姉、再び（完）
　さて、こんな感じの小夜子さん。来た時も唐突だった彼女は、帰る時も唐突だった。
「じゃあ、ねーちゃん帰るから」
　彼女がそう言ったのは、良夜が皿洗いから帰ってきた時のことだった。
「家？　俺のアパートじゃなくて」
　そう答えながら、彼は紅茶ゼリーを二つ、テーブルの上に置く。皿洗いのお駄賃。二つあるのは勿論、小夜子の分も入っているから。なんで、席に座って景色を眺めてただけの人間にまでお駄賃があるのか、納得できない物が多々あるが、世の中こんなもんだ。
「ちなみに、良夜の分は私も突くので、もっと減るのよね」
　そう言って妖精はゼリーに取り付く。コイツも良夜が皿洗いをやってる間、ここで空を眺めてただけのはず。本当に世の中、納得できないことばかりだ。
「わっ、美味しそう。頂くね――そっ、武王が待ってる我が家」
「……どうぞ――それでいつ帰るんだ？」
「今日のお昼。長距離バスのチケット予約してるから」
　言われて良夜はゼリーを食べる手を止めた。小さなスプーンを口にくわえて上下にフリフリ……思案に暮れること、数秒……思い出すべき事を思い出すと、青年はスプーンをゼリーの皿の上に置いて言った。
「……あんた、来た時、二ー三日で帰るとか言ってなかったか？」
「ああ、それ？　嘘だよ？　最初から今日、帰るつもりだったの」
　パクパクと琥珀色のゼリーを口に運びながら、小夜子は悪びれることもなく言い切った。
　そんな姉に青年は――
「……そっか……もう、良いよ。好きにしてくれ……」
　とだけ言葉を返した。
「好きにするよ〜」
　顔も上げずに姉も答える。
　そのまま、二人と妖精はゼリーを無言で食べ続ける。もっとも小さなゼリーなもんだから、食べ終えるのもあっという間。そのあっという間が過ぎ、二つの皿から二つのゼリーが消え失せると、青年はきっぱりと言った。
「もう、くんな」
「冬にでも来るかなぁ……お父さんもお母さんも帰ってこないだろうから……」
「来るなって言ったじゃん？」
「その前に好きにしろとも言ったでしょ？　それに……――」
　と言って、小夜子は一旦言葉を切った。そして、視線がほんの少し動いて、テーブル中央、空っぽになったゼリーの皿へと向いた。
「クリスマスイブに席一つ、予約ね？」
　その皿に腰掛けていた妖精がぴし！　とストローの切っ先を小夜子に向けて応える。
「りょーかい」
「イブにかよ！？　って、アルトも速攻で了解するなよ！　ああ、もう、どっから突っ込んで良いのやら！」
　ふてくされ気味に良夜が言えば、アルトも小夜子も「あはは」と楽しそうに声を上げて笑った。その笑い声がますます青年の頬を膨らませる。
「まっ、来られるかどうかは怪しいけどね？　七割って所かなぁ……期待しないで待ってて？」
「来ないことを期待してる……」
「営業妨害してたら刺すわよ？　良夜」
「……――って言ってる。余計な口出ししないでくれない？　アルト」
「そうそう、営業妨害はダメよ？　りょーや君……っと、さてと、それじゃそろそろ帰ろうか？　悪いけど、車でバス停まで送ってくれる？　旧市街の駅前だよ」
「えっ？　昼からだろう？　早くないか？」
「バスの中で読む本、本屋で見繕うの。だから、美月ちゃんに挨拶、しておいで。帰る時はいつもしてるでしょ？　それとイブの予約もね？」
「はあ？　いや、そりゃ、確かにそうだけど……」
　いぶかしむ良夜相手に小夜子は「良いから、良いから」と半ば以上強制的に席を立たせた。
「……まあ……うん、じゃあ、ついでだから車、引っ張り出しておくわ……会計、済ませたら出て来いよ」
　そう言って、青年が席を外せば、取り残されるのは妖精さんと姉の二人きり……

