姉、再び(3)
その夜、良夜は料理を作っていた。メニューは冷しゃぶ。豚肉を茹でたら冷水でシメて、スライサーでスライスしたタマネギと一緒に盛り合わせたら出来上がり。後は適当なつけだれで頂く。非常にお手軽な料理だ。一人暮らしを初めて二年以上が経つが良夜の作る食事と言えば、刻んだら、茹でるか炒めるかして、後は市販出汁をぶっかけたら出来上がりというような料理ばっかり。場合によっては刻みすらしないことも良くある。
ちなみにただいまの時刻、十一時ちょい過ぎ。十分ほど前にアルバイトから帰ってきたところ。普段なら、売れ残りのコロッケとかメンチカツを中心にキャベツの千切りとインスタント味噌汁が脇を固める食事が定番だ。
しかし、そう言う食事を三日出し続けたところ、彼の姉は静かに言った。
「……姉ちゃんが太ったらりょーや君のせいだよ? 二の腕、たぷたぷになったらどうしてくれるのかな?」
どーにもしねーよ……と、内心思ったが、口に出すとまた文句をぶー垂れるので言わない。だいたい、当初予定では二−三日で帰るという話だった。しかし、三日目は三日前に過ぎた。その話を今朝したら――
「だって、ねーちゃんには彼氏と一緒に行く海なんてないから……」
そう言ったかと思うと、目頭を押さえて、スンスンと静かに泣き始めた……絶対に泣き真似だと思うが、突っ込むのも面倒臭いので突っ込まずにほったらかしにした。
……ら、延々、一日中、朝は市立か県立か、もしくは大学の図書館を巡って本を読み、夜は夜で良夜のベッドを占領して本を読むと、何とも素敵で怠惰な生活を送り始めた。勿論、家事炊事は全て良夜任せ。自分の下着だけはコインランドリーに持って行ってくれるのがたった一つの救いという奴だ……もっとも、下着”だけ”である。スカートとかブラウスとかは平気な顔で弟に洗わせるのだから、侮れない。
「ねーちゃん、飯、出来たぞ……」
そんな、ここ数日間のことを思いだしてる内に完成するほど、冷しゃぶなんて料理は簡単な物。今日のつけだれはポン酢、これにたっぷりと柚胡椒を効かせてみる。同僚のパートのおばちゃんから教わった手法だ。
「わぁ、アルト以外で揚げ物じゃないおかずって久し振り〜あっ、でも、ねーちゃん、タマネギよりもキャベツの千切りが良いなぁ〜」
「冷しゃぶにキャベツはおかしいよ。それに揚げ物ばっかり出してたら太るだのなんだの言ったんじゃん って、姉ちゃん……――」
そこまで言って、良夜はガラステーブルの上に食器を並べる手を止めた。向ける視線はベッドの上、そこであぐらを掻く姉の元。
「……全然太ってねーじゃん……」
ダボダボのシャツを着ているせいで極めてスタイルの類は解りづらいが、それでも太っていないと言う事くらいは解る。なので、素直に言ってみたら、姉はなぜかジトッと眼鏡の奥の目を細めた。
「りょーや君、女のスタイルに触れる時はね、惚れられるか、殺されるか、どっちかを覚悟すべきだと思うの、ねーちゃん」
「……で、今回は?」
「うん、勿論、殺される方」
「なんでだよ!? じゃあ、太ってるって言った方が良かったのかよ!?」
「その時は警告せずに殺すだけだよ? 良かったね、今回は警告があったよ?」
そう言って彼女はベッドから立ち上がった。どこに行くのかと思えば、向かった先はシンク。ツカツカと歩み寄ったら、その上に出しっぱなしだったスライサーを手に取った。
「って、ねーちゃん……突っ込んで欲しいのか、本気で呆けてるのか、はっきりしてくれないか?」
ため息一つ。今日は包丁を使っていないので、片付けられたまま。目に付くところにある刃物はあのプラスティック製のスライサーかガラステーブルに出しっ放しの爪切りしかない。あんな物で人が殺されるのならやって貰いたい所だ……
