姉、再び(4)
良夜はここ一週間ほど、ずーっと床で寝ていた。彼のベッドは彼のお姉様がお使いになっている。
初回訪問時に文句を言うと――
「一緒に寝たいの? しょうがないなぁ〜」
そう言って、姉はぺろんと肌布団をめくって見せた。その下にはダボダボのトレーナー姿。どう見てもサイズが合っていない。おそらくは良夜ですら楽に着られるサイズだろう。最初に見せられた時はこんな時まで……と思った物だが、「美月並」と称されるスタイルを気に病んでのことらしいと言う事も、今なら解る。変なところで可愛いところがあるなぁ〜と思ったり、思わなかったり。
もっとも、そんな物を見せられたからと言って、のこのこベッドに入ろう物なら何を言われるか解った物じゃない。そもそも、そんな気もない。第一、これ以上文句を言ったところで、最終的には「女の子を床で寝かせるんだ……」と言って泣き出すに違いない。そうなると面倒なので、毛布一枚、体に巻いて床で寝ている始末。
「……意外と寝れるもんだなぁ……」
ポツリと呟き、青年は体を起こす。硬すぎる寝床で寝た割には頭はすっきりしている。暑さ以外の寝苦しさもさほど感じなかった。その寝床から起きだし、ふわぁ〜と大きな欠伸を一発。
「おはよ〜」
掛けられた声へと視線を向ける。それは床に置かれたガラステーブルの前だ。そこにはテーブルの上に置かれた小さな鏡とにらめっこをしている小夜子の姿が合った。彼女の手元には小さなポーチが一つ。ファンデーションやら日焼け止めクリームやら……他にもなんか良く解らないけど化粧品が二つ三つ。
「おはよ……着替えてくる……」
昨日の夜に着ていたジャージはとっくに脱ぎ捨てられて、頭から被るようなポンチョと短パン姿。そんな格好でせっせと化粧をしている小夜子に声を掛け、青年はのっそりと立ち上がる。手にはジーパンと開襟シャツ。向かう先は風呂場。わざわざ、風呂場に行ってるのは姉のすぐ傍でパンツ一丁になるのは気が引けるからだ。姉自身も着替えは良夜がバイトに行ってる隙にするか、浴室でして居る……って、そこまでするなら、もう、帰れと思うのだが……
軽くシャワーを浴びて、パジャマ代わりのジャージからジーパンと開襟シャツに着替えて出てくると、姉も化粧を終わらせていた。
「じゃあ、ご飯、食べに行こうか?」
そう言って姉は立ち上がった。
姉が遊びに来たせいで弟としては非常に窮屈な生活をしているが、たった一つ、良い事があった。それは朝食がアルトのモーニングになったと言う事だ。勿論、姉の奢り。
「ねーちゃんは朝飯は和食派だと思ってたなぁ〜」
「それはお父さんだよ、お父さんが朝は味噌汁を飲まないとダメな人だから。最近はねーちゃんも朝はパンだよ。朝は余裕がないから」
家の鍵を掛けながら良夜が尋ねると、小夜子もミュールのホックを留めながらに答える。そして、青年が彼女の方へと向き直ると同時に顔を上げて、尋ね返してきた。
「りょーや君は? 相変わらず、朝は和食派?」
「強いて言えば和食派だけど、別に拘りがあるわけじゃないよ。夕飯に炊いたご飯が残るからそれを適当に食べてるだけ……残るべきご飯をねーちゃんが食べてるからだよ」
「多めに炊けば良いのに……」
「って、思ってたら、ねーちゃんが毎朝、アルトに連れて行ってくれてるんだよ。ごちそうさん」
そんな話をしながら階段を下って国道へと出る。
もう早朝とは呼べないが、十分に朝とは言える時間帯。しかしながら、八月の太陽の光はすでにまぶしさと熱さをはらみ、遮る物のない国道を歩く二人に容赦なく降り注ぐ。それはほんの数分も歩けばじっとりと汗ばむほど。
「奢ってくれるのは良いけど、アルトまで毎朝歩くのは結構辛いよな……」
「じゃあ、りょーや君がスクーターでジムニーを取りに行って、ねーちゃんを迎えに来てくれれば良いよ?」
「……イヤだよ、ねーちゃんが行けよ、スクーター貸すから」
「スクーターって怖いからぁ〜ああ、ねーちゃんのお肌が日に焼けて黒くなったら、りょーや君のせいだよ?」
「そりゃ、百パーセント、ねーちゃんの責任だよ……」
