカウンターを行ったり来たり。勿論、帰ろうとする客が居れば率先してレジに入って、その対応。一秒たりとも休むことなく、彼女は働き続ける。その足は随分と早く動いているのに、決してバタバタしているようには見せず、急いでも慌てず、落ち着いた動きでテキパキと仕事をこなしていく。
 そして、ある程度客が落ち着けばキッチンの片隅でまかないを手早く食べる。今日はたらこのスパゲッティ。メニューにはないがまかないでは良く出てくる定番メニュー。飲み物は貴美専用まともな人間が一口飲めば脳みそまでもが蕩けるともっぱらの噂の甘ったるいアイスカフェオレ。これを一気に飲み干したら、お昼は終了。
 その後も、直樹が一足先に大学に帰るのを見送り、自身はギリギリまでアルトのフロアでお仕事。来た時と同様にバイクをかっ飛ばして大学に帰ると、午後一番の授業に滑り込む。
 ここまでがランチの部。しかし、彼女の一日はこれで終わりではない。
 昼からの授業が終われば、さらにバイト。夕方からの時間はランチタイムほど忙しくはないが、客が途切れれば伝票を整理したり、お持ち帰り用の箱を組み立てたり、リボンで飾りの花を作ったりと、探せばやることは山盛りだ。
 さらには、アルバイトが終わって帰れば、直樹が帰ってくるまでに食事を作って、お風呂を涌かして、自身の課題をやって……直樹が帰ったらあれこれとしゃべりながら食事を頂く。その後は心の癒しの時間。薄っぺらい割に異様に高い自主流通本をにやけながら読んで、ネットの腐女子掲示板を読んだり、書き込んだりする。その至福の時間が堪能したら、明日のために眠りに落ちる。
 ちなみに休みは週に一度だけで、その週に一度の休みはたまってる洗濯を片付けたり、部屋の片付けをしたり……
 はっきり言うと、最近の貴美は恐ろしく忙しい。
 そもそも、凪歩を育てたら昼のバイトに入らないようにするというのが当初の予定だった。しかし、春から始めたディナーが思った以上に評判が良かった。その事がローカル雑誌や新聞の地方欄なんかにも取り上げられるようになったせいで、昼のランチ客やコーヒーだけを飲みに来る客も増えた。おかげさまで、授業が結構難しくなってきた三年後期になっても貴美は、オートモードを交えながら喫茶アルトで八面六臂の大活躍中。
 その上、同棲相手は家事が全面的にペケだからと、その全てを一手に引き受け、手出しを一切させない徹底ぶり。先日、ちょっとした用事でタカミーズの部屋を覗いたら、床が光っていたのには仰け反るほどに驚いた……とは良夜談。ワックスを掛けたらしい。良夜なんて、水拭きもやったことはない。
 と、こんな感じなのだから、普通の人間は同居人がダラッとしていればイラッと来そうなものだが、貴美はそうはならない女だった。
 むしろ――
「私は今、超頑張ってる! 超出来る女!!」
 とか、思い込んでテンションは上がり放題。忙しければ忙しいほどテンションが上がる仕様は、社畜には持って来いだ。