が、姉は伊達に本を読んでいなかった。
「りょーや君、凌遅刑<りょうちけい>って……知ってる?」
そう言って、姉はにこりと微笑んだ。勿論、知らないが、彼女の笑みを見てるうち、背中に冷たい物が流れた。それと同時に青年の首が我知らずのうちにフルフルと左右に揺れた。
すると、姉は優しい微笑みを浮かべた。そして、そのスライサーの刃物を指先でツイッと撫でてみせる。
「人の肌を少しずつはぎ取っていく死刑方法なんだよ? スライサーでもきっとできると思うんだ、ねーちゃん」
そう言って彼女はかんなで木材でも削るように、両手でシャコシャコとスライサーで宙を削って見せた。
「……ごめんなさい、許してください、二度とお姉様のスタイルには触れません。そんな死に方だけはごめんこうむります……っと……」
未だに見えない木材を削り続ける姉から視線を外し、彼は炊飯器へと視線を向けた。
「あれ……?」
そして、小さな声を上げる。
「なぁに? どこから削ろうか?」
「……イヤ、マジで辞めて……ところで、お米、炊いてくれるように頼んで、ねーちゃん、安請け合いしたよね?」
彼が見つけたのは炊飯器の上でチカチカと輝く赤いパイロットランプだ。保温中ならこのランプは消えているはずだ。
「うん、ねーちゃん、お米くらいは炊けるよ? 中学の時、ちゃんと習ったんだよ? りょーや君に炊きたてのご飯、食べさせてあげようと思って、十一時にタイマー、しかけてたのぉ〜」
そう言いながらも姉は未だに空中にかんなを掛けている。よっぽど、気に入ったようだ。
「……十一時……な……ねーちゃん……」
「なぁに? もったいぶると、額のお肉、削り落とすよ?」
ここに来て姉はようやくかんな掛けを止め、良夜の肩口から顔を出した。視線はおそらくではあるが、彼が見てるところと同じ。11:00という表示になっている液晶だろう。
「……この炊飯器の時計、二十四時間表示……」
かぱん! とジャーを開ければ中には立派なお水とお米。勿論、ひんやり冷え冷え。
「……ふえ?」
「だから、この炊飯器でご飯が炊けるのは明日の十一時! どうするんだよ……ああ、もう! 今から炊いても日付が変わっちまうぞ!?」
「……ごめん……ねーちゃん……死んで詫びるね……」
そう言って、姉は左腕の袖をめくり上げると、そこにスライサーを押し当てた。
そのなまっちろい腕と動かないスライサーを青年はじっと見詰める。
姉も自身の腕とスライサーを握りしめた右手を見詰め続ける。
そして、二分が過ぎた。
姉は静かに顔を上げた。上げた顔は泣きそうだった。
「……りょーや君……止めてよ……」
「……勝手にしろよ……」
「じゃあ、ねーちゃんがご飯を用意するよ……」
「買いに行ってくれんの? そこの国道を大学の方に向いて十分もスクーターで行けば二十四時間営業のディスカウントストアがあるよ。レトルトのご飯も売ってるからね」
「うん、解った〜」
簡単な返事だけを残して、姉は出て行く。
見送り青年は再び、冷蔵庫を開いた。どうせ待つなら、何か適当にもう一品か二品、作っちゃおうか? と言う発想。凝ったものは技術的に無理だが、卵焼きくらいなら等と考える脳みそに脳天気な声が聞こえた。
「ただいま〜」
聞こえる姉の声に青年の顔が跳ね上がる。同時に口から零れる間抜けな声。
「はぁ?!?」
上げた顔が向く先には、ニコニコ笑ってる姉と……
「うーっす、りょーやん、おまっと〜」
手にプラスティックのタッパを持った貴美と申し訳なさそうな顔で立ってる直樹が居た。
「って、ねーちゃん、何してんの!? さっき、ディスカウントストア、教えただろう!? ねーちゃん、解ったって言ったろう??!!」
「りょーや君の教えてくれた『十分行けばお店がある』という雑学は勿論理解したよ? でも、利用するとは言ってないし、そもそも、スクーターの鍵、預かってないよ?」
