喫茶アルトのお仕事(1)
ミスを一切しない人間……なんて居ない。人間はミスを犯す生き物だ。そして、そのミスの内容と頻度には個性が出るという物。例えば、凪歩などはスティックシュガーや紙ナプキンと言った消耗品の発注を忘れちゃうと言ったような比較的ありがちなミスをたまにやる。もっとも、完全になくなる前に貴美が気づくから、大事になることは少ない。一方、美月は滅多にミスをしないがやる時は変な事をやってしまう。冷蔵庫の中に押し込んでいたマーマレードにカビを生やした挙げ句、それを流し台の下に押し込んだまま忘れ去り、すさまじいことになったというのは、発覚から数ヶ月経った今でも語りぐさ。完璧超人みたいな顔をしている貴美だって、年に数回くらいは小さな声で「あっちゃぁ……」と呟くこともある。
そして、今回、ヘマをやっちゃった彼女――寺谷翼さんもその頻度は決して多くないがたまーにミスを犯してしまう。
「……」
九月、長かった夏休みもようやく終わったある日のランチタイム。翼は無言のまま、オーブンの前に佇んでいた。
その背後では黒髪を振り乱して縦横にかけずり回る美月や、キッチンに飛び込んではランチの載ったトレイを運び出す凪歩、その凪歩を「走るな!」と怒鳴りつける貴美の姿なんかもあって、騒然としていた。
で、その騒然としているキッチンの中、翼は呆然とオーブンの前に佇んでいた。
「……どうしよう……」
呟かれる小さな言葉。
そして、小さな手がオーブンの扉へと伸びる。その手の動きは恐る恐るという効果音がぴったりの感じ。伸びては止まり、引っ込み、また伸びる。そんな事を繰り返すこと数回。
「どーしたんですか?」
「ひっ!?」
背後から掛けられる美月の声、それに翼がビクン! と過剰に反応すると、声の主が「ふえ?」と不思議そうに翼の顔を覗き込んだ。
「幽霊でも見ました? 夏の昼間に出てくるとはなんと図太い幽霊さん……」
「……そんなわけ、ない」
真顔で小首をかしげる美月に、翼は無表情ながらもきっぱりと否定。すれば美月はますます小首をかしげてしまう。
「じゃあ、どうしたんですか? それよりもオーブン、何か……――あっ、そう言えば、ミックスグリル……随分前に頼んだと思いますが……?」
「……あっ……うん……」
「もしかして、それ、出来てます? 結構、掛かっちゃいましたね?」
そう言って美月は迷うことなくオーブンの扉へと手を伸ばした。音もなく開かれるオーブンのドアと「あっ……」と小さく開かれる翼の唇。
そして、開いた中からトレイを取り出せば、みるみるうちに美月の顔が苦笑いへと変わっていく。
「……これは見事な燻製ですね……」
言って美月は翼にトレイを見せる。そこにあるのは、パリパリに干からびた鶏胸肉としわしわになったポークウインナー、付け合わせのポテトと人参も真っ黒焦げ。翼の予想通りというか、予想以上というか……
経緯を話せばどうという話ではない。簡単に言ってしまえば、忙しさの余り出来上がったミックスグリルを取り出すのを忘れていただけのこと。オーブン自体はタイマーが着いているので火その物は消えていたのだが、余熱の残るオーブンに長く入れっぱなしになっていれば、こんな風にぱりぱりに干からびてしまう。
「ごめんなさい……」
深々と頭を下げる翼に、黒髪の上司はニコッと笑って言葉を投げかける。
「ああ……良いんですよ。これくらいなら……」
その言葉に翼は「えっ?」と顔を上げる。
「良夜さんが気にせず食べちゃいますから」
そして、実際、それは良夜が美味しく食べちゃうのであった。
さて、その日の夜、いつもの反省会。明かりを落としたフロアは薄暗い。しかし、女性ばかりが四人(アルトを含めれば五人)も一つのテーブルを囲んでいれば、その暗さを感じさせない物がある。しかも、今日は売れ残りのケーキが四つ。喜ぶべき物ではないが、嬉しくないと言えば嘘になる。その四つのケーキと良く冷えたアイスコーヒーを囲めば、スタッフ達のテンションも自然と高止まり。