 そんな貴美の様子に
「凄いもんねぇ……」
 と、喫茶アルトに住まう妖精さんは素直に感心していた。
「と言うか、この店、貴美がひっくり返ったら機能不全になりそうで怖いのよね……」
 そう言ってアルトは良夜の顔へと視線を上げる。今日は久し振りの来店、まあ、美月へのご機嫌伺いと言ったところ。後はたまにはアルトで昼飯でも食べないと朝昼晩とわびしすぎる食事になるからって理由もあったりする。
 そんな良夜はアルトの下から投げかけられる視線を、顎の下辺りに感じながら、良く冷えたアイスコーヒーを一口コクンと喉の奥へと流し込んだ。冷たくて芳ばしい香りがゆっくりと下りていくのを喉の下辺りに感じるのが心地良い。
「意外とそうでもないよ。居なくなったら、居なくなったでなんとなく、店は回るもんだよ」
「あら……随分と大人びたことを言うのね? ちょっとびっくり……」
 目を丸くする妖精に青年は苦笑い。ちょこんと彼女の額を突いて、口を開いた。
「バイト先の主任が胃潰瘍で入院したんだよ。不景気で人が減らされてるところにそれで、わっ、大変だ! と思ったら、意外とそれなりに店は回ってるんだよな、不思議と」
「なるほど……経験者って訳ね?」
「伝聞だよ。夜はそんなに大幅に変わったわけじゃないしさ」
「ふぅん……じゃあ、ひっくり返るまで働かせて置けば良いわね……」
「……冷たいよ、お前……どうせ居なくなるなら、倒れる前の方が良いだろう?」
「私には関係ないわよ……って所なんだけど?」
「……お前なぁ……」
 アルトがつーっとそっぽを向くと、さすがに冷たすぎる言い分に青年の眉がへの字を描いた……
 のを確認するかのように、くるんとアルトの顔がこっちを向く。そして、小さな唇がよどみなく動き、美しいソプラノの旋律を奏でた。
「でも、貴方が貴美に何か言うのは自由よ? ひっくり返る前に、ひっくり返らないように」
「……お前なぁ……」
 底意地悪そうな笑顔を斜め上から見下ろし、青年はポリポリとほっぺたを引っ掻く。
「勿論、貴美がひっくり返っても貴美の自己責任って奴でしょうけど……解ってたのに倒れちゃうって言うのは、ヤな気分になるわよ? いざって時に」
 紡がれるソプラノの声に青年の眉と眉の間にますます深い皺が刻み込まれる。勿論、それは先ほどまでとは全然違う理由だ。
「……ヤな奴だな、お前」
「褒めてくれてありがと」

 と、言われたものの、正直、良夜は貴美に何かを言おうかという気にはなっていなかった。しっかり者で計算高いところのある貴美が倒れるまで働くというシーンがどうしても想像できなかったからだ。本当に倒れでもしたら、その時にでも考えれば良い、それが良夜の偽らざる感想だった。
 が、しかし。
「ちょっと……良いですか?」
 直樹がそう言ったのは、ある日のお昼過ぎ。珍しく直樹と二人揃ってアルトに顔を出していた時のことだった。お互いにレポートの制作やら直樹には二研の会合やらで二人揃っての「アルトへのご出勤」というのはちょっぴり減り気味。この前、二人揃ってアルトに顔を出したのは四日か五日くらい前の話だったはずだ。
「なんだ?」
 と答えながらも、良夜はなんとなく、貴美のことだろうという察しが付いていた。そう言うのも、ついさっきまでこの辺りをうろちょろしていた貴美が、レジで伝票整理を始めた途端に言いだしたからだ。これで別の話題なら殴ってやる。
「実は吉田さんのことで……」
 と、思ったら真顔でこう言ってきたので、内心、ぶん殴る理由が消えて、良夜は若干悔しかった。
「ふぅん……さすがに直樹も気にはしてたのね……」
「……――と、アルトが言ってる。まあ、あの人、働き過ぎだろう?」
 そんな内心は心の棚の奥に片付けて、アルトの言葉を直樹に告げれば、直樹はぺこりと頭を下げた。
「なんとか、言ってやってくれませんか?」
 深々と頭を下げる直樹に、青年はため息一つ。
「自分で言えよな……」
「言いましたよ!」
 そう言って、直樹は顔を上げた。

『だって、なお、なんにも出来ないんだから、私がやるしかないじゃんか』

「って、言われまして……」
 予想通りな発言に良夜は思わず頭を抱える。
「切れ気味に言われればこちらも逆ギレして喧嘩の一つも出来るんですが……眉一ミリ動かさずに言われると、ごめんなさいって謝るしかなくて……」
 説明して直樹も頭を抱える。
 そして、俯いたままで二人は盛大なため息を突いた。
「「はぁ……」」
 そして、妖精が呟いた。
「……もう、死ぬまで働かせなさいよ……」