にこやかな笑みを浮かべる姉を見て、彼女はこう言う女だったんだと青年は思う。引っ掛けて遊んで喜んでるんだ。そして、引っ掛けられて遊ばれたことに良夜がふてくされていると、姉はいつもこう言う。
「りょーや君、世の中ね、騙されるの方が馬鹿、だよ? でも、ねーちゃんはりょーや君には騙す賢しい<さかしい>人じゃなく、騙される善良な馬鹿になって欲しかったの。その通りに育ってくれてねーちゃん、嬉しいな」
「……もう、どうでも良いよ……とっと飯、食おうぜ? 腹、減っちまったわ……」
青年はそう言ってガラステーブルの方へと近付いた。タカミーズが着いてきてるとは言え、二十分以上のタイムロスが消え失せたのは正直ありがたい。
そのタカミーズが持ってきてくれたご飯を茶碗によそう。勿論、茶碗は二つ。元々使っている白い茶碗ともう一つ、藍色の少し小振りな奴は小夜子が実家から持参してきた奴だ。添えられる薄桃色の箸も一緒に持ってきた奴。他にも汁椀やら湯飲みやらグラスまで持参してきてる。どれだけ遊びに来るつもりやら……と思って聞いてみたもんだが、彼女はニコニコと笑って答えやしない。そう言う食器の類をそろえて、ガラステーブルの前に座る。後はペチンと手を合わせて頂きますのご挨拶。
「しかし……」
と、柚胡椒の効いたたれに肉とタマネギをたっぷりと付けながら、青年は口を開いた。
「吉田さんとねーちゃん、いつの間に親しくなったんだ?」
ガラステーブルを囲む四人、良夜の右隣には小夜子が座っていた。その小夜子に向いて尋ねると、答えたのは左側に座っていた直樹だった。
「吉田さんとエロ小説の話で気があったみたいで……この間も良夜くんが居ない間にうちの部屋で、あの本の描写は凄かったとかどうとか、酷い話をずーっとしてたんですよ?」
「私は腐ってないよ? ただ、ねーちゃんは男女だろうが男男<だんだん>だろうが女女<じょじょ>だろうが、絡みがあろうがなかろうが、恋愛小説への愛情を失わない人なんだよ?」
事もない様子で答えると、彼女はお肉の上にちょこんと柚胡椒を載せて口に運んだ。
その隣、良夜の正面で貴美がケラケラと機嫌良さそうに笑った。
「いやぁ〜やっぱ、あれだわ、漫研とかカップリングに拘る連中より拘らない小夜子さんみたいな人の方が話が合うんよ」
「……吉田さん、なんでも来いですからね……」
あっけらかんと言う貴美に直樹は嘆息をこぼした。彼の目の前には彼の部屋から持ってきた取り皿が一つ、その上には冷しゃぶが一切れ。一応、家で食べてきてるのでおつきあい程度に突いてるだけ。
「悪食だかんねぇ〜わたしゃ」
一方、悪食を自称する彼女の前にも取り皿が一つ。直樹同様、そこに乗ってる物はおつきあいの範囲を少々越える程度。バドワイザーのつまみ代わりになっていた。
「と、こんな感じでね? 意外とアルトのメンツと話が合ったんだよ。寺谷さん……だったかな? 髪の短い子。あの子とは図書館でばったり会っちゃったしね」
「まあ、つばさんはロハで時間が潰せるってだけで図書館にちょくちょく行ってるだけみたいだよ。視聴覚ブースでDVDを見るのもただだとか……洋画どころかアニメまで置いてるんだよ、図書館って。びっくり」
「私とは池波正太郎で盛り上がったんだよ? あの子は剣客商売が好きなんだって……梅安も良いと思うんだけどなぁ〜」
「……渋い趣味してるな……藤田まことがドラマでやってた奴だろう?」
「うーん……姉ちゃん、テレビは余り見ないかなぁ……あと、ポニテの子とは出来の良い弟の話でね?」
「どうせ、高校までの話だろう?」
「まぁねぇ〜大学は私の方が上だからぁ〜」
「「うぐっ……」」
小夜子の言葉に言葉を詰まらせたのは、良夜と直樹だ。一方貴美は平気な顔。