つーっと顎の下まで流れ落ちる汗を手の甲で拭いつつ、喫茶アルトまで十分に満たないお散歩。そう言えば、姉と二人で並んで歩くなんて何年ぶりだろう……と思い返してみる。小学校の頃には集団登校なんかでそう言う事もあったような気がするが、それ以降と言えばトンと思い出せない。
「どうしたの?」
良夜が考え事をしているのに気付いたのか、隣を歩く姉が声を掛けた。
「ん? いや、ねーちゃんと歩くなんて久し振りだったんだなぁ……って思いだしてた所」
その答えに姉はわずかに視線を逸らし、歩みを止める。
つられて青年も足を止めた。
そして、数秒……
「多分……昨日、アルトにモーニング食べに行った時……――」
「その辺は勿論、計算に入ってるし、それから前の一週間のもちゃんと覚えてるよ……」
ポツリと言った言葉に青年があきれ顔で言葉を返した。それに姉は無邪気な笑顔を見せると、もう一度、うーんと小首を捻る。
「それ以前は……小学校の集団登校かなぁ……? 男同士とか女同士ならともかく、姉弟だと、連れだって動く事も少ないよね?」
姉の言に軽く首を縦に振り、青年は再び歩みを始める。それを追うように姉も歩み始めると、喫茶アルトはもう目と鼻の先。
そこの駐車場に止まっている愛車を横目に見ながら、彼はカランとアルトのドアベルを鳴らした。
「あっ、浅間くん、それに浅間くんのお姉さんも、いらっしゃい」
ストゥールに腰を下ろしていた凪歩は立ち上がると、パタパタと音を鳴らして二人の元へと駆け寄ってきた。
「おはよう、時任さん。あれ……吉田さん、休み?」
フロアに居たのは老店長の他には凪歩が一人。居ると思って居た小柄な友人も明るい茶髪もそこには居なかった。
「はい。直樹くんと何処かにツーリングに行くって……今頃、高速じゃないかな?」
凪歩の答えに良夜は「ふぅん」と、気のない声で返事をした。
正直の所、そんなに興味があって聞いたわけでもないし、用事があったわけでもない。ただ、いつもある顔がない事に寂しさとまでは言えないものの、看過しきれない違和感という物を感じたから、尋ねてみただけ。
「夏休みももう終わりだから、最後に遊びに行ったんじゃないの? 私ももう一回、どこか行きたいなぁ……お金、ないけど」
凪歩の呟きは、最後の方には独り言のような物へと変わっていった。
「あはは……俺も金はないよ。じゃあ、モーニング、二つね」
「はぁい」
その独り言に返事。その上で注文すれば、凪歩は二つ返事とともに奥へと引っ込む。
そして、いつもの席に行くと、そこに居るのは妖精さん。テーブル中央に陣取ると両足を伸ばしてペタンと座り込んでいた。
「あら……おはよう。今日も脳天気な顔をしてるわね?」
相変わらずの憎まれ口になんと答えてやろうかと逡巡する数瞬。先に店舗側の椅子に手をかけた姉が口を開いた。
「アルトちゃん?」
「うるさいぞ、アルト……って……えっ?……ああ……よく解ったよな? テーブルの上にいるよ」
「視線の動きと表情の変化……りょーや君、アルトちゃんが居たら『面倒なのが居た』って顔、するから」
視線を椅子とテーブルに落としたままそう言うと、小夜子は椅子に腰を下ろした。そして、椅子の位置をちょうど良い場所に合わせると、テーブルの中央、ちょうどアルトが座ってる辺りに向けて言った。
「おはよう、アルトちゃん」
「おはよう、小夜子。今日も暑くなりそうね」
「……――って言ってる……って、お前、さっきと対応が違い過ぎんぞ?」
「気のせいよ」
睨みつけるも、妖精はサラッと受け流す。その態度に「チッ」という舌打ちだけを返して、青年も椅子に腰を下ろした。
「なんて言われたの?」
「脳天気な顔だと」
尋ねる小夜子に憮然とした声で返事をする。すると、姉は黙って弟の顔を見詰めた。そして、ひと言。
「ああ、確かにね……」
「うるせーよ、大きなお世話だよ、夏休みの大学生が脳天気で何が悪いよ!」
ぷちんと切れて声を荒らげた所で、二人はクスクスと楽しそうに笑うだけ。機先を削がれた気分で、浮かした腰を椅子の上に落ち着け直す。
「ったく……」
「からかうといちいち反応が面白いから〜アルトちゃんの気持ちも解るなぁ」
「ねーちゃんって、絶対、俺のことが嫌いだよな……」