 んでもって、翌日の夜。その日は土曜日で美月のお仕事と良夜のアルバイトはお休み。美月とちょっとドライブに行った後は、アルトで閉店までダラダラ。その後は貴美と肩を並べてアパートに帰って、自室の前でさようなら……――
 とは、しなかった。
「ちょっと話があるんだけどさ……」
「悪いけど、りょーやんの気持ちには応えられんよ?」
「……いや、さっきまで美月さんとドライブに行ってたばっかだし、吉田さんのバイトの話」
 言うと貴美はジトッと良夜の顔を見詰めた。半開きの瞳がじーっと青年の顔を射貫く。なんだか気恥ずかしい物を感じること、三十秒。ふいに彼女は視線を逸らした。そして、彼女はバツが悪そうに自身の金に近い髪をバリバリと掻いた。
「なお? それともアルちゃん? もしかして、店長?」
「……アルトと直樹。店長は放任することにしてるみたいだ」
「……なる」
「直樹も居ない方が良いだろう? あのバカの生活の面倒も立派な重荷になってんだしさ」
 言って貴美が部屋の鍵を開けるのを待つと、青年は一緒に彼女の部屋に入った。
「変な事したら、速攻、美月さんにちくるかんね?」
「するか! ボケ!!」
 先に貴美が上がり冗談めかした口調で言えば、青年は怒鳴り気味にで応え、同じように靴を脱いだ。
 相変わらずというか、普段以上に美しい部屋だ。カラーボックスやパソコンデスク、セミダブルのベッド……ぴかぴかに磨かれた床にはイ草のラグが引かれている。二人分とあって、良夜の部屋よりも荷物は明らかに多いはずなのだが、それらを上手く配置しているためか、雑然とした印象は抱かせない。
「はあ……長くなっかなぁ……晩ご飯は久し振りにコンビニ弁当で良いか……」
 独り言のようにいって、貴美は携帯電話を弄くり始めた。直樹にメールでも入れているのだろう。青年はこたつから布団を引っぺがしただけの座卓の前に座り、それを見るともなしに見上げていた。
 そのまま、待つこと一分少々……
「――お待たせ……無理しすぎだって、話っしょ?」
 そう言って、貴美は冷蔵庫から缶ビールと6Pチーズの箱を取りだす。
 そして、目の前へと移動し、座卓の向こう側へと座る貴美を目で追い、座るのを待ってから青年は言った。
「……解ってんなら、言われる前に改めれば?」
「……解っててもやんなきゃいけない時期ってあんだよ?」
 缶ビールのプルタブを起こし、彼女はグビグビと喉を鳴らしてビールを流し込む。それが座卓の上に戻されるのを待って、青年は言った。
「直樹は心配してたし、アルトすら若干心配してたぞ? まあ……美月さんもべったり頼りっぱなしなのはさ、俺も解ってるけど……」
 そう言って青年は嘆息した。
 今日のデートの最中、良夜はそれとなく――もっともアルトに言わせると話題の振り方があからさますぎらしいが……ともかく、美月にこの話を向けてみた。
 で、結果、美月も頼りすぎているという自覚はあるが、和明も腰を痛めて余り無理をさせたくない事もあって、言えずじまい。頑張ってくれるなら、頑張って貰っちゃおうかなぁ……で、今に至っているらしい……と言う事を、良夜はなんとなく聞き出せた。美月のこういう態度もどうかと、青年自身も思うのだが……
「まあ、美月さんは良くやっとる思うよ? フロアも忙しいけど、キッチンはもっとだしさ……」
「あの人は大学に通ってないけどな……もうちょっと寺谷さんと時任さんを信じてあげれば? 美月さんにも言ったけどさ……」
「そりゃ……さ……普通の店だったら普通に働ける程度のウェイトレスだとは思うけど……今は忙しいし、それに、今が大事なんよ? 新聞や雑誌に取り上げられて客が増えてるけど、ちゃんと対応しなきゃ、すぐに居なくなっちゃうんだから……」
「そう言う事は、バイトが考える事じゃないって……美月さんや店長、新人の正社員、それとおまけでアルトのアホが考えることだって……」
「まあ、それも……解ってんだけどさぁ……やっぱり、周りがあんま、ピンと来てないみたいだから、どーしても私がって思うんよ」
 変なところで真面目すぎる貴美に良夜の顔が苦虫を噛んだように歪む。だいたい、そういう話、美月すら考えてるかどうか怪しい。和明やアルトにいたっては元のままくらいがちょうど良いとか思っていそうなのが怖い。
 ひとまず、もう一度溜め息。