「私はなおに着いてきただけだもん」
と言う事らしい。だから、大学のグレードは余り気にしないそうだ。そういう話は二年ちょっとの付き合いで何度も聞いている。そう言う理由で進路を選ぶのもある意味貴美らしい。まあ……『一つ間違えたら鉈とか振り回しそうな女』とは良く言った物だと、良夜は思う。
「遠距離恋愛は大変だからねぇ〜やらないですむならやらない方が良いよ」
「おっ? 実体験?」
小夜子の言葉に貴美がパッと顔を明るくする。野次馬根性丸出しだ。しかし、興味の対象者はその言葉にニコニコと底意の見えない笑みだけを返していた。
だから、と言う訳でもないが、代わりに対象者の弟が答えた。
「どーせ、本で読んだだけの知識だよ」
「そんなところだね〜」
そして、対象者その物も素直に肯定したもんだから、貴美も興味を失ったようだ。
「なぁんだ……つまんないの」
そう言うと、飲みかけだったバドワイザーをグビグビと飲みきり、クシャりと右手で握り潰した。
「アルトのメンツと言えば……良夜くんのお姉さん、三島さんとも楽しく話をしてましたよね?」
「小夜子でいいよ――そりゃ、可愛い弟の彼女だから〜」
直樹の言葉に、小夜子は軽い言葉を返す。そして、彼女は上機嫌な様子でパクパクと冷しゃぶを摘んで口に運び始めた。
「そー言えば、なんか、キャベツがどうのこうのって話をしてなかった? 美月さんと」
そんな小夜子に、新しいバドワイザーのプルタブを開けた貴美が尋ねた。
その尋ねた言葉に最初に反応したのは、良夜の方だった。
「ああ、美月さん、最近、キャベツにはまってんだよ。この間、テレビで『キャベツには胸を大きくする成分が入ってる』って話をしてたの、教えたらさ、アルトと二人で毎日食べてるんだって――」
と、笑いながら言ったところで、ふと、良夜の言葉が止まった。ついでに、冷しゃぶとスライスタマネギを摘んだ箸も止まる。
「あれ……ねーちゃんもさっき冷しゃぶにキャベツとか、訳わかんないこと……?」
ポツリと呟く。呟き、改めて姉のスタイルという物に思いをはせてみる。ちなみにその手のことには思いっきり疎い良夜だ、今の今まで姉のスタイルなんて物に興味を抱いた事なんてなかった。
なので、目の前に居るから……と、良夜はマジマジと彼女の首から下を見てみた。ゆったりとした服で誤魔化してはいるが……
「……それもおかしいと思うんよねぇ……りょーやんって思春期とかなかったんかな? 普通、思春期って暇があったらおっぱいとかに意識が行く年頃じゃん? 兄とか弟に覗かれた〜とかって話、ちょくちょく聞いたけどなぁ……どう思う? なお」
「……どうしてそれを僕に聞くんですか?」
「なおも思春期と成長期なかったかんねぇ〜こんな、スタイルの良い美人が傍に居るのに、もう、全然、興味がない風でさ」
「思春期も成長期は多少ありましたよ……一応、特に成長期は人並みにありました」
「あったっけかなぁ……? 私なんて、背の伸びる音が聞こえてたけど……」
「それ、男の子では良く聞きますけど……女の子にもあるんですか?」
「後、おっぱいが成長する音も聞こえた」
「それは嘘ですよね? そんな音、あるわけないですよね?」
等と貴美と直樹はのんきな会話を繰り広げていた……横で――
「お前ら! のんきに話してないで助けろよ!!!」
「ねーちゃん、二度、同じ事を言うのは嫌いだからぁ〜」
小夜子が良夜の右手をつかんで、スライサーでかんなを掛けようとしていた。
そして、翌日……
「良夜さん、誰の胸がエグレなんですか?」
「……誰の胸が阿蘇カルデラよ!?」
凌遅刑だけはなんとか免れた物の、小夜子が美月とアルトにあることないこと言いふらしたせいで、良夜は美月とアルトに詰め寄られるハメになった……