そんな中、翼だけは一つの思いを持ってこの場に望んでいた。
「フロアは問題なかったやね……なぎぽんも今日はよく働きましたっと……」
「今日は、じゃなくて今日も、だよ。ここしばらく、ミスらしいミスはしてないもん」
「バタバタ走り回ってるのをミスの内に入れなきゃね?」
「いっ、入れない方向で……」
「入れたらいつもバタバタしてる私は大変なことになりますよ〜」
貴美、凪歩、美月の笑い声混じりの会話が、俯く翼の上を行ったり来たり。その下で翼は閑かに黙って、自身の前に置かれたベイクドチーズケーキを眺めていた。
仕事終了後の反省会と名付けられた茶会は、実際の所は一日お疲れさま、甘い物でも食べてダラッとしてから帰ろうか? の会だ。ただ、反省会の名の下、ミスをした誰かがさらし者になることもある。概ね、凪歩の場合が多いのだが、貴美の話が出る時もあるし、美月のカビ培養事件は春先に発生した物ではあるが、未だに時々、話題になる。
しかし、翼は今のところ一度も話題に上がったことがない。勿論、翼がこの数ヶ月、ミスをしていないというわけではない。レシピの読み間違いで下ごしらえを失敗したこともあったし、振り向いた拍子にフードプロセッサーを落としてぶっ壊したと言う事もある。なのに、彼女がこの場でさらし者になった事はない。
なぜか? それは凄く簡単。 美月が言わないから。
「ハイハイ、じゃあ、入れない方向でね? んっと、それでキッチンの方は? 問題、なかった?」
賑やかな笑い声の後、貴美が問えば、美月はきっぱりと短めに答える。
「問題、なかったですよ。今日も一日、ご苦労様でした」
美月の言葉はいつも定番の物。美月がこの一言をいってぺこりと頭を下げるのが、この時間の風物詩だ。入社以来、この場でこれ以外の言葉を聞いたことがない。
「んじゃ、ケーキ、食べて帰ろっか?」
貴美がそう言えば、反省会は名実共にただのお茶会へと移行する――
――はずだった。
「……チーフは甘い……と思う」
翼がポツリと言った言葉は、その日の反省会を随分と長く引き延ばすことになった。
ミックスグリルを失敗した翼が、最初にやったのは、良夜の所に交渉に行くことだった。その日、良夜が注文していたのは日替わりランチだ。その注文をキャンセルする代わりに、この干からびたミックスグリルを美月のと言うか、店のと言うか、ともかくロハで提供するという話。まあ、半年近くも交流がある上に、曲がりなりにも一緒に泊まりの旅行までした相手であるから彼が二つ返事で承諾することはなんとなく察しが付いていた。
「あっ、良いよ」
案の定、青年はそう答える。それどころか――
「らっき〜今月、きつかったんだよなぁ〜」
と、むしろ嬉しそう。
「……ごゆっくり……」
呟くように答えてキッチンに戻る。ミックスグリルを作り直したら、待たせているお客さんに頭を下げに行かなくてはならない。その事を考えると若干頭が痛かった……のだが、そっちの方はそっちの方で、説明して頭を下げたら――
「……レアな物見れたからいいや。気にしないで」
大学生らしき青年にそう言われた。
何がレアなのか、解るときっと腹が立つと思うので考えない……と思った時点で怒ってたのだろう。その顔を見た青年はこう呟いた。
「あっ……ゴメン」
なぜか、謝りに行って謝られた。
そんな感じでミスの後片付けをフロアで行い、キッチンに返れば、美月は自分の仕事に没頭中。翼にも他の仕事があったもんだから、美月に声を掛けずじまい。それ以降も取り立てて怒られたわけでもなければ、凪歩のように事務室で正座させられることもなかった。
翼は昼間にあったことを説明し終えた後、彼女はこう付け加えた。
「こう言うのは良くない……と、思う……」
「でも、結局、良夜さん、綺麗に食べちゃったんでしょう?」
「美味しかったって言ってたよ」