 それに合わせるかのように、貴美はビールをグビグビと飲み飲み干す。そして、チーズを一かけ……口に含んで飲み込むと、彼女は色っぽい吐息を一つこぼした。
 そして、貴美の握った空き缶がベショッと握り潰されるのを待って、青年は辺りへと視線を巡らせた。
「……この間、二時間くらい、床の目地に爪楊枝突っ込んで、中から埃とか汚れとか掻き出してたんだって?」
 青年の質問に貴美は新しいビールを開きながらに、口を開いた。その笑顔はやりきった者だけが作ることが出来る眩しい物。
「ああ、うん、やった、やった。家具とかどけずにやったから、意外と早くすんだよ」
 嬉しそうに言う言葉に青年の唇から溜め息が零れる。いくつめになるかも解らない溜め息、きっと、可視化できたらこんもりと山になっているに違いない。
「……直樹が、その姿が怖かったって言ってたぞ……」
「………………マジ?」
「………………マジ」
 コクンと良夜が頷くと、貴美の表情が凍りつく。
「それで、こりゃ言わなきゃマズイと思って言ったら、眉一ミリ動かさずに、直樹の家事ベタや直樹の借金が二桁万円も大きく越えてることとか今年は二年に一度の車検の年だとか、切々と語られて、二の句がつげらなくなったって言ってたぞ……借金ったってどうせ、吉田さんが直樹に貸してるだけだろう?」
「まあ、そうやけどね……でも、金、いるっしょ? うち、400のバイクが二台あって、それが毎年同じ月に上乗せ保険の請求が来て、今年は私のシルバーウィングが車検だし……稼いでないと破産するって」
「……どうせ、溜め込んでるくせに……」
「何言っとん? 貯金通帳の残高は巨大な石を押して坂道を登るんと同じなんよ? 上がる時は死ぬほどしんどいけど、下がる時はあっという間に海抜ゼロメートルを切っちゃうんやかんね!?」
 開けたばかりの缶ビールをパン! と音を立てて、貴美はテーブルの上に叩きつけた。ピシャッと飲み口から黄金色の液体が飛び出し、貴美の白い指に飛び散る。
「……毎晩晩酌するの、止めたら……?」
「週一で休肝日は取ってんよ。それになぎぽんほどじゃないけど、りょーやんよりかは強いかんねぇ?」
「何処のおっさんだよ……」
 と、言って青年はため息を突く。ついてそのまま、テーブルに肘を突いて辺りを見渡す。妙に美しい部屋の中、カラーボックスが部屋の片隅に二つ。そのうちの一つ、ハムタカ君の住まう衣装ケースが足下に置かれている方に視線を固定。それの中身はここからでも十分に理解することが出来た。
 出来たので、青年は指をゆっくりとそちらの方へと向けて言った。
「……じゃあ、あのカラーボックスに詰まってる薄っぺらな割に恐ろしく高い十八歳未満お断りの自主流通本とか、買い込むの止めたら?」
 言った途端に貴美の握っていた缶ビールが気絶する……泡吹いてるってこった。その気絶したビール缶がテーブルの上に叩きつけられる。その勢いと言ったら、天板をも叩き割ろうかというような勢い。
 そして、叫ばれる一つの言葉。
「アレがなかったら! とっくに何処かの崖から飛び降りてるわ!! ストレスで!!!」
 そして、二分の沈黙の後、青年は言った。
「……うん、仕事、減らせ」
「……うん、減らす」
 意外と簡単に話は決まった。

 そして、その日、土曜日は終わった。
 次の日は日曜日。それは貴美の週に一回のお休み。朝からバタバタと掃除をしたり、洗濯をしたりと、忙しそうに家事にいそしんでいるのに、良夜は気付いていた。
 そのさらに翌日、月曜日。
 その日は週の始まり、憂鬱な日。その日、貴美はバイトを休むことを美月に伝え、そして……
「……何で、あんな所に居るんだよぉ……」
 凪歩の繊細な胃袋がきりきりと痛んだ。
 なぜなら、彼女はその背後にジーンズ生地のホットパンツに同色のGジャンというセクシー目の姿をした貴美の視線を感じているから。
「店員さん、モーニング、お願いしま〜す」
 カウンター席の片隅から声が聞こえる。
 その声が凪歩の胃が悲鳴を上げる。
「……授業が始まるまで、授業が始まるまで……」
 モーニングの注文をキッチンに伝える……間も凪歩はお念仏のようにその言葉を唱える。
 も、彼女は知らなかった。貴美が今日一日、ここに座っているつもりだと言う事を……

前の話   書庫   次の話

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