　姉がアルトから出て来たのは、良夜が車を表に回して数分が過ぎた時だった。
「お待たせ。あっ、一度、アパートの部屋に帰ってね？　荷物、積まないと……」
「へいへい……それで、アルトとなんか話してた？」
　車に乗り込む姉に青年が尋ねると、彼女は「へぇ……」と感嘆の声を上げた。そして、視線が青年の横顔を覗き込む。
「さすがにわざとらしかった？」
「凄く……」
　苦笑を浮かべる姉に青年は少し投げやりな口調で応えた。さすがに察しが悪いと言われる良夜でもあんなやり方をされれば気が付くという物だ。そもそも、隠す気があったのかどうかすら怪しいさえ思う。
「秘密。女の子同士の話だよ」
「気になるよ……」
　話をしながら車を国道へ……古い上にオフロード車とあって車の中はエンジンやタイヤが道路を噛む音なんかがかなり響く。そこに良夜が部屋から持ってきた女性ボーカルが歌うＪ−ＰＯＰなんかが絡んでくると、車内は結構うるさい。それでも隣――助手席に座ってる女の声くらいは聞こえる物だ。
　その聞こえる言葉は単純なひと言だった。
「気にしないで良いから〜」
「気になるって……」
　車をアパートの駐車場へと放り込む。直樹や哲也がバイクいじりの作業スペースにしているところ。ガリガリと音を立ててサイドブレーキを引くと姉が一足先に車から降りた。
「着替えとか、結構、あるんだよねぇ……」
「忘れ物とかあっても知らないからな？　昨日のうちに言っとけば良い物を……」
「うーん、それはそうなんだけどねぇ……」
「なんだよ……？」
　言い淀む姉に青年は階段を上る足を止めて振り返る。
　一段下から弟を見上げて、小夜子はクスッと小さく笑った。
「名残が惜しかったから……って言ったら、信じる？」
「信じないよ」
　パチンとウィンクをする姉にため息一つ。視線を階段の上へと戻して再び、足を動かし始める。
「うん、信じないで良いよ」
　そして、姉も同じように良夜の後ろを着いて上がる。
　そのまま、階段を二つ三つと上がればそこは良夜の部屋のある階に到着。洗って干したままになってた服をトランクケースの中に姉が押し込むのに必要な時間は十分少々。それをベッドの上に腰掛け青年は待った。
「キャミの一枚くらいベッドの下に放り込んでたら、美月ちゃんがびっくりするかな？」
「アホな事は止めろよ……あの人は本気にするんだから」
　最後の一枚をトランクケースの中に押し込むと、小夜子が立ち上がった。
「これでＯＫっと……忘れ物があったらイブに来るから、置いてて」
「処分してやる……」
「売っちゃダメだよ？」
「売るか！　アホ！」
　真顔の姉を怒鳴りつければ、つけられた方は「あはは」と気楽に笑う。そして、彼女は弟よりも一足先に玄関から外に出た。
　その姉を追いかけるように部屋を出る。ドアに鍵を掛けるために向き直れば、当然、先に出た姉には背を向ける形になる。
　その背中がポンと一つ叩かれた。
「ん？」
「久し振りに楽しかったよ。ありがと」
　聞こえる言葉、鍵を閉めて視線を背後に向ければ、そこにはにこやかに笑う姉の顔。
「……なんだよ、藪から棒に……」
「うーん……別に？　一応、お礼、言っておきたかったから」
「ふぅん……」
「まっ、一応ね？　長く泊まってたから」
　そんな会話をしながら、姉弟は階段を下りた。そして、荷物を後部座席に放り込んで、新市街にある大きな駅に向けて車を走らせる。車内は相変わらず良く聞こえるエンジンとタイヤの音、女性ボーカルのＪ−ＰＯＰに、姉弟の会話。その愚にも付かない会話はした片っ端から忘れていくような代物。
　そんな時間が三十分ほども過ぎれば、大きな駅とその前にある長距離バスの乗り場が見えてきた。
「ああ、ここで良いよ。そこの本屋さん、ちょっと覗いていくから」
　その手前にある大きめの本屋、そこの駐車場に車を放り込む。そして、姉と一緒に荷物を下ろした。
「ありがと。じゃあ、りょーや君も体に気をつけてね。それと、友達は大事にね？」
「ねーちゃんもな。本、読み入るのも大概にしとけよ？」
「あはは、多分、無理かなぁ〜それは」
　自身の悪癖に姉は苦笑い。青年も軽く肩をすくめるだけで応える。そして、小夜子は
「それじゃ、またね」
　と言って、良夜に背を向けた。
「ああ、ねーちゃん」
　その背に青年が呼びかけると、姉は歩みを止めて首だけを弟に向け、答えた。
「なに？」
「次、来る時は毛布くらい持って来いよ？　次は冬なんだしさ」
　青年が言うと姉は一瞬、キョトンとした顔を見せ、そして――
「りょーかい」
　それだけ答えて再び本屋へと足を進め始める姉を見送り、青年はその場を後にした。

　そして、三ヶ月ほど経った冬のある日……青年の家に……――
　冬布団のセットがワンセット届けられた。
　もちろん、送り主はお姉様。
『イブ用』
　って姉の字で書かれていたのが向かっ腹が立った。

「弟と美月ちゃん、よろしくね？　あんなのでも大事な弟とその弟が選んだ大事な女性＜ひと＞なんだよ？　って事は本人の前じゃ言わないけどね？」
　小夜子はテーブルの中央、ゼリーのお皿に向けてそう言った。
　その皿の上、腰掛けていた妖精が小夜子を見上げて答える。
「りょーかい。まっ、あんなのでも大事な妹分とその妹分が選んだ大事な男だから……なんて、本人の前じゃ言わないけど」
　小夜子にその言葉は直接通じては居なかったが、そんな感じのことを言われたのだろうと言う事だけは通じていた。