そう言ったところで視線を逸らすと、そこに見慣れた黒髪。手には二人前のモーニングを乗せたトレイ、そこにアイスコーヒーのグラスが二つではなく三つ乗ってるのは、彼女もここで少しくつろぐつもりなのだろう。
その美月に声を掛けようとした瞬間、小夜子が口を開いた。
「ううん、大好きだよ? むしろ、愛してる感じだよ? だから、毎晩、りょーや君のベッドで寝てるんだよ?」
そこまで一気に言い切るとにっこりとした笑顔で、右手の人差し指を立てて自身の頭の上辺りを指さした。
「って言うと、この辺りに顔色を変えた美月ちゃんがいる感じだと思うんだけど……どう?」
事実、その通りだった。
「何で振り向きもせずに解るんだよ……」
「だから、視線と表情。待ってたよって感じになったんだけど……待ってたのは美月ちゃん? それとも朝ご飯?」
にっこりと笑う姉の隣で、美月はテーブルの上に一通りの食器を並べる。その表情、引き攣った笑いというか、凍りついた笑いというか……そんな表情で二人前のモーニングを並べ終えると、くるんと一回転。
「ふぇぇぇぇぇぇ、りょーやさんが、りょーやさんがーーー」
そのまま、脱兎の如くに駆け出した。余り運動神経は良くないのに、逃げ足だけは速いとはアルト談。
「って、なんだよ、あの人はっ!!」
それだけ言い捨てると、青年は逃げ出した恋人を追いかけ、キッチンへと駆け込んでいった。
「ほんと、からかうと面白い子だから〜りょーや君は……後、美月ちゃんも」
「まあ、そこは否定しないけど……美月は貴女の妹じゃないわよ……まだ」
誰ともなく呟いた小夜子に妖精の声だけが応えた。
「……世の中の弟は九割姉萌だって……あと、兄は十割妹萌だとも……」
窓際いつもの席、本来なら二人掛けのテーブルに無理矢理座った三人目はグラスから滴る水滴でのの字を書いていた。勿論、長い黒髪が素敵な美月さんだ。
キッチンに逃げ込んだ彼女は裏口から外に逃げだそうとしていたらしい。裏口からどこに行こうとしていたのかは、本人にも定かではないと思うのでいちいち聞かない。
で、その逃げだそうとしていた美月を、翼が確保していた。
「痛い! 痛い! 痛いですって!!」
髪の毛を鷲づかみにして……
「活き美月……一羽五百円」
「安いです〜〜〜」
無表情で差し出されるから、本当にお金を払おうかと思っちゃった……と言うのはともかく、その翼から美月を引き渡して貰って、『良夜のベッドに小夜子が寝ているのは事実だが、良夜本人は床の上で寝ている』と言う事を懇切丁寧に説明するのに十分ほど掛けて、帰ってきたら姉のトレイは半分ほどが空いていた……すっかり冷えたトーストや温くなったコーヒーが割り当てられている身にはちょっとと言わずムカツク物がある。
「そう言う妙な嘘を教えるのは吉田さんだな……絶対」
「でも、凪歩さんの弟さんも姉萌でお兄さん二人は妹萌だって……」
「えっ? あっ? そうなん?」
おずおずと美月が顔を上げて言うと、良夜は思わず聞き返していた。
一度だけ会ったことがある坊主頭の青年、彼の顔が頭によみがえった。あの時の態度を見るに、ごく普通程度に仲の良い姉弟くらいにしか思わなかったのだが……と言うような思考を巡らせていると……
「嘘よ、嘘」
そう言うアルトの呆れ声が聞こえた。
「貴美と小夜子の尻馬に乗って適当なことを言ってただけよ。弟に下着取られたって話、本当なら爆笑しながら言えるはずないじゃない……」
小夜子のグラスに腰掛けたアルトが言うと、青年はペチン! と額に手をやり、がっくりとうなだれ、呟く。
「……あのポニテ眼鏡も俺の敵か……」
比較的無害な人間だと思って居たからこそのショック。彼の周り、敵と役に立たない味方ばかりのようで軽く絶望してきた。
「あの時は盛り上がったから〜」
グラスの中に残った氷をストローで弄くり回していた姉が言う。
彼女の言う『あの時』とは、良夜がバイトに行ってる間にあった女子会のことだ。閉店時間には少し早い時間に客が居なくなったのでアルトを含めた看板娘ーズに小夜子を足した六人でしょうもない話をしていたらしい。大学での話やら良夜の幼い頃の話題やら……そんな中で取り上げられた話題の一つが『弟は姉に萌えるか?』だった。