美月の言葉に応えたのは、良夜の会計を行った凪歩だ。会計をした時にお礼とその言葉を凪歩に伝えたらしい……と、その時の様子を皆に教え終えると、彼女は「あっ……」と、何かに気が付いたかのように小さな声を上げた。
「もしかしたら、社交辞令かも……? 奢りだし」
「「うん。それはないよ」」
凪歩の言葉に貴美と美月がきっぱりとした口調で否定。しかも、その上……
「あっ……今、アルトちゃんも私の指を二回突いた……」
そう言って、凪歩はテーブルの上に投げ出していた手を引っ込め、苦笑い。
「ほら、アルトだってそう言ってますよ。だから良いんですよ」
「……そう言う問題じゃ、ない」
「じゃあ……罰金でも払いたいんですか?」
「……そんなわけは、ない……」
「反省もしてるみたいですし、殊更怒るような物でも……そもそも、私、あまり怒るのは得意じゃないですし――」
「エグレ」
隣り合う席で美月と翼が話し合ってる最中、するりと滑り込んでくる一つの言葉。絶妙のタイミングであったから、翼はその言葉の意味を良くは理解出来なかった。
しかし、言われた本人はきっちりとその言葉の意味を理解したのだろう。ふわりと黒髪が大きく膨らみ、口元は笑っているが目は一切笑っていない表情を発言の主――貴美へと向ける。
「吉田さん、帰って良いですよ? 明日も来なくても良いですよ?」
「怒ってんじゃん。後、明日はともかく、明後日はなぎぽん休みだから、私が来ないとフロア、回らないよ?」
「ふえ? あっ、それは困ります……」
貴美の言葉に美月が思わず素に戻る。それに皆が声を立てて笑えば、またもや、美月の顔がふくれっ面になる。
で、
「この怒り方は違いますっ!! もうっ!!」
見事に怒った。
一同、ひとしきり笑ったり、美月をからかったり、ケーキとコーヒーを楽しんだり――
「翼さん、怒ってる?」
笑ってるつもりなのになんでか怒ってると、凪歩に思われたり……楽しい時間が十分ほど過ぎ去れば、美月の機嫌も一応は回復した。
そして、それに合わせるかのように、美月の向かいに座っていた貴美が居住まいを正し、口を開く。
「まあ、美月さん、仕事以外じゃちょくちょく怒ったり拗ねたりしてるけど、仕事ではミスっても怒らないかんねぇ……それはそれで欠点なんよ?」
「そうですか……? でも、苦手なんですよね……」
「でもね、これでなーなーにしてたら、また、同じ事、やるよ?」
「……もう、しない」
翼が答えると、貴美はクスッと小さく笑って翼の方へと視線を向けた。
「つばさんがよく反省してんのは解ってんよ? でもね、頼まれた仕事を『後で』って言ったら、何回かに一回は忘れちゃうのは人間なんだもん、しかたない事だよ。だからって、頼まれた事、全部同時にしてたらそれこそミスするのがオチっしょ?」
貴美が一息に言い切る。言いきられた方には反論するだけの言葉の持ち合わせはない。そもそも、口数の少ない女だ。出来る事と言えば、
「んっ……」
と、小さく頷いてみせるだけ。
「返事は『はい』ね。んで、忘れるのはしかたないんだから、忘れても思い出すようにしなきゃ行けんわけなんよ。メモを書くとか、壁に貼ってある注文票をチェックするとか……そう言う事を考えた上で『もうしない』って言ったん?」
続けられる言葉、今度は首を左右に振って応える。その振られた首に貴美も頷き、三度、言葉を続けた。
「でしょう? じゃあ、これからはそういう風にして、忘れても思い出せるようにすんよ? あと、美月さんもつばさんに頼んだら頼みっぱにしないで、頼んだ事が終わったかどうか、時々、確認するんよ? なぎぽんも、出て来ない注文がないかとか、ちゃんと確認しなよ? と、言うわけで、今日のミスは私も含めて、全員のミスなんよ? 解ったら、みんな、気を付けな」
そこまで言って貴美はパンパンと二度ほど手を叩いた。それは終了の合図のようだ。居住まいを正して話を聞いていた凪歩も肩から力を抜いて、残っていたコーヒーに口を付ける。