当初は『風呂上がりにノーブラTシャツでブラブラしてると、ある日突然、視線を逸らすようになって、ああ、奴も思春期か……と感慨深い物を感じた』と言うような本当の話で盛り上がっていたのだが、一人っ子の美月や翼が妙に食いつくので、ついつい……
『弟に風呂を覗かれた』
『と言うか、入ってきた』
『弟は姉のパンツを盗む物』
『て言うか、弟が履いてた』
『弟がいつまでも独身だったら、引き取るのが姉の義務、憲法にも書いてる』
と、適当な話で異常に盛り上がったというのだ。ちなみに徹頭徹尾、本当だと思い込んでいた美月に対し、翼はエスカレートし始めた辺りで早々に嘘だと気付いたらしい。あえて嘘だと言ったりもしないが、そっぽを向いていたところを見るとろくに聞いても居なかったのだろうと、アルトが教えてくれた。
「えっと……こういうお話は全部嘘なんでしょうか?」
「頭、いてぇ……嘘に決まってるでしょうが……」
「ふにぃ……ごめんなさぃ……」
良夜が言うと美月はますます身を縮める。その消えてしまいそうな勢いに、青年は思わず笑みを浮かべた。
「あはは、美月ちゃんが素直に信じるから、つい、ね? ごめんね?」
ペチン! と小夜子は顔の前で手を合わせて笑顔で頭を下げる。
「もう……本当に全部嘘なんですか?」
膨れて美月が尋ねる。すると小夜子は「うーん……」と指を頭の上でクルクル回しながら考え込む。
「ほとんど、脊髄反射で話してたから……もう、覚えてないんだよ。ほとんど、口から出任せだと思うよ?」
小夜子がそう言うと良夜も美月も苦笑い。
「ああ、そう言えば……良夜のモテ期は中学三年って話もしてたわねぇ……」
小夜子のグラスから良夜のグラスへと居住区を移していたアルトが、ふと、思い出したかのように……と言うか、まあ、実際にたった今思い出したのだろうが、そう小さな声で呟いた。
「ンな訳、あるわけねーだろう……だいたい、中三の時なんて受験勉強で忙しかったし」
アルトに視線を移し、青年は投げやりに答える。
その言葉、アルトの声が聞こえない美月と小夜子が首をかしげた。
「ああ、また、良夜さんだけアルトとお話ししてますね? 私にも教えてください」
「ん? どうしたの?」
二人が尋ねると青年は軽く肩をすくめる。そして、アルトが教えてくれたことを教えれば、美月は単純に「ああ〜」と手を打ち、小夜子は――
「あっ、それはほんと」
と、言った。
言った。
おっしゃった。
そして……
「「「嘘だーーーーーーーー!!」」」
と、全員が言った。
と言うか、叫んだ。
その全員に美月も含まれていた。
「……せめて、美月さんだけは言うの、止めてくれませんか? アルトと俺本人が言うのは良いとしても」
「そうよ、世の中で貴女だけは驚いちゃダメよ? いくら何でも良夜が哀れだから……ハイ、伝える」
「……――って言ってる……って、おい、アルト、いくら何でも俺も傷つくぞ……?」
「えっ、いや、ちっ、違うんですよ? 別に良夜さんがもてそうにないとか! 朴念仁なのにとか! 好きになった人が可哀想とか! 何も中学生の頃に来なくても良いだろうにとか!! そう言う事、全然、考えてないんですよ!? 知ってますか!?」
「「……考えてたんだ……」」
美月は真っ赤にした顔をブンブンと振って、慌てて否定。その顔を見ながらアルトと良夜は静かに嘆息。
そして、小夜子が――
「はい、コントはそれで終わりね〜でも、りょーや君のモテ期が中学三年の頃って言うのは事実だよ? あの頃、受験で必死だったから〜必死になってる男の子って格好いいよ」
と、姉に言われて良夜は当時のことを思いだしてみた。
中学二年と三年の境の春休み、親友だと思ってた奴から彼女を紹介された。相手は小学校の頃から片思いというか、ぶっちゃけ、初恋の少女だった。紹介された時、彼女が物凄く幸せそうに笑っているのを見て、泣きたくなった。で、当初予定というか順当に行く高校だとこいつら二人と一緒になる。三年間、奴らがいちゃいちゃしてるのを見るのはごめんだ。そうなると他の高校に行くしかない、と考えた結果、有名私立男子高校に行こうと思った。でも、三年に上がった直後の成績では結構きつい。じゃあ、頑張って勉強しよう!