そして、ポカンと口を開いて呆然となるのが美月と翼。
「なんよ……?」
「吉田さんが真面目な話、した……」
「……いや、私だって、注意する時はちゃんと注意するし、なぎぽんにだって、こんな風に説明してんよ?」
翼の言葉に貴美は苦笑い。
「『凪歩、正座』から始まるけどね?」
その隣で凪歩が茶化すと、その後頭部に貴美の拳がうなりを上げてたたき込まれる。テーブルに叩きつけられる凪歩の額、その後頭部に肘が落ちてくれば、その下で凪歩がいくらもがいたところで逃げ出す事あたわず。
「くっ、くるし〜〜ごめんなさい、冗談、冗談だからぁぁ〜〜」
ジタバタと足掻くポニテの上に顎を置いて、貴美は翼に笑いかけた。
「まあ、このバカみたく、一週間と空けずに怒られるってのはともかく、たまに怒られるんも人生経験だから、あんま、気にせんとき?」
「……んっ……――あっ……はい」
「あはっ、説教は終わってっから」
「んっ……」
笑みを浮かべる貴美に翼が小さく頷く。
それに満足したのか、貴美も軽く頷き視線を動かした……相変わらず、凪歩の上で。その凪歩はもう諦めたのか、ぴくりとも動きはしない。
「それと……」
そう呟いて動かす視線の先には、きょとんとした表情の美月がいた。
「はい?」
「いや、『はい?』じゃなくて、こんな風に教えるんも、上に立つ人間の仕事だって……解っとん?」
「……えっと……ほら、私、バカなので……そう言うのは吉田さんに任せようかなぁ……って」
「……そんなんじゃ、私、いつまで経っても辞めれないじゃんか……ちゃんとしてよ? マジで」
「えっ……辞めるつもりだったんですか? てっきり、一生、誰かを倉庫で正座させているのかと……」
美月がそう言った瞬間、場の空気が凍りつくのを翼は感じた。
で、翌日……
「んで、どうなったんだ?」
ランチタイム、今日はちゃんと成功してる日替わりランチ――サラダと冷製スープ付きペペロンチーノを突きながら、良夜はテーブルの上で同じくパスタを突いてるアルトに尋ねた。
「じゃあ、今夜はあんたを正座させてやる! って言われて、倉庫に連れて行かれて、コンコンと三十分、お説教させられてたわよ……」
「大変だなぁ……」
「どっちが?」
「……どっちも」
尋ねられて考える事三秒、答えるとアルトは肩をすくめてストローを良夜の方へと向けた。
「それは彼氏の欲目ね。貴美の方に決まってるじゃない。美月に論理的な説教とか無理だもの……感情任せにキレまくる事くらいなら出来るでしょうけど」
「迷惑な思い出し怒りとかするもんなぁ……割とどーでもいい話で……」
そこまで言って良夜の言葉が止まる。思い出すのは年上のはずなのに年下にしか思えない彼女の事。そー言えばあんなのでも一応、この店では管理職なんだなぁ……と青年は思う。思ってしまうと、ふと、気に掛かる事が一つあった。
「どうしたの?」
沈黙する良夜にストローをフリフリ、アルトが声を掛けた。
そのアルトの方へと視線を落として、青年は答える。
「……この店、大丈夫かなぁ……って思ってた」
青年が言うとアルトも三十秒ほど沈黙。その三十秒の間にみるみるうちに血の気が失せていき、表情が凍りつく。そして、絞り出すようにひと言……
「……和明、長生きして貰わないと困るわね……」
と、思ったのはアルトただ一人ではなかったようだ。
「店長、もう、腰やばいんだから、そんな事、私がするって」
配達されたコーヒー豆を倉庫に運ぼうとしていたら、貴美が持って行った。
「……煙草……減らした方が良い、と思う……チーフには言わないけど……」
キッチンの裏、美月が下ごしらえをしている隙にパイプを吹かしていると翼がこんな事を言いに来た。
「店長、これ、お父さんが飲んでる健康ドリンク、効くんだって。疲れが取れるよ」
そう言って凪歩が高そうな健康ドリンクをくれた。
「ふえ……?」
美月だけは意味が分かっていなかった。