それが彼にとっての中学三年という一年だった。
で、その二人は受験前には別れちゃったんだけどね……
「……はぁ……」
と、言う事を思い出して、若干凹んだ。
「……――って感じの事を思い出して凹んだのが今の溜め息だよ?」
ため息を突く弟の正面で、姉が彼の心の動きを全て解説した。
「うるさいよ! 解説すんなよ! ほっとけよ! てか、もう、帰れ!!」
腰を浮かせて青年が怒鳴りつけると、彼女はするっと眼鏡を外した。
いつのも泣き真似か? と若干引きながらに待っていたら、さにあらず。彼女はテーブルの片隅、小さく折りたたまれていた紙ナプキンで、なぜか眼鏡のレンズを吹いた。綺麗になった……ような気がする眼鏡をかけ直して、彼女は弟の顔へと視線を向け直した。
「……いつもの泣き真似じゃねーのかよ……?」
「だって、泣きマネしてたら、りょーや君のことが好きだった三人の女の子の話、出来ないでしょう?」
やっぱり泣き真似なのか……と言う点については誰も触れない。
と言うか、良夜もアルト美月も黙り込んだ。三人とも小夜子の言葉の意味を咀嚼しているようだ。
そして、1分が過ぎた。
「……馬鹿らしい、嘘に決まってるわ」
鼻から信用しなかったのが小さな妖精さんアルトだ。彼女はグラスの上でプイッとそっぽを向いた。
そのアルトの目の前で、全く違う反応をしている奴が居た。
「誰!?」
と、半ば以上反射的に叫んでいた良夜だ。両手を力一杯テーブルについて腰を浮かせる様は、アルトをして――
「……見苦しいわよ……」
と、呆れさせるほど。
それに小夜子は零れんばかりの笑みを浮かべて答えた。
「まあ、それを教えて上げるのはやぶさかじゃないけど……良いの?」
そう言って彼女の細い指が右を指した。
その指された指の先を見てみると、そこには……
「ふぇ……ふぇ……」
と、泣きそうになっている美月が居た。
その美月の顔にのぼせ上がっていた青年の熱き血潮が一気に凍りつく。
「あっ、いや、ほら、中学の時の頃で、多分、その同級生だろうから、もう、脈は――」
「それが、一人は恵美ちゃんなのよ、ほら、香西町のおっちゃんの所の妹の方」
「ねーちゃん!!!」
大声を上げて、青年は小夜子の方へと顔を向けた。そこでは彼女は『チッ』と誰はばかることなくしたうちの真っ最中。
「さすがに釣られないか……この状況だと……」
その小夜子に何かを言おうと口を開いた、まさにその時。
がたん!
椅子の動く音がしたかと思うと、椅子から立ち上がった美月がまた、脱兎の如くに駆け出していた。
「ふぇぇぇぇぇ、りょーやさんが!! りょーやさんが!!!!」
「ちょっと、美月さん!? ちっ、違うよ、違うんだって!!」
なお、今度はきちんと正面から出て行ったので、翼に捉えられることはなかった。
そして、駆け出す義妹候補とそれを追いかける弟を見送った。そして、彼女はテーブル中央、良夜が置き去りにしているグラス――正確に言うならその上に座って居るであろう妖精へと向けて微笑みかけた。
「まっ、『中学の同級生じゃない』ってだけで今でも脈があるとは誰も言ってないよね?」
その余りにも素敵な笑顔をグラスの上から見上げ、アルトは若干良夜のことが可哀想になった……半分くらいは自業自得だと思うけど。
『ふぇぇぇぇぇ、りょーやさんが!! りょーやさんが!!!!』
『ちょっと、美月さん!? ちっ、違うよ、違うんだって!!』
美月を捉えるチャンスを逸した翼はと言うと……遙か遠くから聞こえてくる騒音を耳にしながら、食器洗いの手を止めた。そして、呟かれる一つの言葉……
「……もう、食器洗いは浅間くんにやらせよう……」
その決断は三十分後、現実の物となった。
無言のまま、食器洗いのスポンジを押し付けられたのは怖かったと、良夜は後に語った。
――ら、翼が拗ねた。